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本編

ガタン、と椅子が倒れて大きな音が響いた。

「いっ、……痛、う」

椅子を巻き込む形で床に倒れこんだ青年は、信じられない思いで呆然と目の前の伯母を見上げた。

極度の興奮のせいか、ゼエゼエと喉が鳴った。

心臓が早鐘を打っているのが分かる。

彼がそろそろと後頭部に手を這わすと、べたりと濡れた感触がした。

後ろから何か鈍器のようなもので殴られたときに出血したのだ。

痛みを意識した途端、生理的な涙が滲んできた。

視界がぶれるのを瞬きして必死に堪える。

「伯母、さん。何でこんな……」

「あんたが、悪いのよ。養子縁組も、それが駄目なら夢美との婚約もって思ったけど、あんたが断るからよ。もうこうするしかないじゃない!」

 優しかった伯母の面影はどこにもない。

ただただ憎いと言わんばかりに罵ってくる彼女の形相はまさしく般若だ

。青年は体を起こすことも出来ず腹ばいのまま逃げようとした。血糊の付いた赤い手形がフローリングの床にべっとりと痕をつけていく。

「あんたには悪いと思ってるわ。だけどあの人、今度こそお金が返せないと困るのよ。分かって頂戴」

 何が分かって頂戴だ。

芋虫のように床の上でもがきながら、信頼してきた家族に裏切られた絶望と悲嘆に体全部が浸食されてゆく。

流れ出てゆく血の代わりにそれらが体の中をじわじわ満たしていく錯覚を覚えた。

それでも最後の望みを捨てられず伯母に懇願しようとして、振り仰いだ青年は今度こそ悟った。

……ああ、これは、だめだ。

「伯母さんを許してちょうだい、倫ちゃん」

流しから持ってきたステンレスの包丁が鈍く光を反射していた。

「伯母さん、やめて、お願いだから」

シュッと空気を裟く音。

無情にも振りかぶられた凶器を寸ででかわす。ふらふらする頭は今や大量のアドレナリンのせいで痛みが飛んでいた。再度振りかぶってきた腕を渾身の力で飛びついて抑え込む。

「伯母さん、もう止そう。俺は」

「離して、離してよ。……きゃああ」

次の瞬間、もみ合っていた伯母がバランスを崩した。そのまま、二人して倒れこむ。

「伯母さん? え、う、うわぁああ」

倫也ともやは絶叫した。伯母はうつぶせに倒れていた。そして呻いている伯母の脇腹に埋まっているのは、自分に向けられていたはずの凶器ではないか。何が起こったんだ、何が……。

ふらふらと立ち上がった。くらくらと眩暈がする。

救急車。そうだ、救急車を呼ばなくては。

その時軽快なメロディが来客を告げた。誰だ? 誰でもいい。誰でもいいから助けてくれ。

「丹海堂さん、ねえちょっと。大丈夫? なんか凄い音が、……丹海堂さん! どうしたのっ、何があったの?」

入ってきたのは管理人の女性だった。騒動を聞きつけて合鍵を使って入ったのだろう。

「救急車を呼んでください。お願いします」

「待って、あなたどこ行くの。血が出てるわ」

「俺は、大丈夫ですから」

「大丈夫じゃないわよ、何があったの? すぐ救急車を」

止めようとする管理人を無視して玄関に向かった。

思考はまだ正常に働かなかったが、足は勝手にずんずん進んでゆく。

とにかく、何からも逃げ出してしまいたかった。外に出ると冷たい夜風が頬を撫でた。

ここから離れたい。知らない場所に行きたい。何故だか強くそう思った。

同じ階ですれ違った主婦がぎょっとした顔で立ち止まる。

倫也の白いシャツの襟には赤い染みが乾いて黒く滲んでいた。

そう言えばこれは伯母さんに卒業祝いに買ってもらった服だ。倫也は気の抜けた笑みを漏らした。


村に外から人がやって来たらしい。

それを聞いても当主である黒桐静流が反応を示さないことに、寄合の役員の男たちは不満気であった。興奮気味にお互いの情報を喋りだす。

「八木沢先生の診療所にいるんだが、頭を縫ったらしい」

「なんでまたそんな怪我を」

「さあ。芝浦の土手で倒れてたそうだ。何か事件に巻き込まれたんじゃないだろうな。警察沙汰になるくらいなら最初から関わらん方が……。だいたい男だと言うし」

「おいおい、何を今さら言うんだ。性別よりまず……」

言いにくそうに口ごもった厳格そうな男は、遠慮がちに当主の方を窺った。

「分かりました。まずは彼に会ってみましょう。いつまでも八木沢先生の所に置いておくことも出来ないでしょう。診療所のベッドは数が限られてますから」

無表情に言った当主に皆ほっとした。ここで嫌だと駄々をこねられては困るのだ。

「そうですな、会ってみませんと何とも言えませんな。八木沢先生に伝えておきましょう。意識が戻ったら知らせてくれるように言っておきますよ」

約束を取り付けてひとまず満足したのか、数人の役員たちがぞろぞろと帰った後、静流は嘆息した。

「静流様」

壮年の男がそばにいざり寄った。

文机に急須に入れた茶を差し出され、皮肉な笑みを浮かべる。

「浅羽、気の毒なことだ。そう思わないか?何の因果でこの時期にこんな辺鄙な村に来たんだろう」

「身元を調べた方がよろしいでしょうか」

「さあ……。僕には興味が無い。どうせ僕の意思も、『彼』の意思も関係なく事はお前たちに良いように進むのだから」

つまらなそうに吐き捨て、端正な貌を伏せて読みかけの権利書に目を走らせる。

浅羽は静かにお辞儀して音もなく部屋を後にした。




かちゃかちゃという無機質な音が聞こえて、うっすらと瞼を開く。

消毒液の匂いがつんと鼻をついた。

どうやら固いベッドの上に寝かされているらしい。

傍の窓からは金色の光が差し込んで今が朝なのか昼なのかは分からなかった。

「おや、目が覚めた?」

シャ、とカーテンが引かれ現れたのは白衣を着た30代と思しき男だった。

「気分は?吐き気とか、頭痛は?」

「……いいえ。あの、ここは」

倫也はぎくしゃくと起き上がろうとして「ああ待って」と男に肩を押し戻された。

「まだ起きない方が良いよ。頭のとこ縫ったばかりだからね」

驚いて後頭部を触ると大きめのガーゼが置かれ包帯で頭が巻かれている。

「ここ、病院ですか?俺はいつからこちらに」

「今日は金曜だから、水曜の昼過ぎくらいかな。バス停の土手に倒れてるのを市中病院に行く途中の人が見つけてさ、慌ててうちに来たんだよ。この村じゃ唯一の診療所なんでね。ああ、俺は八木沢といいます」

バス停と言われて、徐々に記憶がはっきりしてくる。

アパートを出て、新潟方面の電車に乗ったのだ。

目的地は無かった。

電車の中で眠って、読み方が分からない無人駅で降りた頃にはすっかり日が落ちて辺りは真っ暗だった。傷口の血が固まりだしていたが、頭痛は悪化していたし夏だと言うのに寒くて堪らなかった。熱が出ていたのかもしれない。

そこからふらふら歩いてバス停に辿り着いた。最終便があったのは偶然だ。

そしてそこからの記憶が、ぼやけてしまって曖昧だった。

やたら人気が無い山の中で降りた気はするのだが。

「財布の中の保険証、見させてもらったんだけど。こっちの人じゃないよね、珍しい名字だし。訊いていいかな。その怪我、どうしたの」

「これは……」

上手い言葉が出てこなかった。

医者から見たら人為かどうか一目瞭然かもしれない。コンクリートの上で転んだとか、風呂場で滑ったとかそれらしいことを口走って墓穴を掘るのは避けなくては。

伯母との間に起こったことを他人に知られたくない。そこまで考えてハッとした。伯母も今は病院にいるはずだ。叔父も夢美も血相を変えて駆け付けただろう。倫也の部屋で大怪我をして倒れている家族。二人はどう思うだろうか……。

「荷物がないし、強盗に襲われたんじゃないか、と思ったんだけど」

「違います。自分で……来る途中に怪我をして」

八木沢は煮え切らないのだろう。ううんと唸って頭を掻いた。じゃあ荷物が無いのは何故だと目が疑っている。

「あの、此処はどこですか?新潟ですか」

話題を変えようと質問すると、八木沢はあんぐり口を開けた。

「おいおい、地名も把握しないで来たのか。此処は新潟の県境の黒桐村だけど。……あんた、よくない事情抱えてやしないだろうな」

倫也はベッドの上で首をすくめた。結局、不信感を煽ってしまった。

にしても衝動的に結構遠くまで来てしまった。聞いたこともない地名。過疎化の進んだ山村なのだろうか。

「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。治療費を払ったらお暇します」

「あ、いや、その事なんだけど……」

突然、八木沢が言いにくそうに言葉を詰まらせたので、どうしたのかと見上げる。

「黒桐さんといって、この村で代々地主をしてきた家の当主さんが様子を見に来たんだよ。さっき、あんたがまだ寝てる時に」

倫也は怪訝に思って首を傾げた。何故わざわざ、という疑問が当然のように湧いてくる。

「意識が戻ったら知らせるって言ったんだけどね。で、言いにくいんだけど。悪いんだけど帰ってもらうわけにいかなくなった」

「……は?」

嫌な予感がよぎった。まさか警察に連絡されるのだろうか。そんなことされたら、伯母が倫也を襲ったことも知れてしまう。伯父たちさえ黙っていれば表沙汰にはならないというのに。焦った倫也だが、八木沢の次の一言でふっと力が抜けた。

「月終わりに村でやる祭りに、外から来たあんたを参加させたいんだってさ。そうするのが縁起が良いらしい」

「……祭り、ですか」

八木沢は頷いた。

「ゲツレイ祭、といって。俺もよくは知らないんだ。前の祭りは26年前だし、俺は餓鬼だったから」

「へえ、……豊穣祭ですか、それとも祈年祭とか」

八木沢がおや、と倫也を覗き込む。覇気の無かった倫也の双眸に好奇心が光ったのを見逃さなかったらしい。

「若いくせに、そんなのに興味があるの?」

「大学では民俗学を専攻していたので」

「へえ、じゃあ参加してみたらいい。興味があるならね。麻酔の副作用でまだくらくらするだろうけど二、三日で治るから。都合が悪い?」

「会社の新人研修が来月からなのでそれまでは大丈夫ですけど。でも、良いんでしょうか。地方の祭は部外者に排他的なことが多いと思うのですが」

倫也自身、大学時代はゼミの教授に付いてフィールドワークに参加してきたが、祭りへの参加が倦厭されたことは何度もある。そういう祭りほど希少で民俗学者が学問として取り上げるには絶好の素材だったりするのだが。

八木沢はあっさりと頷いた。心配無用と言いたげに。

「むしろ歓迎されると思うよ。前の時は外から来た女の人がそのまま村に居ついちまったくらいだし。外から来た人は土地神様が自分の眷属を招いたと言われているからね。村が安泰になるっていうんで、年寄り連中は喜ぶよ」

倫也は天井の茶色い染みを眺めながら参加してみたい気持ちを持て余した。

春に就職が決まった会社は広告代理店の支店で民俗学に携わることはもう望めないだろう。

伯母との間に起こったことは最悪だが、こんな形で興味深い奇祭に出会ったことに沈んでいた心はいとも簡単に誘惑されていた。

現実逃避だと、分かっている。

すぐにでも東京に戻って伯父と話をしなくてはならないことも。    

倫也はひんやりとした氷の刃を首筋に当てられたようにぞくりと震えた。

伯母にあの時ぶつけられた明確な殺意を思い出しただけで吐き気がせり上がってくる。

初めて体感した本能的な恐怖が身体の奥底までを侵食していた。

八木沢がふと顔を覗き込んだ。

「顔色が悪いな。少し寝て起きるかい」

「すみません……」

「いいよ、往診は済んでいるし。ああ、そうだ。明日もう一度見舞いに来るって言っていたよ」

「誰がですか?」

起き抜けの睡魔が押し寄せてきて次第に瞼が重たくなってきたのを感じながら問う。

「黒桐さん。祭りの詳しい事は彼から聞いてくれ」

ついに睡魔に屈して体を固いマットレスに沈みこませながら小さく頷いた倫也を見下ろして八木沢はふ、と息をついた。癖なのか、頭を掻きながら診察室のデスクにある受話器を取り番号を押してゆく。もう一度患者のベッドを振り返りその眠りに嘘が無いのを確認してから耳に寄せた。

相手は待ちかまえていたかのようにツーコールですぐに出てきた。

「ああ、そう。分かった。……いや、何も知らないようだからなぁ。未成年じゃないが、万が一身内が探しに来るなんてことは……ああ、カルテは処分しておくが、心配ないだろう」

電話の相手は、平静の彼にしては珍しく神経質にくどくど言い含めてくるので些かうっとうしい。

「本当ならそう続けて見舞いになんか来るもんじゃないぞ。不審がられても困る。ああもう、分かったから落ち着け」

くれぐれも大事に診てやって、経過を自分に報告するようにとしつこく言いつけ、電話は切れた。

八木沢は疲れたように肩を竦めると一服したい衝動のまま裏口に向かった。途中思い出したように白いカーテンを払いのけると、彼の患者は静かに深い寝息を立てている。

こうして見下ろしてみると、大人しそうだが聡明さも合わせ持った、いかにも内向的な現代の若者といった感じだ。

ずば抜けた美貌というのでも無ければ、何か特殊な経歴があるわけでもなさそうである。

「白羽の矢を立てるには気の毒なくらい普通の子供じゃないか」

呆れたように独りごち、はらりとカーテンの襞を落とす。

これから彼がどんな目に合うのかと思うと、自分が片棒を担いでいるという事実も相まって罪悪感を覚えずにはいられなかった。


開けた障子の先には、緑にけぶる日本庭園が広がっていた。

大小の大岩で遠近感を出して作られた箱庭である。小さな小川まで引いてあって囁くような流れの音が耳に優しい。

個人宅の中庭としては贅を尽くしてある。

「布団の片づけはしなくていいと言ったでしょう」

庭に咲いた虎の尾を眺めながらシーツと布団を畳んでいた倫也は柔らかな低い声に驚いて振り返った。平屋建ての母屋は風通しが良いようにと襖をすべて開けきっているから部屋に入ってきた彼に気付かなかったのだ。

「黒桐さん、おはようございます」

頭を下げると、黒桐静流は目尻を下げた。

「おはようございます。朝食を母屋に運ばせましたからご一緒しましょう」

母屋、と断ったのは静流がいつもは離れで食事する習慣だからだ。

寝泊まりしている倫也に気を使って母屋に食卓を用意してくれているのは、なんだか申し訳なかった。頭の包帯も取れて来週には抜糸も済むくらい元気なのだが静流は何かと倫也を気遣ってくれる。

倫也が黒桐静流に対面したのは三日前、まだ八木沢医院に入院していた時だ。

予告通り見舞いにやってきた男を見て倫也は思わずその容貌に目を奪われてしまった。

柳のようにしなやかな肢体で、鼻梁が高く、薄い唇は自然な笑みを刷いている。

日本人らしい造りの顔立ちの中、茶褐色の双眸は目尻がわずかに垂れている。

ともすればきついほど整った顔立ちを上品に柔らかく見せていた。

微笑むと、それが儀礼的な物であっても、向けられた方は堪らないだろう。およそ流行を知らない黒髪は自然に櫛を通してあるだけで時折額に落ちるのにまかせている。

眉が太く精悍な印象だが、少年めいた繊細さも同居したある種捉えどころのない美貌だった。

 「体調が万全でないところに申し訳ありません。八木沢から聞いているかもしれませんが、ぜひこの村の祭りに丹海堂さんに参加していただけたらと思いまして」

 後になって歳は27だと聞いた。4歳年下の倫也に対する敬語はよどみがなく育ちの良さを窺わせた。

起きなくていいと言われたが、もう随分回復していた倫也はベッドを出て彼に向き合った。

彼の方が少しばかり上背があった。

「もともと興味がある分野なのでぜひ参加させてください」

静流はそれを聞いた瞬間ぱっと花がほころぶように無邪気な笑みを見せた。

見ていた倫也が驚くほど嬉しさを隠そうとしない。

もっと驚いたのは、静流が自宅に倫也を招いたことだ。祭りまでまだ日数があるし、村に一件しかない診療所のベッドを占領しているわけにはいかないと思っていた倫也はどこかに宿を探すつもりでいた。それなら、と静流は祭りまでの滞在を我が家で過ごすよう提案したのだ。

