36.揺れる心、揺さぶる者
リヒトの帰還から数日、それぞれの場所で、変化は静かに芽を出していた。
リヒトは一人、地球に降り立ち、海を見ていた。
海辺の風は冷たく、時化た後の荒れた波が轟音を立てて砂浜に打ち付けていた。こんな時でもサーファーたちは意気揚々と波に向かっていく。予測のつかない大波に飲まれ、それでも楽しそうにまた波へ向かって行く様子が瞳に映る。
ふと、リヒトの隣に影が差す。
ウェットスーツを着た女が長い髪をかき上げながら、にっこりとリヒトに笑いかける。
「君、朝からずっと居るけど、何してるの?」
リヒトはふいと視線を逸らした。少年のような幼いしぐさに、ふ、と女が笑った気がした。無視しても、女はそこに居続けた。日に焼けた肌とよく引き締まった体、綺麗なアーモンド形の瞳は髪と同じ明るい茶色だった。リヒトでも、思わず見とれるほどの美人だった。
ざあっと強い風が吹いて波の飛沫を連れてくる。飛沫は太陽の光でキラキラと輝いた。
「海、見てる。俺の住んでる所にはないから。」
「そうなんだぁ」
女はだいぶ経ってからの回答に嬉しそうに微笑んだ。
「君、サーフィンはしないの?運動してそうな筋肉だけど」
「…バスケしてた。もう出来ないけど」
女はリヒトの言葉を違う意味でとったらしく、遠慮がちに微笑む。
「もし私がサーフィンできなくなっても、海には来るかな。好きだから」
「ふうん?見てるだけって、辛くない?」
リヒトは表情を動かさずに女に聞いた。
「辛いね、きっと……でも、離れる方が辛い」
「そっか…。俺も、バスケが出来なくてもいま居るところは好きだ」
リヒトは立ち上がる。
「ありがと、おねーさん」
少し微笑んで、女を振り返る。その時また強い風が吹いた。長い髪の毛が女の視界を遮った。風が収まった後、リヒトの姿はなかった。女は驚いて、辺りをきょろきょろと見回した。
「消えた!?もう!…せっかくイイ男だったのにー!!」
** *
アスリオン内にまた不穏の空気が漂っていた。原因は裏切者イチゴの帰還にある。サネナリとレオンという監視がついているとは言え、彼の存在は生徒たちの心をかき乱した。とりわけ黄の適合者には彼を崇拝していた者も少なくなく、より複雑な面持ちで彼を遠巻きに見守っていた。
「どこにいっても人気者で困るわぁ…」
「そう思うなら、ずっと部屋に籠ったらどうですか?」
冷たい声で答えたサネナリは、呆れたようにため息をついた。
イチゴが軽薄な様子で、周りに手を振る。当然周りは戸惑い、離れて行く。それがこの男の目的なのだろう。サネナリはこの一週間でなんとなくイチゴの人となりを理解していた。
彼は、軽佻浮薄に見えて、すべて計算ずくめ。瞬の下にいて目立たなかったのが不思議なくらい、彼は人目を惹いた。
サネナリは油断なく彼を観察する。リミの為にも、アスリオンの為にも、彼を見極めなければならない。瞬という絶対的な存在を欺いた彼を、自分が。
あまりに大それた役回りにぐっと手を握りしめる。手のひらに爪が食い込む。それでも力を緩める気にはならなかった。
任命された時のことを思い出す――
――「僕が、イチゴさんの監視ですか?」
命令には忠実なサネナリだが、それに関しては聞き直してしまうほど動揺した。
「ああ、コイツが使い物になれば一番いいんだが、どうにもな…」
瞬はリヒトを親指で差しながら、息を吐く。
その隣では指令机の上にどかりと座りこみ、いーっと威嚇しているリヒトが居た。
「リヒトさん何があったんですか…?」
こそっと瞬に聞く。当然、この距離だ。リヒトにも聞こえているが、好奇心が勝ってしまった。
「イチゴの裏切りが気に障るんだと。多分、コイツをイチゴにつけると戦闘になる」
「ええ…?」
慈悲深く、柔らかく、温厚なリヒトのイメージからかけ離れていて、サネナリは戸惑った。しかし、目の前のリヒトは明らかに怒っていて、譲歩する気配もなさそうだ。
「でも僕なんかより、黄の誰かの方が…」
瞬の信頼のおける誰かの方がいいだろうと、“黄“と口にする。一気に空気が冷たくなる。サネナリの背中に冷たい汗が流れた。
「あ、あの…」
「今回の件は、黄の失態だ。」
黄への不信。それはサネナリ自身も感じていた。個をなくした徹底的な合理主義の組織に生まれた小さな黒いシミは、日に日に広がっていく一方だ。
サネナリはひとつ頷く。
「それに」と、瞬は一呼吸おいて、眉をより一層寄せた。
「黄の者はイチゴに取り込まれる可能性がある」
その言葉に、またひやりとしたものが首筋に突きつけられたような感覚に陥る。ああ、巻き込まれたくない。
「サネナリ、白のNo.2。リミのカリスマだけでは白の統率は出来ない。お前の分析力によるものが大きいと俺は考えている」
瞬が言葉を続ける。褒められて、いるのだろうか…?
