3.虚空のデパート
小型艦が、宙に煌めく巨大な船体へと引き寄せられていった。
表面はまるで宝石のように光を放ち、外壁の一部が開くと、光の糸のような通路が伸びる。
「……ドックされたのか?」
リヒトが呟く。
艦橋へ続く光の橋を、彼らは恐る恐る進む。
足元の床は透き通っており、真下に広がる宇宙が見えた。
喉が渇く。重力が不安定で、足の裏の感覚がふわふわと頼りない。
橋を渡り切った瞬間、光が一斉に弾けた。
そこには――巨大なデパートがあった。
壁も床も天井も、すべてが鏡のように輝いている。
色とりどりの商品が整然と並び、エスカレーターが何層にも重なって、上層へと続いていた。
接客ロボットが滑るように動き回り、笑顔で案内を繰り返している。
「……これ、全部デパート?」
「上流階級向けの高級施設だな。信じられない……」
誰もが言葉を失って見上げた。
この世界が滅びの途中にあるとは思えない光景。
どこまでも人工的で、どこまでも完璧に整っていた。
「アスリオンの教官って、こんなとこで買い物してたのか?」
「まさか。そんなに給料出るわけないだろ」
リーダーの瞬が気を取り直す。
「とりあえず、人を探そう。情報を集めなきゃ。一時間後に、ここに集合」
皆が散ろうとしたとき、瞬が声を上げた。
「あ、商品には触るなよ! ここの接客ロボットは殺戮兵器だって噂だ!」
「はは、そんな都市伝説あるかよ」
その時――。
目の前の接客ロボが“変形”した。
音もなく手が折りたたまれ、刃がせり出し、巨大なハサミが開閉する。
ジャキン、と金属を切る音が響いた。
「……冗談じゃなかったな」
ナギニが呟く。
笑い声は消え、全員の顔から血の気が引いた。
「急ごう」
瞬の一言で、彼らは二人一組になり、散開した。
* * *
カイハと柚葉は、女性用フロアを進んでいた。
光沢のあるマネキンが整然と並び、動くたびに目の端で何かが“ついてくる”ような錯覚がする。
「……人、いないね」
「柚葉、私……帰ろうとしたの」
柚葉が振り向く。
その表情には、戸惑いと、少しの恐れがあった。
「ごめん…自分でもよくわからない。でも、ステーションで死にかけて、誰かに助けられたの」
柚葉は沈黙する。唇が震えている。
「その時からおかしいの。私、ここには、“人”がいないって分かるの」
「……どういうこと?」
「説明できない。でも――空気が違う。ここは“生きてない”」
柚葉は双子の姉を、カイハを見つめた。
「カイハ、なんか……変だよ。どうしちゃったの?」
「柚葉はドックに戻って。リヒトたちが危ない」
言うや否や、カイハは中央の吹き抜けの柵に足をかけ、跳んだ。
「え……?」
理解するより早く、カイハの身体がふわりと浮かぶ。
緑の光の尾を引きながら、何層もの階層を一瞬で通過し、上層へと消えた。
「な、何が……起こってるの?」
柚葉の声は、静かな空気に吸い込まれていった。
* * *
屋上。
リヒトとナギ二は、果てしない宇宙を見下ろしていた。
母星が、遠くに、小さく輝いている。手を伸ばしても届かない。
「……下、行くぞ」
「ああ」
屋上のすぐ下は、無機質な倉庫だった。
カートに積まれた段ボールの列。照明のちらつく通路。
二人は慎重に歩く。
「ここも、誰もいねぇな」
「下の階を――」
コト、コトン。
段ボールの隙間から、小さな星獣が顔を出した。
目が合った瞬間、嫌な予感が背筋を走る。
「お前ら、どうやってここに来た?」
低い声とともに、青い髪の青年が現れた。
次の瞬間、リヒトの腹に衝撃が走る。
「ぐっ――!」
彼は段ボールの山に叩きつけられ、崩れた箱の中でもがいた。
ナギ二が駆け寄るが、青い髪の青年はまるでリヒトしか見ていない。
「けほっ……お前……何なんだ……」
リヒトは痛みに耐えながら、睨み返す。
「俺は青。お前たちに進化を与えに来た。
……でも、あまりに脆すぎて、拍子抜けだな」
その時――。
「リヒト! ナギ!」
カイハの声が響く。
彼女が宙を切り裂くように飛び込んできた。
「来るな! カイハ! 危ない!」
