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第三章 何そこの児のここだ愛しき


          1


「ささ、尼御前様。御遠慮なさらず、どうぞどうぞ」

「大殿様、またもそのような。以前、姫宮様を酔わせておしまいになってしまいましたこと、もうお忘れでございますか」

 上機嫌で、恵州尼の盃に酒を注ぐ時嗣を、例によって岩瀬局が諌める。

「無粋なことを申すでない、局。今宵は、畏れ多くもめでたい、姫宮様と彰嗣の露顕(ところあらわし)(結婚披露宴)なるぞ。姫宮様の母代りであられる尼御前様を、我が館に御迎え出来ためでたき日に、畏れ多くも姫宮様は、わしのせがれの嫁になって下さるとの御言葉を……」

 そう言っているうちにも、時嗣の眼からはぼろぼろと涙がこぼれ、抑え切れずに早くも袖を湿らせている。しかし、対する恵州尼の方も、すでにその袖に涙を落としていた。

「わたくしこそ、嬉しゅうてなりませぬ。涙を浮かべてはおいででも、恥らう中にも輝くような笑顔で、わたくしに彰嗣殿を愛しておられると、彰嗣殿の妻になると、はっきりと仰せになられた宮様のあの時の御言葉、わたくしは終生、忘れぬことでございましょう」

「勿体ない御言葉! 彰嗣にも聴かせてやりとうござる! 尼御前様、姫宮様のことは彰嗣のみならず、その兄頼時も、この時嗣も、身命を擲つ覚悟でお護り致しますれば、どうぞ御安心下されたく」

「有難うございまする、有難うございまする。わたくしもこれで、故院の御遺言をお守りすることが出来まして、もはや心残りはございませぬ。いつでも、故院のおそばに参ることが出来まする」

「そのような、心弱いことを申されますな! 尼御前様には、これからも長生きをなさって、宮様の御子の御誕生を見届けて頂くという、大事な御役目があるのでございますぞ」

「大殿様の、お孫様のでございますね」

 涙をこぼしつつ、にっこり笑いながらの恵州尼の言葉に、時嗣は、涙を新たにした。

「左様でござる。畏れ多くも故院の姫宮を、このわしの、せがれの嫁に御迎えするようになるとは、この時嗣ほどの果報者は、他にござるまい。尼御前様、どうか、どうか末永く、彰嗣を息子と思い、可愛がってやって下され」

「大殿様……わたくしこそ……」

 そうして再び、二人揃って涙にくれる。恵州尼を巻き込んでの、時嗣の激情振りには、慣れているはずの岩瀬局も、流石に溜息が出た。

「大殿様、おめでたい席に涙は禁物と、最初に仰ったのは、他ならぬあなた様ではございませぬか。いつまでもあなた様がそのようでは、せっかくの宴も湿っぽくなってしまいまする」

「そうであった、そうであった。尼御前様、今宵は無礼講にて、憚りながら光良や高春、彰嗣と共にこの館で育った若い者どもも、この場に列席を御許し頂く次第にて、どうか御免こうむり下されたい」

「もちろんでございまする。高春殿を初め、こちらの皆様方には、宮様もわたくしも、どれほど御世話になりましたことか」

「有難や、有難や。さあさ、飲んで下され、楽しんで下され。酒はいくらでもあります故」

「大殿様、ですから」

「宜しいではございませんか、母上。めでたい席に涙が禁物と言うのなら、小言も禁物ですよ」

 光良が、三人の間に入って来た。

「これ以上、尼御前様や大殿をお泣かせさせないためには、笑って頂きますのが一番です。尼御前様、鎌倉でただいま、流行っている踊りがございます。今宵の祝いに我ら、若殿に御仕え申す者どもが御披露致しますれば、どうか御笑覧下さいますよう」

