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別れの情景

別れの情景Ⅳ 「ラピスラズリ」

作者: 夏木智

もし別れが悲しいのなら、それはその出会いの素晴らしさの裏返し。そして、出会いが本当に素晴らしいものなら、別れの悲しみはきっと幸せなのかもしれません。

キスされるのだと思った。

けれど、両肩を抱き寄せ、息がかかるくらい顔を近づけて、先生はこう言っただけだった。

「忘れないよ。ゆかりん。君のこと……たぶん、一生」





 初めて会ったときに恋をした。もしも、私の気持ちを「恋」と呼ぶなら。


 高校の入学式が終わって、教室に入ると、みんな緊張して座っていた。私も、高校の真新しい制服のにおいに包まれて、新しいクラスメートや新しい先生がどんな人なのか、どきどきしていた。ガラッと扉が開く音がした。あわて気味に入ってきたのが彼だった。黒い式服に白いネクタイを締めていた。ネクタイがちょっと曲がっていたのがおかしかった。

「はじめまして、1年3組のみなさん」と彼は、何か恥ずかしそうに言った。「えーと、みなさんに会えてとてもうれしいです。ぼくは、一年間、君たちの担任をすることになった雪村と言います。あのね、君たちの先輩たちは『ユッキー』って呼んでくれたので、よかったらそう呼んでください。で、あの、もしよかったらぼくもみなさんのことをあだ名で呼ばしてもらっていいかな。嫌でなかったら、あだ名を教えてください…なんていきなり言うと、へんなやつと思われちゃうかな。ま、へんなやつですけど…」

 決して若いとは言えなかった。たぶん三五か、もしかすると四〇歳ぐらいかもしれないと思った。今風のイケメンでもなかった。ただ、笑顔と、一つ一つのしぐさがかわいかった。それだけだった。理由を聞かれたら、私には答えられない。でも、その時、私は雪村先生に恋をした。

 クラス代表に立候補者がいなくて、先生が困っていた時、私は思わず手をあげていた。そんな勇気があるなんて自分でも少しびっくりだった。

ホームルームが終わった後、代表は残るように言われて、職員室につれて行かれた。廊下を歩くと、すれ違った何人もの先輩が先生に声をかけてきた。

「ユッキー、今度、一年の担任なの?」

「がんばってね」

「先生、人気あるんですね」

というと、先生は軽く首を振った。

「全然ないよ、ぼくは頼りないから…こんな年になってもドジばっかりなんだ。だから、しっかりした人に代表になってもらってよかった。頼りにしてるからね…ええと、よかったらあだ名教えてくれる?」

「あだ名ってないです。友だちは『ゆかりん』て呼ぶけど」

「かわいいね。じゃあ、ゆかりんて呼んでいい?」

「いいですよ」

 私は胸があったかくなる気がした。

「私も先生のこと、ユッキーって呼びますね」

 先生は本当にうれしそうな顔をした。私もうれしかった。


 先生にすてきな奥さんと子どもがいることを知るのに時間はかからなかった。それを聞いても、私はたぶんそれほどがっかりはしなかった。勝手に好きでいるだけで十分だと思っていたから……一五才の私は、好きな人がいて、その人の近くにいられるだけで幸せだった。授業の時、いつも見つめていた。遠慮なく見つめていられるのはその時だけだったから。生徒にものを頼むのが苦手な先生だったので、自分から率先して仕事を引き受けた。先生の役に立つのが好きだった。ありがとうって言ってもらえるだけでうれしかった。

 

 そんなのほんとの恋じゃないよと言う人がいたら、それは正しい。

 二年生でも、たまたま雪村先生が担任だった。私はもちろん喜んだが、二年生になると、私にはこの恋が苦しくなってきていた。

 何故なのか、うまく言えない。私は、先生も私を好きになってほしいと心のどこかで思うようになっていた。無謀な望みとわかっていても、両想いになりたいという気持ちがなぜか胸を焦がすようになっていた。会いたい、少しでも近くにいたいといつも思っているくせに、先生の前にいると胸が締め付けられて逃げ出したくなるという、矛盾した苦しさに付きまとわれるような気分の日が多くなった。授業中でさえ見つめるのが苦しくなって、特に先生がこちらを見ているような時は、窓の外や机の上に視線をそらすこともあった。

