夏夏バカンス①
季節は夏真っ盛りだ。一歩外へ足を踏み出せば、うだるような暑さに焼かれる。そして、けたたましく鳴く蝉の声が一層暑さを引き立たせるのだ。
だが、夏は海に祭りに花火とイベントがたくさんある恋の季節でもあるのだ。ドキワクな夏が俺を待っている! ……はずなのに……。
俺と百瀬と轟はフロントのカウンターに寄りかかりながら、この夏を恨んでいた。
夏は人を解放的にさせる。だからか、ひと夏のアバンチュールを楽しむ多くのカップルがたくさん訪れて、ホテルレッドハイルは連日満室御礼なのである。つまり、休みもなく毎日仕事に追われて身も心もボロボロなのだ。
「幸せって何なんでしょうね……」
「きっと、あの頃の私はまだ幸せだったのよ。それに気付けたことに感謝だわ……」
「巨乳のビキニ姿が見たい……」
俺と百瀬の精神状態は限界に近く、人生について考える。そして轟は自分の欲求を恥ずかしがりもせず口にするのであった。
とにかく、休みが欲しいのだ。しかし、稼ぎ時である今、なかなか休みをもらえないのが現状である。
「おっぱじめる寸前に母ちゃんから電話がかかってこねぇかな」
「それ、ムード台無しじゃないですか」
「いざって時に不能にならないかしら」
「それトラウマになりますから」
二人とも疲れからか、心がすさんでしまっている。もはや客を客と思ってないありさまだ。
「ちょっと本多さん、助けて下さいよ」
事務所に籠っている本多に声を掛けるが返事がない。聞こえてなかったのだろうか?
「本多さん?」
気になって近付いてみる。本多は猫背気味に座っていた。デスクをまわり込んで本多の顔を覗き込むと……。
「うわ」
思わず声が出てしまった。本多の顔はどどめ色をしており、綺麗に整えている髭は伸び放題で頬がげっそりとこけていたのだ。
「本多さん! しっかりして下さいっ」
本多の肩に手をやると軽く揺らしてみる。
死んでいる⁉ もしかして本多さんは座ったまま逝ってしまったのか⁉
「大丈夫、大丈夫だよ大和くん」
本多は涎を垂らしながら答える。いや、全然大丈夫そうじゃないんだけど。
俺と本多のやり取りがフロントまで聞こえていたのか、轟と百瀬が駆け寄ってきた。
「そういや本多さん三日連続で夜勤だったな」
「ずっと家に帰ってないわよね? 今日はもう帰ったらどうですか?」
「いや。ただでさえ皆休んでないのに僕だけ休むなんてことはできないよ」
あぁ、本多さん。部下の俺達のことをこんなに想ってくれているんだ。俺は胸が熱くなった。
「……だから休館日をつくろう」
「えっ!」
俺と轟、百瀬の目が輝いた。いつもなら勝手に休館日にする本多にツッコんだりする俺だが、状況が状況なだけに〝休館日〟という言葉が甘く聞こえる。賛成だ。休館日に大賛成だ。仕事から解放されることが俺の幸せで、仕事の休みが俺の喜びなのだ。と、そこへ一本の電話が入った。
「お電話ありがとうございます。ホテルレッドハイルです」
本多が電話に出る。
「あ、お久しぶりです。え? 一応明日を休館日にしてますが……」
本多はポケットからハンカチを取り出すと額を拭った。
「いえいえ。そういうことなら是非とも伺います。はい、皆も喜ぶと思うんで」
嫌な汗が流れた。それは、さっきまで手放しで喜び、テンションが上がっていた轟や百瀬も同じだったようだ。皆の視線が本多に集中した。
「それでは伝えておきますので……失礼します」
本多は電話を切ると、俺達を見る。
「本多さん、今の電話は一体」
「あぁー、えーと」
バツの悪い顔をする本多。この時点で……いや、本多が電話に出た時から悪い話ということはわかっていた。俺達が一番気になっていることは、明日仕事が休みになるか否か、だ。
「とりあえず明日は皆休みだから安心して」
その言葉にほっと胸をなでおろす俺達。しかし、
「だけど休みであって休みではないんだ」
「えっ⁉ どういうこと⁉」
曖昧な表現をする本多に百瀬が詰め寄る。
