8.The Fang
日も傾き、まだ少し肌寒さを感じる帰り道。
街の喧騒から離れた静かな通りで、買い物袋がガサッガサッと一定のリズムを刻む。
「遅くなったな~」
今日は本当に疲れた。
色々と濃厚だった一日を振り返ると、自然と溜息が出る。
帰ったら何も手をつけずに一旦寝ようか……。
などと考えながら歩いている彼の後ろを、人知れず付いていく三人組。
「ァ゛ァ゛ーァ゛ァ゛ーァ゛ァ゛ー」
力ない声で呻き、上体をだらりと倒して魂が抜けたみたいに――魂の塊みたいなものだが――表情の沈む雅。飲食店を出てからずっとこの調子である。
「ねえ、いい加減そのゾンビみたいな声出すのやめてくれない?」
接触を禁止してからというもの、後ろで延々だらしない恰好をしながら付いて来る雅に、たまらず唯が声をかける。
「だってぇ~、触れたらダメなんて生殺しもいいところよぉ~。なんなのよこの状況ぉ~。ダーリンの後ろを女三人がフワフワ浮きながら付いていくって……これじゃただのストーカーじゃないのぉ~」
「あら、もしかして貴女知らないの? 女は黙って、夫の三歩後ろを歩くものなのよ」
「いや知ってるけどさぁ~、昔と今とじゃ全然違うわよぉ~。……っていうか、どさくさに紛れて夫とか言わないでくれる?」
「嫉妬深い人ね」
「もう嫉妬ゾンビね。あっ、アンタほんとに歩いてるんだ」
唯がちらりと楓の足元を見ると、彼女は慎ましく歩を進めていた。
「いいえ、ただの歩く真似よ。でも、形だけでもそれっぽくすると、意外と雰囲気が出るものよ」
「ふぅ~ん。それならアタシも歩いてみよっかな♪」
「ちょっと何よアンタたち。正妻の前でよくもそんなことが出来るわね。伴侶はワタシだけで十分、退きなさい」
そう言って雅が二人の間にズケズケと割り込む。
「いいじゃない一緒に歩けば~。ほんっと独占欲が強いわね」
「なーんでアンタ達と並んで歩かないといけないのよッ。ワタシは妻としてのポジションを確立したいだけ。アンタ達はその辺をユラユラ浮いてなさいッ」
「さっきまで貴女がユラユラ浮いていたのだけれど」
「ホントにね~。…………あれ?」
そこでふと前を向いた唯の表情が険しくなる。
「んー? なによー? ……ッ!!」
急に顔つきの変わった唯につられて前を向いた雅も、思わず目を見開く。
「これは、偶然かしら……」
異変に気付いた楓も、極めて冷徹な眼差しで《それ》を見つめていた。
「ぉお? こいつぁ驚きだぁ~。オマエあんときのヤロぉーじゃねえかぁ~!」
ねちっこく癇に障る声がこちらに向けられる。
それは、昼間に襲い掛かってきた強盗だった。
「なっ、なんでアンタがここに……。ってゆーか、まだ捕まってなかったのかよッ」
状況を理解した彼も歩を止めて身構えている。
「ハッハッ、決めたぜ。どうせ逃げられねぇなら、テメエも道連れだぁぁあああ~ッハハハハ!!」
叫び笑いながら躊躇なく刃物を取り出す男。
瞳孔は開き、完全に精神が不安定になっている事が窺えた。
「コイツ……なんだか様子が変ね」
「警察にでも追われて錯乱しているのかしら」
「なんだろうと関係ないッ! ダーリンに何かするようならワタシが黙ってないわよ!」
月白の髪を妖しげに靡かせ、鋭い眼光で相手を睨みつける雅。
「そうね、確かに関係ないわ。どのみちこの男は私に会った時点で終わりだもの」
淡々と言う楓の姿にザザザっと映像が乱れるような断続的な歪みが生じる。
時折ノイズに紛れてニタァと嗤う楓の表情が見え隠れしていた。
「バカなこと言ってんじゃないわよ。アイツ刃物持ってるし、辺りに人もいないし本気でこの状況ヤバいわよ」
確実に現世に干渉できるかどうかも分からないのに止められる気でいる楓に、頭を冷やすよう唯が諭す。
それに、仮に干渉できたとして、万が一この男の命を奪うような事にでもなれば、そのあと彼にどのような迷惑をかけてしまうのか分かったものじゃない。
「ギャハハハ! くたばれぇー!!」
男が刃物を構え突進してくる。
「馬鹿ね、くたばるのは貴方」
「伴侶なめんじゃないわよ!」
対する楓と雅が迎え撃つ為に男の前へ飛び出す。
しかし――
――バチィィン!