 そう言って、高春達同輩と共に、賑やかに踊り出した。

「随分と、ひょうきんな踊りじゃな。田楽ではないのか」

「新しいものが、また流行り出したのでござる。大殿もいかがでございますか」

「これ、光良。大殿様が以前、ぎっくり腰を患ったことを忘れたのですか」

「何を申すか、局。これくらい、わしもまだまだ」

 岩瀬局が顔をしかめても、時嗣は構わず、若者達の輪に入って、自らも踊り出した。局はまた嘆息し、恵州尼に頭を下げた。

「申し訳ございませぬ、尼御前様。御子息が執権におなりあそばしたというのに、大殿はあの通り、いつまで経っても、田舎っぽさの抜けない無骨者でございまして」

「それだけ皆様の御信頼が、厚い御方なのでございますね」

 あけすけに主を罵る局に、恵州尼もくすくす笑った。

「御身体の方は、いかがでございますか。どうぞ、御無理はあそばしませぬよう」

「有難うございます。道中も、高春殿が色々とお気遣い下さいまして、お蔭様で無事に、ここまで辿り着くことが出来ました」

「何より、再びこうして、宮様のおそばに参られるようになりましたのですから、心強うございましょう。御酒などあまり、御身体には良くないのかもしれませぬが、今宵はどうぞ、大殿様にお付き合いして下さいませ。さあさ、おひとつ」

「有難う、喜んで頂きまする」

「わたくしも宮様が、鎌倉へ御出ましになられましてから、図らずもおそば近く御仕えさせて頂きまして、すっかり宮様に魅了された者の一人でございます。今後も及ばずながら、宮様に、忠義を尽くさせて頂く所存でございますれば、どうぞどうぞ、尼御前様にも宜しくお頼み申し上げまする」

「嬉しゅうございます。大原で、寂しいお暮らしをされておいでだった宮様が、ここでは皆様に、こんなにも大切に護られて頂いて」

「何を申されます。尼御前様が、常におそばにおられましたからこそ、宮様は大原でも、少しも寂しくはなかったと仰っておいででございますのに。さあどうぞ、もうおひとつ」

「母上、大殿に何だかんだと仰っておいて、あなたも結局、同じことをなさっておられるではないですか」

 宴はこうして、ますます盛り上がって行く。


          2


「わたくし、彰嗣様の妻になったの」

 宮は確かに、はっきりと恵州尼にそう告げた。

「愛しているの。わたくし、彰嗣様のことを、心から愛しているの。それをたった今、気付くことが出来たの。そして彰嗣様も、わたくしのことを心から愛し、身命を賭けて護って下さっているのよ。故院は、父上様は、このことを喜んで下さるかしら」

 今も宮は、彰嗣の胸に顔を埋め、眼を閉じて、彰嗣の腕にその身を委ねている。そんな宮を、彰嗣は力強く抱きしめ、決して離そうとはしなかった。月見台で宮が、恵州尼に告げたその言葉を、繰返し心の中で反芻しながら。

 父の時嗣が、恵州尼の鎌倉下向の祝いと、宮と彰嗣の結婚祝いを兼ねて、家中を上げ、盛大に宴を催そうと騒ぐのを断わって、さっさと宮を、部屋へ運び去ってしまった彰嗣は、それでも宮が、自分を本当に愛してくれるようになったのだということを、未だに信じることが出来ずにいた。

「……本当に俺を、愛しているのですか」

 一体何度、宮に、その質問を繰り返したことだろうか。宮もまた、彰嗣がその質問をする度に、繰返し深く頷いてくれた。それなのにしばらくするとまた、宮に、確かめずにはいられなくなってしまう。

「……本当に? 宮、本当に……?」

 その声が震えていることに気付いて、宮は初めて眼を開き、彰嗣の顔を見上げた。

「……あなたのことが、怖くないと言えば、嘘になります」

 彰嗣の、不安そうな眼差しをじっと見返してから、宮は、ゆっくりと口を開いた。

「……信じていましたから……あなたが、わたくしを護ると誓って下さった言葉を……ずっと信じて、そして、それがとても嬉しかったから……だから突然、あんな風に……あなたが、まるで院のように……」

 宮の眼から、涙がこぼれ落ちた。

「……あなたの姿が、院と重なって見えるようになって……怖くて……怖くて……どうすればあなたが元の、優しい彰嗣様に戻って下さるのか、わからなくて……ただ、哀しくて……」

