うたかた
#四題茶会
8月お題
・わかってくれなくていい
・ぽたり、ぽたり。
・祭
・赤いおべべ
子供の頃、家に水槽があった。
小さなアクアリウムなら作れるくらいの、ごく一般的なサイズの物だったはず。
けれど幼い私にはそれはとても大きなものに見えていて、自分の手がギリギリ届かない場所に置かれていたせいもあってか、〔あそこは特別〕なのだと感じていた。
古い時代には父の趣味に。私が大きくなってからは、ザリガニやメダカがそこで暮らすために。
水槽は何年も何年も家にあったはずだけれど、あれはどこへいってしまったのだろう?
もう何年も見ていない。
かつて私の大切な友達が居たあの水槽を。
倉庫のどこか深くでひび割れ朽ち果てているであろう、あの〔特別〕を。
「ここに人魚が居るの」。
こんな与太話を誰も信じてはくれない。親も、友達も。
子供だった私は、おかしなことを言う子、がどんな扱いを受けることになるのかなんて知らなかった。
だから何度もあの子の話をしては、時に笑われて時に叱られて。それでも理解してほしかったから懲りずに彼女のことを語り続けた。
それをやめたのは一体いつの夏だったろう。
最初はあやすように笑っていたおばあちゃんは、そのうち私を叱りつけるようになって。「妙な育て方をしたものだ」と両親を責めていた。
そうなると両親は私を心配し始め、いずれやっぱり叱るようになった。
「おかしなことを言わないで」「どうして普通に出来ないんだ」「お前のせいで母さんに」「おばあちゃんが言っていたの。あなた、また」
挙げ句病院へ引き摺られそうになって、私は口を噤むことにしたのだ。
どうやらあの子の話は〔おかしなこと〕で、それを言うばかりの私は〔悪い子〕だ。
私は理解されることを諦めた。もう、わかってくれなくていい。そう思った。
けれど、口にしないからといってあの子は消えたわけじゃない。
彼女はそれからもずっと水槽の中に、居た。
朝起きたらそこに居た。と言うのが正しいように思う。
先住者だったメダカは間違いなく同じ水槽に居たし、そもそも彼女は多分、メダカなどではなかった。
数匹たった数百円で買い求めたメダカたちは早々に斃れ、あの頃にはもう一匹だけになっていた。
身体に較べて広すぎる部屋で所在なく泳ぐのが可哀想だった。新しい子を買ってきてあげようと考えていた。
その矢先。朝の餌やりに水槽を覗き込むと、既にソレは居た。
大人の親指くらいの小さな身体は人間そのものだったけれど何も身につけておらず、何より腰から下は魚だった。
「……出目金?」
確かそう呟いた。人魚?ではなく。
突然あんな異形を目の前にして開口一番そんな言葉が出てくるなんて、我ながら豪胆すぎる気もする。
それにアイデンティティとも言えるあの飛び出た目はなかったのだから。ただ、尾鰭がひらひらと大きくて、私の乏しい知識では当て嵌まるものがそれ以外に見つからなかった。
声を上げてしまったことになんとなく失敗したと感じて、慌てて掌で口を塞いだ。でも遅かった。
頓珍漢な発言はしっかりソレに届いていたらしく、水の中を揺蕩っていた身体を止めちらりとこちらを見た。
そして笑うのだ。何か言うわけではなく、水面に顔を出すことさえせずに、少しだけ濁った水の中で。
その笑顔は女で子供な私でも熱をもつような表情で、大人になってから「あれは〔蠱惑的〕な微笑みだった」と知った。
そんな微笑みをひとつ寄越して、何事もなかったかのようにソレはメダカと並んで泳ぎ始める。心なしか、いつもよりメダカが元気なように見えた。
これが、あの子との出会い。
次の日もその次の日も小さな人魚は水槽に居た。メダカと遊んでいたり水草と戯れていたり。底に敷いてある小石をつまらなそうに並べていたりもした。
水槽の掃除をする時には、掬おうとせずとも網の中に入ってきてくれた。メダカの方には苦労させられるというのに。
食事は魚の餌を食べていた。両手で持って、ちまちまと一つだけ。
ある時訊いてみた。「ごはん、それだけでいいの?」
「美味しくないもの。」
喋った。彼女が突然現れてから一ヶ月ほどのことだった。
「……喋れるの?」
「覚えたの。貴女や他の人。よくそこで話してるから。」
確かに水槽は居間の近くにある。聞こえていてもおかしくはないだろう。
「貴女、嫌われてる?」
今度は質問される番だった。
「そうなのかもしれない。」と答えた。