最初こそ遠慮した倫也だったが、強く熱心に勧める静流に押し切られる形で黒桐家に寝泊まりすることになったのだった。

「食事がすんだら村を少し歩きませんか?」

先代の代からの家政婦だというそのさんが用意してくれた和食を口に運びながら静流が言った。静流は街の高校を出てからは代々所有している土地の管理が主な仕事らしい。外に働かずとも暮らしてゆける身分、というわけだ。

暇を持て余しているのか、よその人間が新鮮なのか、静流はむやみやたらと倫也に構ってきた。

倫也が寝起きに借りている部屋に頻繁に顔を出しては取り留めのない話をする。かと思えばじっと倫也の顔を見て押し黙ることもあった。

少し変わった人だな。田舎の人だからだろうか。倫也は深く考えることも無かった。それより、来週執り行われる集落の祭りの方が気になって仕方なかった。

はじめて黒桐家にやって来たその夜、山菜の揚げ物や鹿肉の燻製をご馳走になりながら静流は丁寧に説明をしてくれた。

月齢祭とは、二十六年ごとに名主の黒桐家で行われてきた婚礼の儀式だという。

一人息子の静流は集落に住んでいる清楓と言う女性と結婚することが決まっているそうだ。

そしてこの時期を見計らったように、山間の辺鄙な村に外部から訪ねてくる人間のことを「村入り様」と呼んで歓迎するらしい。

村入り様は土地神様の娘や息子が人間と夫婦になって生まれた子供の子孫で、月齢祭には引き寄せられるようにこの村を訪れて土地神様の加護が滞りないことを証明するものだと、静流はねつい口調で言った。

静流がまるで実際に事実を語るように話すので倫也は妙な気分になった。

倫也は月齢祭を、かつて村の権力者だった名主の長男が確実に婚姻して跡継ぎを残すお膳立てのための儀式だと解釈した。多分、その時に偶然集落に立ち寄った旅人か何かが村にとって有益な何かをもたらしたか、偶然に偶然が重なって吉事があったかしたのだろう。

それで、「村入り様は土地神様の末裔」と言う後付けが後世でなされた、と言った所じゃないだろうか。

静流が伝承を話すにしては熱がこもっているので、倫也はその推測を胸にしまった。

代わりに静流に結婚のお祝いを述べると、彼は不意を突かれた顔をしたが、すぐに端正な顔をほころばせた。

「ありがとう。僕も今から待ち遠しくて。正直、僕の代では駄目なのかと思っていたんですよ」

静流の口調は相変わらず丁寧すぎるほど丁寧だった。敬語でなくて結構ですと言っても、困ったように苦笑するので先に倫也の方が慣れてしまったくらいだ。

「どうしてですか」

結婚したい相手がいなかったということか。当たり前のように静流が女性に振られるとは考えられなかった。しかし静流は首を振る。

「過去に何度か村入り様が来ない年があったんですよ。祭りはその年にしか行えないので、仕方なく決行したは良いが、災害や虫害が起きたり、ダムの水が枯れたり。山で上手い具合に逸れるはずの台風が直撃して土石流が流れ込んだり、大変だったそうですよ。この村の収入源は農業だから自然災害は一つ起これば命取りですからね」

深刻な表情の静流はふっ、と倫也を見つめて苦笑した。

「その顔は、信じていませんね」

「え、いや、そんな事は」

大げさに言っているのだろうと思ったのが顔に出てしまったのかと慌てる倫也に静流は、いいんですよと笑った。

「仕方ない事です。外から来た人には古めかしい迷信にしか聞こえないのでしょう。でも、僕は本当に嬉しかった」

静流は瞼を伏せて噛みしめるように言った。

「貴方が来てくれて、本当に嬉しかった」

「はあ……。俺なんかで良ければ」

倫也が来なければ清楓と結婚出来なかったと静流は本気でそう思っているらしい。

「あの日診療所で貴方を見た時は息を忘れました。父親の気持ちがやっと自分のものとしてと実感できた。どんなことをしても、貴方が嫌だと言っても、絶対に村入り様になってもらおうと決めたんですよ」

穏やかに目を伏せて唇の端を上げて反芻する静流に、倫也は何と相槌を打って良いか分からずまごついた。

なんというか、異常なまでに慣習に執着する人らしい。そこまでして清楓と言う女性と結婚したい純粋な思いが強いのだろう。

「じゃあ、俺は断っても無駄だったんですね」

静流はにこ、と目尻を下げた。

「ええ。何をしてでも村から出さないつもりでしたよ。 僕は一目見て、貴方しかいないと分かったから。快く了承してくれて良かった」

冗談めかしたつもりだったが、なんだか怖い事を言われて倫也は曖昧な笑みを返すしか出来なかった。


さくさくと下草を踏んで歩く。

コンクリート塀に囲まれた黒桐家を出ると、来た時と同じように坂道を下った。

すると古ぼけたアスファルトの道路が一本だけ通っており、蛇行する川のように集落を抜けて北の街に向かっている。水を引いた水田や黒土の畑の中にビニールハウスが点在していて静流の言葉を裏付けていた。

見渡せば民家はあるが黒桐家からは距離がある。

坂を下りながら静流は家の裏手を指差した。

「岩肌がちょっと見えたなだらかな山があるでしょう?家の私有地で土地神様が棲んでいると言われる山ですよ」

倫也は背後を仰いだ。家を包むように裾野が広がった新緑の濃い緑が萌え、青い空に鮮やかに浮かび上がっていた。静流は山と言うが、実際は丘陵と言ってもいいようななだらかな斜面はどこか女性的だ。

「行ってみたい?」

「俺、卒業してから体が訛ってるんで、駄目でしょうね」

「それは残念。山頂に太い樹があるんだけど迫力あるんですよ? 都会の人には面白いと思うんだけどな。さ、行きましょうか。洋品店に行って要るものを揃えましょう。僕の服は貴方には地味すぎるから」

「いえ、そんなことはないですけど……すみません、お手間を取らせてしまって。っと、うわ」

「大丈夫ですか?」

普通に歩いていたつもりがいきなり左側に足が縺れてしまい腕を掴まれなければ倒れるところだった。顔を赤くしながら地面を見渡すが、何の変哲もない緩い勾配の一本道だ。何故いきなり転んだのか分からない。

「吃驚した。ほら、こっちに来て」

静流はそう言ってするりと倫也の手を絡め取った。

「あの、黒桐さん? もう大丈夫ですから」

子供のように手を繋がれて歩くのは誰が見ていなくても気恥ずかしい。遠慮がちに引き抜こうとしても、柔らかく握られた手は不思議と解けない。男と思えないなめらかな肌は少しひんやりとしていた。

倫也は弱ったまま手を引かれて歩いた。

「もうほんとに平気ですから、あの、聞いてますか」

「だってまた転ぶかもしれないでしょう」

「そんなことないですよ」

静流は立ち止って、手を離さないまま倫也の顔を覗き込んだ。握った手を引っぱられるままに倫也の身体が近くまで寄り添うのを待ってから意地悪く言う。

「さっきいきなり体が傾いたんでしょう。あの坂、上るときは平気ですが、下るとき平衡感覚が狂うような傾斜をしていて危ないんですよ。僕なんかはいつも通るから慣れているけど。だから怪我の無いよう手を引いているんじゃないですか」

とろんとした奥二重の瞳が子供に言い聞かすように細められた。

ね?と、また歩き出してしまう。倫也はため息をついて後に従った。

やっぱり変わった人だ。子供のように無邪気だし、丁寧で穏やかな半面、やりたいようにやる性格らしい。

「黒桐さん、人目もあるんですから手を離しましょうよ」

「静流さん」

若い女の声が響いた。振り返ると麻の白いワンピースを纏った長髪の女性が足早に近づいてくるところだった。

清楓さやか

倫也はまじまじと彼女を見つめた。とびきりの美人だ。色白で細身の女らしい丸みを帯びた身体。胸元でまっすぐ切りそろえられた黒髪と切れ長の瞳が、いかにも純正な和風美人らしい。彼女が静流の婚約者なのか。

倫也はほぅ、と見惚れたままなんてお似合いの美男美女なんだろうと感心した。二人が並ぶと互いが互いのために誂えた一組の人形のようだ。

興味があるのは儀式としての月齢祭だけだったが、うっかり二人の婚礼を想像するとその華麗さにうっとりしてしまう。

挨拶をしようとして、清楓の視線が手元に注がれているのに気が付いた倫也は慌ててつないだ手をほどいた。

ほどいた瞬間、静流は嫌そうな顔をしたが倫也は気付かなかった。

「静流さん……村入り様が来たって聞いたけど、本当なの?」

「ああ、彼がそうだよ。丹海堂倫也さんだ」

「はじめまして、丹海堂と申します。この度はご結婚おめでとうございます」

笑いかけると清楓は一瞬だが引き攣った笑みを浮かべた。

「……よくもそんな白々しい事が言えるわね」

「え?」

静流が清楓、ときつく窘める。

「よしなさい。驚いているじゃないか」

「これくらい、言ってもいいでしょう。貴方のせいよ、貴方が来なければ、諦めてもらえたのに……。私だけで良かったのに、何で来たのよ、出てってよ。村から出てって」

「清楓」

びくりと清楓が震えた。押し殺した静流の怒気が空気を伝わって三人の周りを漂う。倫也はかけられた言葉の意味が分からずただ困惑していた。

倫也が来なければ、諦めて貰えた……? 一体何を?

「清楓、丹海堂さんに謝りなさい」

「いえ、いいんです。気にしていませんから」

清楓はきっ、と静流を見返した。

「嫌です」

くるりと踵を返す瞬間、清楓は小さな声でひどい、と詰った。静流に対してか倫也に対してかは分からなかったが気の強い言葉と裏腹に幼い少女のように切ない顔を見てしまい胸が苦しかった。

「清楓が失礼を言ってすみません。驚かれたでしょう」

「俺はいいから、追いかけてあげて下さい。なにか様子が変でしたよ」

「彼女は最近不安定なんですよ」

素っ気ない返事は詮索を拒むようだった。

「清楓さんはなにを怒っていたんですか?

俺にはよく意味が分からなかったんですが……何を諦めるんですか?」

静流は首を傾げた。

「さあ、僕にもよく……。後で聞いておきますよ、落ち着いたらね」

倫也は納得がいかなかったがそれ以上は訊けなかった。ひどく素っ気ない言い方が気になった。

何となく気まずい空気が漂いその日は買い物をやめて家に帰ることになった。離れに戻ってもやもやしたものを抱え込んでいると、「丹海堂さん」と呼ばれた。

「黒桐さん」

涼しげな浴衣に着替えた静流が立っていた。

「入ってもいいですか」

「え、はい」

「清楓のことを話しておこうと思って。さっきは説明をしなかったので貴方も気になったでしょう。僕もどう話したらいいか分からなかったんです」

どういうことだろう。何が語られるのか倫也は少しだけ緊張した。静流は深刻そうに俯きながら言葉を紡ぐ。

「清楓の父親は先代の同級生で僕らは子供の頃からの付き合いなんです。その頃から彼女は精神的に不安定と言うか、時にはひどい癇癪を起こしたりすることがあって……。数秒前まで大人しく穏やかなのに突然別人のように豹変するんです。残酷で独占欲が強い本性が出る」

倫也は違和感を覚えた。清楓はとてもそんな風には見えなかったし、話を聞いただけでは想像もできない。むしろ倫也の目には強気に振る舞ってもどうしようもなく繊細な部分が透けてしまう脆い女性に見えた。

「でも清楓さんを好きだからご結婚されるんですよね」

「……そうですね。僕は彼女と結婚します。彼女のそういう部分も支えてやらないといけません」

恋人らしく言い切ると、しばしの沈黙の後躊躇いがちに静流は言った。

「清楓が何を言っても気にしないでやってくれませんか。こんな事を人に言いたくはないんですが、清楓は時に突拍子もない事を言い出すので」

「突拍子も無いこと?」

「虚言癖、とでも言うんですか。本人も悪気はないんですが、貴方にも何か言うかもしれません。現実と妄想が混じった奇天烈なことを言われても聞き流してください。全部作り話ですから」

