39.これから……
「……行っちゃったね」
絆の姿が見えなくなってから、隣に座っていた唯が名残惜しそうに呟いた。
「さっきの柊木名乃には腹を立てたけれど、ご主人様の気持ちを知ってしまった以上、周囲に対する見方を少し改めないといけないわね」
「家族……かぁ」
唯とは反対側に腰掛けていた楓と、絆の後ろから首に手を回すように抱きついていた雅も思い思いに口を開く。
「ハァ〜、いいな~あんな風に気にかけてもらえて」
三人だけになって一気に気持ちが緩んだのか、唯が脱力したようにソファの肘掛けに――感触はない――しなだれる。
「何言ってるのよ唯、さっきまでアナタも気にかけてもらえていたじゃない」
依然として淑やかに座っている楓がすかさず唯に指摘する。その表情は心なしかムッとしていた。
「そうよ、あのバカ女に乗り移るなんて、とんでもない抜け駆けだわ。重大な協定違反よ」
ソファの背もたれに両肘をついた雅も、掌に顔を乗せながら憮然とした眼差しを唯に向けていた。
「いや、あれに関してはアタシが一番ビックリしてるからね? まさかあんな事が起こるなんて……」
そう言って名乃に乗り移った時のことを思い返す唯。
ただ一心不乱に意識のない名乃に呼びかけ続けていただけで、そのまま自分が乗り移るなんて思いもしなかった。そもそも自分が乗り移れることすら知らなかった。
「でもそのおかげでご主人様と話し合うことが出来たのも事実。これは本当に驚くべき進展よ」
「ねえッ、これってさ、ダーリンに伝えたい事があったらまたユイが乗り移ればいいって事よねッ?」
目をキラキラ輝かせた雅が、期待に胸を膨らませながら楓に賛同を得ようとする。
「柊木名乃がその依代となる身体を差し出してくれるなら、十分に可能な事だとは思うけれど……その辺りはどうなの唯?」
そうして、楓と雅が同時に唯の方を向いた。
「えっ? あっ、いや、どうって言われても……分かんない」
「分からない?」
なんとも困ったような笑みを浮かべる唯に、楓が首を傾げる。
てっきりイエスかノーで返されると思っていたのだが、まさかの唯の回答に理解が追いつかなかった。
「それって、あの生意気な小娘が協力的にならないかもって話し?」
イマイチはっきりしない返答に、雅も眉を顰めながら尋ねる。
「ぁーそれもあるかもしれないけど、そもそもアタシがどうやったか分かってないもん、アッハハ〜♪」
まるで唯の後ろにヒマワリが咲き誇りそうな、そんな開き直った顔で笑う姿を見て雅と楓の動きが止まる。そしてプチっと何かが切れる音が聞こえたと思ったら雅が唯に掴みかかった。
「アッハハ〜じゃないのよアンタ! せっかくダーリンとお話し出来る手段を得られたっていうのに、なに呑気に笑ってんのよ!!」
「ちょっ、いきなりなにすんのよ!? てゆーか、アンタ協定違反とか言っといてバリバリ頼ろうとしてるじゃないのッ!」
「アンタと違って全然ダーリンとお話し出来なかったのよッ!!」
「それはアンタ達がずっとバカみたいに悶えてたからでしょ!? アタシちゃんと声かけたんだからね!!」
「悶えるに決まってるじゃないのッ!! ダーリンからの愛の言葉よ!? 冷静でいられる方がおかしいわッ」
「名前呼ばれただけで倒れるヤツが会話なんか出来るかぁッ!!」
などと取っ組み合いのケンカが勃発する二人だが、そこで不審に思った楓が唯に声をかける。
「ねえ唯、アナタもしかして…………ご主人様とお話し出来たからって一人で満足してない?」
「ィいッ!?Σ」
突然の鋭い指摘に唯の身体がピンッと硬直する。なんならポニーテールまでもがビビッと跳ね上がり、まるで図星を明言しているような反応だった。
――そんな面白い反応を見せてしまったカワイイ仔猫を、楓が逃す筈がなかった。
「ウフフ……唯ったら、ダメじゃないそんな簡単に顔に出してしまっては。イジめたくなってしまうわぁ♪」
まるで弱った獲物をじっくりと味わい尽くそうとする捕食者のような笑みを浮かべた楓が、舌なめずりしながら唯の下顎に指を這わす。
「や、やめてよカエデッ……!」
