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甘夏と青年  作者: ささえ
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心が晴れる音がした




 矢作がいなくなった翌日、早くも次の女性患者が律と同じ病室に入院することとなった。



「初めまして、同室の樋口と申します」


 その患者の入院初日に部屋の中で顔を合わせた律は、早速彼女と挨拶を交わす。


「何かお困りのことがありましたら仰ってくださいね」


 律も患者側の人間だというのに、まるで先輩面で世話好きの自分が顔を見せ、そんな己を可笑しく思う。


「ご丁寧に、どうもありがとう。私はヨネといいます」


 美しく透き通るような白髪のショートカットの女性は、律の挨拶に対し、ふわりと柔和な微笑みを返した。


 ヨネというその女性は、小柄ながらも背筋は伸び、端正な顔立ちをしている。見た目から判断するに恐らく七十歳は超えているだろう。

 それでいて顔にはしっかりと化粧が施されており、穏やかで上品な女性らしい雰囲気を身に纏っている。


「樋口さん、下の名前はなんて仰るのかしら」


「律、と申します」


「律さん……それなら、りっちゃんね。よろしくね、りっちゃん」


 笑って相槌は打ったものの、律にとって渾名(あだな)で呼ばれることはほとんど無かったため、少しだけむず痒い感じがした。






「おはよう、りっちゃん。ちょっとお話ししましょうか」



 翌日からヨネは毎日のように律に声を掛け、自身のベッド脇にあるパイプ椅子へと着席を促すようになる。

 律も初めはヨネの寂しさ故の話し相手をしてあげているような気持ちで接していたのだが、自分より幾つも成熟したヨネにすんなりと心を(ほぐ)されたのか、今では律の方が彼女との会話を心待ちにしている節があった。


 いつも朗らかなヨネには、どこか底の見えない不思議な魅力がある。時代に敏感な気品のようなものを備えながらも、一方で童話の中に登場するおばあちゃんのような安心感を周囲に与えてくれる。


 そんなヨネから出る話の大半は、自分が送ってきた人生についてだ。

 こういう仕事をしていた、こういう人と出逢い、そして子どもに恵まれた。

 とりわけ波乱万丈なストーリーではないのだが、律にとってはそのどれもが魅力的な物語のように聞こえてきた。



「私の夫は先に逝ってしまったのだけれどね、私には長女とその家族がいてくれるから、今も幸せなのよ」


 その日も、ヨネは多幸感に満ち溢れた表情で声を弾ませていた。


 だがそんな彼女の言葉と表情を受け、律はチクリと胸に痛みを覚える。



「りっちゃん?」


「――あ、いえ……」



 母の顔が脳裏を過ったからだ。



「……ヨネさん。私は、母にそう思われてはいないのかもしれません」


 出会って間もない間柄というのにどうしても自分の気持ちが零れてしまい、自虐的に苦笑いを浮かべる律。



「私、母に……父にも、これまで迷惑しか掛けてこなかったです。それなのに、何も返せず避けてしまっていて……」


 自らの、過去の家族との時間を懐古(かいこ)する。


 父の目をしっかりと見たのはいつが最後だろうか。母の笑った顔を最後に見たのはいつなのか。


 他の子よりも面倒が掛かったであろう自分を育ててもらったにも関わらず、この歳になってさえ(いま)だ何一つ孝行をしていない自分に気持ち悪ささえ覚える。



「悲しくて、嫌な思いしかさせていません」


 背徳感に胃の中がぐるぐると軋む。


 すると、俯いていた律の視界にヨネのしわしわの手が伸びてきて、律の手をそっと握った。



「いいえ、りっちゃん。どの母親もね、自分のお腹を痛めて産んだ子が可愛くないわけがないじゃない。そう思えない母親はただの他人よ」



 ヨネは、優しくて温かな笑みを律に向ける。



「りっちゃんは思いやりのある子よ。私みたいな年寄りの話を真摯に聞いてくれるわ。自分の価値を下げないで」



 もしヨネの言う通り思いやりのある人間だとしたのならば、一番大切にすべき人を間違えたりはしないだろう。



 自分は他人を欺瞞しているだけに過ぎない。

 そして恐らく自分自身をもだ。



「私は人との衝突が嫌で、笑って合わせているだけです。」


 律は、自分を都合のいい人間だと自覚していた。

 相手によって求められる自分を演じ分け、誰からも必要とされる人間を造りあげる。

 それなら本物の自分は一体どこにいるのだろうか。

 誰と接している時の自分が本物なのか。肉親を見て見ぬフリし、今目の前にいる相手とだけ笑って過ごす狡猾(こうかつ)な自分が、きっと樋口律の本性なのだ。



「りっちゃんは面白いことを言うわね」



 愉快そうなヨネの笑い声が耳に届く。



「私は色んな人と出逢ってきたの。笑顔が本物か偽物か、その人の優しさが本物か偽物なのか、分からない筈がないでしょう」



 さわさわと、ヨネは握った律の手を優しく撫でる。



「りっちゃんの心の中にどんな負い目があるのかは分からないけどね、(やま)しいことのない人間なんていないものよ。そもそも忘れてしまってもいい感情なのに、わざわざ心を泣かせて自責しているりっちゃんが、他人を思いやらないわけがないじゃない」



 そして今一度、握る手に力を込めた。



「今までに出逢った人や起こった出来事の全てがあって、今のりっちゃんがここに在るのよ。りっちゃは、りっちゃんよ」



 ヨネから紡がれる言葉の全てに、律の心が激しく揺さぶられる。

 まさしく自分は負い目ばかりを感じて過ごしていた。自分の事を好きになれる筈がなかった。

 だが、自分は戦っていたのではないのだろうか。過去に、そして目を逸らしたい現実に。



「こんなに温もりのあるりっちゃんだもの、きっとりっちゃんのお母様も素敵な方なのね」


 ヨネは握っていた律の手をそっと掴み上げ、自分の頬に押し当てた。ヨネよりも、恐らく律の方がヨネの頬の温もりを、人の温かさというものを直接的に感じ取ることができただろう。


 律は視線を上げヨネの目を正面から見つめる。

 優しく包み込んでくれるようなヨネの瞳に、自分の母親が素敵な人だと褒めてくれたその言葉に、目の奥がじんわりと熱くなる。



「……母は、そうですね、料理が上手です」



 (ようや)く言葉を絞り出すも、それ以上続けたのならば涙を堪えることができなくなると察知し、言葉短く口を閉じる。


 何故自分は母に対し負い目しか抱かず、母との思い出に蓋をしていたのだろうか。あんなに温かな食卓を囲んでいたじゃないか。手を繋ぎ、庭の花を愛でていた筈だ。


 愛情から目を逸らしていた自分。母は自分を愛してくれていた。そして自分もそんな母が大好きだった。


 心の奥から、慈しみの(いろ)が溢れ出す。




 ――やっと、思い出した?




 幼い姿をした自分が、やれやれと呆れたように笑った顔を覗かせた気がした。




「そう、それなら早くまたお母様の手料理を食べたいわね」



 ヨネは目尻に優しく(しわ)を作る。



「そうですね、食べたいな」



 律もくすりと笑い言葉を返した。


 あんなに曇っていた心の(もや)も、どこかへ消え去っていったみたいだ。




 ……会いたいな。



 律は長らく帰っていない実家に、そして母親に想いを馳せた。




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