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時計一つ分の空白

作者: 柴野 沙希


 「皆さん、おはようございます」

 「はい、今日は週明けですので、業務の確認漏れ注意でお願いします」

 「「「よろしくお願いします!」」」


 使い回された言葉の朝礼が終わり、俺は自分のデスクへと戻った。使い古された椅子が、キィッという高い音で俺を暖かく迎えてくれる。ふと、隣の席からカチリと時計の音がした。そういえば後輩は、意味も無く時計のカチリカチリという音を聞く癖のある奴だった事を、何となく思い出した。そうなると後輩の様子が気になり、隣の席を覗き込んだ。すると、空席になっていることに気が付いた。俺の席の隣は、1年ほど前に入社した後輩の席であった。後輩の席には、上司から教えられたのだろう守るべきマナーや、昨日の分のやること付箋が所狭しと貼ってあった。実際、付箋の量と同じようにやる気が多い奴で、今まで欠勤や遅刻の無い後輩にしては珍しいことがあるもんだな、と素直に思った。思えば、昨日は体調不良で欠勤したって上司も驚いていた。と言うか、いつも最後まで残っていた気がする。まぁ、手伝えることも無いからどうしようもなくて、いつも挨拶だけして俺は帰っていた。それでも、直属として一緒に働いていた頃の親しさを、俺は確かに感じていた。

 そんなことを考えつつ、慣れた手つきで古くなってしまったパソコンとモニターを起動した。OSの更新も出来ないってのに、いつになったら新しいのが来るんだろうか。そうして起動したパソコンで適宜サボりつつ仕事を捌いていると、視界の隅に俺の元へと上司が歩いてくる姿が見えてしまった。またか、何度目になるか分からない、仕事についての小言かと思ったが、それにしては自信が全く感じられない表情が目立っていた。とにかく暇という概念が大嫌いで、口癖にもそれが現れている。その上、常に自信に満ち溢れている人にしては珍しいこともあるものだ。暫くすると俺の隣に上司がやってきた。


 「今、暇か?」

 「緊急の案件が…」

 「暇だな、ちょっと来てくれ」


 言葉を失った俺は、上司に促されるままに席を立った。また椅子からギシッと音がした。周りからは、またあいつ説教喰らってやがるよ、と若干の憐れみと侮蔑を感じる視線を受けながら、部屋の外へと向かった。廊下に出た俺は緊張で、はぁとため息を吐いたが、それを見ても上司は何も言わず、ただ眉間にしわを寄せ、何と言うか、努めて感情を出さないようにしているようだった。これはいよいよ「首になる時が来た」のかもしれないと、背中に嫌な汗がぶわっと溢れてきた。


 「まぁ、入ってくれ」

 「あぁ、はい……」


 やはり厳しい表情を浮かべる上司に怯えつつ、誰もいない会議室へと入った。後に続いて上司も入室してきた。重苦しい沈黙が場を包んでいる。上司は少し眉間を揉んだ後、静かに口を開いた。恐れのあまり俺はギュッと目を閉じた。


 「余り暇が無いので簡潔に言う。後輩が、本日付けでウチを辞めることになった」

 「冗談ですよね?」


 思わず、敬語が外れそうになる。困惑が顔に出ていたのか、上司は俺を見たものの、沈痛な面持ちを崩さない。しかし、よく見ると、右手が首の後ろを掴むように回され、瞼は少し痙攣していた。


