南本優と樋口律
南本優は、入社直後にいじめを経験していた。
原因は彼女が部署の上司に気に入られているからといった、至極些細なものであった。
入って間もない新入社員が優遇されていることは、当然他の女性社員にとっては面白くないことであり、いつの間にか部署内の全女性社員が優を空気の様に扱いだした。残念だが、どこにでもある話だ。
優は決して仕事ができない訳ではない。寧ろ飲み込みが早く優秀な人材だろう。だが幸か不幸か、顔が整っていると女性の妬みも膨れてしまう。それでいて仕事もできるとなると嫉妬の気持ちも増すばかりだ。
元々社交性が高くざっくばらんな性格の優も、いつ終わるか分からない周りからの処遇に、次第に心が壊れていった。
独り暮らしのアパートに帰り着き、何度ひとりで涙を流したのかも覚えていない。毎朝の出勤時、会社に近付くにつれ動悸が激しくなり、何もかもを投げ出し逃げ出したくなる。
確かにどこにでもあるいじめの内容だが、それで済ませられる人間は、いじめられる側の立場になったことが無いのだろう。
遂に限界を迎えた優は、入社から僅か半年で退職願を上司に提出する。
しかしそれに対する会社側からの返答は、部署異動の打診であった。
優にとっては会社に来るだけで苦痛を伴うのだが、環境が変わり彼女達と接する機会がゼロになるのであれば、もう少しだけ頑張ることが自分にもできるかもしれない。
そう心に決めた優は異動を受け入れ、二課で総務を担当することとなった。
異動先の二課は女性社員が少なく、比較的風通しの良い部署であった。その上部署のトップである望月は厳格で公平を重んじる性格なため、部署内の規律の乱れもなく、それぞれが冷静に業務を遂行し自分の職務に集中できているように見える。
優はこの部署でなら、また一から頑張れると思えた。
*
「ねえ、南本さん」
異動してしばらくの期間が経過したある日、自分のデスクで仕事をしていたところ、同じ部署の男性社員から声を掛けられる。
「はい、どうされました?」
優が仕事の手を止め呼ばれた方へと顔を向けると、そこには休憩中と思われる複数の男性社員が集っていた。
「南本さんさ、前の部署でいじめを受けてたって本当?」
突如、優の背筋が凍る。
「マジ?」
「やっぱいじめとかあるんだ」
「女のいじめってやつ? ほんと女って陰湿で怖いよな」
動揺する優が言葉を発せずにいる間にも、彼らは勝手に盛り上がりを見せている。
「南本さん、何かあったらすぐに俺らに言いなよ」
忘れていた、忘れていたかった心の傷が一瞬で蘇る。
好き勝手に言ってくれるものだ。どうせ誰も助けてくれない癖に。
「俺、望月部長に言おうか? ほら、また南本さんがやられたら可哀想だし」
優は視線を下に落としたまま、デスクの下でグッと拳を握り締める。怒りと恐怖の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、この場からすぐにでも立ち去りたい衝動に駆られる。
何とかして言葉を返そうと口を微かに動かすが、ヒュッと息が詰まり過呼吸の症状が始まってしまう。
「――ねえ」
その瞬間、喧騒を一蹴するかのように、凛とした女性の声が響いた。
「そこ私の席なんだけど、どいてもらってもいいかな?」
優を囲う男性社員らの背後から現れたのは、普段隣の席で仕事をしている、樋口律という女性社員であった。
「樋口、戻ってきたんだ」
「うん。今ね」
律はスタスタと彼らの間に割って入り、自分のデスクに鞄を置くとそのまま席に着く。
「もう、ほら、気が散るからみんな帰って」
笑いながら男性社員達を追い払う律。彼女の方が彼らと一緒に仕事をしている期間が長いため、あしらい方も心得ているようだ。
「はいはい、じゃあね南本さん」
「あ、樋口今日も可愛いぞ」
「ごめんだけど知ってるわ。ありがとう」
「さー仕事に戻るか」
少しだけ樋口と会話を交わし、ぞろぞろと仕事に戻る男性社員達。
まるで桜を散らすかのような花風が吹き通り、優が感じていた重苦しく眩暈がしそうな空気が一変した。
優は漸くほっと肩を撫でおろす。ちらりと横を見ると、律は何事も無かったかのようにパソコンを開き業務を開始している。
「……あの、さっきの話、聞いていました?」
優は無意識に口を開いていた。
「ん?」
律はあっけらかんとした表情で優の方へ顔を向ける。
――しまった。
何故自分から余計なことを言ってしまったのか。優は自分の口から発した言葉をすぐに後悔する。
これまで律とは挨拶や必要最低限の仕事の会話しか交わしてこなかった。優が女性に対し苦手意識を植え付けられたばかりだったからだ。
「あっ、いや、その――」
慌てて自分の発言を撤回しようとする優。
だがそれももう遅い。優は顔面蒼白といった表情で視線を泳がせる。
「……前の部署で、何かあったの? それとも、何もなかったの?」
律から、予想もしていなかった言葉が返ってきた。
優の表情と時間が止まる。
「……何も……何もなかったです」
そしてそのまま少しの間を開け、掠れた声で言葉を返した。
律の言葉の真意が汲み取れたからだ。
今更誰かに助けてほしいとは微塵も思っていない。苦しい環境から抜け出せることができたのも、結局は自分でどうにかしただけだ。同情や見世物にされるだけで腹立たしく吐き気がする。
自分はただ、もう一度リセットして一から頑張りたいだけなのだ。
「分かった」
律はそれだけ言葉を吐くと、柔らかな表情を優へと向けそのまま自分の仕事を再開した。
優にとって、その言葉だけで充分であった。
この席なら、この人の隣でなら、何の噂もない南本優としてまた始められると確信できた。
「……樋口さん、私ちょっとトイレに行ってきます」
優はこの職場に残る以上、独りで戦う覚悟をしていた。
……涙など、誰にも見せてやるものか。
例えそれが心を溶かされた温かなものだとしても、簡単に泣いてしまう弱い自分を隠したくて、相手が誰であろうが泣いた姿は見せないという意地があった。
――ただ、久し振りに本当の南本優が顔を出し、ずっと泣きたかった自分の心と素直に向き合えた気がした。