「ナギ、カイハを連れて逃げろ!」
その叫びも届かない。
カイハの目は、アズランをまっすぐに捉えていた。
どくん――と心臓が鳴る。
一拍ごとに、血が熱く膨らみ、全身を駆け巡る。
息を吸うたびに、空気の流れが“色”を持って見えた。
音が遠ざかり、時間がゆっくりと溶けていく。
――軽い。身体が、重力から解き放たれたみたいだ。
次の瞬間、カイハの足元から緑の光が弾ける。
床を蹴った衝撃が光の波紋になって広がり、
星獣を蹴散らし、空気を裂く。
カイハの足が、一直線にアズランの胸を撃った。
衝撃波。金属が軋む音。
アズランの体が宙を飛び、バックヤードの奥へ叩き込まれた。
「……緑の……!」
驚愕の声を残して、彼は消えた。
緑の光がまだ空中に尾を引いていた。
戦うほどに、彼女の心の奥の何かが冷えていく。
「は? 何、今の……」
リヒトは目を丸くして、カイハと青年が吹き飛ばされた方向を交互に見た。
「説明はあと! 逃げるよ!」
カイハはリヒトの手を掴み、床を蹴る。
そのままナギ二の襟首を掴み、吹き抜けへ――飛んだ。
「ちょっ、落ち、落ちてる!!」
「カイハ! てめぇぇぇぇ!!!」
叫びが宙を舞う。ナギニの叫びが虚しく空中に残る。
カイハの軌跡が緑の残光を描き、空気が震える。
壁を蹴り、速度を殺し、ふわりと着地した。
「ぶべっ……」
隣でナギ二がうずくまっていた。
リヒトは何とか足から着地したが、現実を理解できず呆然としている。
「カイハ!」
柚葉が駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「何なの、一体……!」
周りのメンバーが一斉に距離を取る。
カイハの周囲の空気がひんやりと震えていた。
「とりあえず、助かった……ありがとう、カイハ」
リヒトが一歩前に出る。
「瞬、早くここを出た方がいい。あいつが居た。あの青い髪のヤバいやつ」
少し遠巻きにしていたメンバーの中から瞬が出てくる。
「でも、まだ帰ってきてないメンバーがいる」
「なら、出発の準備をしておいて。――五分で戻る」
リヒトはそう言うと、カイハの隣に立つ。
「カイハ、帰ってきてないやつらがどこにいるか、わかる?」
彼女は柚葉の腕を外し、静かに頷いた。
「ユズ、カイハを借りる。ナギを頼む」
柚葉が返事をするより早く、
リヒトはカイハの背中に腕を回し、次の瞬間、宙を舞った。
重力が消えたような浮遊感。
不思議と恐怖はなかった。
――俺、なんでこんなに冷静なんだろう。
さっきまで、震えてたはずなのに。
リヒトは、自分の中で何かが変わり始めていることに気づいていた。
デパートの奥、照明がちらつくバックヤード。
崩れた段ボールの山の中から、青い髪の青年――アズランがゆっくりと立ち上がった。
彼の身体からは青い粒子がこぼれている。
それは血ではない。光だ。
ひとつひとつの粒が、まるで意思を持つように空間を漂い、再び彼の身体に吸い込まれていく。
「……もう“緑”は覚醒させたのか。」
アズランは薄く笑った。
その声は柔らかいが、音の奥に機械的な響きを孕んでいる。
* * *
一方その頃、カイハとリヒトは地下の食品売り場に居た。
照明は半分が消え、棚の間には漂うような低重力の埃が渦を巻いている。
その奥で、行方不明だったメンバーの一人――ユノを見つけた。
「ユノ! 大丈夫!?」
カイハが駆け寄る。
ユノはあの時のカイハと同じ、薄い光の膜の中にいた。
「なんだこれ……」
リヒトが膜を破ろうとしたが、ナイフの刃先をも弾くほどの弾力があった。
カイハは胸の奥で、ざわりと何かが動くのを感じた。
(これ、嫌な感じがする……)
「リヒト…あっちにもう一人いるみたい」
その言葉の直後――
どおん! と鈍い音。何かが倒れる。
リヒトとカイハは身構えた。
「なんなんだよ……」
リヒトは迷いを振り切るように、ユノを膜ごと抱き上げた。
「カイハ、行くぞ!」
「リヒトは先に行って」
「行けるわけないだろ!」
「お願い。――守りながらじゃ戦えないの」