真剣に言い聞かす静流は嘘を吐いているように見えなかったがそれでも小さな違和感がぬぐえなかった。

あるいは婚約者をそんな風に突き放した言い方をする彼を冷たいと思ったのかもしれない。

「……分かりました。結婚前の女の人がナーバスになるのはよくあることですからね」

深刻な気配が掻き消え、静流はいつもの穏やかで甘い蜜を湛えたような微笑を浮かべた。

「分かってくれて良かった。さあ、夕ご飯にしましょうか。貴方も浴衣を着たらいかがです? よく似合いそうな紺色があるから園に出してもらいましょうね」

うきうきしながら手首を優しく掴んで立たせる。

昼間のことを思い出して、もしかしたら清楓は手を繋いでいたのが気に障ったのかもしれないと思った。しかしそれだけではあの台詞の説明はつかない。

静流には気にするなと念押しされたが、かえって清楓の言葉は拭い切れない違和感とともに倫也の胸の内に沈殿した。


倫也は小さな子供だった。足元がおぼつかず、走っては転んで、傍にいた母親に抱き起される。

「お母さん、今までどこにいたの?」

「ここにずっと居たじゃない、変な子ね」

そうだったかな。母親を見上げると顔に白い靄がかかっていてどんな顔なのか分からない。倫也は悲しくなって俯いた。

「どうしたの?」

お母さんの顔を覚えてないことを言ったら嫌われちゃう。そう思って何でもない、と見上げた先には誰もいない。

「お母さん、どこ?」

見ると周りは真っ暗だ。何も見えないし聞こえない。必死で見回しても母親はいない。

その時、ひたひた、と音が聞こえ倫也は闇の中に立ちすくんだ。音は近付いてきている。見つめる先にボウ、と白い影が現れた。

「ひっ」

影は恐ろしい獣の顔をして手には大きな包丁を握っている。逃げようとしたが体が動かない。倫也はがたがたと震えた。

「ともちゃん、ともちゃん」

獣は優しい声で倫也の名前を呼びながら近づいてくる。

ついに目の前までやってくるとそれは包丁を倫也目がけて振り上げた。

はあっ、と息を荒げて倫は目を開けた。動機が収まらずに胸を押さえてはあはあと喘ぐ。

「大丈夫ですか、うなされていましたよ」

「……黒桐、さん」

心配そうに覗き込んでいる静流の顔に焦点が合うと、安心させるように微笑まれた。

「落ち着いた? 水飲み場に行こうとしたら唸ってるような声が聞こえて、そうしたら君がこんな汗びっしょりで苦しんでるから……一体どうしたんです?」

「怖い、夢を見たんです。すごく怖かった」

「そう、怖かったんだね、可哀そうに。どんな夢だったか話してごらんなさい。気分がましになりますよ」

「嫌だ、言いたくない、こわい」

幼い口調に異変を感じ取ったのか静流は目を細めてそろそろと汗ばんだ頬を撫でた。撫でながら倫也の隣に寝転んで小さな子に添い寝するように腕を回してくる。

いくら励まそうとしているのだとしても、大の大人に添い寝はおかしい。

頭の隅でそう思っても、緊張のせいで半金縛りにあっている今のまま一人にされるのは心もとない。

「母と歩いていたんです。母には顔が無かった。俺が覚えてなかったから……。いきなり母が居なくなって動物の顔をした何かが包丁で俺を刺し殺そうとしてきた」

「それは誰でも怖いはずです。僕だって泣いてしまいますよ」

「俺は別に泣いてないですよ」

反射的に訂正してから、ふっと笑った。おかげで緊張がほぐれてきた。

「すみません、みっともないところを見せました」

「いや、悪夢を見た君には悪いけれど、子供返りしたみたいで可愛らしかったですよ」

言葉に詰まっていると、布団を直してくれた手がおなかの上をポンポンと優しく叩いてくる。

「あ、あの、黒桐さん」

「はい?」

いい年をして、さすがに素面でこれは大変恥ずかしい。

「もう大丈夫ですから、戻って休んでください」

「僕は別にこうして一晩君をあやして、もう悪い夢が来ないように番をしていてもいいんだけれど」

倫也は真顔で首を振った。静流が微笑む。

「そう。なら、目を閉じておやすみ。今度はきっと悪い夢は見ませんよ。君が落ち着いたなら、僕は戻りましょう」

言われた通り瞼を下ろす。静流がそっと立ち上がる気配がして部屋を出ていく際、小さく何か言った気がした。おやすみ、かもしれないし良い夢を、だったかもしれない。

その夜は、もう悪夢は訪れなかった。


 目の覚めるような朱色の色打掛だった。そろそろと生地を撫でてみると、織物の最高級、唐織だと分かる。

朱地に金の雲取り、御所車、そして遠近を用いた数十羽の白銀の鶴が一斉に飛翔するさまはただ見ているだけでも気圧されてしまう程だ。

それでも足りぬとばかりに牡丹、菖蒲、杜若などの花々が咲き乱れ、絢爛だが気品に満ちている。

「良いものを見せてあげましょう」と言われて連れていかれた一室で倫也は感嘆の声を上げた。

「凄い……」

零れたのは自分でも呆れるくらい陳腐な言葉だった。まるで小学生の語彙力じゃないか。

誤魔化すように「唐織ですか?」と分かっているのに尋ねた。

「よく知っていますね。そうですよ、古いものだけど美しいでしょう。月齢祭の時だけの晴れ着なのが勿体ないくらいです。気に入ってくれましたか?」

「とても素晴らしい品だと思います。清楓さんが当日着られるんですよね。綺麗だろうなあ」

色打掛はもともと武家の娘の婚礼衣装だ。

目鼻立ちのはっきりした美人の彼女が纏えばさぞ映えるだろう。

しかし静流はきょとんと首をかしげた。

「清楓? どうして清楓がこれを着るんです? この着物は君が着るんですよ」

「は……?」

「清楓は当日は白無垢を着ますからね。気に入ってくれてよかった。きっとすごく似合うはずですよ、楽しみだなあ」 

「え?」

静流は楽しそうに笑うが、倫也はそれどころではなかった。

気に入ったか、とはそういう意味だったのか……。

「いや、無理ですよ。絶対に可笑しいでしょう、男がこんなの着たら。顰蹙を買うに決まってるじゃないですか」

「村の外から来た使者は皆これを着るんですよ。いわばそれが祭りに参加する条件なんだから。いいんですか? 興味あるんでしょう?」

意地悪く聞かれると、グッと言葉に詰まってしまう他ない。

知的好奇心と、羞恥心と。葛藤は割と早く決着がついた。

「せめて、もう少し地味な物はないんですか」

藁にもすがる思いで頼んでみるが、あっさり「駄目ですよ」と言われてしまった。

「そんなに落ち込まないで。大丈夫、僕がついていますから」

慰めてくれているのだろう。分かっていても、赤面物の台詞を素で言うのだから、油断しているとこっちが恥ずかしくなってしまう。

「花婿さんなんですから、そういう台詞は花嫁さんに言って下さいよ」

茶化すと静流は束の間目を眇めたが、すぐに穏やかに微笑んだ。

「言ってますよ、ちゃんと」

清楓さんを想ってだろう。情愛に柔らかく細められた双眸を見ていると他人事ながら嬉しくなる。幸せのおすそ分けと言うやつだ。

倫也が胸の中がほっこりするのを感じながら、ここへ来てよかった、と思った。偶然に地方の奇祭を見られるだけではない。此処にいる間の交わりだが、親しくなった人の結婚式に立ち会って、門出を祝福できるのだ。あれを着るのは嫌だが……。

倫也はそっと、思いを固めるために目を伏せた。

「倫也さん?」

これが終わったら、……この人たちをちゃんと祝ってお礼を言ったら、警察に行こう。伯母夫婦とも、夢美とももう一度向き合おう。もう元の関係に戻れないしても、逃げるのはよそう。

「静流さん、色々ありがとうございました」

「いきなりどうしたんです? それ、これを着せられることに対する嫌味じゃないでしょうね」

大げさに怖がってみせる静流が可笑しくて倫也は笑った。

「違いますよ。そうじゃなくて、感謝を伝えておきたかったというか」

「まるでもうすぐお別れする人みたいじゃないですか。変なこと言わないでくださいよ」

「だって、祭りがすんだら帰るんですから」

しかし静流は眉間をぐっと寄せることで倫也の言葉を遮った。

「何故そんなことを?」

はじめて聞いた声音のせいで、不機嫌なのだと気付くのに時間がかかった。

驚いていると、静流も我に返って表情を緩めた。取り繕うように前髪をかき上げる。指の間からこぼれる髪はさらさらとつややかだった。

「ああ、いや気にしないでください。お気を悪くされたなら謝ります。いきなりこんな風に言って変に思われるかもしれないけど、貴方とは初めて会った時から、まるで生まれた時から一緒にいた人のような心地よさがあって……だから当然のように帰ってしまうのだと思い知って焦ったんです。

村に若い人が……友人のように親しくしてくれる人がいてくれたらというのは、我儘が過ぎるでしょうか」

「若い人が少ないんですよね」

集落の様子を思い出す。

「人口そのものが減少してる上に、ここの人たちは排他的な土地柄ですからね。外から人が入ってこない。十年前に隣村と合併したけどあまり効果が無かった。次は町村をまとめる大規模な合併の話が持ち上がっているところだけれど。世間のバブル景気から忘れ去られた村ですよ、ここは」

「そんな風には見えませんでした。俺も村の外の人間だけど皆すごく好意的でしたから」

静流は当然だと言いたげな顔をした。

「それは君が村入り様だかですよ。村を守ってくれる神様の眷属を無下にするわけないでしょう?」

またそれか。冗談なのか本気なのか、今一つ判然としないのは村全体を包む信仰の匂いのせいかもしれない。

特に村の大半を占める高齢者たちの結束を目の当たりにすると、心底から言い伝えを信じているのではないかと思えてくる。

「皆、君のことを大事に思っていますよ。君にどんな事情があろうと出来ればずっとここに住んで欲しい。勿論僕も、いや、僕が一番それを望んでる。君に居て欲しい」

驚いて静流を凝視する。その表情は凛と張りつめていた。何か言わなければと思ったが、言葉が見つからなかった。

君に居て欲しい。その言葉が脳裏を駆け巡り、顔が熱くなった。

無言のままの倫也を見やって静流は苦笑した。

「僕は君に困った顔をさせるのが得意みたいだ。あまり喜ばれたことじゃないですけれどね」

「いえ、驚いただけです。そんな風に言ってもらえて嬉しいんですが……」

嬉しそうにほころんだ静流の表情が曇った。

「やはりここは嫌? それとも僕のことが疎ましい?」

なんだかまた静流の纏う空気が冷えてきた気がする。案外感情の起伏が激しいのかもしれない。

「黒桐さんには感謝してます。家に泊めてくれて、貴重な祭りに参加させてもらえるんですから。俺も黒桐さん事が好きですよ。それに、黒桐さんみたいな兄貴が居たらよかったのにと最近では思えてくるんです」

自分で言っていて、まるで頑是ない子供をなだめているみたいだなと可笑しくなってしまった。

けれど最後の言葉は本心だ。寂しい時も楽しい時も静流のような兄が居てくれたら。静流のような聡明で優しい兄がいたら自分は自慢して回るに違いない。

「兄、兄ねぇ。……まあそれはそれで悪くはないか」

「黒桐さん?」

何やら呟いていた静流が顔を上げた。

 「祭りが終わったら君の気も変わっているかもしれませんよ」

それは自分が村に住みつく気になると言うことだろうか。その可能性は低いだろう。村が嫌いなわけでも、ましてや静流が嫌いなわけでも決してない。ただ東京に残してきたものが重たすぎて、捨てきれないのだ。

しかし静流は、妙に自信ありげに、その可能性を肯定した。

「きっと、君はここを気に入るはずだ」




清楓が来ている、と聞いたのは明日に月齢祭を控えた午後だった。初対面の非礼を詫びたいと言う清楓に庭先に誘われて日差しを浴びながら向かい合う。

「先日は、ごめんなさいね。いきなりあんなこと」

「そんな、気にしないでください。黒桐さんも心配されていましたよ」

その静流は、婚約者が来たにしては素っ気ない態度で奥に引っ込んでしまっている。もしかしたら行きずりの他人には優しいが肝心の想い人には素直になれない性質なのかもしれない。 自分も夢に魘される情けない姿を慰められてから、何となく彼の顔を直視するのが気まずかったくらいだ。

「着物を見た?」

着物?と首を傾げたが、すぐに思い当った。

「あの赤い打掛のことですか、銀の鶴が何羽も飛んでる」

「ええ、確かそんなだったわ。子供の頃一度見たきりだけど。そう……静流さんは貴方に見せたのね」

清楓はつぶやいてくっ、と唇を噛んだ。

「貴方、今すぐ村から逃げた方が良いわ。祭りが終わってからじゃ何もかも手遅れになってるから」

「手遅れって……」

「前の人もそうだったもの。帰りたくても帰れなかったの、みんなが許さなかったわ。一生じ込められたまま。貴方もこのままだとそうなるのよ。いいの?」

「待って、清楓さん落ち着いて」

「早く逃げて、私に静流さんを返して、お願い。もう村入り様なんて必要ないわ、時代は変わったもの」

清楓の華奢な手が倫の胸元に縋りついた。お願い、出ていってと声を絞るようにして繰り返す。

「清楓さん……」

震える肩に手を載せて子供にするように背中をトントン叩く。瑞々しい髪から石鹸の香りがした。

(……虚言癖と言うんですか。現実と妄想が混じった奇天烈なことを言い出すことが……)

静流の言葉が脳裏に浮かんだ。

「大丈夫、静流さんは貴方のことをとても大事に思ってます。結婚するのが待ち遠しいって俺は何度も聞かされたから。だから何も心配ないですよ、誰も貴女の静流さんをとったりしないから」

言い聞かせると、清楓は緩慢に首を振った。ゆっくりと身体を離す。

「もう帰るわ。明日の準備を、しなくては」

悄然とした清楓の様子に地に足がつかないような不安を覚えながら、倫也はなるべく明るい声音を作った。めでたい晴れの前日にふさわしく。

「ええ、明日、楽しみにしていますよ。本当におめでとうございます」



「花嫁御寮だ。見ろ、やはり噂通り……」

 「ああ、それにまだ若いな。知らせ……な……決まりとはいえ、清楓ちゃんも心中…んだろうに」

 「しい、静かにしろ。気取られ…ぞ」

 「これで一安心だねぇ、良かったこと」

 押し殺したざわめきがそこかしこで聞こえてくる。何となく違和感を覚えたとき、

「すみません、皆嬉しくて年甲斐もなくはしゃいで」と、座った倫也の打掛の裾を整えてくれた園さんが申し訳なさそうに耳打ちした。

「とんでもない。部外者なのにこうして参加させていただくだけで有難いんですから。こんな……高価な物まで貸していただいて」 

凡庸な見た目の自分が着るのを申し訳なくなって言うと、園さんは目を細めてほほ笑んだ。

「まあ、いいんですよ。あなたの物なんだから」

「え?」

倫也は慌てて首を振った。 

「いえ、終わればちゃんとお返ししますよ」 

自分は祭りを見られればいいのだ。着物まで貰うなんて厚かましすぎるし、第一、倫也がこんなものを持っていても使い道がない。

清楓ぐらい美人でなければこのあでやかな晴れ着は着こなせないだろう。そう思って上座の二人を何気なく見ると、ちょうど静流とばったり目が合った。

あ、と思っていると、静流の口元が小さく動いた。

きれいですよ。

倫也は思わずガクリ、と脱力した。まったく、面白がってるのか? 緊張していないようで何よりだが、もっと神妙にふるまって欲しいものだ。

 静流はまだじっとこちらを見ていた。仕方なく声を出さずに「ちゃんとしろ」と返すと、びっくりした顔をする。それに気をよくして倫也はすまして前を向いた。

だから倫也は気付かなかった。驚いた後、そんな倫也の様子が可愛くてたまらないと言いたげに嬉しそうに緩んだ静流の表情に。

座敷の襖を取り払って作られた広い空間に和式の礼装をした老若男女がひしめき、酒を酌み交わす者もあれば豪華な会席料理に取り掛かる者もある。

時刻は午後十時を過ぎていて、とっぷりと暮れた闇夜に賑やかな談笑の声がこだましていた。

一人離れた位置に席を設けられた倫也の周りは、そこだけぽつんと空間が切取られたようだった。

ちらちら窺いながらも話しかけてくる者はいなかったが、それが却って有難かった。

今の倫也は女性が着る時のような帯は締めずに、振袖若衆のように打掛を羽織っている。

それでもこんな派手な格好をしている男はいないから気恥ずかしさは拭えない。

月齢祭は、倫が大学で講義の中で聴いた神道の結婚式と大体同じと言ってよかった。

ただし、神主が執り行うべき儀式を、水干を着て、大きな獣のお面をした男が仕切っている。

獣は丸い目と、白い鬣、平べったい口はにたりと吊り上り人間と同じ歯が並んでいる。不気味だがどこか愛嬌もある不思議な顔だった。村を守る土地神様を模しているらしい。

後でもっとよく見せてもらえないだろうか。

静流に頼んでみようと思っていると、お面の男が静流の持った漆器の杯に御神酒のようなものを注いだ。

ゆっくりとしたペースで飲み干した静流を見届けると、杯を受け取りくるっと身を翻したかと思うと、何故か倫也に近寄ってきた。

村の役員が演じているのは分かっていても、傍に来られると異様な迫力がある。

「え? 」

倫也は思わず戸惑いの声を上げた。

獣面の男が静流が飲んだ杯を倫也に差し出してきたのだ。

飲め、と言うように顔の前にずいっと突き出してくる。まさか自分の所に来るとは思わなかった。

説明もされていない。

飲んだ方が良いのだろうか。普通はここで清楓が飲むものではないのか?

何かがおかしい気がした。しかもそれは今に始まったものではない。微かな違和感は前からあったが気にしないようにあえて無視してきたのだ。

「お飲みになって」

園さんが促した。

なにか、おかしくないだろうか。助けを求めるように静流を見やった倫也は、びくりと肩を揺らした。静流の隣から清楓が、こちらを見ていた。

ただ見ているというよりは、凝視している……睨んでいると言ってよい冷たい眼差しだった。

この眼は知っている。最近、同じように憎しみのこもった目を向けられたばかりなのだから。

強烈なデジャヴに固まっていると、「倫也さん」と園さんが腕を揺すってきた。

倫也はそろそろと杯を受け取った。

木彫りの獣は不気味な顔を振り立て無言でさあ早くしろと駆り立てるようだ。

御神酒は澄み切った水のようで、仄かに甘い香りがした。観念して一口飲んだ瞬間、倫也はぐらり、と視界が歪むのを感じた。からん、と杯が畳の上に滑り落ち、御神酒がぱしゃんと畳に零れた。

倫也は朦朧としながらも、急いで謝らなければと思った。

大事な儀式の途中に、粗相をしてしまった。しかし、何故こんなに頭がぐらぐらするんだろう。

目が回る。筋肉が弛緩していく……ひどい倦怠感は今まで経験したことが無いほどだ。どうして?

 一体何が起こった?

