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07:慟哭と奇跡

 季節は巡る。

 俺がこの沈黙の世界に囚われてから、もういくつの季節が過ぎただろうか。


 莉子は変わらず、ほとんど毎日、この無機質な病室に彩りをもたらしに来てくれた。彼女が語る会社の様子、街の変化、ふたりの思い出。その一つひとつが、俺の意識を繋ぎ止める命綱だった。


 だが、時の流れは残酷だ。

 莉子の声は、日を追うごとに、ほんの少しずつ、その輝きを失っていった。

 努めて明るく振る舞う仮面の下に隠された疲労と、かすかな絶望の声色が、俺には痛いほど伝わってきた。彼女は希望を語りながらも、その希望が日に日にすり減っていくのを、自分でも感じているようだった。


 そして、運命の日が訪れた。


 その日、病室のドアを開けて入ってきた莉子は、いつもと明らかに様子が違った。彼女から感じられる雰囲気は、まるで張り詰めた氷のように冷たく、脆い。


「……あきと、来たよ」


 かろうじて絞り出したような声は、ひどくかすれていた。

 いつものように椅子に腰を下ろしたが、彼女は何も語り始めなかった。

 ただ、じっとして、身動きもしない。病室には、ピッ、ピッ、という心電図モニターの電子音と、彼女の浅く、速い呼吸音だけが響いていた。


 沈黙が、重く、息苦しくのしかかる。

 どうしたんだ、莉子。

 何かあったのか。

 俺は心の内で必死に呼びかけるが、もちろん彼女に届くはずもない。


 やがて、彼女の口から、震えるような声が紡がれる。


「あのね、あきと……今日……会社の皆で……飲み会、あって……」


 途切れ途切れの、絞り出すような声。


「山崎くんがね……あきとが担当してたプロジェクト、無事に成功させたんだって……その、お祝い……」


 彼女は言葉を詰まらせる。

 次の瞬間、なにかを叩く音がした。

 まるで、握りしめた拳で膝を強く叩くような音が。


「うっ……ひっく……!」


 堪えきれなくなった嗚咽が、静寂を切り裂いた。

 それは、これまで聞いてきた、悲しみに寄り添うような静かな涙ではなかった。

 堰を切ったように、彼女の内側に溜め込まれていたすべての感情が、濁流となって溢れ出した、魂の叫びだった。


「もう、やだよぉ……っ!」


 莉子は椅子から崩れ落ちるように、俺のベッドに突っ伏した。

 シーツをぐしゃぐしゃに掴んだのだろう、激しい衣擦れの音。

 そして、シーツに顔を埋めるような、反動が伝わってくる。


「いつまで寝てるのよ! バカ! あきとのバカーっ!」


 子供のように、彼女は俺を罵った。


「皆……皆、私に気を遣って……! 飲み会でも、『莉子ちゃん、大変だろうけど頑張って』とか、『高槻も喜んでるよ』とか……! そんなの、慰めにもならないよ! 同情されて……哀れみの目で見られて……もう、疲れたよぉ……っ!」


 身体を激しく震わせて、莉子は泣きじゃくった。

 その慟哭が、俺の意識をハンマーで殴りつけるように激しく揺さぶる。


「あきとの声が聞きたい……っ! 『お疲れ様』って、頭を撫でてほしい……! しょっぱいカルボナーラでもいい! あの、変なドヤ顔が見たいよ……っ! 私……もう、ひとりじゃ……頑張れないよぉ……っ!」


 やめろ。

 やめてくれ、莉子。

 そんな風に、泣かないでくれ。

 俺のために、泣かないでくれ。


 いや、違う。

 違うだろ、高槻彰人。


 思考が、灼熱の怒りへと変わる。

 お前が、お前が莉子を泣かせているんじゃないか!

 俺がこんな無様な姿で、ここに転がっているから。

 俺が、彼女の優しさにつけ込んで、甘えているから。

 彼女は、たったひとりで、こんなにも傷ついている。


 許せない。


 彼女をこんなにも悲しませ、その涙を拭ってやることさえできない。

 そんな今の自分が。


 彼女の美しい笑顔を曇らせ、その心に深い影を落としている。

 この動かない肉体が。


 愛する人を守ることもできず、ただ横たわっているだけの。

 この無力な魂が。


 許せないッ!!


 怒りが、絶望を塗りつぶし、意識のすべてを焼き尽くしていく。

 彼女の涙を見るくらいなら、このまま意識が消えてしまった方がマシだ。

 いや、それさえも許されない。

 俺が消えたら、彼女は自分を責めるだろう。

 俺は、彼女に笑っていてほしいんだ。

 俺の隣で、幸せだと、心の底から笑っていてほしいんだ。


 そのためには、どうすればいい?

 決まっている。


 動け。


 動けよ。


 この微動だにしない肉体の檻を、内側からこじ開けろ。

 この錆びついた身体に、もう一度命令を下せ。

 莉子を抱きしめるんだ。

 彼女の涙を、お前の手で拭うんだ。

 「ごめん」と、「ありがとう」と、「愛してる」と、お前の声で、伝えるんだ!


 脳が、沸騰するような感覚。

 魂が、肉体という器の限界を超えて、膨張していく。

 意識のすべてを、ただ一点に集中させる。

 起き上がれ。飛び起きろ。

 意識だけでもいい。

 このベッドから抜け出して、彼女のそばへ――!


 動けぇぇえええええええええええっ!!!!


 その瞬間。

 金縛りが解けるように、全身の神経に、灼熱の電流が走った。

 忘れていた感覚。指先が、ピクリと痙攣する。

 そして――。


 バッ!


 俺は、勢いよく上半身を跳ね起こした。


「――ひっく……ぇ?」


 ベッドに突っ伏して泣きじゃくっていた莉子が、息をのむ。

 ゆっくりと顔を上げた彼女の、涙と驚きでいっぱいな大きい瞳。

 ベッドの上に起き上がっている俺の姿を、真正面から捉えていた。


 世界から、音が消えた。

 心電図モニターの電子音も、彼女の嗚咽も、何も聞こえない。

 ただ、彼女の顔だけが、スローモーションのように、はっきりと見えた。


「……あ……き、と……?」


 信じられないものを見るように、かすれた声で、彼女が俺の名前を呼んだ。

 空気が、喉を通る。

 何年かぶりに動かした声帯は、まるで錆びついた鉄の扉のようだ。

 だが、俺はありったけの意志を込めて、その扉をこじ開けた。


「……り……こ」


 出た。

 声が、出た。

 俺の言葉が、音になって、彼女に届いた。


 その瞬間、莉子の瞳から、再び大粒の涙が、ぼろぼろと溢れ出した。

 しかし、それはもはや、絶望の涙ではなかった。

 驚きと、困惑と、そして、堰を切ったような歓喜の涙だった。


「うわああああああああん! あ、あきとぉぉ……っ!」


 彼女は叫びながら、俺の身体に、力いっぱい抱きついてきた。

 温かい。

 ああ、これが莉子の温もりだ。

 これが、俺がずっと求めていた、彼女の体温だ。


 俺は、まだ思うように動かない震える腕を、必死に動かした。

 そして、その華奢な身体を、壊れ物を抱くように、そっと。

 しかし力強く、抱きしめ返した。


「……ごめん……な。……待たせた」


 その言葉が、俺が彼女に伝えたかった、すべての想いだった。



 -つづく-

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