 相変わらず代表を引き受けていたので、二人きりで話す機会も多かったのだが、表面は明るく取り繕っているつもりでも、一年生の時のように陽気に話すことができなくなっている自分を感じていた。それでも、何かと先生と会話をし、先生の役に立つことをするのはうれしかった。授業も楽しみで、勉強するのも楽しかった。悲しみと喜び、希望と絶望を同時にのみこんだ切り裂かれた日々だった。もう諦めて別の恋を探そうと決心してみたり、思い切って先生に告白してみようと考えてみたり、でも、結局、何もできないことは自分でもわかっていた。このまま一生、片思いで終わるんだとずっと思っていた。そんな時、2年生ももう終わろうとするころ、ある出来事があった。

 何かの機会に私がピアノが好きだという話になって、「連弾してみよう」という話になった。だれもいない音楽室で一つのいすに並んでピアノを弾き始めたが、先生の真横に座って、しょっちゅう腕やひじや指が触れあっていると、好きな気持ちが胸をキュンキュンさせて、胸の奥がどきどきしてきて、音楽どころじゃない気分だった。それでも、いっぱい間違いながらも、ドリー組曲を5曲目まで引き終わったとき、先生は不意に鍵盤の上の私の手をとった。そして、私の顔を真正面から見た。痛いぐらいの視線だった。

「ありがとう、ゆかりん。君のピアノは、ほんとにすてきだね。君は、何をやっても、本当にすてきだ。君みたいな生徒に会えて」

 先生は、私の手をいっそう強くつかまえて、何かを言いかけて、しかし、何も言わずにうつむいた。その一瞬、もしかすると先生も、私と同じ気持ちなのかもしれない、という考えが頭をよぎった。けれど、先生は手の力をふっと緩めると、顔をあげて微笑んだ。

「本当にうれしいよ。今日は楽しかった。でも、ここまでにしよう」

「はい」私は、握られた手を握り返した。あの時の私は、その手を放したくない気持ちでいっぱいだった。いっそ胸に飛びこんだら、先生も応えてくれるような気がして、胸がどきどきしていた。

「先生、私」

と言いかけた。

「好きです」

という言葉が口先まで出て、しかし、一瞬ためらった。

 けれども、先生は私を振り払うかのようにさっと立ちあがった。先生は楽譜を片付けて、ピアノのふたを閉めた。そして、宙ぶらりんだった私の手をもう一度握りしめて、私を見つめた。

「ゆかりん、君みたいにすてきな人に出会ったことはないよ。よく気が利くし、頭もいいし、美人だし、なにより、やさしいしね。君には、ぜひ幸せになってほしい。今の君と、未来の君と、両方を幸せにするために、ぼくはできるだけのことをしてあげたいと思っているんだ」

 先生は自分の気持ちをおさえるように唇をぎゅっと結んでいた。

「ほんとに楽しかった。また次の機会に続きをやってね」

 私は心がじんじんして、音楽室の廊下を先生の隣を歩きながらも、うまく話すことができなかった。さっき、思い切って自分の気持ちを打ち明けていれば、と考えると頭がくらくらした。一番近くのトイレの前で先生と別れると、個室に飛び込んだ。

 ああ、もしかしたら、先生も私のことが好きになってくれたのかもしれないという考えが頭を離れなかった。ああ、さっき、先生に気持ちを打ち明けてしまえば…と思った。先生が自分を好きでいてくれるなら何もかも犠牲にして先生の腕の中に飛び込みたかった。あの時、思い切ってそうしていれば…体の奥から何かがわきあがってくるような気がして、私は自分の体を両手でぎゅっと強く抱きしめた。

 好きですと言いかけた場面を私は思い出した。確かに、あの時、先生は私が何を言いたかったのかがわかっていたのだ。本当に口にまで出かかった言葉を、しかし、先生は言わせなかった。きっと、先生は私の気持ちに前から気付いていたのだと思った。でも、先生は言わせなかった。なぜ……?