「今の電話はきららさんからで、新しく購入した別荘にレッドハイルの皆を招待したいということだった」
「はあぁぁぁ⁉」
叫ぶ俺達。
「なぜ見計らったかのようなタイミングで電話が掛かってくるんですか!」
「盗聴ね⁉ きっとどこかに盗聴器が仕掛けられているのよ!」
「せっかくの休みなのにどうして子守をしねーといけないんだよっ」
天国から地獄へ突き落され、しかも相手はオーナーのご令嬢である。断りたくても断ることが出来ず、俺達は怒りのやり場もなく嘆くことしかできなかった。
「まぁ落ち着いて。オーナーは仕事が多忙らしいから顔を合わすことないからさ。ちなみに、別荘は海辺の近くにあるそうだよ」
「海辺……てことは巨乳のビキニの姉ちゃんがいるじゃねぇか」
轟がピクリと反応する。
「あと、きららさんの別荘には大浴場の温泉もあるらしいよ」
「温泉! いいわねぇー」
百瀬の目が輝いた。
二人をその気にさせるとは、さすが本多である。
「本多さん、あの二人を上手く丸め込みましたね」
「そう言う大和くんは嫌々ながらも最初から受け入れていたでしょ」
「まぁ、きららさんからのご招待じゃ断れないですし。それに休み返上で別荘に行くのは本多さんも一緒じゃないですか」
「あ。僕は行かないよ」
「はぁ⁉ どうして……」
すると、勢いよく本多に肩を掴まれた。
「僕にとって一日一日がヤマバなんだよ。もしも原稿を落としたら僕と家族が路頭に迷うんだ」
どうやら本多が執筆しているTL小説の〆切がヤバいらしい。三日連続でフル勤務をして目がバッキバキな本多に言われたら何も言えないではないか。
「あ。僕、お土産は食べ物がいいなぁ」
落ち着け大和。本多は上司だぞ。握りしめた拳を俺はそっと左手で押さえつけた。
というわけで、本多を除いた皆できららの別荘へ行くことになった。しかもきららの要望で二泊三日お邪魔することになった。
「本多さんは家族サービスで来れないなんてねぇ」
「残念なのか残念じゃないのかわかんねぇな」
TL小説家だと俺以外に秘密にしている本多は、轟達には家族サービスで行けないと伝えていたようだった。
「きららさんに会わないだけ気苦労しないのはいいですけどね」
轟が車の免許を持っていたこともあって、別荘まではレンタカーで移動することにした。俺は助手席に座り、百瀬は後部座席に座る。
赤信号で車を停めると、夏休みを楽しむ大学生らしき集団が横断歩道を渡っていた。
「もし大和くんが大学に進学してたらあんな風に楽しんでいたのかもね」
「はは、そうかもしれないですね。まぁ俺は大学に行く気はさらさらなかったですけど」
もともと勉強嫌いだった俺は高校卒業後は就職を考えていた。しかし、就職試験を受けてもなかなか採用を貰えず高校卒業まで残り一週間というときにレッドハイルの副支配人である本多に出会ったのだ。本多は丁度ホテルの従業員を探していたということもあって、俺にホテルで働かないかと誘ってくれた。もちろん就職先に困っていた俺は二つ返事でその誘いに乗ったが、そのホテルはまさかのラブホテルだったのだ。断ろうとしたが本多に言いくるめられ、騙された形で俺は働くことになったのだ。
「そういえば、どうして皆さんはレッドハイルで働いているんですか?」
ふとした疑問を口にした。
「私は官能小説のネタになるかなぁって思って働き始めたわ」
百瀬は官能小説家志望で、レッドハイルで働きながら小説を執筆している。モデルのような長身で綺麗な顔をしているというのに、小説のネタになるようなシチュエーションを目の前にするとスイッチが入り妄想を口にしてしまう残念美人である。
「俺は……まぁ成り行きだな」
運転している轟はそれだけを言うと黙ってしまった。しん、と静まる車内。
轟はがっちりとした体型に強面な顔をしていて、初めて見たときはヤクザと間違ったほどだ。だけども、一緒に働いてみると兄貴肌で面倒見がいい。顔が怖くて損しているタイプである。気になることと言えば、本来ホテルマンは染髪もピアスもしてはいけないというのに、轟は髪を赤く染め勤務中もピアスをしている。本多が轟に注意している所も見たことなく、何やらワケでもあるのか、ちょっと謎なところがある。
