閉じ込めた過去を認めた時に
「……俺さ、東京に親友が居たんだ。大輝っていう」
智明は閉ざしていた記憶の蓋を開くと、マキに対しぽつり、ぽつりと静かに言葉を零し始める。
「そいつさ、春、自殺したんだ」
周囲は智明に気を遣い、その話題を口にすることをタブーとしていた。恐らく千恵美も和枝から詳細を聞いている筈だが、いまだに智明に対してその件について触れてこない。
智明自身もまた、言葉にすることで大輝との最期の会話を思い出してしまうことを恐れ、考えることを意図的に避けていた。
「そうか」
それまで陽気な雰囲気を醸し出していたマキも、今では神妙な面持ちで智明の言葉を受け止めている。
「だから、もしかするとそれでマキの事が分かったのかも。ほら、身近で死を感じたから、敏感になっているとか」
そのようなことでこの不可思議な状況の説明がつくと本心からは思っていない。智明は冗談っぽく空笑いをする。
「確かにそうかもな。ところで、大輝はどうして自殺なんてしたんだ?」
マキが躊躇なく核心をついてくる。
「分かんない。自殺なんてするような奴じゃないと思ってた。俺よりずっとできた人間で……。でも、最期に俺に弱音を言ってくれていたんだ」
悔しさが込み上げ、智明の瞳が自然と熱を帯びる。
「なのに、俺、あいつを助けてやることができなかった」
大輝の葬式に参列した時は、まだ彼が死んだという実感が湧かなかった。
葬式での愛子は終始自分を責めて泣いていた。輝文も憔悴しきった表情で、そんな妻の肩をずっと支えていた。
『獅々田さん、気を落とさないで。大輝君優しい子だったものね』
参列していた大人の女性が輝文らに悔やみの言葉を掛ける。智明はそんな大人達のやり取りを遠目で傍観する。
優しい子だったからとか、感受性が強い子だったからとか、そんな薄っぺらい言葉で大輝の痛みと苦しみを片付けられることに憤りを覚えた。
葬式から数日が経つと、今度は輝文と愛子までもが心もとない誹謗中傷を受け始める。
やれ虐待まがいの教育中毒やら、不倫問題で家庭が崩壊していたやら、周囲の人間に限らず顔も知らないネットの住民まで、深く傷付いた彼らに追い打ちをかけるかのように見えないナイフで殺しにかかる。
智明が知らないだけで本当に家庭問題があったのかも分からない。それでももう、答え合わせは出来ないのだ。
こんな糞みたいな世界に智明は辟易した。
大輝の自殺が正解だとは絶対に認めない。だが自分もこの醜い世界の一部だと思うと、嫌でも吐き気を催してしまう。
『とんでもないことをしてくれた』
学校で大輝の担任教師と学年主任がそう会話している場面に遭遇した時、智明は思わずその担任教師を殴ってしまった。
『――っざけんなよ! この間までお前らずっと大輝に依存してたじゃねえか!』
不意の出来事にしりもちをついた担任教師の胸ぐらを掴むと、怒りで制御が利かなくなった智明は勢いよく右手を振りかざす。
『車田! やめなさい!』
傍らに居た学年主任が智明の両脇を後ろから掴み上げ、担任教師から無理やり引き離した。
騒動が廊下中に響き渡り、野次馬の生徒達が増えてくる。
『うるせえ! お前らもだよ! 友達じゃなかったのかよ! あいつの話になると気持ち悪いような顔しやがって! お前らが死ねよ!』
『車田!』
周囲の生徒らに暴言を吐く智明を止めるべく、学年主任が智明の右頬を殴った。
『落ち着け、車田。すまなかった』
その後智明と教師らは生徒指導室へと移動し、母親の和枝も学校に呼び出されると、二人して複数の大人達と話をした。
智明に処分は下されなかったが、精神的に不安定とみなされたのか、二週間の休学を勧められた。
『母ちゃん、ごめん』
学校を早退し帰宅した智明は、和枝に対し謝罪する。
『なんであんたが謝るのよ。何も悪くないじゃない』
和枝は学校に呼び出され教師達を前にしても、一度も謝罪の言葉を吐かなかった。事の経緯を淡々と聞き、必要以上の発言をせずにさっさと学校を後にした。
『それよりあんた、あの禿げ頭殴ったって、最高じゃん』
頬の腫れた担任教師の膨れっ面を思い出し、和枝はスカッとした表情で智明の頭を掻き乱すように撫でまわす。
『やめろよ!』
『やめないよー。あーすっきり。大輝に見せてやりたいわ』
気が済むまで撫でた和枝はそっと智明を抱きしめ、今度は優しく智明の後頭部を支えた。
『智明、夏休みはじいちゃんちに行きなさい』
和枝は穏やかな表情でその提案を持ち出す。
『うんと美味しい空気を吸ってくるの。分かった?』
自分の体を智明から引き離すと、にかっと笑い智明の両肩をポンッと叩く。