「聞いてたよりずっと強い薬酒だな、これは」

前のめりに倒れこんだ倫也の身体を包み込むように抱きとめた静流もまた、自身のこめかみを揉みながら辛そうに呟いた。

「静流様、解薬をお持ちしましょうか?」

「いや、倫也も辛いだろうに僕だけ楽になるのは駄目だ。しかし飲んでくれてよかった。途中不審そうにしていたから、勘付かれたのかと気を揉んだけれど。倫也には悪いことをしたけれど、でもこれでやっと僕たちは夫婦になれる……」

静流は恍惚とした笑みを浮かべて抱いた倫也の頬を手の平で撫でた。すでに倫也の意識は無かったが、それは幸運なことだったかもしれない。

座敷に集まった老若男女は誰もかれも祝福の笑みを浮かべて静流にお祝いの言葉を述べて帰っていった。

「おめでとう、これで貴方の代は安心だ」

「そうね、嫁入り様が来なくってどうしようかと思っていたけど、これで自然災害に脅かされることもないわ。十年前だって、初音さんのおかげでこの村だけ被害は無かったものね」

「ああ、そうだとも。末永くお二人で幸せになってくださいよ、儂らも見守っとりますから」

「皆さん、ありがとうございます。倫也も初音と同様、良き伴侶としてこの村の守護者になってくれるでしょう」

静流もまた誇らしげに答える。誰ひとり、事態の異様さに頓着しない中で園だけがひっそりと物思いに沈んだような表情を浮かべていた。


目覚めは心地よいものではなかった。頭が痺れたように痛み、耳鳴りもする。それに有り得ないくらいに体が怠かった。

「う、ん」

「目が覚めましたか?」

優しい声音に目を瞬く。柔らかな布団の上に寝かされているようだった。すぐ傍には心配そうに見下ろす静流が居る。

「ここ、……俺、急に眩暈がして、それで」

ぼんやりと記憶の糸をたどっていた倫也は、ようやく自分の失態を思い出して青ざめた。

「すみませんっ、ご迷惑をおかけして。儀式はどうなりました? まさか俺のせいで中断とか……」

怠い上半身を起こして謝る倫也に静流は落ち着いて、と言うようにその肩をポンポンと叩いた。あの美しい打掛は布団の上に被せられ今は襦袢だけを纏っていることに、ようやく気付いた。

「大丈夫。ちゃんと最後まで済みましたから。そんなに謝らないで。こっちが申し訳ないくらいですよ」

怒るでもなく倫也を気遣ってくれる静流にかえって合わす顔がない。それに、無事済んだと言うが本当は清楓と過ごしたいだろうに、その時間を割いて自分に付き添ってくれたのだろう。

「すみませんでした。気を遣わせて」

「本当に気にしないで。あそこまで強い酒だとは、飲んでみるまで僕も知りませんでした」

「ああ……。黒桐さんも飲んでましたね。よく何ともないですね、俺も割と強い方なんですけど」

「何ともないわけないじゃありませんか。まだ頭の奥がずきずきしていましてね。強すぎるって幹事に文句を言ってやりましたよ」

肩を竦める静流に励まされ、もう大丈夫だから清楓さんの所へ戻ってくれと言おうとした時だった。

「ほんとうに悪かったね、倫也」

倫也はあれ、と訝しく思った。下の名前を呼び捨てされたのもそうだが、さっきから静流の倫やに対する態度がどことなく親密すぎる気がしたのだ。

敬語交じりだった口調が砕け、今も、静流はゆるゆると倫也の肩を撫でていた手を滑らせてゆっくりと項に触れてくる。

「黒桐さん?」

倫也は遠慮がちに身を引いて熱い手から逃れた。

親密? 違う。これではまるで……。まるで、なんだというのだろう。

倫也は自分に呆れた。久しぶりに酩酊したせいで思考回路が鈍っているのだ。静流はただ自分を看病してくれただけなのに。

「気絶させてしまうなんて思わなかったけど。多少強引に事を運ばないと、後で障りがあるからね。でも、悪かったと思ってるよ。君に全部説明できなくて。でも、これでやっと君は僕の物だし、僕は君の物だ。……ああ、胸がいっぱいで何を言ったらいいのか分からないな。とりあえず、喉が乾いてないかい?」

はしゃいだ様子で話す静流はそこでやっと倫也の表情が不自然に凍りついているのに気付いたらしい。

「倫也、どうしたの」

「さっきから何を言ってるんですか、これ、何かの冗談ですか……?」

静流はことんと首を傾げた。

「冗談? いや、違うけれど」

「僕の物って、何言ってるんだよ、あんた」

まるで倫也の方がおかしいと言わんばかりの静流の態度に苛立ちが募り口調が乱暴になったが止まらなかった。

もう誤魔化しようがない。完全に、二人の認識がずれまくったまま会話が進行しているのは明らかだ。

気絶させた? 僕の物? 意味が分からない。

「婚姻が成立したんだから、君は僕の物だし僕は君の物だろう?夫婦とはそういうものだと思っていたのだけれど」

「婚姻、て。あんたと清楓さんがでしょう」

静流ははっとしたように目を開いてから突然身を乗り出して倫也の膝を上から抑え込んだ。

「な、何するんだ、離れろ」

「その事を気にしていたのか。ごめんよ、分かってやれなくて。でも僕の妻は君一人だけだ。他の女なんかいらない、不要だ。習慣に則っただけで清楓を籍には入れていないし、本家にも出入りさせないから、君が心配するようなことは何もないんだよ」

もう意味が分からなかった。男同士で結婚だの何をどう血迷ったらそんな展開になるのか。

しかし笑い飛ばせないのは、静流だけでなく村の人間ぐるみでこれが行われたらしいことだ。有り得ないことだが、そうとしか思えない。

農村の因習……。しかしこんな形は聞いたことが無い。

どうする。今すぐ逃げるか。しかし財布も無いし、交通手段が絶たれた集落から足で逃げるなんて不可能だ。目と鼻の先は山、街までは果たして何十キロあるのか……。いや、もしかしたら……。

倫也はふとある可能性に思い至った。そもそも全部、芝居なんじゃないか? 偶然外から来た倫やを神様の御遣わしに見立てて上辺だけの婚姻の儀式をすることで、代替的に神と結婚し村を守ってもらう。そういう『慣習』なのだとしたら、よっぽど説得力がある。

仮説を立てるとそうとしか思えなくなった。

静流の言動は演技というには気持ちが悪いほど熱がこもっていたが。

「倫也はここに来る前、恋人はいた?」

考え込んでいたせいで、最初、内容が入ってこなかった。

「……何人か、付き合ったことはあるけど」

「……そうか。そうか、君は美人だから、言い寄ってくる人間が居てもしょうがない」

静流は傷ついたように悄然とした。倫也にしたら、この状況で眉目秀麗な男に美人と言われても全く嬉しくはない。嫌味にさえ聞こえる。

「……何でそんなことを訊くんです」

「ああ、いや。……僕が訊きたかったのは、僕が今から君を抱いても平気かと思って」

お窺いを立てるように言われ、口を半開きにしたまま固まった。

この男、今、なんと言った? 

「だ、抱くって、なっ……」

下唇が戦慄いて二の句が継げない。

「君は僕の妻になった。夫の僕には初夜に君を愛す権利がある。説明不足で混乱してるかもしれないけど、抵抗だけはしないでくれないか。初めて会った時からずっと長いこと我慢をしてきて、飢えに飢えてるんだ。焦って酷い事はしたくない」

 初夜? 伴侶? 何を言ってるんだこいつは。冷静なもう一人の自分がまさかと思う不安を笑い飛ばした。あるわけないじゃないか。男の自分が、同じ男に犯されるなんて、そんな奇奇怪怪な事態が起こるわけないじゃないか。何かの間違いだ、いやいっそこれは夢だ。よく見ろ、倫也の知る静流はこんな顔をしないはずだ。こんな、欲情した雄の表情で舐めるように自分を見てくるわけがない。

「黒桐さん」

冗談はやめて下さいと掠れた声で呼ぶと、静流は蕩けるような甘い笑みを返してきた。可愛くて可愛くてならないという風に。そして照れくさそうに言った。あたかも純情な少年そのものの表情で。

「そんな他人行儀は止そう。僕たちは今から夫婦になるんだから、夫のことは名前で呼ばなくちゃあ駄目だ、倫也」

倫也は呆然と目を見開いた。すとんと、答えが胸に落ちた。

こいつは、狂ってる。

悟った瞬間、倫也はがむしゃらに腕を振り回して暴れた。頭には逃げることより、とにかくこの男から離れることしかなかった。


「離せっ、近寄るな、俺に触るなっ」

力が入らない腕を思い切り突っ張って拒むが、静流は子供をあやすように覆いかぶさってくる。

「倫也、どうしたんだい? 怖がらなくていいんだよ。絶対に君を傷つけないから。ほらそんなに暴れると酒が回るよ、いい子だから」

もがく倫也はありったけの嫌悪を込めて静流を睨みつけた。

「ふざけるな、……狂ってるよ、あんたは狂ってる。この村の奴ら全員頭おかしい」

「倫也……」

静流は困った顔をし、次の瞬間、苦笑した。倫やはその笑みにぞくりと背筋を震わせた。なぜこんな状況で、そんな風に笑える? 

「ちゃんと説明しなかったから吃驚させたんだね。ごめんよ。でもその分、君のことを大事にする。生涯をかけて君に尽くすよ。愛してる。一目惚れだった。ああ、これも言うのは初めてか。また吃驚させてしまったかな?」

「……もういい。付き合っていられるか」

静流を押しのけて布団を這い出ようとした。今すぐ村を出るのだ。財布も何もないが、裸足でも何でもとにかくこの狂った男から逃げられればそれで良い。しかしそれは叶わなかった。

「う、ぐぅ」

腕を背中方向に捩じられたかと思うと、仰向けに縫いとめられ腰を両膝でがっしりと抑え込まれたのだ。手加減はされていたものの、静流が乱暴をしてきたのは初めてだった。

 恐る恐る窺うと静流はぎらぎら光る眼で倫也を見下ろしている。男が欲情している眼で自分を見ている……。悪夢でしかなかった。

「痛い思いはさせたくないんだ。でも嬉しいよ。怖いのは、初めてだからだろう? 触るのは、僕がはじめてなんだろう? 」

 静流は器用に片手だけで帯を解いて襦袢のあわせから手を滑り込ませた。

「さ、触るな」

冷や汗でしっとりと掌に吸い付く肌の感触を確かめるように、胸、わき腹、腹を撫でさする。そして次の瞬間堪らなくなったように、首筋にむしゃぶりついた。

「ひっ」

唇で皮膚を挟みながら舌で蕩かすように舐める。ざらりとした感触に強張る倫也をあやすように二の腕を上下にさすられた。顎にあたっている静流の頭が動くたびに柔らかな髪がさわさわと肌をくすぐった。その優しい感触と真逆の、熱く野蛮な感覚に悪寒がこみ上げる。

静流がゆっくり膝に手をかけて割ったとき、倫也は泣き声に近い声で抗議した。

「い、いやだ」

「可愛がってあげるだけだよ、まだ痛いことはしないから怖がらないで」

そう言うと静流は下着を引き摺り下ろした。萎えた倫也のそれにしばし目を細めてから根元から握りこむ。

「ん、くっ」

緩急をつけて握られると、腰にぞくりと覚えのある感覚が走った。生理的な快感でも、それが男から与えられると思うと情けないし気色悪い。

 ゆっくり上下に擦られたかと思うと先端をぐりぐり親指の腹で扱かれて、びくんと腰が跳ねた。じわりと腰の奥で生まれた疼きに嫌だ、嫌だと首を振る。

「い、痛い。んんっ、んくぅ、あ」

痛いというのは嘘だ。しかし男の手淫が気持ち良いなんて死んでも認められるものか。

拘束は解けていた。しかし何故だか身体に力が入らない。静流の言うとおり、完全に酒が回って、起きた時より倦怠感は酷くなっていた。

「やめ、てください。お願いしますからっ」

倫が懇願すると静流は動きを止めた。しかし感触を楽しむようにやわやわと握りこんだままだ。

「お願い、誰にも言いません、今やめてくれたら全部無かったことにしますから。こんなこと、おかしい」

静流はすう、と目を眇めた。

「無かったこと……?倫也、どうして君はそんなひどいことを言うの?」

「ひっ」

静流はまた倫也を責めだした。ただし、先程のあやすような余裕はなく無理やり快感を引きずり出す強引さだった。

「い、ぅあ、あ、ああっ」

強く握ったまま、くびれをごしゅごしゅと扱かれ先走りをとろとろ零す小さな口を親指で広げられる。

自慰の時とはけた違いの痛いほどの快感から逃れようとして腰をよじるが体の下で擦れるシーツの感触が拍車をかける始末だった。

「怒ってるんだね、倫也。でも、それは僕が悪いからしょうがない。だけど傷つけようと思って悲しいことを言わないでくれ。君が可愛い分、苛めたくなってしまうだろう?」

そう言う静流の息も獣のように荒くなっている。

「やめろ、俺は、あんたなんか好きでも何でもないっ」

「ほら、また。そうやって憎まれ口を聞いて……。もしかしてわざとかな。恥ずかしいの? もっと恥ずかしいことをこれからするのに?」

倫也はひく、と喉を鳴らした。さっきから会話が全く噛み合わない。自分に都合の良いように捻じ曲げているのか、そもそも頭がいかれているから話が通じないのだとしか思えなかった。この男は自分のしていることが犯罪だと微塵も思っていないのだ。それどころか、まるで倫也も同意の上で行為に耽っているかのような口ぶりだ。

怖い、怖い、こわいこわいこわいだれか。

「もっと気持良いことをしようか、倫也。きっと君も気に入ってくれると思うんだけど」

「な、にを」

安心させるようにふっ、と笑った静流が体を下にずらしたかと思うと、倫也の膝をグッと抱え込んだ。

「い、やだ。見るなっ」

弛緩している両膝を開かれて、空気が触れてすうすうするその場所に、ゆっくりと静流は顔を伏せていく。

「う、そ。なにして」

ぬらぬらと濡れたそれに舌を絡める瞬間、信じられないと青ざめる倫也に向けてにたり、と笑いかけた。ぞくっ、と背筋が粟立つ。

「ひ、あ……んう、くうっ、ああ」

大きく開けた口に頬張られてその熱さに腰が震えた。ざらざらした舌がねっとりと絡み敏感な皮膚をこそぐように舐め上げる。

ちゅぱ、という濡れた音が耳朶を犯した。咥えられているのだ……男の口で、汚いのに。

「はなっせ、は、うう」

口淫の経験など倫也にはない。女性との経験はあるが、他人の口に咥えさせるなんて発想さえ無かった。

静流は熱心に、手を添えて舐めしゃぶり先端を喉の奥まで躊躇なく飲み込んだ。ぐふぅ、と息苦しそうにえずいたが喉奥が引き締まった拍子の締め付けに、倫也も熱い息を吐いた。

「ん、ぅうあ、も」

先端を強く吸われた瞬間、倫也は全身を痙攣させて背をしならせた。腰の方から、ジュル、と嫌な音がした。

げほ、と口を抑えて噎せてから、静流はとろんとした目つきでほほ笑んだ。

「美味しい物でもないね」

飲んだのだ、と理解した途端、顔がかっと熱くなった。異常だ。他人の精液を飲むなんて。それも喜悦を浮かべて。

妖しく舌なめずりして、静流は浅い呼吸を繰り返す倫也の身体に覆いかぶさった。その眼は興奮のためか充血して、端正な顔立ちに陰惨な凄味を与えている。

さあこれから喰ってやろう。獰猛な獣の本性が垣間見え、倫也は細かく震えた。

「いっ」

陰嚢を掠めた指が後腔に触れた。滴る白濁を絡めて人差し指で捏ねるように押される。

「気持ち悪い……」

つぷん、と指が入ってきて倫は息を詰めた。異物感にざわざわと鳥肌が立つ。

「い、痛」

静流は何度か引き抜いては、自らの唾液を絡めてぐちぐちと弄るのを繰り返した。固く閉じたそこがゆるゆると解れてゆくのが信じられない。

「いっ、あ、あ」

ずぶり、と根元まで埋まった人差し指が中をぐるりと掻き回す。痛みが無い代わりに異物感が強まり、そして得体のしれない感覚が皮膚の下を這いずって、倫也は瞠目した。

「熱いね、ここ。指がふやけそう」

耳殻のコリコリした部分を噛まれ、囁かれるとぞくりとした感覚が下肢を突き抜ける。鉤状にした指の腹が小さなしこりをかすった瞬間、倫也はひっ、とのけぞった。

「見つけた……ほら倫也、ちゃんと見つけてあげたからね。此処が君がよくなるところだ」

「んっ、んん、ぅあ」

嫌がって身を捩っても指は体内の同じ個所を狙ってぐりぐりと引っ掻いてくる。ゆっくりと引き抜かれると、不気味な疼きだけが残った。

倫也、と頭を撫でられる。ぐったりと見上げると、静流は顔を傾けて唇を重ねてきた。ふに、と触れて離れ、すぐにまた覆いかぶさってくる。熱い肉厚な塊が唾液を絡めて口内の肉という肉を舐めて擦り上げた。まるで旨い物を喰った獣のように大量の唾液が角度を変えるたび互いの唇の隙間からとろりと零れる。

「嫌だ、ん、んう」

「好き、好き……好きだ」

呪文のように熱を帯びて繰り返す。裸の胸と静流の白絣が擦れる。下に身体を落とした静流に足の付け根から折るようにグッと膝を持ち上げられた時、何をされるのか疎い倫也でも予感した。冷や水を浴びたように、血の気が引く。

「い、嫌だ、絶対それは嫌だっ。やめろ、やめろよ、ひっ」

伸びあがった静流が噛みつく勢いで胸の突起に吸い付いた。舌先で乳頭を舐った後歯で傷めないようにしながらも強く噛む。静流の思った以上に威嚇は効いた。噛み千切られると思って硬直した倫也の乳首を味わったまま反り返った自身の先端を解した場所に押し当てる。そのまま腰を進めると倫也は全身から汗を拭きだしてもがいた。