「……宮……」

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 どうして、宮が謝るのか。こんなにも宮を怯えさせ、哀しませたのは彰嗣の方なのに。

「宮……!」

 俯いて泣き出した宮を、彰嗣は再び、力強く抱きしめた。

「赦して下さい、宮。俺の我儘で、あなたをこんなにも振り廻し、苦しめてしまったことを。院に負われた傷が、どれほど深いものか知りながら、俺はあなたに、院と同じ真似を……!」

「……癒して……下さい……」

 消え入りそうな声で、宮が囁いた。

「……元の、優しいあなたに戻って……あなただけの、あなたにしか出来ない愛し方で、わたくしの受けた傷を、どうか癒して下さいませ……」

 彰嗣は宮を見詰め、宮は彰嗣を見詰めて、更に言葉を続けた。

「……そうすればきっと、わたくしはもう一度、あなたの言葉を信じることが出来るはず……お願い……わたくしにもう一度、あなたを愛していると……言わせて……」

 そのまま唇が重ねられ、宮は再び、彰嗣に抱き上げられた。だが、褥にそっと横たえられ、袴の帯を彰嗣に解かれた時、宮の身体は小刻みに震え始めた。

「……宮……」

「……ご……ごめんなさ……」

 宮の顔は真っ青で、閉ざされた眼には涙が溢れ、必死で身体を強張らせながら、止まらぬ震えに懸命に耐えていた。いくら宮が、彰嗣のことを愛していると自覚出来たとしても、一度刻み付けられた恐怖は、そう簡単に消え去るものではなかった。彰嗣の中を、激しい後悔が駆けめぐった。宮を、ここまで追い詰めてしまった、己自身が憎かった。だが、今更後悔したとて、宮の二重に受けた傷を、容易に消すことは出来ない。どうすれば宮の傷を癒し、彰嗣に対してこんなにも、宮に恐怖を感じさせずにすむようになれるのか。今も、身体の奥底から熱く込み上げてくる、宮への激しい愛情を、どうすれば怖がらせずに伝えることが出来るのか。

「……多摩川……」

「……え?」

 彰嗣が呟いた言葉に、宮は思わず、驚いて眼を開いた。

「以前、あなたが教えてくれた東歌。多摩川、それから何と続くのだったか……」

 強張ったままの宮の顔に、初めて、小さな微笑みが浮かんだ。


 多摩川に晒す手作りさらさらに何そこの児のここだ(かな)しき


(多摩川に晒す、この手作りの布のように、何故、更に更にと、この娘を愛おしく思えるのだろうか)

「……何故こんなにも、あなたを愛しいと思うのか」

 宮の顔を両手で包み込み、その眼を覗き込みながら、彰嗣は呟くように言った。

「従順でおとなしい振りをして、あなたはいとも容易く、俺を御自分の虜にしてしまった。沢山の女を狂わせてきたこの俺が、こんなにも、あなた一人に狂わされてしまったんだ。恨みますよ、宮。俺を好く女など、それこそ引く手数多だったはずなのに」

「……そ……んな」

 言いがかりもいい処だ。一方的に告白してきて、嫌がる宮を犯したのは、他ならぬ彰嗣ではないか。

「俺の好みは、少なくともあなたのような、世間知らずの初心な娘ではなかったはずだ」

「……あやめ……の方が、お好きなのですか」

 宮の顔が曇った。

「と言うより、ああいう蓮っ葉な娘の方が、お互い気安く抱き合えたと言った方が正しいのでしょう。以前の俺にとって、色事などすべて遊びだったから」

「今も……なのですか……」

「そんな情けない男だった俺が、初めて逢ったあの時、俺達の醜態に怯えていたあなたを、初心で幼いと笑った俺が、何故こんなにもあなたに対して、激しい衝動にかられるようになったのか、俺自身にもわからない」

「……彰嗣様……」

「本当に、いつからなのだろう。旅の間も俺は、日に日に募っていくあなたへの恋心に、昼と言わず夜と言わず苦しんでいた。よく眠っているあなたに、こうして寄り添い口付けようとして、その都度俺に対する、あなたの信用を裏切ってはならないと、一体何度、逸る自分を抑えてきたか……」