その声音に、リヒトは息を呑んだ。
決意の固さが伝わった。
渋々頷き、「先に行く」と言って駆け出す。
あの時、アズランに蹴られてから――身体がおかしい。
ユノを抱えたままなのに、重くない。
こんな速度で走れたことが、あっただろうか。
どくん、どくん、と心臓が強く打つ。
血が熱い。視界の輪郭が冴えていく。
階段を上がったその時。
こつん――小さな石が転がり落ちた。
誰か、いる。
「誰だ」
「俺だよ。やっぱりお前、覚醒しかけてるな」
アズラン。
宙に浮かぶ青い髪の青年は、さっきより穏やかに見えた。
威圧感は薄れ、どこか楽しげですらある。
「覚醒…?コイツも、ユノも覚醒ってやつをしてんのか?」
「ん? ああ……“白”も来てたのか。けどこれは……適合しきれてねぇな」
アズランはユノを覗き込み、口角を上げた。
「はは、死にかけてんじゃねぇか、コイツ」
こいつを殴りたい。でも、こいつの言葉が妙に現実味を帯びて聞こえる。
「どうすれば助かる?」
「その膜を破れば、適合は止まる。そしたら助かるかもな」
「破る方法は? さっき破ろうとしたけど無理だった」
アズランは少し考え、空中でくるりと一回転した。
「お前が――コイツより先に、“青”に覚醒すればいい。
簡単だ、耐えてみせろ」
そう言うと、アズランはリヒトを半透明の膜で包んだ。
「なっ!? なんだこれ! おい、説明しろ!」
白い糸のような膜が絡みつき、リヒトの動きを封じる。
意識までも、少しずつ引きずり込まれていく。
暗い。深い。
静寂の底で、リヒトはユノを見た。
声を出しても、届かない。
「ユノ!」
掠れるような叫びが、反響して消える。
心の奥で、何かが“裂ける”音がした。
自分が溶けていく――そんな感覚。
(嫌だ……俺は……消えたくない!)
その瞬間――
どくん、と鼓動が爆ぜた。
だが、次の瞬間には世界が“静止”したように感じた。
鼓動がやけにゆっくりと聞こえる。音が、水の底から響くようだ。
熱ではない。冷たさだ。
血が凍りつくような冷気が指先から広がり、
視界が青白く反転する。
――すべての輪郭が、光の線になって見える。
全身を青い光が駆け抜け、膜が揺らぐ。
その光は次の鼓動とともに爆ぜ、
圧縮された空気を一気に解き放った。
アズランが呟く。「……やっぱり、こいつもダメか」
びくり、と透明の膜の中でリヒトが動く。
次の瞬間、青い光が瞳に宿った。
「おお!」
アズランが歓声を上げる。
バリバリと音を立てて膜が内側から破れた。
リヒトは生まれたばかりの雛のように、息を荒げながら立ち上がる。
視界が鮮明だ。
空気の震えまで見える。
――分かる。ユノの膜も、壊せる。
伸ばした爪先が光を放ち、ユノを包む白膜を切り裂いた。
ぱん、と音を立てて光が消える。
彼女の呼吸が戻った。
アズランが宙に浮かびながら、手を叩いた。
「すげぇ! こんな短時間で適合したやつ、初めて見た!」
恐怖は、もう感じなかった。
リヒトはむしろ、妙な親近感を覚えていた。
「ユノは? これで助かったのか?」
「さあな? 人間のことはよく分からねぇ。けど、さっきよりはマシだろ」
リヒトはユノを抱き上げ、アズランを睨む。
「お前、アズって言ったっけ? 結局何者なんだ?」
「“青”だよ。覚えとけ。……お前らは選ばれたんだ。
――実験台に、な」
その言葉は、冗談には聞こえなかった。
リヒトは一瞬、背筋が冷たくなる。
覚醒は、終わりじゃない。
――始まりだ。
ユノを抱えて、階段を駆け上がる。
振り返ると、もう誰もいなかった。
なぜか、それが当然のことのように感じられた。
「アズ、お前……どこまでついてくる気だ?」
隣で宙に浮きながら、青年が肩をすくめる。
「聞きたいことがあるんだろ。答えてやる。だから――船に乗せろ」
「……もしかして、置いてかれたのか?」
リヒトは言ってから、しまった、と思う。
アズランは何も言わなかった。
ただ、薄く笑った。
その笑みの中に、一瞬だけ、人間のような孤独が見えた。