「い、痛い、痛」

「く、ふう」

閉じようとする圧迫感に静流も苦しさから呻いた。倫也を窺うと目の端から涙を溢れさせている。

ああ、可哀そうに。ああ、可愛い。

同情とそれ以上の残酷な愛慕が理性を侵し静流はずぶ、と腰を沈めた。無理だと訴える倫也の身体を押さえつけ強引に根元まで、押し入る。

「あ、ああ」

静流は倫也を押しつぶさないように両手を突っ張って体を支えながら堪えるように頭を振った。普段の彼からは考えられない犬のような仕草だった。額に浮いた汗が飛び散る。本能に喰い込むような快感だった。初めての異物に慄いてうねる熱い肉に絞られ、たまらない快感の波が何度も押し寄せてくる。はあはあ、とお互いの息継ぎが宵闇に溶け合った。倫也は激しい凌辱に。静流は味わったことのない悦楽に耐えるために喘いだ。

「倫也」

腰を使って肉をあやすように揺すりながら、静流は顔中に口づけた。鼻の頭の塩辛い汗も舐めとってやる。

抵抗する力もなく息も絶え絶えに子供のように泣く青年を静流は夜が明けるまで解放してやらなかった。

 


 静流は浮き立っていた。こんなに楽しい気分は初めてだ。世界中に祝福されて、体の奥から温かいものがこんこんと湧く源泉が生まれたかのようである。

ほう、と幸福のため息が零れた。これも妻を得たからこそだ。

結婚して夫になるというのはこんなにも素晴らしい気分なのか。自分の貧相な想像力をはるかにしのぐ幸福感だ。

若い頃から、愛する伴侶を得て結婚することは、黒桐の男児にとって重要な使命だと教え込まれたが、それ以前に静流にとっては幼い頃からの夢なのだ。

まだ正式に婚姻が成立したわけではないのだが、静流はすっかり夫としての自覚を持っていた。

今も新妻の元へ飛んで行って、あれこれ世話を焼いて可愛がってやりたいのを呻吟しながら堪えているのだ。

静流はそこまで考えて、ふと物思いに沈んだ。昨晩の妻の様子を思い出したのだ。

婚礼の儀、月齢祭の最中、勧められるままに少量の酒を口にした妻は意識を混濁させて眠り込んだ。

あれは普通の酒ではない。村のどんな酒豪の男も一口でも含めば昏倒する薬酒だ。

妻を騙すのは申し訳なくて、一方で内心はこの人を今夜自分の物にできると思うと、血が滾るのを抑えることは出来なかった。

勿論、そんな不埒な思いは臆面にも出さず温厚な友人の顔を演じ続けたが。

月齢祭の間、静流の五感は白い襦袢に緋色の絢爛な打掛を羽織った妻にだけ注がれていた。

緋色が肌の白さを際立たせどうしようもなく艶っぽかった。部外者の自分が目立つ格好をしているのに気後れしているのか、困った顔をしているのも可愛くてしょうがない。

声をかけれたなら、持てる語彙を尽くしてその美しさを賞賛しただろう。それが出来ない代わりに静流はずっと念じていた。

綺麗だ。本当に綺麗だ、よく似合ってるよ。閉じ込めてしまいたいくらいだよ。そんな顔をしないで、祭りの主役は君なんだから。美しくて聡明な、僕の伴侶。僕の奥さん。

緋色は魔除けの色だ。そして白は、この村では魔を寄せる色とされている。

つまり、白無垢を着て静流の傍らに侍った清楓は、本物の花嫁御寮を守るための影の花嫁なのである。表向きは当主の正妻だが、本家に住まうことはなく、外から来た花嫁を災厄から守る身代わりとしての役割が与えられている。この大役を輩出した家は以降、金銭的にも優遇されるから、村では大変な名誉職とされていた。

静流にとっての妻は一人だけだ。初めて抱く時はうんと優しくしようと決めていた。欲望のままに身体を暴けば、妻を傷つけてしまう。

妻は……、倫也は猛然と抵抗してきた。嫌悪の滲んだ瞳は怯えも含んで静流を睨みつけ、力の入らない体で弱弱しく逃げを打った。

やはり先にちゃんと話しておかなかったのがいけなかったのだろう。罵られても、静流に怒りは湧かなかった。むしろ混乱している倫也が心配だった。ごめんよなるべく優しくするからと、甘く宥める静流を見る目は狂人を見るそれだった。

着物を剥ぎ取り、恥ずかしがってか嫌がる倫也を組み敷いたまでは良かった。

が、妻の肌に触れた途端、噴出した欲望に完全に理性が飛んだのだ。男の欲望のままに倫也を犯し、舐めて噛んで突き入れた。

舌を擦り合わせて貪った唇は玉露の味だ。いや、愛する人の身体は静流のためのご馳走のように、どこを舐めても美味しかった。しかし夢中になるあまり、男でありながら処女の苦しみを与えられた妻に対する配慮が無いに等しかったのはまずかった。

揺さぶられる痛みに泣く声に少しずつ違う甘さが生まれた時は心底ほっとした。彼も喜んでくれている。

気が付いたらほろほろと泣いていた。彼が自分の物になってくれたのが嬉しくて、愛しくて、出会ってくれた感謝の念に胸がいっぱいになった。

「ありがとう」と諸々の感謝を込めて口にしようとした時、静流はようやく新妻が腕の中で意識を失くしているのに気付いたのだった。

言い知れぬ恍惚感と快感。静流は行為の間中、ついに気付くことはなかった。                      自身のしたことが一方的な凌辱でしかないことも。倫也が拒んだのは、そもそも静流にたいしてもはや嫌悪以外の何の感情も抱いていないからだということも。倫のように常識の中で生きてきた人間にとってこれは紛れもない異常事態だ。

意識を失くしたのは精神と身体の両方に負担がかかったためだ。

「静流様」

声を聴けば振り返るまでもなく誰か分かった。振り返ると案の定、家令の浅羽が襖を開けて膝をついていた。

「浅羽か。どうした」

「丹海堂様が、目を覚まされたようですので」

「そうか」

冷静を装ったが、心はそわそわと落ち着かなかった。まずは激しくしすぎたことを謝ろう。土下座でも何でもして、倫也が喜びそうな珍しい骨董や貴重な本を家中からかき集めて見せてあげるのだ。機嫌が直ったら、いろんな話を二人でしよう。倫也は自分のことをあまり話さなかったが、夫婦になったのだから、彼のことはすべてを知りたい。それから湖畔に昼食を持って散歩に行ったり……いや、それは体調が戻ってからにした方が良いだろう。

あれこれ考えながら倫也を寝かせた部屋に向かおうと立った静流を、浅羽が遠慮がちに止めた。

「静流様、お言葉ですが今お会いになるのは宜しくないかと」

「何故だ? 倫也にこれからのことを話しておいた方が良いだろう?」

本音は、ただ傍に居て一分だって離れていたくないだけだったが。

「しかし、丹海堂様は大分混乱しておいでで。警察がどうのとか」

警察? 静流は首をかしげた。可哀そうに、よっぽど無理をさせすぎて混乱しているのだろう。

なら尚更、自分が行って宥めてやらなくては。

「浅羽、それからその呼び方はよしなさい。僕の妻なのだから、この家のもう一人の主人なんだぞ? 奥方様と呼びなさい」

浅羽は難しい顔で一礼した。

「かしこまりました。やはり行かれるのですか?」

当然だ、とばかりに悠々と廊下を進む。後朝の妻のご機嫌を取るのは夫の大事な務めなのだから。

 


かたんと襖が開き中に入ってきた男を、倫也は仰臥したまま睨みつけた。少しでも身じろぐと股関節とあらぬ場所がじくじくと痛んで惨めさに拍車をかける。

 男、静流は倫也の発する怒気を感じつつ、その理由が分からないようで、呑気にその枕元に腰を下ろした。

「顔色が悪いね。今簡単なものを作らせているから、食べたら今日はゆっくり寝ているといいよ。何かして欲しいことはあるかい?」

機嫌を取るような猫撫で声に、ぎり、と奥歯を噛みしめる。

「今すぐ家に帰りたい。あと、あんたが地獄に落ちれば良い。とにかく、帰りたいんだ」

身体は辛いが、昼過ぎに目を覚ました時、倫也はパニックを起こしながら屋敷を飛び出そうとして、浅羽をはじめ数人の男に捕えられた。

今も一歩でも部屋を出た途端、抑え込まれ連れ戻されるだろう。そうした緊迫の中にあって静流だけが幸福の匂いを垂れ流すのが我慢ならない。胸糞の悪さも通り越して、ただもう恐ろしい。

今すぐに東京のアパートに帰りたい。日常に浸かって悪夢のような記憶を無かったものにしたい。

この男を人生から抹消したかった。

「ご機嫌斜めだね。帰るも何も、此処が君の家なんだよ。古い家だけど、手入れはされているし、此処で二人で暮らすんだ。僕はね、今からそれを思うと楽しくて楽しくてしょうがないんだよ。家族と一緒に暮らすことが、子供の頃からの夢だったから」

君のおかげでそれが叶うんだ、と蕩けた笑みを向けてくる。

 相変わらず、話が噛み合わなかった。昨夜無理やり犯した男に地獄に落ちろと言われた眼差しではない。彼の気違いじみた言葉を借りれば、自分は妻か。……笑わせる。

「あんたのことなんか好きじゃないって何度言ったら分るんだよ。いいから、家に帰してくれ。でなきゃ警察に行く。刑務所に入りたいのか?」

「警察?」

静流は咀嚼するように呟くと、顔を伏せて考え込む素振りを見せた。それを見て倫也は微かに希望を感じた。怯んでくれたなら、解放されるかもしれない。

しばらくして静流がふっと顔を上げる。その顔には歪んだ笑みが張り付いていた。

「何と言って説明するつもりなのか聞いてもいいかい?」

「え?」

倫也は思わず聞き返した。

「男に強姦されたからあいつを逮捕してくれと、そう言うのかな」

唖然とした。強姦と、静流の口から聞いたからだ。それを認めた上で、そんな屈辱的な真似ができるのかと、倫也を脅しにかかっているのだ。

かっと頭に血が上った瞬間、倫也の身体は衝動に支配されるまま動いていた。

「ぅぐっ」

拳で横面を殴られた静流が呻く。歯で口の中を切ったのだろう、ぼたりと畳の上に血が滴った。倫也も力任せに殴った反動といきなり起き上がったための眩暈でふらふらと布団の上に座り込んだ。生まれて初めて人を殴った。拳が熱を持って痺れている。

人を殴れば自分も痛いのだ。そんなどうでも良い事をぼんやり思った。

「……痛いなあ。思いっきり切れたじゃないか。これじゃ食事の時はつらい」

確かめるように口元をなぞり、静流は何故かくすくすと笑い出した。

「お転婆さん、冗談だよ。怒った君は手が出る人だって覚えておかなくちゃいけないな。痛くなかったかい?」

避ける間を与えず、手を包み込まれて労わるように撫でられる。自分を殴った手を癒しながら、しかし狡猾な男はこうも続けた。

「警察に行ってもいいんだよ。でもね、君にとっても都合が悪い事があるんじゃないかな?」

「……家に帰れるなら何でもする。脅しても無駄だ」

男としての体裁のことを言っているのだと思った。しかし違った。

「君の伯母さん、意識不明の重体だそうだよ。警察が君を捜索してるって、知らなかったのかな?」

倫也はひゅっと息を詰めた。どくどくと心臓が脈打つ。

「どうして……」

「まさか一度もその可能性を考えなかったわけはないだろう? きみがここに来た時、頭に怪我をしていたのが気になってね。それに持ち物が軽装過ぎたし様子が変だったから、人を雇って調べさせたんだ。この事はまだ言わないつもりだったけど、君が警察なんて言い出すから仕方ない。何があったのか話してごらん?」

倫也はそれどころではなかった。この男はどこまで知っているんだろう。

意識不明……、警察が自分を探している。違う、あれは事故だ。そんなつもりじゃなかった。

 本当にそうだろうか……。憎しみが無かったか。裏切られた怒りが無かったか。理不尽だと絶望しなかったか?

 殺意が、無かったか……?

「違うっ!」

倫也は頭を抱えて叫んだ。突然の取り乱しように静流も不意を突かれて驚いた顔をする。

「倫也?」

「違う、違う! 俺は、思ってない。事故だったんだ。だけど、あの人たちが、家族だって……思ってたのに、夢美だって、どうしてあんなこと今更」

「倫也、落ち着きなさい。息を吸って」

「俺のせいで、……伯母さん、そんな」

視界が歪み、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。

「……ごめんなさい、ごめんなさい……ゆるしてください」

騙し騙し保ってきた緊張の糸が予期せぬタイミングで断ち切られて、静流の存在も忘れてしゃくりあげる。

涙腺がいかれたんじゃないかと思うほど涙も嗚咽も止まらなかった。

「はあ、はああ、っは」

呼吸が苦しく、息を吸おうと開いた口にどうしてだか酸素は入ってこなかった。鯉のようにぱくぱくと喘ぐ。ああ、過呼吸だと思ったがどうしようもなかった。

「倫也!」

次の瞬間目の前が暗くなった。敷布をはぎ取った静流が、倫也の頭からすっぽりと覆ったのだ。そのまま抱きすくめられて、温かな胸板に押し付けられる。

「落ち着いて、ゆっくり吐いて、そういい子だ。目も瞑ってごらん。吸って……吐いて、もう一度。苦しいのが取れてきたね、楽になってくるからね」

今まで聞かされた声という声の中で一番優しい響きだった。こんなふうに、心配でたまらない声をかけて貰ったことはない。今までの人生で一度もない。こんな状況でなければ、相手がこの男でなければ、もっと聞かせて欲しいとさえ思う。

背中を強めにさすられて徐々に呼吸も落ち着いてくる。

倫也は汗をかいてぐったりと静流の胸に身体を預けた。

 その胸は数時間前、倫也の上にのしかかって自由を奪っていた。抱きしめる腕にも無理やり犯されたのに。そして今も気遣いながらも執拗に抱きすくめられ身動きが出来ない。胸板から香る白檀の香が脳の芯をぼうっとさせる。

「倫也、もう何も心配しなくてもいいんだよ。大事な家族を警察なんかに渡すものか。君はただ、この村で、この家で、僕に愛されて……妻として傍にいてくれたらそれでいい」

「……家族」

「そうですよ」

甘さと狂気が煮詰まった睦言を聞きながら、倫也は逃げるように瞼を閉じた。

簡単にその言葉を使うな。血が繋がっていてもどうにもならないものだってある。まして他人が、狂人が、安易に家族なんて言うな。

心中で詰っても、静流はただ満ち足りた表情で倫也の頭を撫でるだけだ。


 倫也が二歳の時、母親が家を出て行った。それ以来会っていないから、彼女の声も、顔も、あまり覚えていない。父親は誠実な人だったが子供にどう接したらよいか分からない人だった。言葉をかけて貰えることは滅多になく幼少期は託児所で朝から晩まで遅い迎えを待ち続けた。

もっとも、それも成長した今だから言えることで当時は構ってもらえない寂しさや、もしや嫌われているんじゃないかという不安でいつもおどおどと父の機嫌を窺う子供だった気がする。

その父も倫也が中学三年生の時再婚し、倫也はようやく、色々なものに諦めがついた気がした。

 父は好きになった女の人と一緒に暮らすのだ。いずれは子供が生まれるかもしれないし、もしそうなったら三人は家族になるけれど、自分はどうだろう。自分はまん丸い輪でつながった家族の中に無理に放り込まれた異物のようだ。いつか邪魔に思われるかもしれない。

もっと怖いのは、それを面と向かって言えない雰囲気が家の中に漂うことだ。それは例えば、倫也が熱を出した時に会社に行きたくても行けない父親の困った顔を見る時のような、申し訳なくて惨めな気分を常に感じて過ごさなければならないことを意味していた。

「倫ちゃんを家で預かりましょうか。大学生になって、一人暮らしするまで、遊びに来るつもりで家に来ない?」

そう父に提案したのは伯母の真唯子だった。叔父が工場を経営していて従姉の夢美は二つ年上だった。

 勧められるままそうしたい、と父に言うとあっさり了承された。反対されなかったことは、何故だか少し悲しかった。

 生活費を父が伯母夫婦に渡し、約束通り都内の大学に進学するまでの三年間を四人で過ごした。

 今思い返してみても、人生で一番温かな時間だったという気がする。美人で快活な夢美は倫也を弟と認識したようで遊び場に連れだしたり、あまり素行のよくない仲間たちのもとに引っ張ったりして叔父に叱られていた。傍から見れば本当にこの人たちの子供に見えるかもしれないな、なんて考えて嬉しくなったりもした。