ずいずいと迫る楓に言いしれぬ恐怖を感じた唯が、ネチっこい生き物のように這い回る楓の指を堪らず振り払おうとするが、それも楓のもう片方の手によって呆気なく絡めとられる。
「一人だけご主人様と濃厚な時間を過ごすだなんて、悪いコね。柄にもなく嫉妬してしまいそうよ」
「いや、アンタって結構嫉妬しまくりぶぉっふぁ!!!!」
隣で見ていた雅が軽はずみなツッコミを入れた瞬間、一瞬で楓の裏拳に沈んだ。見もしないで雅の顔面にヒットさせた楓は表情一つ変えずに再び唯へ語りかける。
「ねえ唯、ご主人様の温もりは感じられた? 抱きついていた時の感触はどうだったの? やっぱり逞しかったのかしら? お話ししてみてどんな気持ちだった? 私には何一つ分からないの。だから教えて? そこに『幸せ』を感じた?」
捲し立てたい気持ちをこれでも必死に抑え込んだ楓が、威圧的にならないよう穏便且つ丁寧に問いかける。
「そ、それは……」
そう言い淀んだ唯が名乃に乗り移っていた時の事を思い出す。
叶わないと思っていた大好きな人とお話し出来たこと。
届かないと思っていた大好きな人の身体に触れられたこと。
はっきりと自分に向けられたあの笑顔――
「〜〜〜ッ……!!」
自分の顔がみるみる火照り始めるのを感じた唯が、ニヤけそうな口元を片方の手で隠すと、目を逸らしながらぽそっと呟いた。
「………………ヤバかったよ……」
――ドシュゥウウウ〜〜ッ
刹那、鼻から謎のキラキラ液を天高く噴射した楓が後ろに仰け反る。その身体は壊れた人形のようにガクガクと痙攣し、時折『お許しをッ、お許しをッ』などと訳の分からないことを連呼していた。
「痛ったたた、ちょっとカエデ!! アンタいきなりッ…………どしたのコレ?」
おでこを押さえながら起き上がった雅が、明らかに異常をきたしている楓を横目に唯に尋ねる。
「いや……アタシにも分かんない」
突然の楓の奇行にポカンとしている唯は、訳が分からないといった様子で目をパチパチしながら答えた。
「アンタってホント分からないことだらけね?」
「だってホントにいきなりこんなんなっちゃったんだもん! アタシが訊きたいくらいよ!」
すると、楓が雅の腕をガシッと力強く掴んだ。
「ビャアッ!? なっ、何よいきなりッ……!」
驚いた雅が身体を強張らせながら楓を見る。
楓は手の甲で鼻を拭いながら、鋭い視線を雅に向けていた。
「雅、私達……心していた方がいいわよ。普段反応の薄い唯があんな破廉恥な表情になるんだもの、今の私達なら――」
「――ちょっとッ、破廉恥って何よッ!?」
「いったい何の話し?」
いきなりの爆弾発言に顔を真っ赤にしながら抗議する唯と、楓の言いたいことがチンプンカンプンといった表情の雅を見て、楓が目を閉じて一つ溜め息を吐く。
「いい二人とも? 破廉恥というのは――」
「――んな事を訊いてんじゃないのよッ!!」
途端に怒涛の勢いで起き上がった唯が、楓のおでこに人差し指を押し当てて黙らす。
「冗談よ。まったく、あんないじらしい表情をするだなんてさすがに驚いたわよ唯。おかげで少しばかり自我がトびそうになったわ」
「がっつりトんでたじゃないッ!! 大体アンタの冗談なんて聞いたことないのよッ!」
「はいはいストップ。…………で? 結局なにを言おうとしたのよ?」
うんざりした顔で二人の間に入った雅が、お互いを引き剥がしながら尋ねる。楓はそんな雅の顔を見てほんの僅かの間押し黙った後、肩の力を抜くように答えた。
「いえ、何でもないわ。私達も早くご主人様と話せるようになればいいわね」
「そんなの当たり前じゃないのッ。だからとりあえず今は、もっかいあの生意気女に乗り移りなさいよね、ユイッ!」
「だぁかぁらぁ出来るかどうか分かんないって言ってるでしょッ、このヘンタイ自己中!!」
「ヘンタイはアンタでしょうがッ、この破廉恥女!!」
「その呼び方をするんじゃねぇええッ!!!!」
そうして再び取っ組み合いを始める二人だが、そんな様子を見ながら楓は心に思うものがあった。
――もしも私や雅が、唯のように誰かに乗り移ることが出来たなら、ご主人様を前にして果たして自制心を保つことが出来るだろうか?
