終章
エピローグ
「そう、大学院に戻ることにしたよ。民俗学の研究をまたやりたくなってね。父さんのほうは、そう、良かった。名前が決まったらまた教えて、お祝いを送るから」
マンションのリビングで父親と電話越しに話していると背後に忍び寄った静流に抱きしめられる。睨んでやるが、めげずにこめかみに口付され「時間だよ」と耳元に囁かれた。
もうそんな時間?と腕時計を見やる。思ったより話し込んでいたようだ。
「ああ、何でもない。またかけるよ、じゃあね、父さん」
ダイニングテーブルの椅子に掛けてあったコートを羽織る。
「四時には戻れると思うから」
「わかった。気を付けていっておいで」
柔らかく微笑んだ静流が顎をすくって触れるだけの軽い口付をしてくる。
冬将軍が到来した十一月中旬、倫也は未払いになっていた家賃を大家に払い都内の別のマンションに移り住んだ。学生の頃から住んでいた部屋は居心地こそよかったが二人で済むには狭すぎたからだ。それにこちらの方が、四月から通う母校に近い。
あの夜、静流の手を引き闇にまぎれた二人は敷地内にひっそりと佇む蔵の前で立ち止まった。
何故こんな場所に来たのか、隠れるなら裏手の山まで逃げるべきだと言う静流を黙らせ重い扉を二人がかりで曳く。
埃とカビの匂いのする暗所には年代は古いが価値はない骨董や書簡、家具や農具が所狭しと置かれている。虫干しもしないのだろう、捨て置かれた場所を進んだ倫也は目当ての物を見つけ目を細めた。
「あった」
それは一見するとただの書棚だった。現にカビの生えた辞典や洋書が詰め込まれている。しかし倫也はそれが中身を抜いた空箱であることを知っていた。
「何をしてるんだ」
渾身の力で棚の端を真横に引き摺りだした倫也に当惑した静流だが、次の瞬間、本来蔵の壁があるはずの場所に奥へ通じる空洞が現れたのを目にし瞠目した。
「隠し通路…信じられない、君、何故こんなものの存在を」
「話は後にしよう、静流。悠長にしていられない」
通路は階段状になっていて、下りきると木板と鉄板で三方を固めた隘路が延々と蛇行して伸びている。書棚をもとの位置に戻すと気の遠くなるような漆黒の闇が下りてきた。
天井の低い洞穴を手探りで壁を伝い酸素の薄い泥炭の上を進むしかない。一人で行けと言われたらそれこそ気が変になっていただろう。
夜目が効く、と言う静流は倫也より早く闇になれたようで、手を握り先導してくれる。
その温もりに励まされて終わりがあるのか判然としない道行を裸足で踏みしめる。
どれくらい時間が経ったのか、沈黙を破ったのは静流だった。
「駅でのこと、すまなかった」
本当にすまなそうな声音。もっと聞きたいことは無いのだろうか。
隠し通路の場所をどうして知っていたとか。
そんな状況ではなかったけれど、静流らしくて倫也は小さく笑ってしまった。ずっと気にしていたのだろう可愛い男を不安紛らわすために少し苛めてやることにする。
「今まで生きてきた中であんなに悲しくて辛かっったことは無かったな」
「ほ、ほんとうに、悪かった。本心じゃないんだ、君を逃がすために仕方なくて」
「俺じゃなくても誰でもいいとも言われたっけ、あれは今思い出しても胸が抉られる」
静流がう、と呻いた。
「演技だったのは分かってたよ、浅羽さんたちとのやり取りでね」
絶望したのは本当だ。遺産相続が発端で伯母に殺されかけた時も、その前に夢美に関係を強要された時も、裏切られたことに怒りも悲嘆も味わったが静流のそれとは比べられない。荒れ狂った感情の中でただひたすらこの男に捨てられたくなかったのだ。
だから静流が逃げろと叫んだ時、倫也は歓喜した。自分はまだ愛されている。そしてそれほどの執着を向けながらも静流は倫也を生かす道を選んでくれた。自己犠牲などという陳腐な言葉は嫌いだが静流の決意はわずかに残った疑念を氷解させてくれるには十分だ。
「この通路は園さんが知ってたんだよ」
「彼女がなぜ」
彼女の家系の女たちが担ってきた役割をかいつまんで説明する。初音のことは言わなかった。彼ら二人は自分たちとはまた違った形の愛情を築いて幸福だったのだと思うことにしたのだ。
「なるほど。けれどそれなら、園もこういう使われ方をされるとは思わなかったんじゃないかな。……もしかして最初からこのつもりだったのか?」
見えないと知りつつ頷いた。一生村で暮らすのは不可能だ。伯母のことは警察沙汰になっているだろうし、今まで投げやりにしてきた肉親との関係に向き合いたかった。倫也が静流を説得して村から脱するのは騒動が起きる前からの計画だったのだ。
まさかこんな形で前倒しされた挙句、隠し通路までつかくことになるとは思っていなかったが。
「君はなかなか策士だね」
「あんたにだけは言われたくないんだが」
「座敷牢からはどうやって?」
倫也はわずかに口ごもった。
「…あのとき、盗っておいた。また入れられたら癪だと思って」
「あの時?」
すぐに、ああ、と思い当って静流はくく、と含み笑った。
「気付かなかった。あんなに埒もなく喘いでいたくせによくそんな余裕があったね」
露骨な言い方にかっと頬が熱くなった。
「ねえ倫也」
「なんだよ」
「今の僕たちのような関係を世間一般ではどう言うか知ってるかい」