 馬鹿だった。能天気すぎた。大学を卒業して間もない頃、倫也は痛切にそう思い知った。

 会ったことも無い母方の親戚の遺産の相続権の話が持ち上がった時、未成年だった倫也より過敏になったのは叔母夫婦だった。

最初に夢美の態度が変わった。あからさまな秋波を送ってくるようになっただけでなく強引に体の関係を持とうとしたことさえある。

今思えば、叔父の借金を弁済するために倫也との間に既成事実を設けたかったのだろう。

倫也の父親が当時、生活費とは別に金を工面してやっていたと知ったのはもっと後のことだ。

それくらい借金が嵩んでいた。倫也を預かると言ったのも、甥を通して幾らか用立ててもらうためだったのかもしれない。そう思うと猜疑心は限度を知らず膨らみ続けた。

 金なんてくれてやったって自分は構わなかったのに。幼い頃から欲しかった温かい物が手に入るなら遺産なんて惜しくはなかったのに。

 それとも罰が当たったんだろうか。これは伯母を刺してしまってその場から逃げてしまった自分に与えられた罰なのか……。


過呼吸が何とか収まってから数日後のこと。

静流は一日のうち少なくとも一度は倫也の顔を見なければ気が済まないらしかった。

馴れ馴れしくされるたび、手酷い言葉をぶつけてやっても決して怒らない。

しかし何をしても許されるわけではなく、倫也が逃げ出そうとしたり、出された食事を拒んだりすると執拗なまでにくどくど説教されるのだ。まるで辛抱強く子供を躾ける父親のように。

軟禁は続いた。

倫也のいる部屋には必ず誰かが控えていて倫也が一人で外に出ることは許されないのだから囚人となんら変わらない。いかにも屈強な男ばかりを交代で見張りに置いている周到さが心底腹立たしい。けれどそれ以上に倫也の精神を追い詰めたのは他でもない静流本人だった。

 男に犯された挙句、その張本人が毎日毎日現れてまるで恋人のように一方的に振る舞ってくるのだ。愛してる愛してると呪文のように囁かれ続けて頭がおかしくなりそうだった。

 することもなく緊張感だけにとらわれて過ごしながら倫也の中で正常な判断力が失われてゆく。

 

「今日は何をしていたんだい? 昨日あげた本は……読んでないみたいだね。推理小説は嫌いだったかな」

糸杉の机の上に置かれた本を手に取りながら今日も穏やかな表情を浮かべる男に倫也は虚ろな目を向けた。

「なあ、髪を切りたいんだけど床屋に行ってきてもいいかな」

男はぱっと嬉しそうな顔をした。たとえ感情が籠っていない声音でも、久しぶりに倫也から話しかけられたのが嬉しいのだろう。

「ああ、そうだね。そういえば襟足が少し伸びたかな。綺麗な亜麻色だから長くてもいいと思うけれど君が切りたいなら連れて行ってあげようね」

「一人で行きたいんだ。しばらく外に出てないし、散歩がてらに」

「君一人を行かすわけにはいかないよ。だって……迷子になるかもしれないからね」

妙な間を置いて、さりげなく牽制される。やはり倫也を一人にしてくれる気は毛頭ないようだ。

「だったらいい。床屋はいいから鋏を持ってきてくれないか、自分で切るから」

静流は考える素振りをしている。

「そんなことも聞いてもらえないのか」

うんざりしたように言ってやれば慌てた男はすぐさま機嫌を取る下僕に成り果てた。

「わかったよ。今持ってきてあげるから待ってて」

監禁し支配する一方、犬のように倫也の顔色を窺うのが静流という男だった。

ほどなくして戻ってきた静流の手には銀色の大ぶりな鋏が握られている。

「切ってあげましょうか?」

「いい、自分でやる」

そっと柄を向けて差し出される。受け取った瞬間、倫也は思いっきり畳を蹴っていた。

「動くな」

どすを利かせた声で脅しながら二の腕を捩じり上げ、背後に回って締め上げる。襟元からのぞくなめらかな首筋に鋏の切っ先を喰い込むほど押し当てた。自分より上背のある相手だったが不意を突ければ隙が生まれる。まして凶器を持った相手には抵抗できないはずだ。

呆然と静流が呟いた。

「倫也」

「黙れ、いいか、動いたら掻っ切ってやる」

傷付いたように瞳を潤ませる男は今や大事な人質でしかない。

強引に静流を引き摺って足で襖を蹴って開けると、廊下で控えていた男は二人のありさまを見てぎょっとした。

「旦那様! おいっ、貴様、一体なにを」

泡を飛ばして怒鳴る男に、過敏に反応したのは意外にも静流の方だった。

「彼に無礼な口をきくんじゃない!」

「どけ、近寄るなよ、寄ってきたらこいつを刺す。大人しくしてろ」

「倫也、無駄だよ。一人では街まで行けない。皆に見つかって大事になる前に止すんだ。君が怪我をするのが一番まずい」

「黙れ!」

だまれ、だまれ、と口走りながら必死に出口を探る。確か廊下の突き当たりに中庭に面した出窓があったはずだ。庭に下りれば屋敷の裏手に出られる腰までの高さの柵があるのは最初に来た時見ていた。あそこまで何とかたどりつければ。

「来い、早くしろ」

押されて、静流には意図が伝わったのだろう。

「僕を棄てて逃げようとしているんだね」

悲しそうな呟きなど耳には入っていない。ただ血眼になってここから逃げる事だけが頭を支配していた。

「旦那様から離れて下さりませっ」

突然響いた叫び声に思わず足が止まった。聞き覚えがあったからだ。

「園さん……」

前掛けの端を握りしめ泣きそうな顔で立ち塞がる家政婦は倫也がはじめて黒桐家にやってきた時から親切で温かった。彼女も倫也がどんな目にあうか知ったうえで静流に従っていたのだろうか……。

「どいてください」

「今はまだ、いけません……お願いですからよく考えて。こんなことしたら取り返しがつきません」

「頭がおかしいのはあんた達だ! 俺は出ていく!」

強引に静流の身体を引っ張って園を押しのける。しかし園の押し殺したみたいな呼びかけが耳を打った瞬間、倫也の身体は金縛りにあったがごとく硬直してしまった。

「初音さま!」

「え……?」

ひゅ、っと何かが頬を掠めたと思ったら、じんじんと頬が熱くなっていた。

ずぶっという鈍い音と、呻き声。そして鉄さびの嫌な臭いが辺りに立ち込める。

「旦那様っ!」

園の悲鳴。それに被さる奥から走ってきた男たちの怒号。自分だけ周りから取り残されたような錯覚を覚えてゆっくり目を泳がすと足元に何かが倒れている。被さった黒髪に隠れて表情は分からなかったが、唇を真っ青にしながら苦しげに呻いている。その腹には果物を着る時に使うナイフがシャツの上から埋まっていて、赤い何かがどんどん滲んでくるのだった。

「ともや、とも、や……けがを」

「喋らないで旦那様!早く八木沢先生を呼んで頂戴!」

静流は床にくたりと倒れ込んだまま緩慢に首だけ動かして、必死に倫也の名前を呼んでいる。

何故そんな風に呼ぶのだろう。苦しくて痛くて堪らないだろうに、倫也に対する執着だけは棄てられないとでもいうの。妄執に憑りつかれた男に倫也は戦慄するとともに別の感情がぷかりと浮かんでくるのを感じた。

じわ、と眼球が熱くなる。

「なんで……」

何故自分は泣いているのだろう。騒然となる屋敷の一角で倫也は子供のように立ち尽くしていた。


ぴちゃんぴちゃん、と水滴が滴っている音が微かに聞こえている。窓も明り取りもなくようやく目が慣れた今でも薄暗いその部屋はすえた匂いがした。六畳ほどの湿気で冷えた畳の周りは土壁で囲まれ、壁の無い通路側には木枠の格子が嵌っていた。

 座敷牢、といわれる暗所に倫也は人形のように座り込んでいた。

 旧家には稀にあるという罪人に罰を与えるための場所に放り込まれ、明かりがないため今が夜なのかとっくに明けたのかもわからない。

静流の安否も分からなかった。

放心状態の倫也が事の次第を知ったのは、駆け付けた使用人たちの交わす言葉の断片からだった。

 あのとき、静流の腹に刺さった刃は浅羽という初老の家令が倫也を背後から狙って振りかざしたものだった。 

 静流はとっさに倫也を庇い腹を刺されたのだ。放っておけば刺されたのは倫也だったろうに自分を人質にして逃げようとした男を守って刺されるなんてあの男はどうかしている。いや、考えてみれば、人を騙して無理矢理犯しておいてのうのうと夫婦だとのたまったのは男の方だ。狂人の自業自得ではないか。

 倫也はぐしゃりと髪を掻き回した。

そんな風に割り切れないから、どうしていい分からないんじゃないか!

 キイ、と錆びついた鉄扉を軋ませて誰かが入ってきた気配にはたと我に返る。ゆっくりと格子の方へ歩み寄ってくる影に目を凝らしていると、格子に軽く手をかけて寄りかかった影がおもむろに口をきいた。もう耳が慣れ親しんでしまった、穏やかな低音。

「ここは冷えるね……来たのは久しぶりだけど。やっぱり気が滅入る場所だよ」

「……」

「目が慣れなくて君がよく見えない。近くに来てくれないか?」

倫也が固まったままでも静流は辛抱強く待っている。

 生きていた。安堵のあまり体の力が抜けそうな倫也は、乞われるままふらりと格子に近づくとずるずるとその場にへたり込んだ。自分のせいで人が死ぬのは恐ろしい。たとえそれが狂人であろうと。

「倫也」

愛おしげな囁き。

格子で隔てられたまま、すぐ近くで相手の息遣いを感じる。静流も身をかがめて格子に左半身を預けたのだ。冷たい部屋で、触れてもいないのにお互いの身体が発する熱に泣きそうになってしまう。

「泣いているの?」

優しく訊かれてついに糸が切れてしまった。

「うっ、うぐ、…ひぃぐ、うう」

格子に額を押しつけて、子供のようにひっくひっくとしゃくりあげる。

そろり、と伸ばされた指に頭を遠慮がちに撫でられる。

倫也が拒まないと知ると、よしよしと地肌をまさぐってきた。

「子ども扱いしないでくれ」

「そんなつもりはないよ。ただ泣き止んで欲しいんだ。こんなところに閉じ込められて怖かったろう?」

「……刺されたとこ、縫ったのか」

泣いたのは静流が生きていることに安堵したせいだとは言えなかった。

ああこれ、と静流が何でもないように脇腹をなぞる。

「傷は浅かったし出血は酷くなかったから大したことないさ。浅羽が寸でで踏み止まってくれたのが良かった」

「…一つ確認したいことがあるんだ」

「どうぞ。答えられることなら何でも」

倫也は唇を舐めて目元を拭った。今ここで、それを聞いたところで何になるのか、それでも聞きたかった。

「何で俺だったんだ」

静流は予想の範疇だったと言いたげにあっさりと答えてきた。

「僕が君に恋したから。どうしようもなく好きになったから。……君の意思は関係なかった」

倫也はギリッと格子に爪を立てて詰め寄った。

「そんなのは好きでも何でもないだろ。ただあんたの欲を満たすために良いようにしたらそれは愛情でも何でもないってことが分からないのか」

本性を知ってから、話が噛み合わないと感じてきた違和感の正体の尻尾をつかんだ気がした。

倫也の感情などどうでもいいと、はなから開き直られたのでは、いくら反駁しようと歯牙にもかけられなかったのも頷ける。

怒りを通り越して虚しさとやるせなさに頭のてっぺんまでどっぷり浸かってしまった。しかし、ついで落ちてきた呟きが倫也を水面の上に引き上げる。

「どうやったって君に愛してもらえないのに、他にどうすれば良かった?」

「は?」

「僕は君が望むことは何でもしてあげるし、与えてあげる。僕から逃げたいという以外の事なら何でも、叶えてあげる。それだけの財力があるし僕が死んだあとはすべて君の物だ、土地も家も遺産も。だけどそうしても、君は僕を好きにならないって僕には分かってるんだ」

声はいっそ平坦で、淡々と事実を述べているように聞こえる。それが却って静流の燻ぶった鬱憤を思い知らされるようで倫也は口を挟めなかった。

倫也を責める響きはないが「そんなものは欲しくない」と口にしたが最後、彼は般若のように変貌するかもしれない。最後に見た伯母のように。

「愛してもらえないのは分かってる。でも逃がしてもあげられない、それだけは出来ない。もしどうしても逃げたかったら」

静流は言葉を切って、格子の中にするりと腕を伸ばし倫也の頬を手の平で包んだ。静流の言葉を裏付ける、犂も鍬も持ったことがないと分かる、富める者の滑らかな皮膚の感触。

「殺して欲しい。要らないんだったらそうしてくれないか。置いて行くのだけはよしてくれないか」

目を見開く。

「まさか……わざと、だったのか?」

今思えば、髪を切るにしては大ぶりな鋏。警戒もせずに差し出した時、静流はどんな思いだったのか。要らないなら殺してと、三文小説の女みたいなことを、この男は本気で切望しているのだろうか。

倫也は頬を包む手をはがすと、恐る恐る握りこんだ。わずかに息をのむ気配。初めて自分から触れた皮膚の、脈が悦びを示すみたいに速かった。

「本当に狂ってる」

「それで君が諦めて囚われてくれると言うなら、狂った甲斐がある」

暗かったせいか、それは泣き笑いの表情に見えた。


あ、と洩れた声に慌てて腕を突っ張って、明らかに発情している男を押しとどめようとした。

「ま、待ってくれ、いきなり、んう」

鍵を使って開けてくれたはいいが、座敷牢から出してもらえると思っていた倫也をよそに、なぜか自分が狭い入り口を潜ってきた静流は困惑する倫也を腕に絡め取って熱い息を首筋に吹きかけてくる。

柳のようなしなやかな体は実は筋肉質で一度背後から羽交い絞めにされるとやすやすと抜け出せない。怪我を思うと抵抗もおざなりになる。後ろから抱きこまれ足の間に身体を挟みこまれると卵にでもなったかのようだ。

「君の身体、甘い匂いがする。初めて会った時も不思議だったんだ。君の身体から熟れた果実みたいな、花の蜜みたいな濃い香りがして…舐めてみたら甘いんで驚いたよ。君、人間じゃなくて、食べ物なのかも」

「馬鹿を言ってないで、あ、怪我してるんだろう。傷が開いたら厄介だぞ」

「心配してくれたの?」

「血なまぐさいのは嫌いなんでね」

静流が嬉しそうにぐりぐりと頬ずりしてくる。今にも顔中を舐めまわしてきそうなその様子は犬のようだ。着物の裾に隠れて尻尾を振っているんじゃないか。

シャツの裾をたくし上げて潜り込んだ手が腹を、腋下を揉みこむように撫でてからとがり始めていた突起を摘まんで捏ね回す。

「い、や」

「すごくいい匂いだ…自分じゃ分からないんだね、こんなに強いのに。背中を預けて、力を抜いて」

「駄目だ、怪我が」

「いいから。でも君が嫌がって動くと痛くなってしまうかもしれないね」

「卑怯な奴だ」

「白状すると、君にそうやってなじられるとぞくぞくするんだよ」

もしそうなら性質が悪すぎる。身体を支配される恐怖はあるものの、嫌悪感は湧いてこなかった。

自分はこの男に慣らされつつある。もっと言うなら受け入れつつあるのかもしれない。こんな異常な状態で、感覚が鈍磨してしまったのだろうか。

暗い座敷牢で、男の愛撫を許している今の自分は傍から見たらおかしいのかもしれない。何とかして逃げる方法を模索するのがきっと正解なのだ。

 それに、伯母のこともある。静流の言ったことが本当なら、今も入院しているはずの肉親。

「何か考えているの?」

咎めるように乳首の先を爪で引っ掻かれる。たちまち淫靡な火種が灯りだして、倫也はそんな風に静流に劣情を抱いていることに、今さらのように驚いていた。

死ねとさえ、思いつめた相手にこんな感情を抱くなんて、人間とはおかしなものだ。いや、倫也が例外的にそうなのか。

以前誰かが言っていた。異常な状況に対する異常な反応は正常だ、と。なら、自分は正常なのか? 