 なぜなら、もし、私がそれを言えば、先生も本当の気持ちを言わなければならなくなるからじゃないだろうか、としか私には思えなかった。

「君に幸せになってほしい」と先生は言った。あれは、先生も私のことが好きだという意味だったのだろうか。あの思いつめた表情を思い出すと、先生も私と同じ気持ちなのだと、私にはそう思えた。あの時、私がほとんど言いかけた言葉を、先生もいいかけたのだと思った。けれど、先生は、結局、言わなかったし、言わせなかった。

 『今の君と』『未来の君』と先生は言った。間違いなく、あの時、先生も動揺していた。先生という立場で、妻帯者という立場で、私を好きになり、私と同じように思い惑って、それが先生の出した結論だった。

 私が望んでいることって何なの、と私は自分に問いかけた。私は少し意地悪く自分に言ってみた。おまえの望みは、先生が奥さまや子どもと別れて、場合によっては職をなげうってでも、おまえと結婚したいと言ってくれることなの? 

 少し考えて私は首を振った。違う。そんなことを私は望んではいない。

 じゃあ、とさらに意地悪く、私は問いかけた。

 これはどう? 誰にも決して見つからずに先生の愛人になるっていうのは? 

 私は再び首を振った。絶対に違う。そんなこと、少しも望んでいない。

じゃあ、おまえの望みは何なの? と自分に問いかけられて、私はうなだれた。

 けれども、最初は真っ暗だった私の頭の中の闇から、やがて、白いかすかな光が見えた。その時、私はわかった。私の一番の望みは、私が先生の何か特別な存在になることだった。それをどう名付けてもいい。愛にもいろいろある。恋愛でも、師弟愛でも、友人愛でも、何でもいい。とにかく人が人を心から信頼し大切だと思えること、その人に会いたいと思い、一緒にいると幸せだと思えること、離れていてもその人のことが心の中にいつもあってその人が幸せであって欲しいと願っていること、お互いがお互いをそういう関係で結ばれた存在であると信頼できるような、先生と自分がそういう存在になることだった。

 だとすれば、私の望みはほとんどかなえられているのではないだろうか、と私は思った。そして、先生はそのことを伝えたかったのではないだろうか。私が先生をそのように愛したように、先生が私を何かの意味で愛していると……

 体の中を戦慄が走りぬけるような気がした。私は自分自身をいっそう強く抱きしめ、目を閉じて上を向いた。心の中の思いつめていた気持ちが、すうと溶けて流れ落ちるような気がした。ああ、先生が好きだと思った。私を抱きしめてほしい…一度だけでもいいから、抱きしめてキスをしてくれたら…もしかしたら、先生もそう願っているかもしれない、けれども、今の私たちの立場からしたらそれはできない。それでいい。もし私たち―先生と私―が私が望んでいるような関係で結ばれているなら、それ以上に何を望む必要もない。

 先生は、さっき、危うく、私を抱きしめかけたのだと思った。確かに先生も少しうろたえていた。先生も弱い一人の人間だった。気が弱い、でも決して人を裏切らない、バカ正直な人間だった。、そのバカ正直さを私は愛したのだ。

「今の君と、未来の君の幸せのためにできるだけのことをしたい」と先生は言った。その言葉に嘘はないと私は信じることができた。それこそ、私が一番望んでいたことだった。彼が、本当の意味で、今の私と未来の私と、一人の人間として、一人の女性として私を愛してくれるなら、わたしにとってこれ以上望むことはないのだと心から思えた。