「キャッ! な……にッ……」
「ぐっ、身体がッ……」
突然二人から電流が走るような音が鳴り、男に迫る直前で身体が硬直する。
「ちょっ、どうしたのよアンタ達!?」
唯が声をかけている間に、何も視えていない男が二人の身体を突き抜けて迫ってきた。
「死ねぇぇ!!」
「やばっ、避けて!!」
「くっそッ……」
唯の声が届いた訳ではないが、タイミングを見計らい彼が身を翻す。
男の突進が単調な動きだったおかげで、なんとか躱すことが出来た。
「おいおい避けんじゃねえよぉ~ッ」
思い通りにいかなかった男の声に苛立ちと陰りが含まれる。
そして辛うじて避けた彼は、男が仕掛けた今の一撃で完全に理解してしまうのだった。
(ふざけんな! コイツ本気じゃねえか! 刺す事に何の迷いもなかった!)
バクバクと鼓動のうるさい胸を押さえながら相手を睨む。
(コイツから一瞬も目を逸らせないッ。どうする、叫んで助け呼ぶか!?)
いや叫ぶべきだ。
そう思った直後――
「次は逃げんなよぉぉおおおおおお!?」
刃物を構え、男が再び突進してきた。
(やばッ!)
最悪の予感に一気に血の気が引く。
理解してしまったせいで、死ぬかもしれないという恐怖心が身体を鈍らせた。
「ハッハッいい子だなぁッと……うおっ!?」
「くぁ!」
飛び退いたタイミングで腕に鋭い痛みが走る。
「……あっ、痛ッつ! くそっ!」
ちらりと左腕を見ると、衣服が切れ血が滲み出ていた。
幸いと言うべきなのか、思ったほど深く致命的ではない。
(だとしてもッ、かすっただけでこの痛みかよッ!)
腕は問題なく動くが、それでも何度も受けたい痛みとは到底思えない。
そしてこの結果は、たまたま男がバランスを崩したおかげだった。
「なんなんだよ……何なんだよその化けもんはよぉおお!!!」
圧倒的優位な状況で悦に浸っていた男が、恐怖に慄いた顔でこちらに叫ぶ。
「ハァハァ……なに……言ってんだ?」
よく見ると、男は自分ではない何かを見ているようだった。
(……見ている? ちょっと待て)
襲われている状況の中、別の意味で血の気が引いていく。
この男、確か昼間の時も何かを見て怯えていた。
「オマエもしかして……」
二度目の突進が来た時、唯は咄嗟に彼の前にその身を投げ出していた。
すると幸運にも唯の気配を感じとった男が慌てたようにバランスを崩し、彼への直撃を免れたのだ。
「大丈夫!? ……ぁ……」
振り返り声をかけると、彼の腕から痛々しく流れる血が目に入った。
その光景を見た瞬間、唯の理性を繋ぎ止めていたものが容易くへし折れる。
「オマエ……ナニシテルノ?」
目の見開いた空虚な瞳がゆっくりと男を見据えると、不自然に首を傾げながらユラユラと男に近づいていく。
しかし――
――バチィィン!