智明には断る理由がなかった。
実際に和枝の故郷に来た今、少しずつだが心も落ち着いてきたように思える。
「――まあ何かしら辛かったのか、つまんなかったのか。そればっかりは本人じゃないと分かんないしな」
深い思考に陥っていた智明は、マキの言葉を受けハッと現実に引き戻された。
「俺が大輝をここに呼ぶことが出来たらいいんだけど、流石にそんなこと出来ないし。俺今どっちつかずの存在だし」
「そうだよな……、ごめん。マキは好きで死んだわけじゃないのにこんな話してしまって」
「いいよ、まあ死んだのもそういう運命だったんだなって思うし、寧ろ今がラッキー、みたいな?」
あっけらかんと笑うマキに、智明は拍子抜けする。
「マキって軽いよな」
「あー、よく言われる。でもいいじゃん、何事も楽しくいこうぜ」
それはマキの本心なのだろうか。本当は辛いのかもしれない。
だがそういった表情を一切見せないマキに、智明は初めて自分より大人の部分を感じた。
「俺さ、ずっと悔やんでて。勝手に責任感じて馬鹿みたいだけど。でも、本当に親友だったんだよ。それなのにどうしてっていう気持ちと、何で俺が気付いてやれなかったんだっていう気持ちで」
そんなマキが相手だからだろうか、智明はこれまで誰にも言えずに抱えていた弱音をぽろぽろと零してしまう。
「そしたら母ちゃんから、夏休みはこっちでのんびりリフレッシュしてきなって」
「そういうことね。まあ確かに、東京に行ったことはないけどなんか煩そうだしな」
「そう、こっちの方が空気も綺麗だし。それに何より、こっちだと知り合いが居ないから。だから無心でゆっくり過ごせる」
ここなら大輝に関する嫌な言葉や勝手な憶測を耳にすることもない。毎日アルバイトが入り良い意味で忙しく、夜も考え過ぎることなくすんなりと眠りに就ける。
「ここで大輝の死を受け入れ、消化していくのか」
「そういうこと」
といっても、残りの夏休みも二週間を切った。その間に本当に前に進められるのか智明には自信がない。
「大輝のお母さんから、手紙……って言う程でもないか。折り曲げられたノートの切れ端を預かっているんだ。表に大輝の字で俺の名前が書かれてある」
智明は夏休み前に、愛子からその手紙を受け取っていた。
ただの紙切れのそれは、信じられない程にずっしりと重い。
「でも、まだ見れていなくて。今手元にはあるんだけど、怖くて。書かれている内容も、あと本当に大輝が死んだんだって実感するのも。この夏休み、こっちで過ごす間にこの手紙を読むのが俺の目標なんだ」
手紙はいつでも見られるように、外出時もスマートフォンのカバーに挟んである。
毎日抜いたり閉まったりを繰り返している為、そろそろ紙がクタクタになってきた。
「そうか、俺が先に見てやろうか?」
「やめろよ。本当に俺が居ない時に勝手に見そうだな」
「ウソウソ。流石にそれは冗談よ」
重たい話の筈が、マキが相手だと不思議と気持ちが軽くなっていく。
「……なあマキ、死ぬ時ってどういう気持ちなのかな」
緊張が途切れた智明は、両手を後ろの床に突き、リラックスした体勢で部屋の天井を仰ぐ。
「さあ、俺は運よく痛みもなく即死だったからな」
腕を組み考える仕草をするマキ。
「ただ、解放されたくて自殺したんだろ? なら痛みはあっても苦しみはなかったんじゃないか?」
「そうなのかな」
「まあ俺は宗教家でも何でもないから、苦しみとか救いとかよく分かんないけど。本人が選んだんだ。他人がとやかく言うことじゃないしな」
「……そう、だよな。大輝が選択したこと、なんだもんな」
結局の真相は本人にしか分からない。こうして考察されることも、大輝は嫌がるだろうなと思えてきた。
「そう。だからトモが責任を感じる必要は全くないと思うし、大輝もそれは望んでいないと思うよ。という、月並みな言葉しか言えないけど」
「いや、死んでる奴から言われると妙に納得できるわ」
「確かに俺死んでるしな。言葉の重みが違うぞ」
マキは愉快そうにケラケラと笑う。
「本当にな」
智明は当初、マキを到底理解の出来ない人間だと判断していた。しかしマキは智明の心に溜まり苦しめていた黒く重たい石を、いとも簡単に取り除いていく。
マキにずっと抱えていた心の内をさらけ出し、少しずつだが、漸く智明から見える世界が開けてきた。
「あ、プレステあんじゃん。懐かしー。おいトモ、ゲームしようぜ」
テレビの前に置かれているゲーム機に気付いたマキは、突然話を終わらせゲーム機を触り出す。
「おい、勝手に人の部屋漁んなよ」
智明はやれやれと文句を付けながら、だが少しだけ楽しそうに、ゲーム機の準備を始めだした。