「あなたの、ええと……なんて呼んだらいいかわからないけれど、あなたのことを、お父さんとお母さんとおばあちゃんに教えてあげようって思って。
でも、おかしいって。メダカしか居ないって。変なことを言うのはやめなさい、って……。」
ふう。と、彼女が息をつく。小さな泡が水面まで届いて消えた。
その後を追うように泳いで、波紋の中心に潰れそうなほど小さい綺麗な顔が浮かぶ。
「そういえばそんなことしてた。」
水のせいでくぐもっていた声は明瞭になって、顔だけじゃなく、なんて綺麗な声なんだろうと思った。
「御伽話を信じる大人なんて居ないわ。」
「あなたは御伽話なの?」
「人魚は御伽話なんでしょう?」
そう言ってクスクス笑う。「やっぱり人魚なんだ!」と言うと、また笑った。
「ここから上は人間と一緒。」自分のお腹辺りに添えた手を、すうっと頭の上にあげる。
「ここから下はあの子と一緒ね。」トプンと潜ってぱしゃりと跳ねて見せる。大きく広がった赤い尾鰭から水飛沫が飛んだ。
「これが人魚っていうものでしょう?」
そうよね、と二人して笑った。八月の終わりの頃だった。
始めに言葉を交わした日から、あの子と話すのが日課になった。
話すと言っても大抵は私が質問するばかり。あの子はそれに答えてくれる。
教えてくれたことはたくさんある。
魚とも話が出来ること。同居相手であるメダカとは仲良くしていて、曰く、一匹だった時もさして寂しくはなかったこと。
人魚は泡から生まれること。世界中の人魚と記憶や経験を共有しているから、私のこともみんなが知っているのだということ。これはなんだかとても恥ずかしかった思い出がある。
「魚が一匹の場所でしか生まれないの。」と教えてくれたこともある。
水槽でも、海でも川でも湖でも、一定範囲に他の魚が棲んでいないことが条件らしい。だからなかなか生まれることはないんだとか。
御伽話のように不死身なわけではないし、その肉を食べたからと言って不老不死にもなれない。
「それに、どちらかと言うと寿命は短いと思うわ。」
「どうして? 食べられてしまうの?」
理由を訊いても寂しく笑うだけで、それは教えてもらえなかった。自分たちでもわからないのかもしれないと思った。
伝説の通り歌は上手なようで、ねだってはよく歌ってもらった。知らない言葉の変わったメロディだったけれど澄んだ声音は聞いていて心地良かったし、何よりも歌っている彼女の姿が好きだった。
私もお返しに拙く歌った。当時見ていた教育番組で流れていた金魚の歌。
「赤いおべべが綺麗ねぇ」と言うのが、彼女にぴったりだと思った。
初めて歌った時「おべべってなぁに」と訊ねられて、分からなかったので調べた。次の日に「お洋服のことよ」と教えてあげた。「これは服じゃないわよ」なんて笑っていた。
人魚の寿命について話していた日の夜。あの時の笑い方がひどく気になって、私は眠れずにいた。
存外騒がしい夏の虫が網戸の向こうではしゃいでいるみたいだった。
あの子はもう寝ているだろうか。布団を抜けて水槽まで向かうと、人影があった。
眠って動きの鈍いメダカを見つめている影。足の先まで人の形だったけれど、彼女だとすぐに分かる。
「……人になれるの?」
私の声に振り返るとその長い黒髪が空気を薙いで、飛んできた水滴が頬にピチリ。
「少しだけ。隠してたわけじゃないわ。」
そんなこと思ってないと言う途中で、彼女が人の身で裸だと気付く。
少しだからってそんなんじゃあいけない。せっかく綺麗な姿なのだから。
「ちょっと待ってて!」
洗面所でタオルと念の為の水桶を引ったくって、おばあちゃんの衣装箪笥から赤い着物を一枚拝借して戻る。今のあの子に赤はないけれど、やっぱり赤が似合うのだ。
急いで持ってきた着物を羽織らせようとすると、
「濡れちゃうわ。」
と押し退けようとする。
「いいから!」
絶対に似合うから着てほしかったし、それに、こんな綺麗な身体を剥き出しにされていては目に毒だ。
強引に押し付けられた着物を素肌に羽織って「赤いおべべ、ね。」とゆっくり一回転して見せた。
羽織っただけの裾がひらりと舞って、水槽で見る彼女の姿そっくりだった。
「……昼間の話なんだけれど。」
彼女は着物で私はパジャマ。アンバランスな格好でなにともなく水槽の前に座り込んでいる時、あの子は語りだした。
「人魚が死ぬのはね、本当に御伽話になった時なの。」
「それは、どういう意味?」
「御伽話を信じる大人なんて居ないって言ったこと、あるでしょう?
