【第一章】樋口律は青年と出逢う
ジリジリとした、ぼんやりと、自分がここに存在していることも分からなくなる熱い夏の日射し。
二十代半ばに見えるその女性は、病院の屋上のフェンスにもたれかかり、遠い空をひとり眺める。雲一つない晴天で、きっととても素敵な夏空なのだろう。遠くには海が見え、少しだけべたつく潮風が流れてくる。
「ーー何してるの?」
そんな時に背後から掛けられた聞き覚えの無い男性の声。特に驚くほどではなかったため、ゆっくりと体ごとその声の持ち主の方に視線を移動する。
恐らく大学生くらいか。日光を受け透明感が際立った爽やかな茶髪に茶色の瞳。身長が百七十センチ半ばのその青年は、やはり女性の記憶の中には存在しないであろう人物であった。
「自殺でもするんじゃないかと思って」
言葉の内容とそぐわないヘラッとした軽い表情を浮かべる青年。
「……まさか、そんな事はしませんよ。ここは病院だし、私が自殺したら笑えないでしょう?」
女性は社交辞令用の笑顔を張り付け言葉を返す。
本音を言ってしまえば、青年の言うこともあながち間違いではないのかもしれない。
自殺をするぐらいの絶望を味わったつもりも、自ら命を絶つ勇気も持ち合わせてはいない。だが明日を迎える希望も見い出せない。フェンスの立て付け劣化で不慮の事故にあった悲劇のヒロイン。そんな楽なストーリーを望んでいた節もある。無意識のうちにフェンスに体重を預けていたのかも分からない。
「そうですか……。それなら良かった。声を掛けてしまいすみません」
青年は人懐っこい笑顔を女性に向ける。
「いいえ、こちらこそ心配を掛けてしまってごめんなさい。お見舞いの方ですか?」
「はい、妹がこの病院に入院していて」
「そうですか、優しいお兄さんですね」
女性のその言葉に、青年は微笑みながら首を横に振った。
「いえ、妹が可愛くて仕方がないので」
青年の返事に女性は無言で笑顔を返す。
「俺、結構病院に来ているので、もしまた会えたら話し相手になってもらえると嬉しいです。……あ、それと、あまりフェンスに近付くと危ないですよ。次からは中庭で日向ぼっこしてくださいね。俺もそっちに行くので」
それでは、と青年は手を振り室内へと繋がる扉から去っていく。
つられて手を振り返しながら、青年が視界から消えるまで後姿を見つめていた女性。
久し振りに他人と普通の会話を交わした気がした。急にぼやけた脳内から現実に引き戻された感覚に陥る。
その青年は、女性よりいくつか年下だと思われる。だが今の腐った自分に比べれば、明るくハキハキとした青年の方が、数倍未来あるできた人間に思えてしまう。
だからといって、心がどう動いたわけでもないのだが。
「……戻ろう」
彼女――樋口律は、ゆっくりと自身の病室へ向かい足を進めた。