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甘夏と青年  作者: ささえ
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世界の色が失われる中、思い出したのは


「こちらが入院のしおりです」


 実家から駆け付けた父親の(ゆたか)と共に病院の待合室で座っていたところ、受付の女性から律の名前を呼ばれる。渡された書類は、当日から始まる入院についての説明書きだ。そこには必要なものや面会時間などといった最低限の情報が分かりやすく纏められている。


「ありがとうございます」


 律は感情の失われた表情で、静かに女性にお礼を伝える。


 律が会社で倒れ病院に運ばれた日以降も高熱は止まず、一度精密な検査を受けることとなった。

 そこで、律に病気が発見される。

 律は病院側の判断により、長期入院することが決まった。結局は倒れた日以降、律が再び職場に顔を出すことは叶わなかったのである。




「必要なものは後から私が持ってくるから、今日はゆっくり休みなさい」


 病室に移りベッドに腰を掛けると、豊から律の鞄とお茶の入ったペットボトルを手渡される。


「……ありがとう」


 転院先の病院――三津総合病院は、()しくも実家から近い場所にあった。高校を卒業して以来ぶりに会う豊に対し、律はどこか余所余所しい対応を取ってしまう。ただ依然として高熱が出ており意識も朧気(おぼろげ)だったため、久し振りの再会に対してもそれ以上の感想が出ることはなかった。

 入院前の独特な空気感や肌で感じる匂い、喉の奥の気管が潰れたのではないかと思う程の息苦しさは相変わらずで、自分の記憶の引き出しから迷うことなく取り出すことができた。



 入院が始まり最初の一週間は、毎晩眠りにつくことが恐ろしかった。目を(つむ)って、そのまま明日をむかえられなかったらどうしよう、などという嫌な想像だけが律の頭の中に(まと)わりついた。

 しかし、病態が落ち着くにつれ慣れというものも出てくるわけで、今となっては日々の一分一秒が永遠のように長く無駄なものに感じ、自分の生に対する価値に疑問を抱くようになる。


 死ぬかもしれないと怯える時には生にしがみつき、生きられると分かった時には終わりたかったのにと残念がる。人が聞いたら激怒されるようなエゴだが、幸せからの急激な環境の変化に、律の心は崩壊寸前だった。


 会社は先日まで休職扱いにしてもらっていた。しかし退院しても独り暮らしができるか分からない体となってしまったため、今の会社への通勤問題も含め諸々考慮した結果、やはり退職という形を取ろうと先日その旨を望月へ伝えた。

 電話先の望月は歯痒さを声に(にじ)ませていたが、律の体調を最優先とし、不必要なプレッシャーとストレスをかけないよう退職の申し出を受諾した。


 勤続年数九年目。全力で走ってこれたと思えた。

 普通に働くということは、体が弱かった律の、それでも戦えるという社会に対する意地でもあった。


 それも叶わず今回の病気の発見。せめて、役職の印字された新しい名刺を自分の目で確かめたかったのだが……。




 ――こんなものか。




 崩れる時は、全てが一瞬で終わるのだ。






   *




「樋口さん、調子はいかがですか?」


 律のベッドを囲む仕切りのカーテンが開かれ、女性の看護師が現れる。柔らかい雰囲気を纏う彼女は律の担当の看護師であり、胸ポケットには『中村』と彫られたバッジを付けている。

 どうやら夕方の検診の時間みたいだ。


「調子は大丈夫です」


 中村が訪れる前から体勢を起こしスマートフォンを弄っていた律。アプリ画面を閉じると、口元だけの笑みを浮かべ中村に言葉を返す。


「それは良かったです。ただ、樋口さんはまだ食欲が戻っていないみたいですね。夕食のご飯の量は今日も少なめにしますか?」


 中村は手にしていたバインダーに目を通し、今日までの律の食事履歴や体調の変化を確認する。


「はい、お願いします」


 入院初日から未だに食欲は戻っていない。きちんと食事を摂らない限り、いくら点滴で栄養を補給しようと活力は湧いてこない。ここ最近は化粧もしなくなったため、尚更顔から生気がなくなって見えているだろう。


 中村が検診を終え病室を後にすると、入れ違いに一人の男性が室内に入ってくる。その男性の向かう先は律のベッドではなく、同じ病室に入院しているもう一人の女性の元であった。

 今の律の病室は相部屋となっており、入り口から奥の窓に向けて二つのベッドが並んでいる。律は入り口側のベッドだ。

 仕切られているカーテンの隙間から横切る人影を捉える。恐らく隣の女性のパートナーなのだろう。


「お見舞いに来たよ」


 カーテンの向こうから、優しくゆったりとした口調の男性の声が聞こえてくる。


「調子はどうだい」


「最悪だよ! 相変わらずベッドが硬くて私を寝させる気もないみたいだね!」


 ハスキーな女性の声が、病室内に響き渡る。女性は癇癪(かんしゃく)持ちなのだろうか、ほぼ毎日のように病室内で看護師に向け怒声を上げている。その上夜中であろうがテレビを大音量で流し、イヤホンからの音漏れも酷い。正直律は彼女に対しあまり良い印象を抱いていなかった。

 ただそれでも男性は週に三、四日はお見舞いに訪れる。見るからに気の弱そうな男性だ、なかなかに上手くバランスの取れた夫婦なのだろう。


 対して律のベッドに人が訪れる時は、点滴の取り替え時と検診時、そして三食のご飯の時間で、いずれも病院に勤めているスタッフたちだ。元同僚からお見舞いに行きたいという連絡を貰ったこともあったのだが、病院が職場から離れていることもあり、迷惑を掛けたくなく気持ちだけ受け取り断った。


 いや、迷惑を掛けたくないとは、ただの良い人ぶった(てい)の良い断り文句なのだろう。

 ただ、今は誰かと連絡を取り合うことも、誰かを(おもんばか)ることも億劫(おっくう)に感じ、自暴自棄になっているだけだ。……付き合っていた寺田とも先日別れを告げ、いよいよ誰との繋がりも無くなった。


 そんな中、唯一豊だけが週に一度、毎週土曜日の夕方決まった時間に病室を訪れ、必要なものは無いか確認をしてくれる。豊は寡黙な人間であり、娘である律でさえも彼の笑った顔は数える程しか見てこなかった。以前律が独り暮らしをしたいと相談を持ち掛けた際も、反対はされず、一言「分かった」とだけ返された。

 そんな豊は仕事をしながらも、帰宅後は同じく病気がちの妻を看病している。その既知(きち)の事実に律は申し訳ない気持ちしかなく、豊は一体どのような思いでお見舞いに来てくれているのか、考えることも怖かった。



 ――これからどうしようか。



 お金の面や、病気を抱えたまま新しい仕事に就くことができるのか、そもそも退院できるかさえ分からない状況だ。先のことを考えるにつれ頭痛が酷くなり、体が拒否反応の合図を出す。今は何も考えないよう、心を守る事に必死だった。



 そういえば――。


 先日屋上で出逢った青年のことを思いだす。



『次からは中庭で日向ぼっこしてくださいね』



 そんなことを言っていたなと思い出し、律はなんとなく、気分転換も兼ねて中庭へ向かうことにした。




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