 「私も嘘だと思いたい所だ。今朝、退職の代行業者を介して連絡があった」

 「本人ではなく代行業者から、ですか?」

 「そうだ」


 予想と違った話によって目を開けた俺は、思わず上司の顔をじろっと見つめた。

 視線を向けられた上司は、自身の顎をさすりながら、俺の目から視線を逸らした。やはり、気まずいらしい。俺自身、信じられなくて頭をさすりながら俯いてしまう。


 「暇になった時に理由を聞いても、「こちらからは何も申し上げる事は出来ません」の一点張りでな。まぁ……お前も、それなりに仲は良かっただろうから、一応な」

 「いや、あの、引継ぎとかはどうするんです?」

 「企業案件は俺で、社内業務は暇なお前に任せようと思うが、いけるな?」


 俺は無言で頷いた。上司はこれからの仕事をどうするか、だけを思案しているようだ。いや、むしろ、信じられない現実を正視しないようにしているような気がした。


 「そう……ですね。あの、デスクの私物はどうします?」

 「業者曰く、全て不要との事だ」

 「不要……?」

 「なら処分するしか無い。私も暇ではないんだ。取り敢えずデスクの片付けから頼む」


 息付く暇も無く、上司は会議室を出て行ってしまった。一人残された俺は、息も忘れたように黙り込んでしまう。

 オフィスに戻った所、後輩のデスクの上には案件ごとにファイリングされた資料が並んでいて、アナログの置時計が何もなかったかのように、カチリカチリと時を刻んでいた。そして、引き出しの中には後輩が好きだと言っていたソフトキャンディーがいくつかと、研修や業務の指南書などが、これも綺麗に区切って整理されていて、几帳面な後輩の面影が思い出として浮かんだ。

 言葉にならず、デスクの前で立ち尽くしていた。


 「俺は、どこまで行っても、ただの同僚だったのか?」


 小さく呟いて、後輩のデスクを片づけ始めると、後輩と過ごした過去が脳裏に浮かぶ。所狭しと貼られた付箋を一枚一枚剥がす度に、剥がす力が強くなる。最後の一枚を剥がそうすると、何か分からない感情が押し寄せて、目頭が熱くなり、記憶が強い濁流のように流れ出す。

 入社初日の、信じられない程噛みまくっていて、趣味を聞かれて無言になってしまった挨拶。俺なんて、自分の名前を話し忘れたんだぞ、と笑い飛ばした。

歓迎会で、上司のスーツにビールを零して二人して顔面蒼白になり、上司に謝ったこともあった。上司は、私は暇だからといってグラスを割ったことがあるぞ、と言って珍しく笑っていた。

いつだったか、後輩がパソコンの画面をぼんやり眺めていた。気になって理由を聞くと、画面では無く、時計の音を聞いていたんです、と言っていた。変な癖だなとは思ったが、仕事以外の後輩のことを少しだけ知れて嬉しかった。それ以降、休憩時間に二人で時計の音だけを聞いていることもあった。

仕事にしては、強く覚えている思い出達。居なくなった今でも、昨日のように思い出せる。


 「あいつ、そんなに仕事嫌だったのかな」


 もう誰も居ないデスクの前で、ふと、自分の口から洩れた一言で、少し泣きそうになる。期待を背負って、やる気があって、優秀で。俺のことをあっという間に抜かしていった奴が、煙のように消えていく世界。

 過ごした日々を思い返しても、無理をしていたとは分からなかった。正直、上司は期待と仕事量が比例するタイプの人だった。でも、辞めてしまうぐらいなら、上司に直接とはいわなくても、俺にだったら言えたんじゃないかと思うのは、傲慢だろうか。どんなに今、思いを巡らせた所で、後悔と、飲み込んだ言葉だけが、心の内に沈んでいくだけだ。震えた手で、くしゃりと握ってゴミ箱に、捨てた。

 色々考えながら片付けていく内に、多かった私物も、付箋もすっかり消えた。最後に残ったアナログの時計が、何も無いデスクで一人、カチリカチリと音を鳴らしていた。それすら片付けてしまうと、本当に誰もいなかったかのようにデスクは何もなくなってしまった。上司の期待も、この感情も、もう消えていくだろう。ただ、お互い何も知ることが出来ないまま、無かったようになる。


 その時、思い出された全てが、仕事の話であることに気がついてしまった。


 「俺とお前は、どうやっても他人だったんだ」


 何も無い机に向かって、独りで呟いた。周りの同僚は、誰一人としてこっちを見てこなかった。そうして俺は、人間一人分の空白と、後輩の私物が詰まった段ボールを抱え、オフィスの出口へと歩みを進める。後輩の、もう誰にも見られることの無い時計が、カチリとまた一つ、時を刻んだ。




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