もしかして、今の質問は訊いたらいけない事だったのだろうか。場の空気を変えようと、とりあえず何か言葉を発しようとしたその時、
「あっ見て! 海よ、海!」
百瀬の弾んだ声によって車内のどんよりとした空気が晴れた。
窓の外には青い海が広がっていた。太陽の光が海面をきらきらと輝かせている。シーズンということもあって海を楽しむ人が浜辺を埋め尽くしていた。
「これだけ人がいるなら轟さんが楽しみにしている巨乳のビキニ美女がいるかもですね」
「そうだな」
轟はふっと笑うと口元を緩める。どうやら機嫌を悪くしていないようだ。俺は安堵すると、その様子を横目で見ていた轟が俺の髪を乱暴に撫でる。まるで俺は気にしてないからな、と言うかのようだった。
「もうすぐ別荘に着くぞ」
轟はそう言うと車を加速させた。
それからすぐに別荘へ着いた。高い塀が横に長く広がっていて、監視カメラの付いた門の先に別荘があった。大きく白い壁の別荘はまるでリゾートホテルを彷彿とさせた。
チャイムを押すと門が開き、レンタカーで敷地内に入る。エントランス前にレンタカーを停めると中から女性が出てきた。
「レッドハイルの皆さんですね」
女性は胸元が開いたニットワンピースを着ていて、右目の下にある泣きボクロが色っぽかった。
「今日は急に別荘へお招きしてごめんなさいね。どうしてもレッドハイルの皆を呼ぶんだってあの子がいうものだから」
「あの、失礼ですがあなたは?」
「ママ!」
玄関から勢いよくきららが飛び出してくると女性に抱きつく。
「え⁉ ママって……え⁉」
俺が戸惑っていると女性はあらあらと左手で自分の頬を触る。
「ご挨拶がまだでしたわね。わたくし、きららの母ですわ」
頬を触っている左手の薬指にはめた、結婚指輪がキラリと光り主張した。
若っ! とても子供がいるとは思えない。それにふんわりと巻いた髪から良い匂いがする。
「お兄ちゃんっ、来てくれてありがとうっ」
きららが俺の腕に飛びついた。
「あらあら。きららったらお兄ちゃんのことが大好きなのね」
「うん! 大好きっ」
勘違いしてはならない。この無垢で屈託なく笑う、無邪気で無害そうな女の子は実は大人を翻弄させることが大好きな子供の皮を被った悪魔なのである。
「本日はお招きありがとうございます。これ、よろしかったらどうぞ」
百瀬がきららの母親に包装された手土産を渡す。手土産を持参するとは、さすが大人の百瀬である。
「それにしても素敵な別荘ですね。まるでリゾートホテルみたい」
「破格の値段で売られていたみたいで主人が三ヶ月前に購入したんですの。仕事が忙しくて夏休みにきららをどこにも連れて行ってあげられないだろうから、せめて別荘で過ごしてもらおうって」
夏休みに家族サービスができないから別荘を購入とは、金持ちはスケールが大きい。
「お兄ちゃん、きららの夏休みの宿題をみて!」
俺はきららに引っ張られて部屋の中へ入る。
「まぁまぁ。きららったらそんなに慌てて。立ち話も何ですからわたくし達も中に入りましょう。美味しいワインがあるんですの」
「おっ。良いですね」
「ごちそうになります」
こうして各々別荘で過ごすことになった。
二階にあるきららの部屋は女子小学生らしい部屋だった。きららの大好きなピンクを基調とした部屋に沢山のぬいぐるみがあった。
「きららさん、宿題ってどれですか?」
「夏休みの工作を見てほしいの」
そう言うと、きららはクローゼットの中を漁る。
小学生の子供の作った工作である。どうせペットボトルで作った貯金箱か紙粘土で作った小物入れだろう。
「これなんだけど、おかしくないかな?」
俺に工作を見せるきらら。どれどれと首を伸ばすと俺は硬直した。きららが持っているのはヘビのオモチャだった。スイッチを入れると振動し、頭が上下に動く仕組みだ。これ、どこからどう見ても大人のオモチャに見えるんだけど……。