ご主人様の気持ちを知った今、周囲に対する遠慮や気遣いを果たして維持し続けることが出来るだろうか?
きちんと持ち主に身体を返すだろうか……?
「ねえ、雅」
「なによッ!?」
唯とケンカした勢いのまま猛獣のように振り向く雅だが、楓は特に気にする様子もなく続きを話す。
「柊木名乃と会話していた時なんだけれど、あの時……どうして柊木名乃を助長するような言葉をかけたの?」
「んー? ワタシ何か言ったっけ?」
「ええ、『当たり前の日常が、この先も当たり前に続いていくとは限らない……』と」
「ぁ〜、あれね〜」
さして興味のない口調で思い返す雅。
「別に……ただムカついただけだし、意味なんてないわよ」
「……そう」
そんな筈はない。もしそれだけの理由なら、わざわざあそこまで相手の心に呼びかけるような言い方はしない。
ましてやそれが嫌いな相手なら尚更である。
――誰にでも当たりの強そうに見える雅だけれど、もしかすると根底の部分ではしっかりと周囲への配慮を持ち合わせているのかもしれないわね。
だとすれば、雅のことを少し見直さなければいけない。と同時に、自分も早く順応しなくてはいけないと、そう心に留める楓だった。
――――
――
そんな彼女達を暖かな目で見つめている者が一人――
「ふーむぅ、これは中々、どうにも目が離せぬ展開になってきましたな〜」
至極色の振袖姿に細かな花の装飾が施された金の簪を髪に挿した幼女が、リビングの入り口からひょこりと顔だけ覗かせていた。ヒメコである。
「まさか直接あやつと話すまでに至るとは、いやはや、恋というものはわたくしの予想を軽々と超えてゆくのだから、ほんに不思議なものであるなぁ〜。……ん? 見ていたのなら、何故あやつらに手を貸さなかったかって? ふふふ、何を仰いますか」
言いながら目を閉じたヒメコが、全く似つかわしくない大胆不敵な笑みを浮かべた。
「見てくださいな、あの子達の楽しそうな顔を。わたくしが手を出さずとも、しっかりと自分達の力で乗り越えているではありませんか。あんのくらいで参るようなら、初めから不出来な弟めを任せてはおらんわい、うむんむん」
と、腕を組みながら何やら満足そうに一人で頷いているヒメコ。
そして、ふと二階へ続く階段の先に目をやった。
「それにしても、まさかあやつはこのまま夕ご飯を食べないつもりなのか? まったく、母様からくれぐれも宜しくと言われておるのに、これで病にでもかかろうものならなんと説明したら良いものか。育ち盛りの内はしっかり食べぃ馬鹿者めが」
呆れ気味に吐き捨てたヒメコがゆっくりと首を横に振ると、いつの間にか取り出した残り少ない粉々になったおえんべぇ達が入った袋を片手に、リビングの向かいにある小さな和室へトテトテと帰っていった――
リビングでは、恋する守護霊たちが尚も飽きずにはしゃぎ回っていた――