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甘夏と青年  作者: ささえ
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見えているものといないもの





「ねえ! ちょっと!」


 二十一時の消灯の時間を迎えてすぐ、律の病室内に同室の女性の声が木霊する。


「あんたしかいないでしょ! 無視するんじゃないよ!」


 もしかしなくても隣の女性は自分に話し掛けているのだろうか。律は恐る恐る返事を返す。


「私ですか?」


「そうに決まっているだろ! 全く、これだから今どきの若いやつは」


 ぶつぶつと文句を言われているが、この会話が女性と交わす初めての会話の上、遅い時間も相俟って律の脳内処理が追い付いてこない。


「どうされましたか?」


 取り敢えずベッドから上半身だけを起こし、彼女との間にある仕切りのカーテンに向けて声を発する。



「あんた、食事制限はあるのかい?」



 ……こんな時間にわざわざ世間話を?


 女性の意図が分からずに困惑する律。


「いえ……ないです……」


 律がそう言葉を返すと、カーテン越しにガサガサとビニール袋を漁るような音が聞こえてきた。

 そして間もなく律のカーテンが開かれると、手に何かを持つ女性が現れた。


「それならこれやるよ」


 そう言われ彼女から差し出された物は、透明なプラスチック容器であった。

 中には固形の食べ物らしきものが入っている。消灯しているため視覚からはその食べ物の種類までは判断することができないが、微かに香ばしいお肉の匂いが律の嗅覚を刺激した。


「うちの旦那の手作りの唐揚げだよ。少し冷めちまってるけど、ここの飯に比べたら天と地の差だね」

 気の強そうな顔つきの女性は、暗闇でも分かる程のニカッと豪快な笑みを浮かべ、律の手にその容器を預ける。


「いいんですか?」


「いいんだよ! たまにはガツンとくるやつ食べなきゃ元気になんてなるもんか。あんたもこれ食って早く元気になりな」


「あ、ありがとうございます」


 気圧されながらもお礼を伝える律。


「美味しそうな匂い……。旦那さんはお料理がお上手なんですね。早く食べたいです」


「今食べなよ。早い内が美味しいから」


「え……」


 社交辞令で早く食べたいといったものの、まさか今勧められるとは思いもしなかった。交流もない赤の他人が作った手料理だ。視覚的な確認ができない状態では流石に口に入れることを躊躇してしまう。

 律は覚悟を決めて唐揚げに刺さっている爪楊枝を手に取り、そのまま口に含んだ。

 



「……すごい、美味しい!」


 するとその唐揚げは律の予想を遥かに凌駕する美味しさであり、無意識の内に賞賛の言葉が律の口から零れていた。


「だろう?」


 律の反応を受け得意げに笑う女性は、そのまま律のベッド脇の椅子に腰掛ける。


「なあ、あんた仕事はどうしてるんだい? 独身か?」


「一人です。仕事も今はしていません」


「そうか」


 椅子に座る女性は、まるで律が抱いていた横暴な振る舞いの印象が一変したかのように、柔らかな態度で律に問い掛け始める。



「私はさ、こう見えても会社の責任者をしているんだ」


 女性の意外な真相を受け、律は容器を手にしたまま目を丸くする。


「そうなんですね、凄い」


 成程、というか、道理で、というか。

 自己が強く変わった人だと思っていたが、会社を持っていると聞くとそれも腑に落ちた。きっと誤った認識なのだろうが、世の中の社長や会長ともなると変わった人が多い印象だ。

 だがそれにしても、よく部下たちは傍若無人な彼女についてくるなと、尊敬と同時に不憫に思う。


「そうなんだよ。私はどうもこういう性格だ、いい社長ではないんだろうよ」


 まさか思っていることが顔に出ていたのかと、律は慌てて首を横に振った。


「たださ、私の会社にもあんたぐらいの年の子たちがいっぱいいるからさ、せめてその子らの生活だけは守ってやりたいって思うのさ」


 部下たちの顔を思い浮かべる女性の表情は、経営者というより、優しいお母さんの顔といったものに近かった。


「こんな私についてきてくれてる訳だからな、責務は果たさなきゃな」


 どこか遠くを見つめながら穏やかに言葉を吐く女性。それはまるで自分の責任を自らに言い聞かせているようにも見えた。単なる一般社員に過ぎなかった律にその重圧は理解できないが、部下を守り部下の家族を守る経営者で居続けることが如何に大変なことかは想像できる。