きららの顔を見る。ニコニコと笑っていて、純粋な気持ちでこのオモチャを作ったかのように見えた。しかし、子供の皮を被った悪魔であるきららが、わざと俺に見せつけ反応を楽しんでいる可能性も捨てられなく、きららの真意がわからなかった。
「動いたら本物そっくりでクラスの皆がびっくりするかもだから動かなくしてもいいんじゃないですかね?」
とりあえず当たり障りがないように答えるのが精一杯だった。
「えー、動くのが面白いのにぃ。これね、前にレッドハイルのフロントで似たような物が置いてあったのをマネて作ったの」
不満そうに口をとがらせる。どうやらホテルのフロントにあったものが大人のオモチャだということはわかってないようだった。
「十分ヘビにそっくりだし動かなくても大丈夫ですよ」
「わかった。じゃあ動かないように作り直す」
ほっとする俺。俺は一人の女の子を救ったような気がする。
「他の宿題はないんですか?」
「えっと、算数ドリルは終わったし、漢字も書きとりも終わったし……」
きららは指を折りながら確認していく。
「あ! 自分の名前の由来を調べないといけないんだった」
「それならお母様に訊けばすぐわかりますね」
俺達は皆がいるリビングへ足を運ぶ。リビングのドアの取っ手に手を掛けようとした、その時、声が聞こえた――。
「あっ、ん……」
「ふんっ……ここですか?」
「静寂とした部屋に二つの吐息が混じる。仕事が忙しい夫とは久しく夫婦の営みがなかった。欲求不満な女は夫ではない男の手につい身を委ねてしまうのであった。」
「そこっ、だめ……」
「ここ、硬くなっているのに?」
「男は手を止めない。女の敏感で感じる場所をこねくり回すように触るのだ。」
「……何、してるんですか?」
まさかと思ってドアを開けると、目の前には酔っぱらっている轟が酔っぱらっているきららの母親の肩をマッサージしていた。そして、これまた酔っぱらっている百瀬は官能スイッチが入っており、ワイン片手に瞬きもせず妄想を膨らませていたのであった。
「轟さんったらマッサージお上手なんですね。すっかり肩が軽くなったわぁ。あら? 二人はそこで何してるのかしら」
きららの母親は不思議そうに首を傾げると、きららの両耳を押さえて立っている俺に声を掛けた。
「いえ。あまりにも色っぽかったもので」
「え? どういうことかしら?」
だめだ。このおっとりセクシー奥様は全然意味がわかってないようだ。
「ママ、きららの名前の由来を教えてほしいの」
「名前の由来ねぇ。きららの名前はパパがつけたからママは分からないのよねぇ」
「由来と言えばレッドハイルの名前の由来は何ですか?」
「そういえば聞いたことねぇな」
「私もないわ。本多さんなら知っているかしら?」
「主人は仕事が忙しいみたいで今日はこっちに帰って来れないのよねぇ。今日の夜にリモートで訊いてみましょうか。きらら、パパの顔見たいでしょう?」
「うん!」
「えっ」
喜ぶきららと対照的に、顔が引きつる俺達。ただでさえ休みを返上して別荘に来ているというのに、これ以上気を張ったり、気苦労したくないのが正直な気持ちである。ましてやオーナーが出てくるとは思ってもいなかった俺達は、すぐに顔を寄せ合うときらら達に聞こえないよう、ひそひそと会話する。
「ちょっとどうするの⁉ オーナーとご対面だなんて聞いてないわよ」
「会いたくねぇよな。その時間にでも温泉に入るとするか」
「それいいですね! そうしましょう」
轟の提案に俺は頷いた。
「何言ってんだ? 大和はきららさんと一緒に居ろよ」
「え⁉ どうして」
「せっかくオーナーの別荘に招待されているのに、皆が温泉に入っていなかったら感じ悪いじゃねぇか。大和はオーナーに挨拶しとけ」
「どうして俺が⁉ ここは平等にジャンケンするのが筋でしょ」
「大和くんはレッドハイルの由来を知りたがってたじゃない! 丁度いいわね」
グッと親指を立てる百瀬。
「はい、決まりだな!」
「え、えー……」
