1.崩壊の母艦(アスリオン)
ドームのように半球を描く広い空間。天井まで届きそうな壁面に反射する光の中、無数のパイプ椅子がぎっしりと並んでいる。
チームごとに整列したその姿は、まるで完璧に統率された軍隊のようだった。
ここに集まったのは、各国から選ばれたスポーツのエリートたち。サッカー、野球、バスケットボール、体操、スケート――あらゆる競技の頂点を目指す、若き精鋭の卵たちだ。
教官の声が響く。全員が同時に立ち上がり、一糸乱れぬ挨拶で一日が始まる。
月に一度の成果発表の日には、他の種目の生徒たちも自由に見学できる。
中でも、特設のアイスリンクで行われるフィギュアスケートはひときわ人気だ。
娯楽の少ないこの施設で、氷上の華やかな演技は一種の心の救いでもあった。
そのリンクに、次の演技者たちが滑り込み、最終の動作確認を行っている。
リヒトの視界に、一人の女子が滑走コースを駆け抜ける姿が入った。だが次の瞬間、別の人影がそのコースに割り込んできた。
――ぶつかる。
誰もがそう思った。だが、カットインした女子はぎりぎりでかわした。少なくとも、リヒトには避けたように見えた。
しかし、その瞬間、もう一人の女子が足を滑らせ、痛そうにうずくまる。リンク上がざわめく。
リヒトの脳裏に、瞬時に閃きが走る。
「わざとだ……」
ほんの一瞬、滑り込んだ彼女の足の角度。視線の流れ。呼吸のリズム。
リヒトは息を呑んだ——演技の一部だ。そう直感した。一人を悪役に仕立て、もう一人が健気な道化として観客を魅了する――サッカーでもバスケでも、よくある光景だった。
悪役にされた彼女には気の毒だが、避けられない役目だろう。
リヒトは胸の奥がむず痒くなるのを感じた。
だが、その予想は見事に裏切られた。
転んだ女子は健気に振る舞い、観客から喝采を浴びる。
そして悪役にされかけた獅子川理美は、その直後に今季最高の演技を披露した。観客は息を呑み、魅了される。
リヒトは息を止めて見つめた。
あそこから逆転できるなんて――その度胸と表現力に、心底驚かされた。
この光景は、後になっても彼の記憶に焼き付いたままだった。
** *
平穏は、ある日突然、砕け散った。
――どおん。
爆音と共に、バリアの外から岩のような星獣が降り注ぐ。
リヒトの立つ芝生の斜面に、その巨体が叩きつけられる。
衝撃で地面が揺れ、土と芝が宙を舞った。
生徒たちは一瞬にして二手に分かれた。
母星のステーションへ走る者、アスリオン本艦に戻る者。
リヒトの視線が、混乱の中で友人二人に止まる。カイハとナギ二。
彼らは母星のステーションへ向かっていた。
――だめだ、そっちは危ない。
リヒトは叫び、駆け出す。しかし星獣が進路を遮り、足が思うように前に出ない。
足元が崩れる。土と芝が浮かび上がり、音が遅れて耳に届いた。
——何かが終わった。そんな確信だけが、頭の奥で冷たく鳴った。
坂の下まで追いかけたときには、二人はすでにステーションの足場に立ち、次の着陸船を待っていた。
「カイハ!ナギ!だめだ!こっちへ、母艦へ戻れ!」
「リヒト!私たち、家に帰りたいの!お願い、見逃して!」
アスリオンから母星へ渡ることが許されるのは、年に一度の安息日だけ。
ここにいる者たちは皆、その日を待ちわびていた。明日が、ちょうどその日だった。
宇宙空間に浮かぶ芝生の坂道――母星へ続くステーションから着陸船で、ほんの五分ほどの距離。
だが、目の前に見える母星との間には、物理の川のように、冷たく広大な宇宙が立ちはだかっている。
リヒトは痛いほど、カイハの気持ちが分かった。
戻りたい、でも戻れない――その葛藤。
説得はもう無駄だ。ここに留まれば、自分も離反を疑われる。
