智明と大輝
「――と、こういう解釈になります」
高齢の男性教師が、よぼよぼの手で黒板に白チョークを打ち付ける。
午前中の授業の疲れが溜まっているのか、はたまた男性教師のゆったりとした口調と動作に睡眠導入の効力があるのか、教室内の生徒らは誰一人騒ぐことなく静かに授業を受けている。
そんな教室の最後列、窓際の席から、智明はつまらなそうに全体の授業風景を眺めていた。
学年が三年に上がってひと月が経過する。最後の高校生活を送る智明達にとって、今年は大切な受験シーズンとなるのだが、周りの熱量に置いて行かれるかのように智明は未だその実感を得ることができずにいた。
頬杖を突きながら指先でくるくるとペンを回し遊ぶ智明。
「じゃあ、今日はここまで」
チャイムに合わせ男性教師がチョークを黒板の溝に置くと、本日最後の授業が終了した。
教師が退出し、各々の生徒が帰宅や部活動に向かう準備を始め出す。
「なあ、今日この後どっか寄らね?」
部活動に入っていない智明は、隣の席の男子生徒に放課後の誘いをする。
「ごめん、俺今日塾だわ」
男子生徒は智明に対し、すまん、と片手を挙げた。
「そっか、分かった」
鞄を手にした男子生徒は足早に教室から去っていく。その生徒だけでなく、智明を除くクラスメイト全員が充実した面持ちで活発的に動いている。最後の大会だったり受験だったり、それぞれが目標を掲げ努力している最中なのだろう。
智明はここ最近になって、クラスの中で疎外感を感じるようになっていた。
「……帰るか」
いそいそとリュックを背負い、教室の外へと向かう智明。
「トモ!」
教室を出て下駄箱に向かい歩み始めたところ、背後から自分の名前を呼ばれ反射的に振り向く。
「大輝!」
その声の主は、智明の小学校からの親友である、獅々田大輝であった。
「トモ、一緒に帰ろうぜ」
トモの元へ駆け寄り横並びで歩く大輝。
大輝は百八十センチ程の長身で、大人びた顔つきの爽やな青年だ。常時寝ぐせの取れない頭で、眠そうな重い二重瞼の智明とは正反対の風貌である。
「大輝、今日部活は?」
「コンクール前だから、一時休むことになった」
「そうか、ピアノ、再来週だったか」
「そう」
大輝の母親はピアノ講師をしており、その影響で大輝も幼い頃からピアノを習っている。これまで多くの受賞歴があり、見てくれの良さも相俟って業界でも名が通っているほどだ。
それでいて高校ではサッカー部に所属し、休みがちでもレギュラーでいられる程の実力の持ち主でもある。
よく自分の相手をしてくれるなと、智明も度々不思議に思うのだが、大輝と過ごす時間は好きなので今でも変わらず交流を続けている。
「トモ、今日何か予定ある? 俺んちで飯食ってけよ。俺の練習が終わってからにはなるけど」
「いいの? 練習の邪魔にならない?」
「全然。クラスが変わってからトモとゆっくり喋れてないからさ、色々話そうぜ」
校門を抜けると、智明の知らない女子生徒二人がこちらに駆け寄ってきた。
「大輝先輩、コンクール私も出ます! 頑張ってください!」
「あと、今度のサッカーの試合も応援に行きます!」
大輝のファンなのだろうか。大輝がありがとうと言葉を返すと、女子生徒らは嬉しそうに顔を見合わせ、その場から離れていった。
「知ってる子?」
「いや、知らない」
最上級生になりますます人気者となった大輝。最早智明にとってそれは見慣れた光景であり、驚くこともなくなっていた。
「お前大変だな」
「どうだかな」
程なくして二人は大輝の家に辿り着く。
「お帰り。あら、トモ君久し振り。いらっしゃい」
玄関の扉を開けると、大輝の母親である愛子が二人を出迎えた。
「お久し振りです。コンクール前なのにお邪魔してすみません」
智明は愛子に軽く会釈をし、挨拶を交わす。
ピアノの講師である愛子は、上品で物腰の柔らかい女性だ。隣に居る大輝を含め、何故ピアノを弾く人は皆知的で品よく見えるのだろうか、と智明は毎度疑問に思う。愛子もまたガサツな智明の母親と仲が良く、二世揃って対照的で可笑しくなる。
「何言ってるの、トモ君はもううちの家族みたいなものよ。遠慮なんかしないで」
偽りのない優しい微笑みを浮かべる愛子。彼女の笑顔は人の心を和らげる魅力がある。
「トモ、じゃあちょっと練習してくるから。俺の部屋で待ってて」
「ああ、分かった。頑張れよ」
「母さん、トモも夕飯一緒に食べるから」
「勿論分かっているわよ」
大輝と愛子はそのままピアノの置かれている練習室へ移動し、智明は二階にある大輝の部屋へと向かった。