俺は大の大人二人によって生贄にされてしまった。
「あら? どなたかワインボトルを動かした?」
きららの母親はダイニングテーブルにある飲みかけのワインボトルを指さす。
「いいえ。動かしてないですけど……」
首を傾げる轟と百瀬。
「さっきまでソファー前のローテーブルに置いてたのに、変ねぇ」
ローテーブルの上にはワイングラスと食べかけのツマミがあって、そこがワインボトルのあるべき場所であることを明確に示していた。反対に、ダイニングテーブルにワインボトルが一本だけ置いてある姿はどこか不自然で違和感がある。
結局、酔っぱらってたから覚えてないだけで、きっと誰かがダイニングテーブルへ動かしたのかもしれない、ということで話は落ち着いた。
きららの母親が振る舞ってくれた夕食はどれも美味しかった。夕食を食べ終わり、しばらく談笑していると、轟と百瀬は顔を見合わせる。
「あの、こちらの別荘には温泉があるって聞いたんですけど」
「そうそう。天然温泉で疲労回復の効能があるんですの。毎日仕事でお疲れの皆さんには是非入ってもらいたくて。大浴場は男女用に別れているから今からでも入ってきたらどうかしら?」
「ではお言葉に甘えて頂きます」
二人は席を立つとそそくさと大浴場へ移動した。取り残される生贄の俺。
きららときららの母親と三人きりになり、どことなく緊張する。とりあえず俺はきららの母親に話し掛ける。
「奥様が作った夕食どれも美味しかったです。特にビーフシチューは毎日食べたいくらいでした」
俺が褒めるときららの母親は頬を紅く染める。
「やだぁ、大和さんったら人妻を口説いちゃって」
「い、いえそんなつもりじゃなくて」
俺はしどろもどろになると、くすくすと笑われた。
「冗談よ。きららが言ってたように大和さんは面白い人ね」
きららの母親は俺に密着すると、指先でつんつんと俺の頬を突く。昼間に飲んだワインがまだ抜けていないのだろうか。
「ちょ、よしてくださいよ」
きららの母親が密着するものだから、俺の腕に胸が当たるわ谷間が見えるわで、どぎまぎする。
「この様子、パパに見せるから」
「ひえっ、やめて下さい! きららさん」
パソコンをこっちに向けてオンラインに繋ぐきららを俺は必死に止める。きららはなぜか不機嫌なようだった。
「お兄ちゃんったら、ママにデレデレしちゃって。年下より年上が好きなの?」
口を尖らせて訊いてくるきらら。
「きゅ、急にどうしたんですかきららさん!」
質問の意図が分からないでいると、
「あらあら。大和さんとは将来家族になるかもしれないわね」
きららの母親はきららが何を言いたいのかわかっているようで、可笑しそうにくすくすと笑った。
「え⁉ どういうこと⁉」
「大和さんったら鈍感さんね」
『コホン』
いきなり咳払いが聞こえた。
『私は一体何を見せられているんだね?』
「パパ!」
きららの顔がパッと明るくなる。
パソコン画面にスーツ姿の男性が映っていた。整髪料で髪をまとめていて、今さっきまで仕事をしていたように見えた。この男性がきららの父親でホテルレッドハイルのオーナーなのか。オーナーは気難しそうな顔を俺に見せていた。が、
『きらら~、今日も可愛いなぁ。将来はママに似て美人さんだな』
仏頂面だった顔が一気にデレデレと締まりのない顔になる。
『それで、誰が将来家族になるんだって?』
オーナーがギロリと俺を睨みつけ、再び怖い顔を見せた。
嘘だろ、今までのやり取りを全部聞かれていたというのか!
「は、はじめまして。ホテルレッドハイルで働かせて頂いてます、大港大和です」
俺はびくびくしながらも挨拶をする。
『君が本多くんが言っていた新人か……』
「はい!」
オーナーがじぃっと俺の顔を睨む。ものすごい威圧感に、まるで圧迫面接を受けているようだ。
『くっ、きららは私のような端正な顔じゃなくて大港くんのような平凡顔が好みなのか』
「オーナーは何を悔しがっているんですか!」
思わずツッコんでしまった。てか今、しれっと失礼なことを言われたよな?