それは、と言いかけた時、道が途切れ天井板から縄梯子が垂れているのが視界に入った。静流が押し上げると砂を落としながら上に跳ね上がる。わずかに明かりが漏れてきた。
「祠の中、か。なるほど、土地神様は役目を放棄した者にも逃げ道を用意してくれるらしい」
夜風が吹き込む古びた祠の中だった。外へ出るとすぐそばに、月明かりを浴びてそよぐ巨大な月桂樹が天に枝葉を伸ばしている。
「君に見せたかった御神木だ」
裾野に抱かれた黒桐邸に視線を移した。当主を失くした旧家の姿だ。
「静流、さっきの答えだけど」
「ん?」
置いて行くものに何の拘泥もないのだろう。ひたすらに倫也だけを見つめてくる双眸に、ふわりと微笑した。
「ただの恋人って言うんだよ」
嬉しくて堪らなそうに、静流もまた笑み崩れた。
その後、二人は丘陵を超えた隣町の民家から警察に保護を求めた。夜中に裸足で彷徨っていた人間を不審に思った警察にあれこれ聴取されそうになったが、倫也は東京で起こった傷害事件の当事者であることを明かすことで目先の追及を免れた。すぐに身元が確認され、警官同行の元、車で東京に移送された。
入院中だった叔母は意識が戻り、面会した倫也を見た途端泣き崩れた。
告訴はしないと決めていた。静流は不満をちらつかせたが、かまわなかった。それまでうやむやにしてきた相続も税理士と相談して手続し、伯父の借金を返済しようとしたが、伯父は固辞した。金を借りていた業者が法定金利違反で摘発されたこともあったが、無口で厳しい叔父のけじめだったのかもしれない。夢美は倫也に会おうとしなかったが、母親につきっきりだということだ。彼女ともいつかわだかまりを解けるといいけれど。
黒霧村はその後、青年団が主導となって周辺のいくつかの市町村に吸収合併された。
国道が建設され、若者は都市へ流れるだろう。
閉鎖が解かれ、封建的だった村は近代に染まってゆくはずだ。
因習が廃れ倫也はおそらく、当主に捧げられた最後の村入り様になるだろう。
静流は相続の権利を放棄した文書を弁護士を通して送付した。
倫也に残すはずだったのにと口惜しがる静流を宥めるのは苦労したが、二人が暮らしてゆくには倫也の財産だけでも足りるはずだ。独学ながら法律に精通した静流は、教授の伝手で弁護士事務所に勤めることになっている。倫也はもう一度民俗学に携わることにし大学院の編入試験を受け、合格の知らせを貰ったばかりだ。
二時から税理士と細かな相談をすることになっている倫也が、玄関で靴を履いていると郵便受けに封筒が挟まっているのに気付いた。静流宛てで、裏返すと「八木沢幹雄」とある。
「静流、これ」
封筒を手渡すと口を切り便箋に目を走らせる。
「なんて書いてある?」
「学会で東京に来ることがあるからその時はよろしくと。それから、倫也に宜しくと書いてあるよ。ほら、もう時間がないんじゃないかな」
「ああ、そうだった。あの人は時間にうるさいからな。それじゃあ、またあとで」
「うん、いってらっしゃい」
にこやかな静流を背に倫也は慌ただしく飛び出した。
またすぐ会えるとはいえ、愛しい人が出かけた部屋に寂しさを感じながら静流は手紙に目を落とした。やがて読み終わると、流しの中に落とし、マッチを擦って火をつけた。すぐに焦げて跡形もなくなったかすを水で流すと一切の興味を失くした目で窓に歩み寄った。
丁度エントランスから駐車場へ向かう恋人が見えて静流の口元には甘い笑みが浮かぶ。
彼が外出するときにはいつもこうして窓から小さな姿を眺めるのが日課だ。
少しでも離れるのが名残惜しい。それでも彼は自分のもとにちゃんと帰ってきてくれるのだ。
静流にとってそれ以上の関心ごとなどこの世に存在しなかった。
「さて、何から話したらいいんだろうな。
まずは二人とも無事で良かった。
彼に対しては、俺もお前と同罪だ。知っていてお前に引き渡し協力したんだからな。
こういう形でお前の望みがかなうとは思っていなかったが家名を棄てたことについてはどうこう言うつもりはない。
お前とは長い付き合いだが、歴代の当主がしきたりに憑りつかれていたことを思えばこうなって良かったのかもしれない。
一つ確認したいことがある。
本題はこちらだ。お前の屋敷の中庭で栽培されているホノカズラは強い抗鬱剤の効果がある熱帯の植物だったな。
依存性も毒性も無いが、頻繁に口にすればある種の自律神経失調に似た症状を発症する。
上手いこと使えば、人間を洗脳したり、判断力を奪ったうえで依存させるのにも役立つ。
特にストレスやトラウマを抱えた人間には強く作用すると言うことを、お前も知っていたはずだ。
黒桐、まさか彼を手に入れるためにあの野草を使うような真似はしていないと、それだけは信じていいな?
俺にそんなことが言えた義理じゃないが、それだけ確認したかった。
見当違いだったならすまない。そうならこの事は忘れてくれ。
浅羽さんは反対していたが、屋敷が売却される事になりそうなのでその前にでも俺が行って刈り取ってくるつもりだ、もうあの家には必要もない物だろう。種ごと根絶させることにするよ。
症状に付け込んで得た関係は破綻するものだ。お前が彼に対して誠実であったことを願うよ。
では、また。達者で。
八木沢 拓未」
(終)