仕方なく、リヒトは二人を残し、坂道を駆け上がる。
星獣は無秩序に暴れ、芝生にぼこぼこと穴を空け、柱を蹴散らす。
裂けた芝生に、音が遅れて届く。
あまり知能は高くないのかもしれない。だが、そのパワーは圧倒的で、リヒトは攻撃を躱すのに精一杯だ。
いつもなら風のように軽やかに走れるはずの足が、今はまるで鉛をまとったかのように重い。
どれだけ必死に足を前に出しても、星獣から距離はほとんど稼げない。
全身が痛い。胸が裂けそうだ。
それでも、リヒトは前に進むしかなかった。
** *
母艦――アスリオン――に戻った瞬間、秩序はすでに崩れ去っていた。
上がってくる仲間を見捨て、無造作にハッチを閉めようとする男。
リヒトは咄嗟にその腕を掴み、力を込めて殴り飛ばした。
そして、自分の手でハッチの作動を止める。
肺が裂けるほど息を吸い込み、吐き出す。
背後では断末魔のような悲鳴と、金属が弾ける轟音が絶え間なく重なり、耳を切り裂く。
何が起こったのか。どうすれば生き延びられるのか。
答えはどこにもない。教官の姿も、誰の指示も、何もない。
静寂さえ恐怖を増幅させる。金属と冷気が混じる空間に、孤独だけが押し寄せる。
足元から、言葉にならない不安が這い上がってくる。
アスリオン内に入れるだけ仲間を救い、最後にハッチを閉じた。
カイハは、ナギは――大丈夫だろうか。
胸の奥に痛みが走る。
叫びたい、駆け戻りたい。だが、それを確かめる術は何もない。
宇宙の闇が、見えない手で彼を押さえつけるように、リヒトを静かに追い込む。
目の前の光景に言葉は出ない。ただ、次に何が来るのかを待つしかなかった。
** *
ナギ二の胸は張り裂けそうだった。
ステーションに現れた星獣――岩のような硬い体を振るい、足元の床を無情に砕く。
そして、カイハがその一撃で空中に投げ飛ばされた。
「カイハ!」
名前を叫ぶ。だが返答はない。気を失っているのか、それとも――。
その瞬間、不意に視界の端で光が揺れた。小さな少女が現れたのだ。
白いワンピースは布をたっぷりと使い、緑の線が一本、不可思議に光っている。
通常ではあり得ない緑の髪が微かに揺れ、少女はまっすぐナギ二の前に立った。
光が揺れた。緑の線が空気を縫うように走り、その中心に少女がいた。
「——許せ。想定外だった。」
その声は金属とも風ともつかず、耳ではなく胸の奥に響いた。
少女は星獣の前に歩き出す。危ない――ナギ二が手を伸ばすが、星獣はそこでぴたりと止まった。
少女は躊躇なくカイハのもとへ歩み寄る。
風船のような透明な膜がふわりとカイハを包み込む。
「アレの中にいれば、その内に回復するだろう。お前はここで待つがよい」
「なっ……なんなんだよ!お前!カイハに何した!」
ナギ二の声は、怒り、混乱、恐怖、後悔で震えていた。
――リヒトの言う通り、あの時一緒に戻っていればよかった。
「お前らが戦争をしかけたんだろ!?」
「少年よ、これは戦争ではない。交渉に基づいた制圧だ」
「何が違うんだよ……わけわかんねぇこと言うな!」
「お前たちの身柄は、この緑が保障しよう。ここで少しの間、待て」
少女――ヴェルニアと名乗る――は落ち着いた声で続けた。
「っ……信じられるかよ」
ナギ二は首を振り、ヴェルニアの横を通り過ぎた。
そして、眠るカイハに向かって一言。
「カイハ、後で助けてやる」
そのまま、ナギ二は芝生の坂を駆け上がる。
宇宙空間に浮かぶ世界。バリアは破れ、いつ宙に放り出されてもおかしくない状況だった。
それでも、母船――アスリオン――を目指して進むしかなかった。
バリアも地面も穴だらけ。倒れた柱や、動かなくなった星獣の残骸が道を塞ぐ。
途中、無惨な人の腕らしきものを目にし、ナギ二は胃の中のものを吐いた。