分からない。考えようとすると、頭の中に霞がかかったようにぼんやりしてくる。

「集中して」

両方の乳輪をすり潰すように捏ねられて下肢が熱を帯びた。

「それ…」

「なに?」

「変な感じが、する」

くすくすと項に息がかかってぞくりとする。

ねちゃ、と舌が首筋を舐め上げて耳の中に舌が押し込まれ先を尖らせてにゅちゃにゅちゃと奥を犯された。

「ん、んっ」

思わず仰け反った喉を熱い手で後ろから掴み、堪らないというようにかぶりつかれる。

「は、甘い…美味しい」

静流にだけ分かる美味を堪能しているらしい。

「あ、待って、んん」

果肉にむしゃぶりつくように露出した肌を舐めつくされて倫也は弱弱しく身を捩った。その間も、静流の手は服の中に忍び込んだまま身体をまさぐってくるから、せり上がってくる快感の波が引かない。

 ぐったりした倫也の肩がやにわにびくんと跳ねた。

静流の手がズボンの前を開け下着越しのそれをやんわりと掴んできたのだ。

「や、あ」

「倫也、濡れてるのが分かる? 嘘だね、分かっているくせに。触ってあげるから、膝を立ててごらん」

嫌々をする倫也の頭に接吻しながら宥めてくる。怖いのに、浅ましくその先の快感を求めるのをやめられない。

静流は背後から器用に倫也のズボンと下着を太腿まで脱がせた。ひんやりとした外気に触れて慄く性器が晒され、中途半端に脱がされた着衣も相まって羞恥を煽った。

腰を抱いて肩口から覗き込んでくる静流は命じておいて、足の付け根の窪みを指先でくすぐるだけでそこには触れてこない。もどかしくて堪らない。倫也は嫌々と頭を振った。

「な、んで」

「君にまだお許しをもらってなかったと思ってね。最初酷くしたから、省みて君がして欲しいこと以外はしないことにしたんだ」

殊勝なことを言いつつも、声音には笑いが滲んでいる。

「君はどうして欲しいんだろう。僕は君の言う通り少しおかしい人間だから、いちいち確認を取らないといけない」

ねえ、と身体を揺すられる。

「どうされたい?」

潤みを帯びた目で睨みつけると腰にあたる熱の塊が硬度を増した。

「さ、触って」

許しをもらった静流は容赦がなかった。僅かにもたげた性器を握り扱かれ、空いた指が口の中に押し込まれた。

「ん、ぐ」

生き物の足みたいに舌の裏側や上あごを擦られ唾液が溢れてくる。口の端をとろりと零れたそれを後ろからねっとりと舐めとられ熱い息を漏らした。

「あ、いあっ、は、ああ」

下肢を上る快感が肌を湿らせ倫也は口内から指を生やしたまま背をしならせて痙攣した。

絶頂を極めた後のとてつもない疲労感に肩で息をする倫也のこめかみに労わるように接吻して、静流が向きを変えるように促す。

のろのろと身体を起こし、静流と向かい合う格好になった倫也を自らの膝の上に跨がせると火照ったお互いの顔がようやく見えた。

束の間、お互いがお互いの表情に釘付けになった後、唇を寄せたのは静流だった。軽く触れた静流の唇は渇いて温かかった。静流の後頭部に抱き込んでもう一度吸い付くと、堪らなくなった静流も同じ仕草で、二人で舌を絡ませ行為に耽溺した。

「ふ、ん、んん」

「倫也…倫也、愛してる、僕は君のものだ。君が僕のものにならなくても、一生ここに閉じ込めてこうしていたい」

熱に浮かされたように囁く。

剥き出しの尻を両手でつかみぐいと割り広げられ、体が強張った。すかさず静流が深く舌を絡めて意識を逸らそうとする。

「んんっ、んうう」

濡れた指がぐにぐにと皺を伸ばすように入り口をなぞり、舌を歯で甘噛みされると同時にゆっくりと侵入していく。

「あ、ゆ、指が、あ」

「大丈夫、もう気持ちいい事しかしない。ほら、ここは、もう痛い場所じゃないだろう」

そうだっけ? そうだったかもしれない。もう考えるのが面倒だ。

ずぶぶ、と大きな肉塊が倫也の肉を割り開いて入ってくる。

「ああ、あ」

中に入ったままの指が曲がると、倫也の目からぼろぼろ涙がこぼれてくる。中を擦られる感覚に腰が動いてしまう。

「ひどい、ひどい、ああ」

うわ言のようにひどいと繰り返す倫也を抱きしめ、静流は頭を掴んで唇にむしゃぶりついた。長く吸って、掻き回して、離してやってから喉を噛んだ。

「なあ倫也、これが本当に僕達の初夜だ。違うか? 君もそう思うだろう?」

倫也は答えず、下から突き上げられて体を揺すりながら、ただ朦朧と喘いだ。静流の言っていることを考えようとするたび、頭の芯がぼんやりし、快感だけに支配されてゆく。

 何も考えられないまま、そうだ、そうだと答えてやると、静流は狂喜してまた口づけてくる。

倫也の意識がほどなくして、暗闇に落ちても、静流は長いことそうしていた。





 


 黄ばんだ紙からは古紙独特の匂いがした。万年筆で書いたのだろう、右上がりの几帳面な文字が紙を埋めている。帳面の表紙を見ると、「黒桐昭貴」とあった。

「園さんこれは、もしかして静流の」

「ええ、旦那様の物です。お父様の昭貴様が、付けていらして形見分けにと園が静流様に頂いた日記です」

園は懐かしむように帳面を撫でた。

「旦那様は何か書き残したいと思った時にだけこれに綴っていらっしゃいました。此処を、読んでみてくださいな。インクが滲んで見にくいでしょうが」

静流が組合に行って留守にしている間、監視の目は付いていたものの、明らかに以前よりも険が取れていた。当主に怪我を負わせたことで使用人からの報復があるのではと思っていた倫也だったが、むしろ遠巻きにされている感すらある。

態度が変わったのは、倫也自身が落ち着いたからかもしれない。

静流も倫也もおしゃべりではないから二人でいても盛り上がることはないのだが、ぽつぽつと言葉を交わす姿は仲睦まじくさえ見えたし、食事を共にし、二つの床を並べて寝ているのを見ればすっかり懐柔されたと思ったのだろう。

倫也はこの日、住込みの園の部屋を訪ねていた。

あのとき、咄嗟に彼女の口から飛び出た名前…『初音』についてどうしても聞かねばならなかった。

「初音は……俺の母の名前です。俺が物心つく前にに失踪しました。園さんが俺を呼んだ時は心臓が止まるかと思いましたよ。ここで母の名前を聞くとは思いませんでしたから」

八畳間の文机の前に座って静かに倫也の話を聞いていた園は無言で立ち上ると次の間に去った。

しばらくすると冷えた緑茶を差し出してくれる。

「目があのお嬢さんにそっくり。少し神経質なところも、覚悟を決めたらおっとりしなさる所も似てらっしゃる」

目を細めてそう言うと、文机の引き出しから黒い革の帳面を開いて寄越したのだ。




八月、十二 猛暑

どうしても書かねばと、急いで筆を取った次第。彼女に会った。誰とはまだ言えない。ただ彼女と記す。姿が網膜に焼き付いているので、目を閉じようが開こうが彼女を思い描けるのが幸福だ。しかし叶うなら言葉を交わしたい。目にした瞬間に理解した。彼女は稀有な存在だ。

  

書いた心境そのままに丁寧な字が乱れた個所がある。

静流が向けてくる執着を髣髴とさせる「彼女」に対する強い憧憬、執着。

「その方が旦那様にとっての初恋の方でした。大学の教員をなさっていた方で、結婚されて子供も居たそうです。旦那様より年上でしたが、可愛らしい方で」

大学の教員……。目を閉じた。こんな巡り合わせがあるなんて到底信じられないが、それは倫也の母に間違いない。旧姓、吉沢初音。S大学准教授、専攻は民俗学だった。こんなところにいたのか……。

「聡明で内向的な者同士、気が合ったんでしょう。友人づきあいは上手くいって旦那様もお幸せそうで……。でも、友情と愛情は違いますものねえ。旦那様の求婚は断られて、でも村の人たちが強引に月齢祭を執り行いました」

当時を思い出したのだろう。園さんは倫也にも済まなそうに顔を伏せた。

十八年前、倫也の時と同じように花嫁御寮に選ばれた初音はそうとは知らず当主のものになったのだ。きっとあの緋色の打掛を着て、怪訝に思いながらも酒を飲み、そして……。

そこまで考えて、初めて奥深くまで犯された時のことを思い出してしまった。同時に、初音に同情と、当主に怒りが湧く。

「旦那様とは最後まで清いご関係でした」

「え」

つまり、昭貴という人は初音にそういう意味で触れなかったのだ。倫也のされたことを初音は免れたと思うと、自然と安堵の息が漏れた。母親の実感はないけれど、女性があんな目に合うのはやるせない。

「母を逃がしてあげたのも、園さんなんですか?」

園は首を振った。

「その頃はまだ私の母がその役目を。でも、逃がしてあげると言ってもその方は断ったんです。このままでいいと母に言ったそうです」

「まさか。縛り付けられたままで? みすみす自由になるのを拒んだんですか?」

一体どうして。

「さあ……。母も不思議がっておりました。もしかしたら、学者としての欲がこの村の因習に興味を抱かせたのかもしれませんが、今となっては誰にも分かりませんね」

園さんは静かに倫を見つめた。

「倫也さん。園は貴方が望むのでしたら誰にも見つからないように村の外へ逃がしてあげる事が出来ます。それがお勤めですから、母やその母がやってきたように……。外へ出たら、どうかこの村でのことは忘れて、口外しないと約束してください」

倫也は口を開きかけ、結局、どうしていいか分らず俯いた。

静流を許してはいない。怒りも、嫌悪も、まだ自分の中で溶解していない。けれど、それだけでない別の感情が、確かに生まれてしまったのだ。

もし倫也が逃げたら、どんな顔をするだろう……?

「倫也さん?」

倫也は大きく息を吐くと、小さく「考えさせてください」と言った。

「村から出たいと言ったのは、本心なんです。今まで逃げてきた人と向き合って、やりたいことがあるんです。此処にずっとはいられない……。でも今は、俺、まだ決心がつかないんです。後悔すると思うんです……なかったことにして、良いのかって」

気持ちを確かめるように言葉を選ぶ。口に出すと、どれも本心だった。

「俺の自己満足だってわかってるけど、静流にとって何が一番いい選択かわからないけど、俺、今度こそ流されないで自分で決めたいんです。そう思わせたのは静流なんです」

静流と同じ気持ちを返せないなら、一緒に居ても酷だろう。

それでも離れがたく思うこの感情の正体を暴きたい。

自分だけに向けられた執着が心地良いだけなのか。もっと別な理由なのか、知りたい。


「僕がいない間に何かあったの?」

その夜、風呂を済ませて布団をかぶってから静流がそう訊いてきた。淵を重ねた布団で湯に火照った体を寄せ合うのが習慣になっている。それはたった数日前のことを思えば異常な光景だった。

倫也は子供の頃から極端に寝つきが悪い。布団に入っても一時間くらいでは寝付けないのが普通で、昔はそれが嫌だった。

一緒に寝るようになってそれに気づいた静流は、倫也が眠くなるまで喋ったりカードをしたり、寝酒を持ってこさせたりすることもある。

今度のはちゃんと普通の酒だからね、と言われると返しに困るが。

子守唄まで歌われた時は笑ったが、必ず倫也が寝入るまで何時間でも起きているのには恐れ入った。

先に寝ていろよ、と言っても微笑んで聞き流されてしまう。

将棋を遣るのも好きだが、かえって目がさえるので静流が、もう駄目だと取り上げてしまった。代わりに静流に本を朗読してもらうのが今の一番のお気に入りだ。強請れば何でも読んでくれるが、一度怪奇小説を読んでもらったら、低い声で語られるおどろおどろしい文章が妙にツボにはまってしまいそればかり強請っている。

「何でもない。……静流のお母さんってどんな人だった?今はどうしてる?」

唐突な質問に静流は枕に肘をついて頭を支えながらきょとんとした。

「僕の母は、肺がんでもう他界しているけれど。どんな…綺麗で大人しい人だったかな。ほとんど話したことが無いし、気が立っている時はよく地下に放り込まれていたからね。ほら、君が入れられた座敷牢があったろう、あすこによく何日も入れられて、おかげで僕は夜目が人より効くんだよ。おかしいだろう。だからなるべく彼女の視界に入らないように気を付けていたよ。……どうしたの?」

遠い目で昔を思い出していた静流が驚いたように表情を強張らせた倫也を見つめる。

気の滅入る場所だと、まるで来たことがあるように言っていたのを今思い出した。静流は何でもない事のように語るが、他に母親との思い出は無いらしく、それだけに親子の凍てついた関係が目に見えるようだ。

「お父さんとは仲が良かった?」

他人事には思えなくて、せめて父親とは愛情関係を築いていてほしいと聞いてはみたが、静流はこれにも淡々と答えた。

「さあ、年に一度会うか会わないかだったから。……興味を持ってくれるのは嬉しいけど、僕の事より倫也のことが訊きたいな。今日は、そうだなあ……八歳の時、電車を乗り間違えて隣町まで冒険した話が途中だったよね、あれがいい」

楽しそうな静流に、両親から与えられた悲しみは片鱗も見受けられない。本当に何も感じていないのだろうか。

「倫也?」

倫也にとって気がかりはもう一つある。初音がこの村に来た時、静流はもう生まれていた。

静流の母親にとって夫の心を奪った初音は憎い女だろう。初音さえいなかったら、その寂しさを息子にぶつけることはなかったかもしれない。

そして今、母親と同じ境遇に清楓を追いこんでしまった責任は倫也にもあるといえよう。彼女は静流を愛している。

そして仮婚とはいえ体裁は静流の妻なのに屋敷に住むことも許されていないなんて、恨まれて当然だ。以前の倫也なら、巻き込まれただけの自分に責任は無いと思ったろうが、今は逃げもせず静流が与える溢れんばかりの甘い蜜汁を啜るのに夢中になっている。

清楓を思いやって静流の傍を明け渡すべきだろうか。

そうしたら静流は倫也にしたように溺死しそうなくらい清楓を甘やかして執着を曝け出すだろうか。狂ったように閉じ込めるだろうか。

倫也はすっと心が冷えるのを感じた。

そんなのは嫌だ。

「静流」

「なに?」

穏やかな眼差しで首を傾げる静流を覗き込んで尋ねる。

「今、楽しいか?」

端正な貌が甘く蕩けた。無邪気な少年のように。

「楽しいよ、凄く楽しくて幸せだ。倫也がいてくれるからね」

「そうか」

静流が甘えるように手の甲に額を擦りつけてくる。母親にも見せなかっただろう子供っぽい仕草が、精悍な容貌に反して危うくて、可愛かった。

「ずっと一緒にいておくれね。愛してるんだ、君の事だけ愛してる、他の人間は全部要らない、きみだけ好き、好きだよ」

「わかったから、もういいから」

黒髪を撫でて、必死に言い募る男に待ったをかける。それでも言い足りない様子の静流に、望みどおりとっておきの幼い冒険譚を語ってやるため、倫也は口を開いた。


季節の気配は秋に差し掛かったが、まだまだ暑い日差しが村には降り注いでいた。日中は本を読んだり、園の家事を手伝ったりして過ごすのが日課になっていた倫也は、その日も中庭の菜園の雑草をむしっていた。

そんなことをしなくてもいいのにと傍で見ている静流は、こういう時は手伝いもしない。そういう発想がないのだろう。

倫也に言われたら俄然張り切ってやりだしそうだが、何をしていいのは分からず日陰でぼんやり待っている姿にはお坊ちゃん育ちなんだなあと思ってしまう。

「旦那様っ、旦那様」

「園さん、こっちです。、静流もいますよ」

珍しくバタバタとかけてきた園は二人を見つけると胸を押さえた。

「あ、ああ、倫也さん。ご苦労様です、凄い汗ですねぇ、ちょっと休んでくださいな」

「まだこれくらい平気ですよ。どうしたんですか慌てて」

「あ、いえ、ちょっと」

口ごもる園のいつもと違う様子に、静流も怪訝な表情だ。

「どうしたんです? まあ、中に入りましょう、倫也も一区切りしたら?」

「ああ、俺は片づけてるから静流は先に入っていてくれ」

「暑いから、はやくおいで」

二人が家の中に消えると倫也は大きく伸びをした。

「よし、もう少しやるか」

結局二人が何を話したのかは聞かなかったが、静流が何も言わないのだから大したことないのだろうと気に留めなかった。

その日の真夜中、ふと目を覚ました倫也は無意識に隣の布団を探ったが、すぐに触れるはずの身体が見当たらなかったことで完全に覚醒した。

「静流?」

反応は無い。浴衣の前を掻き合わせ布団から出ると、襖を開け暗い廊下を覗く。

冷たい廊下の床が足裏できしりと鳴った音がやけに大きく響いた。

「静流?」

「倫也、起きたのか」

静流が驚いた顔で戻ってきた。

「起きたらいなかったから。何かあったのか」

「いや、喉が渇いたから取りに行っただけだよ」

ほら、と手に持った水差しとコップを見せる。

「もう夜は冷えるよ、ほら戻って」

肩掛けを剥いで倫也の肩にかける。肩を押されて部屋に戻りながらあることに気付いた。

「…雨の音がする」

雨粒が瓦に激しく打ち付ける音がうるさくこだます。静流の肩が、寒気のせいかびくりと震えた。

「随分激しく降ってるね」

「……そうだね、この辺では珍しいかもしれない。さあほら、もう戻りなさい。君は寝つきが良くないんだから」

大人しく静流がはぐった布団にもぐりこんだ。隣にすり寄るとすぐに腕を回されて抱き込まれる。

「俺が寝るまで寝ないで」

強請ると、倫也と違ってすこぶる寝つきが良いはずの男は当然のようにいいよ、と返す。それがぞくりとするほど嬉しい。

だから亜麻色の髪に顔を埋めながら、静流が見たこともないような怯えた表情で、過ぎるどころか台風のような轟音になりつつある雨音を聞いていたことなど気付かなかった。


翌朝、空気がいつもと違うことに気付いた。

静流は朝食の時もほとんど喋らず、話しかけても上の空でああ、とかそう、言うだけで心ここに在らずだ。そのくせ急に元気になって倫也を抱き寄せたり園の前で口付をせがんでは拒まれるのを繰り返す。