「リミへの忠誠心を見れば、裏切りの余地もない。お前が最適だ。」
「サネナリ。」
リヒトが真剣な顔をサネナリに向ける。
「これは命令じゃない。そもそも黄の瞬に白のお前への命令権はない。これは“お願い”だ。断ってもいい」
そう、サネナリに言い募る。
「だいだい、白に尻ぬぐいさせねーで、自分の尻はてめぇで拭け!」
と、瞬に対し、怒鳴りながら、背を蹴っている。物言いもいつもより辛辣だ。サネナリは思わず笑ってしまった。
「リヒトさん、大丈夫です。やります。」
「僕が一番適任なんでしょう?」
サネナリはにっこり笑って、答えた。瞬がほっとした様子で、サネナリの手を握る。リヒトは机の上で、気遣うような目を向け、「さんきゅーな」と言った。
***
着任して一週間――サネナリはさっそく後悔していた。
――はやまったかなぁ…
イチゴの人となりが分かったところで、この男の目的は見えない。腹の底を見せない男だと分かっただけだ。それでも追いかける目線、小さな声色の変化、脈拍など、軽微な変化を見逃さないよう気を張っている。
「そんな警戒する小動物みたいにせんでも。取って食ったりせーへんよ」
そういう時に限って、この男は逆なでる発言をしてくるのだ。反応を返せば、彼の思うツボだ。そうやって一週間、一通り彼に揶揄われた自覚はある。後ろにいるレオンのように泰然としてやり過ごすことが出来れば良いのだが。自分がこんなに怒りっぽいと初めて知った。ぐぐぐと握りこぶしを作り、こみあげる怒りを我慢する。
10秒我慢すれば、怒りの頂点は収まる。怒りをコントロールするんだ。
息を吐いて、10数える。
収まらない。全然、収まりそうにない。
むしろ10秒前より今の方がムカムカしている。
あれ?何のために我慢してるんだっけ?
この人は敵だ。礼儀良く接する必要も、歓待する必要もない。年上だけど、敬う必要もない卑怯な裏切者…
サネナリは握りこぶしをそのまま振りかぶった。イチゴは素早く後ろに避ける。
「…っるせえんだよ」
「うぉっと!あっぶな!暴力反対!」
どの口が…と言いかけて、少しだけスッキリしていることに気づく。
うん、今度からこの方法で行こう。
サネナリは自分なりのストレス解消法を見つけ、晴れ晴れとした気持ちになる。
にっこりと笑い、いつもの丁寧な口調に戻す。背後で緊迫した様子だったレオンが力を抜いた。
「それじゃ、イチゴさん。食堂に行きましょうか」
「うっわ…二重人格とか引くわー…」
イチゴは笑っているが、確実にやられたという顔でサネナリを見返す。
その顔にサネナリは満足げに笑った。
「二枚舌に言われたくないですー」
と言い返すと、イチゴに背を向け、サネナリは軽い足取りで食堂へ向かった。




