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大港美波の尾行②

 エレベーターで一階に降りると、置いてあるソファーに私はなだれ込む。

 私は今まで一緒に暮らしていた兄のことを何も知らなかったのか。私は今、起きた出来事を思い返す。

 私の兄はビルに入ると真っ先にトイレに駆け込んだ。サングラスの男はトイレの入り口で見張っている。

 私は壁からひょっこりと顔だけを出して様子を窺っていると、十分ほどしてトイレから出てきた。

「ん?」

 私は自分の目を疑った。だって、トイレから出てきた兄はさっきまでの兄とは違ったからだ。清楚な服を身に纏い、ミュールを履き、ゆるふわパーマのカツラを被った兄は別人だったからだ。しかも唇にピンクの口紅が塗られているではないか。

 え? どういうこと? ボストンバッグの中身は白い粉じゃなくて洋服だったの?

 混乱する私をよそにサングラスの男が兄に近付くと声を掛けた。何て喋っているのかは聞こえない。そして私は見てしまった。サングラスの男が兄の頬をそっと撫でたのを。

「~~~~~~~⁉」

 叫びにならない叫び声を上げると、私は顔を引っ込め壁にもたれたまま、へなへなと床に座り込む。

 え⁉ 今の何? まるで愛おしい恋人かのように頬を撫でていたわよね⁉ 激しく胸を打つ心臓を落ち着かすために私は深呼吸する。だけど今見た光景が頭から離れない。

 通行人が床に座り込む私を怪訝そうに見ていることに気付き、我に返る。とりあえず座れる場所に移動しよう……。


 そして、今。一階ロビーに私はいるのであった。

 あの服は兄が所有している物ではなく、サングラスの男から受け取ったものだ。ってことは兄が女装したのはサングラスの男に頼まれたから? 何のために? それにどうして愛おしそうに兄の頬を撫でたのか?

 そこで私は重要なことを思い出した。

 兄は私に今日は仕事だって言ったわよね?