 宮は羞恥のあまり、何も言えなくなった。いやそれよりも、彰嗣にその唇を奪われた方が早かったか。

「清涼殿の渡殿で、月の光の中、涙を流していたあなたを見たあの時、恋に落ちたのか……それとも、俺に飛びかかってきたあなたに、思いがけなく懐剣を奪われた時か……あるいは近江の湖で、泣き続けるあなたを抱きしめていた時か……いや、何処にでもある花や景色に、いちいち感動し、はしゃいでいたあなたを、この腕に抱いて旅していた時か……ああ、どれもそうだと言えるし、そうではないとも言える。やはり、俺にはわからない」

 宮に口付けを繰返しながら、彰嗣は言葉を続ける。

「やはり恨みますよ、宮。恋を遊びと高をくくっていた俺を、あなたはいとも容易く、激しい恋の滝壺の中に突き落としてしまったのだから。覚悟して下さい、俺はあなたを抱きしめたまま、共にそこへ引き摺り込んでみせる」

「……多摩川というのは、そんなに激しい川なのですか」

 少しは、緊張が解けたのだろうか。小さな声で、宮がそっと訊ねた。

「いや、穏やかで美しい川ですよ。今でも布を晒している光景は、度々見ることが出来ますから」

 くすりと笑いながら、彰嗣が答えた。

「いずれ、多摩川にも連れて行ってあげましょう」

「……本当に?」

 宮が、嬉しそうに微笑んだ。

「かつて、俺と同じ想いを抱いた者がいた川で、あの歌を口ずさんで欲しい」

「多摩川を、ですか」

「己が世に……」


 人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る


「今度は一緒に、同じ運命の川を渡りたい」

 彰嗣は宮の髪を撫でながら、その耳元に囁いた。

「……朝子。そう呼んでもいいですか」

 一瞬その眼を瞠らせたが、頬を染めつつ、宮はそっと頷いてみせた。彰嗣の顔が途端に輝き、宮を抱く腕に力が籠った。

「朝子……朝子……朝子……!」

 繰り返しその名を呟く。腕の中にある、今にも壊れそうなこのたおやかな娘を、二度と傷付けたりはしない。誰にも、傷付けさせはしない。

「……あ……嫌……!」

 宮が、思わず声を上げた。彰嗣の熱い唇が、宮の首筋から胸のふくらみへと、素早く辿ってきたからだ。

「怖がらないで……落ち着いて」

 彰嗣はそれでも、宮の肌を愛撫する唇と手を、止めようとはしない。

「俺は、都人のあなたから見れば、粗野で乱暴な鎌倉の夷だから。女の扱いなど抱くことしか知らない、ましてや、皇女に対する畏敬の念など持ち合わせぬ、不逞の輩だから」

 口ではそう言ってはいても、震えるその肌を辿る彰嗣の唇に、今までにはなかった優しさが込められていることに、宮も少しずつ気付いた。

「こんな方法でしか、あなたの傷を癒すことが出来ないけれど。それでも、あなたを愛しているから。あなたのすべてを、愛し抜きたいから」

「……彰嗣様……」

 宮は、涙を流し続けている。それが恐怖のためなのか、愛される喜びを知ったためなのかは、もう宮にはわからない。それでも勇気を出して、宮は再び眼を開けた。

「愛している、宮……いや、朝子……」

 繰り返し、宮の肌に囁かれる愛の言葉。いつの間にか宮は、その言葉に溺れていった。

「……もう一度、言って……」

「あなたもだ」

 彰嗣が催促する。

「あなたも言ってくれ、朝子……」

「……愛して……います、彰嗣様……」

 囁かれた言葉に、彰嗣は途端に我を忘れ、いきなり宮の肌を貪り始めた。

「愛している、愛している……!」

「……あ……あき……!」

 優しくして、と望む宮の言葉を、彰嗣はようやく受け留め、腕の力を緩めた。しかし、また彰嗣が我を忘れると、宮が叫び声を上げ、彰嗣は根気良く、宮の恐怖を宥めた。

「……彰嗣様……」

 激しさと優しさが交互に繰り返される、彰嗣の愛撫に宮は混乱しつつも、そっと涙に濡れた瞼を開けば、愛情の籠った彰嗣の眼差しが、宮に纏わり付く恐怖と不安から、宮を解き放ってくれた。

