18.橋(ブリッジ)
――母艦のハッチが開く。
白い蒸気が吹き出し、冷たい金属の匂いが広がる。
かつて芝生の坂が続いていた場所には、もう何もなかった。
星獣の襲撃で焼け、削がれ、ただの虚空に変わっている。
その虚空を渡すように、一本の橋が伸びていた。
銀色のアーチが幾重にも重なり、橋の先には、再建された小さなステーション。
政府が新たに建設した「交渉の橋」だった。
リヒトは、ハッチの縁に立ち、深く息をつく。
外は宇宙――それでも、彼の足元には確かな重力があった。
アスリオン側の交渉担当はリヒトが担った。
瞬では黄の台頭に歯止めがかけられないと、赤と白からの反対あってのことだ。
橋のドックが接続を終える。
気圧の調整音が低く鳴り、作業員たちが一斉に動き出す。
彼らは全員、分厚い宇宙服を着ていた。
彼らの仕事は単純だ――「橋を繋ぐ」。それだけ。
だが、その背中には明らかな緊張が走っていた。
目の前の“異質な存在”を意識しながら。
リヒトは退屈そうに橋を見下ろした。
ちらりと瞬を見る。
瞬は腕を組んで、顎で「見てろ」とだけ示す。
(これ、俺が見てる意味あるのか?)
ため息をひとつ。
次の瞬間、彼はふっと浮き上がった。
宇宙服もなく、酸素供給もなし。
リヒトは、まるで重力そのものを無視するように、橋の上を飛んでいく。
彼の軌跡に、微細な光の粒が尾を引いた。
作業員がその姿を見上げ、手を止める。
一瞬、音が止まる。
彼の存在そのものが、人間ではない証明だった。
橋から橋へとひと飛びし、彼は橋の欄干に飛び移る。重力は感じる。
しかし、重力のあるなしで、跳躍力が変わることはなかった。空気も同じく。あるなしで何か変わるかといえば何も変わらない。何故か話すことも音を聞くことも出来る。これが力の作用なのか、それとも宇宙人特有の性質なのか、分からなかった。
リミとレオンが続いて飛ぶ。
風のない宇宙で、彼らの髪だけが流れるように揺れる。
「橋型になったから、一度に人を運ぶのは難しいわね」
「おそらく、俺たちを一斉に出させないための設計だ」
「閉じ込められてるみたいで、ムカつくわ」
リミがリヒトの隣に飛び移り、ステーションを眺めながら言った。
「しかし、アスリオン内はそれほど窮屈でもないが」
「筋肉馬鹿は黙ってなさいよ」
軽口が交わされる。
でも、その声の奥には、張り詰めたものがあった。
「なぁ、お前ら。家族に会えるとしたら、会いたいか?」
リヒトがふいに問う。
リミは即答した。
「会いたいに決まってるじゃない!」
「俺もだ。一言、無事を伝えたい。」
リヒトは少しだけ笑った。
そして静かに言った。
「最初に母星に帰る役目を、お前らに任せてもいいか?」
リヒトが複雑な表情で彼らに問いかける。
おそらく、歓迎はされない。悲しまれるか、憐れまれるか。
それとも拒絶されるか。
そして、政府の思惑も確かめなければならない。
最初に母星に帰る者は精神的にも肉体的にも強くなければならない。
「いいの!やったー!」
「その役目、しかと請け負おう」
軽く喜ぶリミとしっかりと頷くレオン。彼らは分かっている。
分かった上で、一番最初に自分たちが行く、と言ってくれるのだ。リヒトが気に病まないように以前の様に帰郷するような軽さで。
その時、橋が震えた。
警報が鳴る。
作業員が悲鳴を上げ、ひとりが宙に放り出された。
重力のゆらぎが、彼の身体を宇宙へと吸い上げて、宙へと舞い上がる。
リヒトはぐっと足に力を入れ、飛んだ。
無音の中で一閃。
腕を伸ばし、作業員の手を掴んだ。
「大丈夫だ、離すな。」
次の瞬間、二人は橋の中央に戻る。彼は恐ろしさで震え、宇宙服のつるりとした透明の窓ごしに泣いているのが見えた。
リヒトはそのまま立ち尽くした。
作業員たちがざわめき、道を開ける。
波が割れるように。
――まるで、危険な動物を避けるみたいに。
リヒトは何も言わなかった。
ただ、その視線の中に、自分がもう「人間ではない」ことを見た。
それでも、彼らの恐怖を責める気にはなれなかった。自分だって、かつてならそう感じただろうから。
ステーションが見える。
以前のような巨大施設ではない。
十人も入ればいっぱいになる小型の着陸船。
あまりに慎重で、あまりに臆病な規模だった。
「……本当に、俺たちが怖いんだな。」
リヒトの唇がかすかに歪む。
それは笑いというよりも、痛みだった。
***
カイハは心配そうにリヒトを見ていた。
リヒトは名実ともにアスリオンのトップだ。トップがあんなに自由に動き回っていいのだろうか。もし連れ去られでもしたら、とカイハは心配で気が気ではない。
「ねぇ、瞬。リヒト、あんなところまで行っちゃったよ」
「問題ない。いま、あいつをどうこうできる人間はいない。」
「でもさ、ああ見えて、すぐ騙されるタイプだよ?」
「人間の思惑なんて、あいつにはもう透けて見えてるよ」
瞬の声は低く、確信に満ちていた。
カイハはその横顔を見上げる。
「黄って、みんなそんな感じなの?」
カイハは緑の適合者だ。
他に緑の適合者はリヒトだけ、彼女だけ配下となる適合者が居ない。
その為、緑は組織化する必要も、下位の者を保護する必要もない。比較対象も多色持ちのリヒトしかいないので、比較にならない。彼女は適合者について、全くと言っていいほど知識がなかった。
「知らん。……けど、たぶんお前も、前より頭が良くなってるさ。」
瞬がそう言って、彼女の髪をぐしゃぐしゃにする。
カイハはぐしゃぐしゃにされた髪を撫でつけながら、橋の先を見つめた。
ステーションの光の中、リヒトの影が小さく立っている。
橋とステーションはほのかに光っていて、電灯のようなものはなかった。
宇宙空間に浮かぶステーションに立っているリヒトは、美しい孤高の存在に見えた。
同じ緑の適合者である自分とは、
もう違う場所に立っている。
その距離が、ただ静かに胸を刺した。
金属の橋の上、ひとり立つリヒトの頬を、
人工重力の風が撫でる。
見上げた空は、どこまでも黒かった。
けれど、その黒の向こうに——
かすかに青い光が、瞬いた気がした。