「なんだか、格好いいですね」


「全く。いつも綱渡りで生きてるようなもんだよ」


 けらけらと笑う女性。律にとって未だに名前も分からない彼女は、どうやら律の考えていた人物像とは少しばかり相違があるのかもしれない。だからといって普段の無遠慮な言動はどうかと思うのだが、多少は見え方も変わってくるだろう。



「あんたもさ、早くいい伴侶を見つけて、しゃんと楽しみなさいよ」


 よっこらせと、重たそうに腰を上げる女性は、律に一言だけ言葉を残し自分のベッドへ戻ろうとする。


「はい。ありがとうございます」



 去り行く女性に律がお礼を伝えると、女性はすぐにベッドの中に潜ったのか、二人の部屋に再び静寂が訪れた。


 それにしても驚きだ。律は自分の存在が同室の彼女にとっては厄介でしかないと思っていた。今起きた会話を含めた出来事は、律の寝ぼけた妄想だったのではと思える程に予想外の出来事であった。自分の中で彼女に対し厄介な人というイメージが先行し、当人の人となりを知ろうともせず敬遠していたのだ。今回の件で特段好意を抱いた訳ではないのだが、それでも今後は挨拶ぐらいはきちんとしようと、少しだけ歩み寄ってもいいのかなと思えた。


 いつもの日常にはない出来事に興奮し、今夜は眠りにつきにくくなると踏んだ律であったが、案外すんなりと、そう時間も経たない内に律は眠りに落ちていた。






   *



 律と同室の女性とのやり取りから一夜が明ける。

 その日の律は起床後珍しく体調が悪く、朝食を残し直ぐに横になっていた。昨夜の唐揚げのお礼も兼ねて同室の彼女に挨拶をしようと考えていたのだが、体を起こすことができずに会話の機会を逃してしまう。


 だが、まだまだ時間はある。日中体調が良くなったら、まずは表の表札から彼女の名前を確認しよう。そしてそのままお礼を伝えに彼女に声を掛けに行くのだ。

 そのようなことを考えながら、律は再び眠りにつく。



 そうして次に目が覚めたのは、正午過ぎであった。


 体調は落ち着き体も軽い。これなら自由に行動が出来そうだ。

 律はベッドから起き上がると、早速表札を確認しに病室の外へと向かった。



 そこで、ひとつの違和感に気が付く。




 ――表札に、自分の名前しか記されていないのだ。



 急いで病室内へ戻り、女性のカーテンの中を覗く律。

 すると目に飛び込んできたのは、一切物が置かれていないテーブル棚と、シーツが綺麗に張り直されたベッドであった。



「あら、樋口さん。起きられたのですね。調子はいかがですか?」


 タイミング良く巡回に訪れた中村が、律の姿を見つけ声を掛ける。


「体調は大丈夫です。あの、同室だった方は……」


「矢作さんですか? 今日から入院先が変わりました」


 ……入院先が変わった?

 居なくなった理由として真っ先に思い浮かべた可能性は退院だったのだが、どうやら違ったらしい。

 だが、何故わざわざ病院を変える必要があったのか。


「もしかして同室の私が嫌で……、迷惑を掛けていたとかでしょうか?」


 律はおずおずとした態度で中村に問う。


「いいえ違いますよ。詳しくはお伝えできないのですが、より環境の整った病院で治療をすることになったのです」


 今より更に医療設備の整った病院での治療。その事実がどういう事を意味するのか、律は反射的に考えることを止めた。

 転院が昨日今日で決まることはないだろう。本人にも早くから知らされていたに違いない。



「そうなのですか……」


 それなのに昨夜彼女と会話を交わした際に、そのような素振りは一切見受けられなかった。





『元気な人はここにはいないよ』





 昨日のマキの言葉が律の頭の中を過る。




 心臓を、誰かにぎゅっと掴まれたような気がした。





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