 いやいや、女装する仕事とか聞いたことないから。ますます頭の中が混乱するばかりだ。

 私が頭を抱えて唸っていたのが悪かったのだろう。

「ちょっとあなた大丈夫?」

 顔を上げると、モデルのように背が高く綺麗なお姉さんが私の顔を覗き込んでいた。

「唸っているけどもしかして気分が悪い? 人呼んでこようか?」

「あ……大丈夫です。すみません」

 全然大丈夫じゃないけど。

「嘘。全然大丈夫そうじゃないわ」

 どうやら私の気持ちが顔に出ていたそうだ。お姉さんはニッコリと笑う。

「何があったのか話してごらん?」


 私はこれまで起きたことを全てお姉さんに話した。

「なるほど。女装ね……」

 お姉さんが腕を組みながら呟く。

「はい。兄は仕事だって言ってたんです。サングラスの男がどうして頬を撫でていたのか分からなくて」

 すると、お姉さんの目がギラリと光った。

「美波ちゃん。世の中にはね、特殊な性癖を持つ人がいるのよ」

「せ、性癖?」

 気のせいだろうか? さっきまでの優しいお姉さんと雰囲気が変わったような気がする。

「もしかしたら、美波ちゃんのお兄さんはお金を受け取って特殊な性癖を持つ人の恋人をしているのかもしれない」

「そ、そんな! 兄は心を売ってお金を稼いでいるなんて……!」

 どうりで仕事内容を親や私に言えないはずだ。就職先が決まらない兄をニート扱いしたばっかりに兄は禁断の道を踏んでしまったのか。

 お姉さんはさらに追い打ちをかける。

「心だけでなく、もうお兄さんは身体までも売っているかもしれないわ」

「うぅ、お兄ちゃん……」

 私は目頭を押さえた。兄との思い出が走馬灯のように廻っていく。

 幼少期、転んだ私に手を差し伸べてくれた兄。

 お菓子を私にわけてくれた兄。

 私に付き合って一緒におままごとをしてくれた兄。

 中学生になって、思春期から兄を遠ざけるようになった。兄が話し掛けても無視したりひどいこと言ったり……。

「お兄ちゃん、ごめんなさい」

 私は今までの態度を詫びる。悔いても悔い切れない。

「美波ちゃんの傷を癒してくれるものが必要ね……」

「え?」

 お姉さんはソファーから立ち上がると私に手を差し伸べた。




「ぴんくすとろべりぃ先生、そろそろ時間で……す⁉」

 呼びに来た書店員の目に飛び込んできたのは練習で書いたサインの山だった。

「あの、これは……?」

 戸惑う書店員。

「ぴんくすとろべりぃ先生は緊張しいだから、こうやってサインの練習をしないと上手く書けないんですよ」

 すかさず本多が言う。

「そうなんですか……あれ? あそこのソファー、何だか膨らみが」

 ソファーには深山を隠すかのように毛布がかかっている。

「準備してすぐに行きますから!」

 慌てて控え室から書店員を追い出す本多。

 結局、サインの時間までに深山の目は覚めなかった。日頃寝不足続きだからぐっすり寝ているのだろう。本多は深山から牛乳瓶の底眼鏡を外すと自分に掛けた。

「うわ、度がキツっ」

「今からサイン会が始まるのに何遊んでいるんですか」

「違う違う。これは変装さ。僕は担当者のフリをして大和くんの隣にいようと思ってね」

「本多さん、普段眼鏡しているんだからバレバレですよ」

「うーんそうだなぁ」

 本多は控え室を見渡す。と、何かのイベントで使ったのかピエロの人形を見つめる。そして、ピエロが被っている緑色のアフロのカツラを奪うと自分の頭に乗せた。

「これでバレないはず」

「本多さん、主役であるぴんくすとろべりぃより目立ってますよ」


 サイン会には大勢のファンが列を作っていた。ざっと見た限りほとんどが女性ファンだった。

(ぴんくすとろべりぃ)が登壇すると黄色い歓声が上がる。

 みっちりサインの練習をした俺はもう、身も心も人気TL小説家のぴんくすとろべりぃその者だ。

 椅子に座るとサイン会が始まった。


「ぴんくすとろべりぃ先生の作品は全部読んでます!」

「ありがとう。これからもよろしくね」(裏声)

「あ……」

「え?」(裏声)

「な、なんでもないです」


「ぴんくすとろべりぃ先生に会えて感無量です!」

「私もファンの皆に会えて嬉しいわ」(裏声)

「えっ」

「どうしたの?」(裏声)

「いえ、大丈夫です」


 決して男だとバレないように俺は裏声で対応する。ファンの皆が俺と会話を交わした後、よそよそしくなったり戸惑っているのは俺の裏声に違和感があるからじゃなくて、俺の隣にいる変装した本多さんが異彩を放っているからだ。

 ファンの皆は礼儀正しくて、良い人ばかりだった。中にはぴんくすとろべりぃに会えて嬉しさのあまり泣き出すファンもいた。それには俺ももらい泣きしそうになったけど、隣にいる本多がわんわん泣き出したから涙が引っ込んだ。俺は純粋なファンを騙している罪悪感からちょっぴり心が痛む。

 しばらくサインを書いたが、肝心な百瀬に会わない。もっと列の後ろにいるのだろうか?




 私はお姉さんに言われるままなぜか本屋に連れてこられた。しかも今、TL小説コーナーに私はお姉さんといる。

「あの……これは一体?」

 本棚を見て何やらブツブツと一人で呟いているお姉さんに、私は恐怖を覚えながらも訊いてみる。

「いい? 美波ちゃん。本はね日常を忘れさせてくれるものなの。美波ちゃんも今は傷ついて悲しいと思うけど、現実を忘れさせてくれる作品に触れて少しでも傷を癒しましょう」

「それはTL小説じゃなくてもいいんじゃ……」

「シャラァップッ‼」

 突然、巻舌の大声で怒鳴られた。

 もしかして、もしかしなくても、このお姉さんヤバい人だったの? 私はお姉さんに相談したことをひどく後悔した。このままバックレて逃げてしまおうか。

「美波ちゃん、これが私のオススメ小説」

「あ。どうも」

 どうやってバックレようか考えていたら、お姉さんに本を渡され反射的に受け取ってしまった。


『再会~可愛かった義弟は獣と化した~』


「ぶほぅっ」

 本のタイトルを見て思わず私は吹き出した。

「この作品はぴんくすとろべりぃ先生のデビュー作よ。離ればなれになった義弟と七年ぶりに再会したヒロインが義弟に迫られちゃう話なんだけど、タイトルには獣って書かれているけど義弟の切ない心情だったりひたむきさには誰もが涙を流すわ」

「あの……」

「それにヒロインの幼馴染の男の子も魅力的で――」

「お姉さん!」

 ぺらぺらと早口で喋るお姉さんを制止する。

「ごめんなさい。私ったらつい熱弁をしちゃって」

 お姉さんはうふふと照れ笑いすると腕時計に目を落とした。

「あら、そろそろ時間だわ」

「時間?」

「えぇ。私はその本の作者――ぴんくすとろべりぃ先生のサイン会に参加しに来たの」

「ならそろそろ行かれた方がいいですね」

 私はようやくお姉さんから解放されるかと思うと安心する。

「そうね。それじゃあね、美波ちゃん」

「はい。話を聞いてくれてありがとうございました」

 私はお姉さんの背中を見送る。歩く度、ポニーテールにした長い黒髪が揺れて後ろ姿まで綺麗だった。

「あんなに綺麗な人なのに……ああいう人を残念美人っていうんだなぁ」

 私は心の中で呟いたつもりだったけど、声に出していたことに気付かなかった。

 