涙が頬を伝い、無力感と自己嫌悪に胸が締め付けられる。
ようやくたどり着いた母艦――アスリオン――のハッチは固く閉ざされていた。
だが、その扉の片隅、小さな扉が静かに開いた。
「ナギ!こっちだ!」
「リヒト!」
絶望の中、弱々しい光が差し込む。
ひりつくような空気の中、二人は今までの状況をざっと確認し合った。
「じゃあ……教官は一人もいないのか?」
「ああ、そっちの変な女の子が言った言葉が気になるな」
「交渉に基づいた鎮圧……ってやつか?」
「たぶん、俺たちは置き去りにされたんだ……」
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結局、行く場所を失った二人は、アスリオンの中心、ドームに戻った。
そこには多くの生徒が、今さら無意味なのに、整然と並んでいた。
秩序の象徴のように見えるその列は、逆に異様な静けさを帯びていた。
「なんで……」
ナギ二が、思わず小さくつぶやく。
「皆、行くところがないんだろう。結局、いつも通りにすることで平静を保ってるんだ」
リヒトが低く呟いた。
「俺たちも行こう」
リヒトはバスケの列に並ぶ。そこには、いつもより少し減ったメンバーがいた。
「よかった……二人とも、見つからないから心配した」
リーダーの瞬が安堵の表情を見せる。
その後ろで、女子バスケのリーダー・柚葉が、心配そうに顔を覗かせた。
「カイハは!?お姉ちゃんはどこ?」
双子の姉・カイハの所在を尋ねる声に、二人は首を振る。
カイハのことも、ステーションのことも、あの女の子のことも――二人は秘密にすることを決めた。
アスリオンは無意味に、同じ日々を繰り返した。
同じ時間に起床し、整列し、挨拶をする。その後、各部毎に運動し、一日を終える。
一見秩序を保つその集団は、リヒトには狂気のように見えた。
だが、それですらまだ平穏だった。
ある日、ソフトチームが襲われた。
青い髪をした青年――宙に浮き、小さな星獣を従えた者――が現れたのだ。
バスケチームのリヒトたちは、偶然通りかかり、目撃してしまった。
眠る青い髪の青年に、ソフトの一人が気づいた。
ナギ二は一瞬で、あの女の子と同種の存在だと理解した。
止めようとしたが、間に合わなかった。
寝ている青年を、ある生徒が蹴り飛ばした――いや、正確には、足が空中を蹴ったのだ。
青年は宙で体勢を一回転させ、瞬く間にソフトメンバーを見据える。
「俺は寝てる姿を見られるのが、キライなんだ」
青年はゆっくりと瞼を上げた。その声は氷のように冷たかった。
小さな星獣を従えた青年は、宙に浮かび、明確に自分たちとは異なる存在であることを告げていた。
「ちょうどいい。お前たちに合わせてやろう。ゲーム開始だ」
青い髪の青年は、にやりと笑みを浮かべる。
「俺のボールを全部取れたら、お前らを見逃してやる」
彼の背後には、十数個のソフトボールが浮かんでいた。
その一つが猛スピードで飛んでくる。
一人が吹き飛ばされ、ボールは破裂した。
逃げたい。足が震える。
次々とボールが飛び、破裂音とともに悲鳴が響く。
ソフト部のメンバーは、一方的な暴力に翻弄され、何もできずに打ちのめされた。
リヒトは目を背けそうになったが、必死に上を向く。
手に持ったボールを、青い髪の青年めがけて投げる――頭に当たり、攻撃が止まった。
ソフト部の仲間たちがうめき声をあげ、身じろぎをした。生きている、よかった……。
「逃げるぞ!」
リヒトの声に、全員が反応する。
「見たぞ!逃げても無駄だ!絶対に見つけてやる!今度はお前だ!」
青い髪の青年が怒声を上げる。
この世界は、一体どうなってしまったのだろう――。




