ゆっくりと、顔を上げる
「マキ! さっきまでね、ここで小さな女の子と話をしてたの」
「へえ、この時間に珍しいね」
二人は会話を交わしながら近くのベンチへと移動する。
「ずっと入院していて、退院の目処もついていないみたい」
「そうなんだ」
ベンチに並んで腰掛ける二人。律は両腿に手を添えながら視線を落とす。
「私さ、その子に、頑張るねって言わせちゃったの。無責任だよね」
自嘲気味な笑みを浮かべる律に、マキは不思議そうな表情で首を傾げる。
「それのどこが無責任なの?」
「だってさ、もうきっと充分に頑張っているじゃん」
律は腿に添えた両手をぎゅっときつく握りしめる。
「苦しい思いをして、それでも健気に笑っているのに、まだあの子を頑張らせないといけないの?」
さくらが一体何をしたというのだ。こんなに小さな頃から注射の痛みに慣れてしまって、同年代の友達ではなく大人達に囲まれて過ごして。
……そして、自分のような人間になってしまったら――。
「それは……死ねって言ってるの?」
マキの不謹慎な言葉が耳に届く。
「そんなこと言っていない!」
律は怒りを隠すことなく勢いよくマキの方へ顔を向け、怒声を浴びせてしまう。
しかしすぐに我に返ると、落ち着きを取り戻し、ぽつりぽつりと言葉を落としていく。
「ごめん……ただ、応援とか、励ましとか、それが苦しい時もあるから」
できるよ、とか、大丈夫、とか。
相手の何を知ってそんな言葉を吐けるのか。
私の何を知ってそんな言葉で刺せるのか。
「律は卑屈になりすぎだよ」
マキは穏やかな表情で律に言葉を掛けた。
「その子が頑張ろうって思えたならそれでいいじゃん」
両手を上に逸らしてグッと背伸びをするマキ。
「律が、頑張ろうって思えた時に、頑張ればいいよ」
そしてそのままストンッと腕を下ろすと、律に対し笑顔を見せた。
律の心が、マキの温かな言葉と表情によって解される。
さくらがこの先どういう人生を歩むのかは分からない。ただそれでも今、笑顔で明日の事を考えてくれたのならば、それだけで良いのかもしれない。
そもそも自分の言葉がそこまで彼女に影響を与えると思ったことが烏滸がましいのかもしれない。さくらにはこれからまだまだ未来がある。さくらにとって律との出逢いはほんの一ピースで、きっと今日の出逢いがなくとも彼女の人生に影響はないのだろう。結局は自分が自分で切り開いていくのだ。
ただ、さくらにとって律との出逢いは小さな出来事でも、律にとってはさくらとの出逢いは偶然ではない、大切なきっかけとなる気がしてならなかった。
「あーあ、あんなに小さい子が頑張っているのに、ほんと、最近の私はひとりで不貞腐れて恥ずかしくなってきた」
吹っ切れたような表情で口を開く律。すると律の言葉を聞いたマキが可笑しそうに笑い出す。
「もう拗ねなくていいの?」
マキはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「……長い間拗ねていてどうも悪かったですね」
律は不機嫌に見えるように返したつもりだったが、堪えきれずに少しだけ笑いを零してしまった。
マキを相手に会話をすると、気持ちが若返る気がする。マキが他の同年代に比べ大人びていることもあるのだが、自分がマキに対しそれ程までに心を許している自覚もあった。
「元気な人はここにはいないよ」
マキがぽそりと呟く。
「どうしたの?」
マキの言葉を聞き返す律。
「病気だったり怪我だったりがあるから皆ここにいるんだ。一見笑顔の人でも元気な人はここにはいない。だから無理して自分を騙さなくてもいいと思う」
珍しく真剣な面持ちで言葉を紡ぐマキ。それはきっとマキなりのフォローなのだろう。毎度のことだが、マキの言葉にはどこか温かみがある。
「……うん。うん。頑張ろう」
律は数回、小さく頷く。
具体的に何を頑張るのかは分からない。この先のビジョンも未だに見えてこない。ただ、これから続くであろう未来から目を逸らし、逃げ道を選ぶことだけはもう辞めよう。
「律は頑張ってるよ」
マキは正面を向いたまま、律が予想もしていなかった言葉を発した。
「何が分かるの」
「何でも分かるよ」
何の根拠もなく、それにしてはあまりにも優しい表情で言葉を紡ぐマキに、律は何故だか涙が出そうになり、隠すように早めに会話を切り上げ病棟に戻ることにした。