「……愛しています、彰嗣様……」

「愛している、朝子」

 彰嗣が繰り返す。

「故院に誓う。俺の生涯を賭けて、朝子一人を愛し、護り抜くと誓う。もしこの誓いを俺が破ったならば、故院よ、いつでもこの俺を殺してくれ」


          3


 宮の部屋の前の簀子で、先程からかえでは、中に入るべきかどうか躊躇っていた。今朝はまだ彰嗣が、宮の寝所から、出てきたような様子はない。昨夜、自分達のための宴にも出ずに、早々と宮を部屋へ運んで行ったことは、かえでも知っている。一昨夜まで、宮と褥を共にすることを強いても、宮が目覚めるまで、彰嗣が、宮の寝所で過ごすことは決してなかった。今、彰嗣はどうしているのだろう。そして宮は、本当に彰嗣と、今も一緒にいるのだろうか。あんなにも彰嗣を怖れ、拒み続けていた宮が。

 その時、不意に妻戸が開かれたので、かえでは飛び上がるほど驚いた。だが、音も立てずに出てきたのは、岩瀬局だった。

「宮様は、まだ良くお寝みになっておられる」

 かえでの姿を認めると、局は優しく微笑んで、囁くような声で言った。

「もうしばらく、そのままにして差し上げようと思う。かえで、宮様のことはわたくしに任せて、お前は、宴の後片付けを手伝っておいで」

 局は、彰嗣の名を、決して口にしなかった。まさか、自分から訊くわけにもいかず、かえではすごすごと、表の間の方へ戻って行った。それを確かめてから、局は宮の部屋を振り返り、満足そうにもう一度微笑むと、自らもそこを離れた。局も、今の寝所の中をかえでに見せることは、流石に出来なかった。

 彰嗣もその頃、眼を覚ました。最初に眼に入ったのは、宮の見事な、朝の光にきらめき輝く髪だ。彰嗣はその髪に、顔を埋めて眠っていたのである。宮の様子を確かめると、宮もまた、彰嗣のはだけた胸に顔を埋め、その腕に頭を預けて眠っていた。彰嗣に寄り添いながらも、行儀良く寝んでいる様子は、流石に宮ならではだ。顔をそっとこちらに向ければ、愛された後の心地良い疲れの中で、規則正しい寝息を立てている。彰嗣は、そんな宮の顔を見詰めながら、微笑まずにはいられなかった。宮の中から、すべての恐怖や不安が、跡形もなく消えたわけではなかろう。それでも宮は、怖れつつも、ぎこちなくも、彰嗣を受け入れてくれたのである。宮の寝所で、彰嗣が初めて迎えることの出来た、穏やかな優しい朝。二人の名前にも縁あるこの朝を、決して忘れはしない。

 彰嗣は、宮の顔に何度か口付け、そっと抱きしめた。宮は、いつ目覚めるだろうか。こうして自分が、未だに彰嗣の腕の中にいると知ったら、どんな顔をするだろう。愛しい宮、俺だけの宮。いや、今は俺の朝子なのだ。