レッドハイルの従業員もなかなか癖があるが、オーナーもオーナーで同じ匂いがする。
「ねぇパパ。きららの名前の由来を聞かせて?」
『きららの名前は星からきているんだ。きららはきらきらとした星の綺麗な夜に生まれたからね』
「きららは星って意味なんだ!」
きららは自分の名前の由来が分かり嬉しそうに目を輝かせる。
「ありがとうパパ。これで宿題ができる!」
きららは立ち上がると部屋を出て行く。え、ちょっと待って。きららがいなくなったら俺、オーナーと二人きりになるんだけど。きららの母親に助けを求めようとしたが、洗い物をしていて俺のピンチに気付いてないようだった。
『…………』
「…………」
会話もなく、男二人が無言で顔を見合わせて気まずい時間が流れる。何か話題を見つけなければ。
「そ、そうだっ。レッドハイルの名前の由来を教えてくれませんか?」
『レッドハイル、か……』
オーナーは懐かしそうに目を細め空を仰ぐと語りだした。
私が妻と出会ったのは運命だと思う。
仕事帰りに急に雨に降られたのだ。小雨なら我慢できるが雨は本降りで、タクシーを拾おうとするがどれも客を乗せていてつかまらない。
「くそっ、今日は雨が降らないって言ってたのに」
俺はタクシーを拾うのを諦め走った。しかし、雨脚が強くなって私は閉店した店の軒下で雨宿りをすることにした。
「こんばんは」
どうやら私が選んだ雨宿り場所に先客がいたらしい。女性の声がした。街灯もなく、女の顔は見えない。
移動しようかと迷ったが他に雨宿りが出来るような場所がなく、諦めて女の隣に立つ。
なかなか止まない雨。軒下から雨水が滴り落ちる。
「私、雨好きなんですよ。大雨はちょっと困りますけど」
女は喋る。が、私が返事をしないとわかると黙り込んだ。正直、今は誰とも喋りたくなかったのだ。
たまにふと思うことがある。私は一体何のために仕事をしているのだろう、と。
私は仕事ができる方だと自負しているし、仕事をこなせばこなすほど比例するかのように金が入って豊かな生活を送ることができる。
しかし、心は、違う。
私が働けば働くほど心が虚しくなるのだ。寂しくなるのだ。まるで、ロボットかのように、自分の感情がなくなる。
隣から、鼻歌が聴こえてきて我に返った。
女が歌っているのだ。何の歌かわからない。もしかしたら女が自分で作ったメロディを鼻歌にしているのかもしれない。しばらく聴いていると、何だか懐かしさが込み上げてきた。女の歌が昔母親が歌ってくれた子守唄のように優しく感じたのだ。
気付いたら私はその場にしゃがみ込んで嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「だ、大丈夫ですか? ど、どうしましょう、どうしましょう」
女は戸惑っていた。何を考えているのか、私の頭をまるで子供にするかのように撫でる。
「きっと疲れているんですね」
疲れている――。そうか、私は疲れていたのか。女に言われて初めて気付いた。
雨が止み、厚い雲の切れ間から月が顔を出す。月明かりが、暗く隠していた女の顔を照らす。
「きっと、大丈夫ですよ。止まない雨はないですから」
そう言った女はとても、美しかった。それが私と妻の出会いだった。
それから私は勤めていた仕事を辞め、今の仕事を始めた。そして事業が乗ってきたところで私はプロポーズをした。
「えっと、レッドハイルの由来の話ですよね?」
オーナーの話を真剣に聞いていたが、だんだんとおかしいことに気付き思わずオーナーの話に口を挟んだ。
『もちろんそうだ。最後まで聞きたまえ』
オーナーは再び語りだす。
『新婚旅行はモンゴルにした。ゲルに泊まって大草原に囲まれ非日常を味わったんだ』
「は、はぁ」
いつ、レッドハイルが出てくるんだろうか。もしかしたらまだ出てこないかもしれない。俺は一休みしようとお茶を啜る。
「そして私達は熱い夜を迎えたんだ」
「ぶふっ」
口に含んだお茶が全て出た。
「あの頃はまだまだ私も若かったからなぁ、何回もしたよ。まぁ今でも若いんだけど」
「ちょっと、何の話を、してるんですか」