 私は目を閉じて、上を向いた。涙が一筋、頬を伝った。


愛とは何なんだろう、と私はよく考えた。三年でも雪村先生が担任だった。私は前よりもずっと穏やかな気持ちで代表を引き受けた。私は、一年でも二年でも代表の仕事は精いっぱいやったつもりだったので、友だちからもそれなりに信頼を得ていたし、ごく自然な流れだった。私はあいかわらず先生に恋していた。あと一年でこの学校を去り、先生ともお別れかと思うと悲しかったが、今はまだ、先生のそばにいられることを幸福だと思おうと自分に言い聞かせていた。実際、帰り道はとても疲れて暗い気分になり、夜中には一人で泣くこともあったが、朝学校に行き先生の顔を見ると、それだけで気分がよくなった。どんな種類の愛であるにしろ、先生は私にやさしかった。

 大学受験の勉強が始まったとき、先生は私の面倒をよく見てくれた。私もまるで、親か兄弟に相談するみたいに何でも相談し、放課後遅くまで勉強も教わった。人気も能力もある先生で、たくさんの生徒に頼りにされていたので、私はいつも後回しだった。だから、時間が足りなくて、休日の学校へよく出かけた。お礼という名目で、よくお菓子を作っていった、勉強の休憩に食べた。先生はボトルに温かい飲み物を持ってきて、よく分けてあって飲んだ。勉強の合間には、世間話をした。よく陽の当たる学習室で、いろいろな話をした。

 楽しかった。大好きな人のそばにいること、大好きな人が自分を大切に思っていてくれること、自分のためにがんばってくれること、それだけで幸せだった。

 先生は、時々、個人的な悩みまで話してくれた。

「ゆかりん、ごめんよ。また、ついつい愚痴っちゃった。なんか、ぼく、最近、多いよね」

「先生の話、聞くの、好きですよ。先生みたいな人でも、いろいろ苦労があるんだなあ、って」

「ゆかりん、やさしくて、そのまま受け止めてくれるから、ついつい話しちゃうんだよね。他の人に話しても、『暗い話は聞きたくない』とか、『みんな苦労してるんだよ』ってお説教されちゃうから…まあ、こんな年になって、自分で何でもできなくちゃいけないということは、知ってるつもりだけど」

「先生、とっても輝いて見えるのに、苦労してるんだなって思います」

「輝いてないよ。年をとっても甘えんぼなんだよね」

「ふふふ、私、先生のそういうところ好きですよ」

「ゆかりんはほんとに気持ちがやさしいね。なんでもそのまま受け止めてくれる。一緒にいるだけで、ほっとできる。ゆかりんのそういうところ、好きだよ」

「私も、先生といるとなんかほっとします」

 人を愛することとか、人を好きなこととか、それはそもそもどういう意味で、そういうことはどういうふうに人を生かしてくれるのだろうか。私は、女として、恋愛の対象として、男である先生が好きだった。ただ、先生とこんな風に話していると、これ以上望むものは何もない気がした。「好き」だという言葉は、私も先生も直接には、一度も言わなかった。それでも、どういう意味かにおいて、先生が私を好きだということ、愛してくれているということを信じることができた。そして、それは先生もおそらく同じだった。


 大学入試の発表は卒業式よりも後だった。先生が、インターネットによる発表を、二人きりで見られる場所を設定してくれたのは、先生も思うところがあったのだろう。画面上に受験番号を見つけた時、私はうれしさのあまり、我を忘れて思わず先生の胸に飛び込んでしまった。先生も、たぶん夢中で、喜びのあまり私を抱きしめた。少しして、私は、ずっと望んでいた先生の胸の中にいるという自分の状況に気がついた。胸の中に喜びと同時に悲しみが広がるのを感じた。合格はうれしかったが、それは同時に先生との別れを意味していた。離れたくなかった。この暖かい胸の中を離れたくなかった。先生もたぶん同じ気持ちだった。二人は何も言わず、ただしばらく抱き合っていた。