 愛しい者を手に入れた、最上の幸福感を味わいながら、彰嗣は再び、心地良い眠りに落ちて行った。


          4


 宮と彰嗣の結婚の噂は、彰嗣が、初めて宮を鎌倉へ連れて来た時よりも、それこそ、弓矢が的を射抜くよりも早く、瞬く間に鎌倉の街中を駆けめぐった。

 久し振りに宮が、彰嗣に伴われて市へ姿を現した時も、それは大変な騒ぎになった。

「こんの、恥知らずめがあ!」

 例の老婆は早速、彰嗣を怒鳴り散らした。

「お前が、節操のない女好きだとは知っていたが、まさかよりにもよって、畏れ多くも姫宮様に手を出すとは! おなごなら誰でも良かったんと違うんか、このどあほうが!」

「そんなことを言った覚えはないが」

 頬を指でかきながら、彰嗣は答えた。その顔には、余裕の笑顔がある。

「何をにやにや笑ってんじゃい、どあほう! たかが北条の腐れ御曹司が、故院の姫宮を手籠めにしておいて、よくもそう、のうのうとしていられるもんじゃ!」

「おい、おばば。いい加減にしろ、若殿に無礼だろう」

 高春が宥めるが、老婆はますますいきり立つばかりである。

「お前らだって同罪じゃ、このどあほうどもめ! 主が宮様を狙っておるのに、気付きもしなかったんかあ!」

「おばば、もうやめねえか。宮様がお困りだがねえかや」

 反物を売っている男も、仲裁に入る。

「これ以上がなってちゃ、若殿にも宮様にも失礼でねえか。それに若殿が、宮様に惚れていなさったっていうのも、今更驚くことでもねえ。わしら皆、お似合いの御二人じゃと、前からそう言っていたじゃねえか」

「わしは反対だったんじゃ! 今もそうじゃ! このどあほうが、鎌倉中の娘を手籠めにしただけじゃ、気がすまねえのか!」

「おいおい、それはないぞ。確かに俺が抱いた女の数は多いが、鎌倉には若い娘が、どれだけいると思っているんだ」

 彰嗣は腕を組みながら、老婆を笑い飛ばした。その後ろでは先程から、宮が、袖に顔を隠しながら佇んでいる。

「駄目だよ、駄目だよう、宮様!」

 老婆は涙声になって、いきなり宮に飛び付いてきたかと思うと、宮の腕を掴み、老婆とも思えぬ力で、強引に彰嗣から引き離した。

「宮様が、宮様のようにお綺麗でお優しい御方が、こんな女好きの餌食になっちゃ駄目だよう! 悪いことは言わねえ、早くこんな男とは別れてしまいなせえ!」

 しまいには宮に抱き付いて、大声で泣き出した。宮はすっかり困ってしまって、老婆と彰嗣とを交互に見返した。

「こちらへ、宮」

 その時、彰嗣が静かな優しい声で、宮に手を差し伸べてきた。その声に吸い寄せられるように、宮はすっと老婆から離れ、彰嗣の腕の中へと戻った。

「あんれえ! 駄目だよう、宮さまあ!」

「悪いな、おばば。こういうことだから、宮のことは諦めてくれ」

 宮を抱きしめて、引き離せるものなら引き離してみろとの、彰嗣のふてぶてしい態度に、老婆の怒りも頂点に達した。

「こんの、恥知らずめがあ!」

「もうよしなさいよ、おばばさま。宮様がお気の毒じゃないの」

 小物売りの女が、くすくす笑いながら間に入って来た。

「意地なんか張らずに、素直になればいいのに。おばばさまだって本当は、御祝いの御品を用意しているのでしょ」

 女の言葉に、老婆の顔が真っ赤になった。それから尚も、何やらぶつぶつ言っていたが、自分の売り物を並べた粗末な台に向かうと、そこにあった覆いを、おもむろに外してみせた。

 宮も、彰嗣も驚いた。台の上には、素焼きで出来た高坏に、山と盛られた小さな餅が、たかだかと載せられていたからだ。

「三日の夜の餅じゃ。この恥知らず、どうせまだ用意もしとらんのじゃろ」

 老婆は頬を赤らめ、彰嗣を罵りながら、鼻を鳴らした。

「何じゃあ、おばば。そうならそうと、初めから素直に差し上げれば良かろうに」

 反物を売る男も、郎党達も皆、声を上げて笑い出した。彰嗣は少し呆気に取られていたが、すぐに嬉しそうな顔になると、はにかみながらもやはり、笑顔を浮かべている宮を促して、皿が載った台に歩み寄った。