咳き込みながら訊く。
『何ってレッドハイルの由来だろう?』
「そんな話をしているようには全然聞こえませんでした」
『それはそれは幸せな時間だったよ。それで次に経営するホテルの名前は、この幸せな瞬間を名前にしたいと思ったんだ』
「じゃあレッドハイルは」
『あぁ。〝ハイル〟はモンゴル語で〝愛〟という意味なんだ』
「そうだったんですか!」
理由がやっと分かりスッキリする。しかし、一つ疑問が。
「じゃあレッドハイルの〝レッド〟は何なんですか? レッドは英語で赤ですよね?」
『忘れもしないよ。その時、妻が身に着けていた下着がセクシーな赤色だったんだよ』
「ぶふっ」
俺は再びむせる。
『赤色をモンゴル語で〝オラーン〟って言うんだけど、オラーンハイルだとイマイチかなって思ってね。あえて英語でレッドにしたんだ』
どうしてだろう。名前の由来を知りたかったのに、知らなければよかったと思ってしまう俺がいる。
『妻との熱い愛を交わした後、外に出てみると夜空一面綺麗な星が広がってたんだ。ちなみに、きららはその日に授かったんだ』
なるほど。さっき、きららに名前の由来を説明した時、嘘ではないが少しぼかしていたな。
「疑問が解決しました。あ、ありがとうございました」
『うむ。それじゃ休暇を楽しんでくれ』
これで、やっと解放される――。
『あ、最後に。私は寝取られ趣味はないからな。妻に手を出したら許さん』
「出しませんよっ!」
そこで接続が切れ、画面が真っ暗になる。一時はどうなるかと思ったが、俺とオーナーの初対面は無事に? 終了した。最後はオーナーということを忘れ、思わず強めにツッコんでしまったけれど。毎日、誰かしらをツッコんでいるからか、最近は条件反射でツッコむ俺がいる。
「おい、大和!」
「轟さん。オーナーとのオンライン通話、今終わりましたよ。もう大変だったんですから――ぶっ!」
振り返るとそこには真っ裸の轟が突っ立っているではないか。脱衣所で身体も拭かずにそのまま出てきたのか、雫が滴っている。
「ちょっと轟さん⁉ よそ様の別荘で何ちゅう恰好してるんですか!」
「大港さん? 何かあったの~?」
「奥さん! 今はこっちに来ないで下さいっ」
「大和、聞いてくれよ。今俺の身に起きた話を……」
「轟さんは早く前を隠してくださいっ!」
俺はそこらへんにあったタオルを轟に投げつけるが、混乱のあまり轟は受け取ろうともせず裸のまま俺の方へ詰め寄ってくるではないか。
「お風呂頂きました~。とっても良い湯加減で……」
温泉から戻ってきた百瀬の目に映っているのは、俺の両肩を掴んでいる全裸の轟と必死に抵抗している俺。
「ごめんなさい。私、そっちの趣味ないからこの光景見ても萌えないわ」
「誤解ですから! っていうか助けて下さい!」
とりあえず轟には服を着てもらい、百瀬にはきちんと誤解を解いておいた。きららの母親にも惨劇を見せることなく済んだ。落ち着いて轟の話を聞くために、きららときららの母親には温泉に入ってもらうことにした。
「で。一体何があったんですか?」
リビングで俺と百瀬は轟と対面するように座り、轟の話を待った。轟は青い顔をしながらおもむろに話しだす。
「温泉に入っていたら触ってもいないのに突然シャワーの水が出たんだよ」
「それって故障じゃないんですか?」
「それがシャワーの水が出たと思ったら突然止まるし……姿は見えないけど、まるでそこに誰かがいるかのようだったんだよ。それだけじゃない。俺が身体を洗ってるとじゃぶじゃぶと温泉の中を歩くような音がするんだ。振り向くと音は止む。他にも、突然桶が転がったり、おかしいことがたくさん起きるんだ……」
「俺、聞いたことがあります。それってポルターガイストっていうんですよね?」
「ちょっとやめてよ、怖いじゃない」
百瀬は自分で自分を抱きしめるように腕を交差させる。
「と、とりあえずシャワーは故障かもしれないし、変に怖がらせないよう奥様には黙っておきましょう」
こうして、轟の話は解決することもなく有耶無耶なまま終わり、それぞれ部屋に戻ることになったのだった。