「あぅ! なッ……にッ!?」
楓や雅と同じように、突然唯の身体から電流が流れるような音が鳴り動けなくなった。
「ぁあ? 消えたぁ?」
目の前から忽然と姿を消した化け物に眉を顰める男。
すると次第にその表情がニヤけ『クックック』と笑みが零れ始めた。
「ッハッハッハ! いいぜッ、よく分かんねえけどもし次に出てきたらまとめてぶっ殺してやらぁ!!」
全てを擲った男が刃物を振り上げ迫ってくる。
「くっ!!」
彼も覚悟を決めたように身構える。
「お願い! やめてぇぇえええ!!!!」
何も出来ない唯は、ただ祈るように目を閉じた。
――――
――
『こらこら』
――
――――
「……へっ?」
いきなり唯の頭の中に《誰か》が語りかけてきた。
同時に、身体の硬直が嘘のように解かれている。
「ッ、そうだアイツ!!」
そう言って目の前の男を見ると、彼はピタリとその場で止まり、顔面蒼白で振り上げた右手に視線を向けていた。
唯には、そこで何が起きているのか全て見えていた。
本当の恐怖と殺意を向けられた時、人は声を出せなくなるのだと男は今日初めてその身で味わった。
昼間に見たドス黒い化け物達と先程少しだけ見えた同じくドス黒い化け物。それらと視線があった時、何故か分からないが恐怖が全身を駆け巡った。
身体の全てが『今すぐ逃げろ』と警報を鳴らしまくっていた。
こんな恐ろしい感覚は生まれて初めての体験だった。これが《恐怖》なのだと。
――だが違った。
本当の恐怖というものは、身体の全てが《生きる事を放棄する》のだと、男は今知った。
少しでも生きている素振りを見せたら殺されると、全身が氷のように冷たくなっていく感覚。
自分の右手首に絡みつく温もりなど欠片もない誰かの青白い手と、右手首の横から覗く無表情な少女の横顔。
知らない顔だった。
だが、そんなことはどうでも良い。
本来視界に映るであろうその少女の身体がなかった。
「……ネェ……」
その横顔が口を動かさず言葉を発した。覇気のない女性の声だった。
そして数秒遅れでスッと目だけこちらを向いた。
「ッ!!」
それだけ。
ただ目が合っただけ。
それだけで、今、自分が殺されたと思った。
いや、実際に心臓が止まっていたかもしれない。
力の入らない男の手から刃物が滑り落ちる。
落ちた刃物が少女の横顔をすり抜けてカランカランと地面に転がった。
その音は男にとって、人生で一番うるさくて耳障りな音だった。
(やめてくれッ……)
男は今、ほんの少しでも刺激を与える事がどれだけ愚かなことなのかを直感で理解している。
だから、今はとにかく静かに、自分の存在を消したかった。
「んぐっ!」
突然後ろから首を絞められる。
と同時に自分の顔の右半分にも手を添えられる。
すると左の視界からズズズと黒い髪が現れ始めた。
(ダメだ……)
これは見てはいけないものだと悟り、瞬時に視線を逸らす。
しかし顔に添えられた手が途轍もない力でゆっくりとそちらに振り向かせようとする。
徐々に視界に入ってしまうそれは、こちらをじっと見つめる生気のない顔と、時折映像が乱れたようなノイズに紛れてニタニタと嗤う女の顔だった。
――それが男の限界だった。
「ぎぃぃやぁあああああああ!!!!」
理性が吹き飛び発狂した男が全力で首を振って反対方向を向く。
するとさっきまで右手首の横から見えていた少女であろう骸の顔が、男の瞳を覗き込むように目の前にあった。
「――ネェ、――死ニ――タ――――イ――ノ――?」
まるで録音テープが壊れたような、途切れ途切れで不規則な音の声を聞くと……
「ァ……」
男の意識は、そこで途絶えた――――