どれくらい時間がたったろう。「おめでとう、ほんとにおめでとう」というと、先生は私の両肩に手を置いて、私の顔をのぞきこんだ。

キスされるのだと思った。

けれど、両肩を抱き寄せ、息がかかるくらい顔を近づけて、先生はこう言っただけだった。

「忘れないよ。ゆかりん。君のこと。たぶん、一生」


 私は、涙があふれるのもかまわずに先生を見つめた。ああ、これがお別れなんだと思った。


「私も忘れません。先生のこと、一生」


 先生はきれいに包装されてリボンのかかった小さな箱をとりだした。「合格するだろうって思っていたから、お祝いを用意したんだ。開けてみて」

開けてみると、小さなストラップが入っていた。きれいな青い石が先についている。

「わあ、きれい…」私は、箱からそれを取り出した。「なんてきれいな石なんでしょう」

「この石、知ってる? この蒼い石はラピスラズリっていうんだよ。パワーストーンの中でも最も古い歴史を持つ石なんだって。紀元前から有名だったみたいだよ」

「どんなパワーがあるんですか」

「美と愛の女神アフロディーテ、ヴィーナスとも呼ばれる女神だけど、その女神を象徴している石なんだって。だから、古代ローマでは、恋人たちの愛と夢を守る石として尊重されたみたいだよ。だから、うちの学校のアフロディーテのゆかりんの美しさもずっと守ってくれると思うよ」

「愛と夢を守ってくれるんですね。私にぴったりかも。今、もし、私に好きな人がいたとしたら」私は左手で、両目の涙を拭きとると、無理にほほ笑んだ。「そして、もしその人も私が好きだとしたら、その夢と愛はこの石が守ってくれるんですね」

「ゆかりんには、これから先、たくさんの素敵な出会いが待っているんだろうね。それがいい出会いになるように、この石は守ってくれるよ。ゆかりんは、姿形だけでなく心の透き通った人だから、ゆかりんを幸せにしてくれるほんとうにすてきな人と出会ってほしいって心から願っているよ」

「先生」私は先生をじっと見つめた。「私、今、好きな人のこと、一生、大好きでいると思う」

 先生は一瞬、唇をぎゅうっと結んで私を見つめた。思わず手を伸ばして私をもう一度抱きしめようとした。しかし、手は途中で止まった。そして、立ち上がると、座ったままの私の肩に手を置いた。「ゆかりん、きみはまぶしすぎるよ。本当にすきとおった宝石のようなひとだね」

私はうつむいて、肩に置かれた手に手を重ねた。「違います。違います。私は、ただ…」 

先生は、私の前にしゃがみこむと、私の両手を取って私の顔をのぞきこんだ。

「ゆかりんと出会えて幸せだった。ゆかりんと過ごした三年間のこと、きっと一生忘れないよ。そして、ゆかりんの幸せをずっと祈ってるよ。しばらく会えなくなるけど、いつか、すてきな恋人ができたら、きっと、必ず紹介してね……そして、もう一つ……」先生は微笑んだ。「逆に、もしこれから先、万が一、ゆかりんが困難に出会ったら、たとえば、もし、何か苦しくて助けてほしいとか、つらい日々が続くようなことがあったら、必ず、ぼくに連絡してね。ゆかりんは、一生、ぼくの大切な生徒だから、ゆかりんの幸せのためにできることは何でもしてあげたいんだ。わかるよね」先生は私の目を見つめた。「わかってるよね……」

 

 私はうなずいた。

「はい……、先生も……」

私は、ためらった。もう、最後の言葉になりそうな気がしたから……

「先生も、私で役に立つことがあったら、いつでも、連絡してください」

 先生は泣きそうな顔で微笑んだ。

「ありがとう、ほんとうに……やさしいね。ゆかりんは、どこまでもゆかりんだ」

 先生は私のひざの上で、両手で、私の両手をもう一度ぎゅっと握りしめた。

「今日はありがとう。そして、三年間ありがとう。この三年間、ゆかりんと過ごした時間、ほんとうに楽しかったよ。よかったら、ストラップ持っていて、たまには思い出してね」