「午後から出かけることにするよ」

腰に腕を回されたまま縁側に座ってドロドロになった地面と、名残の小雨に項垂れたムラサキツユクサを眺めている時、静流が言った。

「分かった。何時くらいに帰ってくる?」

夫の帰りを待つ妻よろしく自然とそんなことが言えるようになってしまった。しかし静流は頭を振って、耳に口を寄せる。

「君も行くんだ。荷物は持たなくていいけど、コートだけ着て温かくしておくんだ、いいね」

「え?」

目を丸くして端正な貌を見つめる。外に出るのを許されるなんて初めてだ。肌を合わせるようになってもそれだけは許さず警戒したままだったのに、いきなり連れ立って出かけようなんて。

「行先は?」

「決めてない、家を出てから考えよう」

「本当に? いいね、行こう。行きたい」

何か変だと思う前に、素直に嬉しいとはしゃいでしまった。

二人で家の外に出かける。名実ともに信用されたと思っていいはずだ。

何より、これまで静流が出かけている間は一人で暇をつぶしていたから二人で外で過ごすのはたまらなく新鮮だった。

近くを散歩するだけでも刺激的とさえ思えるほど、倫也の生活はここでは制限されてきたのだから。

子供のように浮かれる倫也を静流はただ静かに見ていた。

昼過ぎ、軽く食べてから傘をさして玄関を潜った。

臙脂色の傘は幾分早足に進んだ。

倫也が何かに気を取られて歩みが遅れると、やんわりと早く来るように促した。

いつもの静流なら倫也の好きにさせてくれるのにと、不思議に思ったが理由は半時間ほど歩いてバス停に辿り着いた時に知れた。叢が茂る古ぼけた小屋の中にベンチがある。後ろは土手になっていてフェンスもない代わりに『危険』と立札が立ててあった。

「ここ、俺が倒れてた場所? 案外近かったんだな。バスに乗るの?」

「そうだよ、もうすぐ来るはずだ。急がせてごめんね、逃すと夕方までないから間に合わせたかったんだ」

「いいけど、どこまで乗るの? 日帰りできる場所?」

「大丈夫。倫也は何も心配しなくていいから」

静流がそう言うなら、それでいい。帰れなくても、泊まる場所くらい見つかるだろう。

ほどなくしてエンジン音が煩いバスがやってきて、二人して乗り込んだ。一番後ろの座席で揺られている間も静流は黙ったままだ。それでも他に客が居ないのをいいことに膝の上で手が握られていたから倫也は満足して車窓を堪能していた。

終点まで、つまり倫也が下車した難読漢字の無人駅でバスは停車した。閑古鳥が鳴くホームへ向かう静流を追いながら、さすがに訝しんで彼を見やった倫也は目を見張った。

静流はまるで怒っているようにギュッと唇を引き結んで前方を睨んでいる。

「静流?」

得体のしれない不安を振り払いたくて、呼びかけるとようやくこちらを向いた。その顔はやはりいつもの静流ではない、別人のように冴え冴えとしている。

「あと十分くらいで東京方面の電車が来る」

「え、東京って、今から行くのか?何の用事が」

「僕は行かない。行くのは君だけだよ、倫也。一人で乗るんだ」

もう一度、言いきかすように、僕は行かないと繰り返す。

倫也はぽかんと静流を見つめて、ついで口をパクパクさせて傘を握りしめた。

「え、何言ってるんだよ…意味が、分からないんだけど」

分からない。何を言ってるんだ、こいつは今、なんて言った?

「これを持って。足りなくなると言うことなないと思う」

押し付けられたのは茶封筒だ。力が入らなくて受け取れずにいるとコートの内ポケットに仕舞われる。

「なんで…意味が分からない。静流、なんで」

「帰ったら、もう二度と戻ってきちゃいけない。君は君の生活に戻って、村のことも、僕のことも忘れてはやく」

「説明しろよっ!」

怒鳴りつけると、静流はふつりと黙った。自分の感情がコントロールできない。身体は冷や水を浴びせられたように冷たいのに、眼球は熱く疼いていた。

「……土石流が流れ込んで7世帯が埋まったままなんだ」

呟くように言われ、しかし何の関係があるのか分からなかった。しかし続いた静流の言葉に、倫也はすべてを理解した。

「村入り様がいるのに、災害は起きるなんてことはあってはならない」

倫也は呆然とした。倫也が村に必要とされた理由……土地神様の末裔の化身……村に繁栄をもたらす存在として当主に捧げられたのに、役目を果たせず災害を呼び込んだから、用済みになったと、そう言うのか。

「天災なんて、人の力じゃ防げるわけないじゃないか。俺のせいで、俺の役不足のせいで死人が出たって、本気で言ってるのか?そんな非科学的なこと言って、だから俺はもう……いらない?」

静流は無言だが、沈黙は肯定と同義だ。眼球が熱い。膜が膨れ上がって、縁を超えてぼろりと零れると感情の箍もはずれた。ははは、と力なく笑い出した倫也を痛ましそうに見る静流が憎い。こんなに人を憎んだことはない。こんなに人を欲したこともなかったのだから。

「なんだよそれ、ふざけるなよ。薬盛って犯って懐いたらやっぱり要らないって。あんた言ったよな、置いてくなら殺せって。あれも嘘か。絆された俺は最高に笑えただろ?」

傘を放り出して静流のコートの襟を掴み上げる。締め上げられて苦しげに眉をひそめたのを見ても詰るのをやめられない。やめたらそこで、終ってしまうのが怖いから、永遠に責め立ててやる。

「村入り様だから大事にしただけ?俺じゃなくても、外から入ってきた人間なら誰でも良かった?」

揺さぶると静流は小さく、微笑んだ。見慣れたあの甘い笑顔だった。

「そうだよ」

「あ、あ」

するりと腕の力が抜け落ちた。

「迷信だと一言で片づけられないほど、この村は二百年以上因縁とともに生きてきた。君は村入り様失格だね。あんなに大事にしてあげたのに、残念だ」

静流が傘を傾けて倫也をその中に招いた。残酷な言葉を吐いたくせに自分は肩を濡らしている。

「来たね」

ゆっくりそちらを見ると二両編成の列車が見える。

「行かない」

「行くんだよ」

「嫌だ」

「駄目だよ」

列車が近づく。カンカンと竿が下りる。

静流の手が伸びてきて、背を押そうとした瞬間その背後に人影が立った。先に気付いたのは倫也だったが、すぐに弾かれたように静流も振り返って硬直した。愕然と目を見開いて「どうして」と掠れた声で呟く。

「静流さん、困るわね。勝手なことされちゃあ」

藍色の小紋を纏った清楓が垂らした髪をかき上げて言う。その傍らには初老の白髪の男、浅羽が陰鬱な表情で控え、そして後ろに素人の男衆が従っていた。いつから居たのか。すぐに、そんなことはどうでもいいと思った。何の用かも、どうでもいい。しかし静流は違うようだった。

「浅羽、どういうことなんだ」

「どうもこうも、やはり慣習を曲げては後でどんなしわ寄せが来るのかと寄合の皆様が難色を示されまして。丹海堂さまをお返しするのは残念ながら…と」

「約束が違うぞ、当主の私が決めたことに口出しをするのか。第一、そんな時代錯誤なことをして、今はもう戦前ではないんだ。村内だけで済む話じゃないだろう」

「南地区はほとんど壊滅しているのよ、静流さん。救助隊だけでは追いつかなくて村の男たちはみな出払ってるわ。あの地区はもともと五年前に合併してきた余所だもの。この程度で済んだのよ。でもその出来そこないの男を生きて返したら、今度は私たちの地区がとばっちりを受けるわ」

「清楓、土地神信仰をはなから信じていない君がそれを言うのか」

途端に清楓は苦々しそう視線を逸らしたが、退く気はないらしい。昏い光を宿した瞳が今度は倫也に向けられる。

「詫びて頂くわ、あなたには」

「清楓!」

声を荒げる静流を背後の男が数人がかりで丁重に押さえつけた。

「離せ!」

魂が抜け落ちたようにそれらを静観していた倫也の前に浅羽が歩み寄る。口をきいたことがほとんどないにもかかわらず、この家令には最初からよく思われていない気がしていた。倫也はじっと浅羽を見つめた。

「俺、静流にもういらないって言われました」

「そんなことはございません。まだして頂きたいことがございます」

「倫也、逃げろ!」

静流が拘束されながら叫んだ。それに笑顔を向けてやると、みるみる絶望的な表情が浮かぶ。

背後でガタゴトと東京行きの鉄の塊が行き過ぎるのを知っても、倫也の口元には笑みが刷かれていた。


白い襦袢に、あの月齢祭で纏った着物を羽織らされて座敷牢に通された。最後の晴れ着が女物の晴れ着とは何とも間抜けな話だなと、ぼんやり思った。最後の晴れ着。多分、浅羽たちは倫也を生かしておく気が無い。現代ではあるまじきことだが、厄落としとして、汚れを祓うために災いを招いた村入り様は命を以て償わされる。

「悪く思わないで頂戴ね」

そう言うのは清楓だ。

「何十年も同じことを繰り返してきたんですか、貴方たちは」

「そうよ。静流さんの言うとおり、時代錯誤も甚だしいわよね。ねえ、知ってる? 村はもう世代交代の時期なの。月齢祭はやらない予定だった。若い人たちはあんな迷信信じてないもの。私と静流さんは、ごく自然な形で夫婦になるはずだったのよ」

あなたが来るまではね、と付け足す。

「静流は今どうしているんです? 随分暴れていましたが」

「自分の心配をなさった方が良いんじゃないの?」

素っ気なくかわすと、もう行くわと立ち去る素振りを見せる。

「清楓さん」

「何かしら」

「静流は最後に俺を逃がそうとしました。最初から迷信を信じてなかったのは彼も同じです。なのに月齢祭では俺を選んだ。静流はきっとどちらにしても貴女と相思相愛にはならなかったはずだ。だったらこんなことは無意味でしょう。外部に連絡を取って下さい、警察を呼んで凶行を止めてくれる気はありませんか」

「無いわ。あなたが此処に来てることは誰も知らない。居なくなっても疑われる心配はない」

「静流が悲しみますよ」

「私が一生支えるわ」

「後追いするか発狂するのが落ちだ」

だんっ、と格子が拳で強く殴打された。怒りのために清廉な美貌が歪んでいる。それでも、倫也はこの一途な女性に同情を禁じ得ない。自分が今からすることを思えば、尚更。

「いい気にならないでよ、よそ者の男の分際であの人のことを分かった風に言うんじゃない!」

声を荒げた清楓は、次の瞬間はたと口を噤んで信じられないものを見た人のごとく後じさった。

「あ、あなた、鍵、どうして」

「これですか?」

ゆらりと開いた鉄製の格子から出てきた倫也は手のひらに乗せた小さな鍵を見せる。

「静流から貰ったんですよ」

素早く身を翻す清楓を後ろから腕を押さえ捕まえる。細い華奢な彼女を拘束するのは思ったより容易かった。

「離しなさいよっ、どうする気!」

「すみません」

謝りながら、鳩尾に拳を当て込んだ。これ以外に気を失わせる方法を知らなかったが、小さく呻いて頽れる清楓を見ると済まない気持ちになる。しかし殺されるのは御免だ。すみませんともう一度口にして、自分の着物を頭から足まで被せた。時間稼ぎになればいいのだが。


この世で唯一の愛しい人の声で名前を呼ばわれた気がして、静流は都合のよすぎる己の脳髄に嫌気がさした。

倫也だけはどうしても逃がすつもりだった。

あの豪雨の夜、いやその日の夕刻、園が天候観測台からの知らせを持ってきた時から、その予感はあった。

温帯低気圧の接近に伴う集中豪雨……先代の村入り様、初音が居た頃のように上手く回避できるなんて保証はない。


あのときは運が良かっただけだ。南地区の土砂災害も抗えない自然の驚異だ。倫也に一片の責任もないのは誰でもわかることだ。

しかし、閉鎖されたこの村の権力者である浅羽たちは、今も本気で因習に縛られている。

倫也を村から逃がす。

その決断には正気をなくすかと思った。

倫也を手放す。会えなくなる。彼の存在が無くなるという恐怖で一睡もできなかった。

それでも、生きていて欲しかった。

失敗した他の村入り様のように死んだ倫也を追って死ぬことは最初に考えた。それでもいい気がした。そう着地点を定めようとした静流の耳に、愛しい人の健やかな寝息が聞こえてきた。

眠れない眠れないと最初の頃言っていた人が、その身を安心して預けてくれている。

悲しいのか嬉しいのかも分からないままはらはらと泣いていた。

出来るわけがなかった。自分が心奪われたせいで彼を殺せるわけがない。何の落ち度もない彼を道連れにできるものか。

もし手放して倫也が他の誰かに愛されることは容易に想像できた。あれほど蠱惑的な人には男も蛾のごとく女も群がるに違いない。その途端、憤怒を超えて殺意が膨れ上がったが、それでも倫也を守るすべが分からない。

頭を下げて、土下座して床に額を擦りつけて身も世もなく浅羽に懇願した。村から追いだす代わりに、見逃してくださいと這いつくばって噎ぶ当主に気圧され、一度は約束を取り付けたが結局は囚われた。

血管が浮くほど強く手の平に爪を喰い込ませる。

壊そう、と静流は思い立った。池に放り込んだ石が波紋となって理性も道理も岸に追いやった。

殺すというならその前に皆殺しにしてやる。罰せられようが憎まれようが構いはしない。静流の大事な物を壊すものは滅ぼしてやればいい。

答えがすとんと胸に落ちて、静流はつきものが落ちたような顔でゆらりと立ち上がった。

そうと決まれば早い方が良い。倫也は不安で泣いているかもしれない。ひどい事を言って泣かせてしまった。可哀そうなことをした。

骨董好きの父が収集した日本刀はどの部屋に掛けてあった? 子供心にも美しいと思ったあれがいい、あれは切れ味がとてもいいから。飾り棚の鍵はどの引出だったろう。

「静流」

その声は幻聴だとしても在処を探してしまう魅力に満ちていた。静流もまた無意識にたった今背を向けた窓を振り向いて愕然とした。

「ともや?」

口端を小さく上げることで静流に答えた倫也は、開けてくれと窓を指差した。飛びつくように鍵を下ろして倫也に縋りつく。幻ではない。

「どうやって、どうしてここに」

「見張りを置かないなんて用心が足りないな、おかげでここまで来れたけど。静流、一つあんたに頼みたいことがある」

「そんな事より君を逃がさないと」

「全部捨てて、俺と生きてくれる?」

思いも寄らない提案だった。静流は喘ぐように唇を戦慄かせたが、倫也は焦れたのか答えを待たなかった。最初静流ががしたように、相手の気持ちなど考えない身勝手な男になったみたいに、倫也は悪い笑みを浮かべた。

「来いよ、どうせ無理だよ。俺に狂ってるあんたが俺なしで生きてけると思うな。あんたはもう俺の物だ、言うことを聞いて俺に付いてこい」

有無を言わさぬ強引さだ。これが、本当の倫也なのかも知れない。無鉄砲で恐れ知らずで、予想もしないことを平気でやってのける。そしてとても寛容な人だ。彼は諸悪の根源ともいうべき静流の手を引いてくれる。

倫也の足が目的をもって夜の庭を駆けるのを不思議に思いつつ、静流には彼を信じない理由は何もなかった。



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