 私はエレベーターを探していると、長蛇の列を目撃した。どうやらお姉さんが言っていたぴんくすとろべりぃ先生のサイン会が開催されているようだった。

 ふぅん。人気のある小説家なんだ……。

 横目で見て通り過ぎようとしたけど、私は足を止めた。

 あれ? いや、まさか。でも――。

 私は自分の目を疑った。だってサインを書いているぴんくすとろべりぃ先生が女装した兄だったからだ。それに、兄の隣に立っているぶ厚い眼鏡に緑色のアフロ頭をした人は、兄に女装用の服を渡していた人だ。姿はだいぶ変わっているけど、小太りな体型が一致しているもの。

 そこで私はある答えに辿り着く。

 まさか、私の兄はTL小説家のぴんくすとろべりぃ?

 あの小太りな男性は担当の編集者で、ファンの夢を壊さないように兄を女装させたのではないのだろうか。優しく頬を撫でていたのも女装してサイン会に臨む兄を励ますためだったら。知人の紹介で就職したって言ってたけど、TL小説を書いていることを言い出せなくて嘘をついているとしたら。

 あぁ、私はとんだ勘違いをしていたのね。

 急に脱力感が襲ってくる。そして笑いが込み上げる。なんだ、私はとんだ取り越し苦労をしていたのね。

 私は踵を返すと、また本屋に戻るのであった。




 無事にサイン会は終了した。

 百瀬は列の後半にいた。てっきり熱い想いとかをぶつけてくるのかと身構えたが、そんなことはなくただ、応援してます、の一言だけだった。俺がサイン本を渡すと、少女が新しいオモチャを買ってもらったかのように、嬉しそうにサイン本を両手で抱きしめるのであった。

「百瀬さん嬉しそうでしたね」

 控え室で俺は本多に声を掛けた。

「そうだね。僕の作品が大好きだってことが見ていて伝わったよ」

「ぴんくすとろべりぃの代役を立てたことに、もしかして後悔していますか?」

 本多は何も言わなかった。ただ、

「僕はこれまで以上に真剣に小説を書かなくちゃね」

 それだけを答えた。

 こうして、俺の長い一日が終わった。


「ただいまー」

 家に帰ると妹と鉢合わせになった。

「おかえりなさい……仕事お疲れ様」

「えっ」

 妹は照れ臭さを隠すかのようにバタバタと大きな足音をたてながらリビングに入っていく。今までお疲れ様だなんて言ったことがない妹にびっくりする。一体どんな心境の変化なのだろうか。俺は首を傾げながら二階にあがる。

 すると、妹の部屋から少し光が漏れていた。どうやら扉がちゃんと閉められていないようだ。

 俺は扉を閉めようと取っ手に手を掛ける。と、扉のすぐ真横にある妹の机に目がいった。机の上には読みかけのページを伏せた状態にして本が置いてあった。

 アイツも本を読むんだなぁ。興味本位でタイトルを見てみる。

『再会~可愛かった義弟は獣と化した~』

「ぶほぉっ」

 思わず吹き出す俺。

 まさかのTL小説。まさかのぴんくすとろべりぃ作品。

 恐るべし、ぴんくすとろべりぃ……!

 これは妹にとって知られたくない秘密であろう。俺は今日、妹の秘密を知ってしまったのだ。まさかぴんくすとろべりぃのファンが身近に、家族にいるなんて思ってもみなかった。と同時に妹もTL小説に興味を持つお年頃なんだなと感慨深くなる。小さい頃は俺の後ろをついて離れなかったというのに。妹との思い出が走馬灯のように廻って胸が熱くなるのを感じる。

 俺は妹が戻って来る前にそっと扉を閉めるのであった。



 最近、兄を見る目が変わった。と、大港美波は思う。

 前までは頼りなくてダメな兄だと思っていた。

 だけど今では、頼りなくてダメで……尊敬する兄だと思っている。

 え? どうして〝尊敬〟が加わったかって? それは私が兄の秘密を知ってしまったからだ。まさか兄が人気TL小説家だなんて全く予想だにしなかった。考えてもみなかった。だって私の知る限り兄は国語の成績は良くて中の下だからだ。

 デビュー作とやらをお姉さんに薦められて読んだけど、登場人物の交差する想いを繊細に、時には大胆に描かれていてラスト三ページは涙が止まらなくなった。そんな本に出会えたのは生まれて初めてかもしれない。

 すっかり私は兄――ぴんくすとろべりぃ先生のファンになってしまった。

 本当は今すぐにでも兄に話したい。でも兄は秘密にしているから私も知らないふりをする。だって私はファンの前に兄の妹だから。

 こうして私の本棚にはぴんくすとろべりぃ先生の作品が一冊、また一冊と増えていくのであった。



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