「大切にします。ありがとうございました」

 先生はちょっと恥ずかしそうに笑って、ポケットからもう一つ同じストラップを取り出した。「内緒にしようかと思ってたんだけど、やっぱり見せちゃうね。実は、おそろいなんだ。ぼくも、これ大切にしようと思ってる」

 その言い方がかわいくて、私は思わず笑ってしまった。

「おそろいなんて、ますますうれしいです」

「いつまでも引き留めておきたいけど、それもできないね。合格の知らせを待っている人がたくさんいるだろうから」

 最後の二人きりの時間を邪魔されたくなくて、スマホの電源は切ってあった。両親や友だちや、知らせを待っている人はたくさんいるはずだった。「そうですね。知らせなくちゃ」

「ありがとう、ほんとに三年間、たくさんのものをありがとう」先生は、もう一度、握った手に力を込めた。

「私こそ、ありがとうございました。三年間、幸せでした」

 私も、先生の大きな硬い手を握り返した。

 部屋を出ようとして、扉に手をかけた時、私は一瞬ためらって、すぐ後ろにいた先生を、もう一度振り向いた。

「先生」と私は言った。この扉を開けたらもう言えなくなる、という思いが胸を刺した。

「好きです、最後に一度だけキスしてください」そう言ってしまおうか、と思うと胸がどきどきしてきた……けれど、私には言えなかった。

「お元気で」

そう言っただけだった。

 先生にも私の気持ちがわかったのかもしれない。あるいは私と同じ気持ちだったのかもしれない。先生も、胸の動揺を抑えようとするかのように、私をじっと見つめていた。


 階段のところで振り返ると、先生は立ったまま私を見つめていた。小さく手をあげると、先生も手を振った。私は階段を降りながら先生が見えなくなるまで手を振った。


 階段には大きな窓から春の日差しが落ちていた。振り仰ぐと春のかすんだ青空が見えた

大泣きしてしまうかもしれないと思っていた。けれど、その時、私の心の中にあったのは、何か不思議な勇気のような、明るい光だった。思い出せば、三年間、嵐の船に乗ったような苦しさと喜びに翻弄される毎日だった。けれども今、すべては過去になった。

 一度も、きちんと気持ちを確認することはなかった。それでも、私と先生とは、師弟という枠を超えて、少なくとも、お互いを大切な存在と思うという意味で、愛し合っていると信じることができた。そして、今の私に、それ以上、望むものはなかった。

 この先、もう先生には会わないつもりだった。とても心おだやかな気分では会えそうもなかったから……

 私は、私の新しい人生を生きなければならない。がんばって幸せを見つけなければいけない。もしかして、ずっと時間がたって、会うことがあったとしても、きっとその時は、それぞれが別の人生を生きているだろう。

 私はもう一度、先生からもらったラピスラズリを取り出してみた。それは、窓から差し込む光にきらきらと光った。

 私がどこに生きても、何をしていても、私の高校生活は、先生との日々ははきっと宝石に閉じ込められて、私の心の片隅に残るだろう。先生も私も、この宝石の力を信じて生きるだろう。たとえ世界中が自分を見捨てても、一人だけは自分を決して見捨てない人がいると信じられることはどんなにすてきなことだろう。これまで幸せだった分、明日からは、辛い日々が待っているだろう。それでも、私は生きていかなくてはならない。

 さよなら、と私は小さくつぶやいた。悲しければ悲しいだけ、私の高校生活が、いかに幸せだったかということだ。苦しさに泣き明かした夜が何度あったとしても。

 高校生活が終わってしまう日が来ることをずっとおそれていた。けれど、今、その時はやってきた。泣くことも、わめくこともなく、あまりに静かに。


 ラピスラズリの上に春の光がキラキラと光った。


 生きていこうと思った。どんなに困難が待っているとしても……私の最善をつくすだけだ。

 私の胸の中にある熱い塊は悲しみにも似て、たぶん、むしろ幸せに近いものだった。


 


別れのシーンだけを描いた超短編シリーズ「別れの情景」のⅣです。

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