貴女はまだ幼いから、私たちのようなものを疑わない。だから私が生まれた時、私のことが見えたの。
でも、人間は成長するといろんなことを忘れてしまうわ。いろんなことを忘れて、いろんなことを信じなくなる。そうやって身を守るんですって。
人間にとっての私たちは理解の出来ない恐ろしいものだから、怖くて、そのうち記憶からも消してしまうの。
自分と違うもの、理解出来ないもの、そういうものを受け入れられない生き物だって。人間はそういう生き物なんだって聞いたわ。
そして私たちは他のものより姿も人間に近いから、影響を受けてしまうのね。きっと。
御伽話はね、語り継がれなければ、人の記憶に残らなければ、存在しないのと同じなのよ。」
「それは、それは、私がそのうちあなたを忘れてしまうって、そう言ってるの?」
「……そうやって大人になるの。」
そう言ってからあの子は目を伏せてしまって、私も黙りこくってしまった。
二人で俯いている時、水槽から低い音が聞こえていた。
それから、既にたっぷり水分を吸ってしまった着物から垂れる水の音。
ぽたり、ぽたり。ひたり、ひたり。
その音が秒針のように聞こえて、聞き続けていたら本当に、自分が大人になってしまう気がした。
「そんなこと、ないわ。」
「忘れたりなんかしない。」と見据えた私の目を見返して、長く長く見つめ続けて、そうしてあの子は、
少しだけ笑った。
「おかあさーん!」
聞き慣れた声にハッとして振り返る。雑踏の中、頭ひとつ分大きな身体に手を引かれて娘が近寄ってくる。
「歩くの早いよ。迷子になったら大変だろ。」
「ああ……うん、ごめん。
ちゃんとパパとおてて繋いで、えらいね。」
赤い浴衣姿の頭を撫でてやる。子供ならではの柔らかい髪がくすぐったい。
遠くからは笛の音。
それと喧嘩みたいな声もどこからか。危険があってはいけないから近付かないようにしないと。
とっくに日は落ちているのになめるような暑さが続く。時折吹く風が汗を冷やして気持ちがいい。
焦がしたソースと甘い飴菓子の匂い。聞き取れない誰かの声に下駄の音。目が眩む提灯の明かり。
五感の全てを刺激するような空間のせいか、つい懐かしい思い出に取り込まれてしまったらしい。
あの夜の後。あの夏を過ぎて冬を越えて、春に私は小学校に上がった。
その間にメダカは死に、水槽にいるのはあの子だけになっていた。
学校であった話をしたり彼女のためにごはんを変えたりして、誰にも話せない充実した生活だった。
けれどその〔充実〕はいつしか形を変えた。
勉強をして部活をして友達と遊んで恋をした。そうしながら時が流れて大人になった。のだろう。
忘れたわけじゃない。今だってハッキリ思い出せる。
疑ったわけじゃない。だってあの子は居たはずなのだから。
それでも人魚の姿は水槽から消えた。中学生になった年の夏だった。
寂しくなかったことが寂しくて、私は私のためだけに泣いた。
「あっ、きんぎょすくい!」
はぐれないように繋がれていた両方の手を振り解いて、娘が屋台へと走っていく。
あわせてふわふわ揺れる兵児帯を目印にサンダルを鳴らして追いかけた。
追いつくと、広く平らな水桶の前でしゃがみ込んだまま期待に満ちた眼差しを向けられた。
「わかった。一回だからね。」
言いながらおじさんにお金を渡して、ポイを片手に娘の隣にしゃがみながら言った。
「……でも、水槽に入れるのは一匹だけにしておこうね。」