 何しろ初めが初めだったから、流石の岩瀬局も、宮の身を案じているばかりで、三日の夜の餅のことなど、頭が行かなかったのだ。老婆の言葉通り、宮にとっては彰嗣に穢された、忌まわしい日々であったとも言えるのだから。けれども今、宮は自ら、彰嗣の腕の中にいる。彰嗣は心の中で、恵州尼に感謝しつつ、餅をひとつ口に放り込んだ。

「さあ、宮も」

 彰嗣が取ってくれた餅を、宮は頬を染めながら、品良く口へ運んだ。

「いやあ、めでたい、めでたい」

 市の者達が一斉に囃し立て、二人を囲み、賑やかに踊り出した。それは先夜、光良達が恵州尼の前で披露した田楽だったが、それよりもっとおどけたものだった。

「宮様、わしらも贈り物を用意しておりませえ、受け取って下せえ」

「おめでとうございます、宮様。おめでとうございます」

「ええかあ、腐れ御曹司。宮様を不幸にしたら、このわしが許さんからなあ」

「俺は故院から直々、宮を護るよう申し付けられている。俺が御命令に背くようなことをすれば、故院は御自ら、俺に天罰を下さるだろう」

「何言っとるんじゃい、このどあほう!」

 また笑い声が上がった。

 かえではその騒ぎを、少し離れた処から見ていた。騒ぎと言うより、その中心にいる宮の姿を、ずっと見詰めていた。彰嗣は先程から、宮をその腕に抱いたまま、決して離そうとしない。宮は、そんな彰嗣や新婚への恥じらいから、ずっと頬を染めて口数も少なかったが、それでも嬉しそうに、自分を祝ってくれる人々が、滑稽に踊る姿を見守り続けていた。つい先日まで、あれ程までに彰嗣を拒み続け、夜ごと泣き叫んでいた宮が、今は彰嗣の腕に身体を預けて、まるで今までもそうであったかのように、幸福そうな笑顔を浮かべている。

 堪らなくなって、かえではその場を離れた。

「かえで殿」

 後ろを振り返ると、いつの間にか光良が後をついてきていた。

「大丈夫ですか、かえで殿」

 何のことです、と言おうとした。光良は岩瀬局の息子、彰嗣の乳兄妹である。心の内を、打ち明けるつもりなどなかったはずなのに、心配そうにかえでを覗き込んでいる、その眼差しを見返すうちに、思わずその眼から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてきた。

「……若殿は本気です。あの、かりそめの恋に明け暮れていた頃の若殿の姿は、もう何処にもありません」

 唇を噛みしめて泣く、かえでから眼を背けて、光良は言った。

「俺も、子供の頃から若殿に御仕えして、若殿の御気性はよく存じ上げています。若殿の気儘な旅にも、派手な女遊びにも、常に御一緒させて頂き、宮様を御助けする時にも、内裏を護る都の御家人方と組んで、若殿に御協力致しました」

 主の方を振り返りながら見守る、光良の眼は穏やかで優しい。

「宮様はまこと純真そのもので、俺達のような下々の者にも、心遣いを忘れぬお優しい御方です。それだけに、院に負われた心の傷の深さは、俺達が思うよりもずっと深く、今も宮様を苦しめ続けています。若殿も、御自分が軽はずみにも、院に加担したがために、宮様をそのような目に遭わせてしまったことを、ずっと後悔し続けています。ですから若殿は、宮様をお護りすることに、御自分の生涯を捧げると決心したのです。しかしまさか、それが恋心に変わってしまうとは、流石に若殿も、夢にも思っていなかったでしょう。若殿は宮様のことを、無防備だ無防備だと仰っているが、宮様の純真さにやすやすと魅入られてしまった、若殿の方こそ無防備だ」

 かえでは大丈夫、気にしないで下さいと言おうとした。けれども、涙が後から後から溢れて来て、放っておいてというひと言さえ、言い出すことが出来なかった。

「若殿は、ずっと苦しんでいました。御自分のお気持ちを宮様に打ち明けるべきかどうか、悩み続けていました。悩み苦しみ、耐えに耐えて、その揚句に爆発してしまったのが、あの海です。俺が御二人を見付けた時、若殿は、気を失っておられる宮様を抱いたまま、浜辺で茫然としていました。俺をちらりと見て、恋というものの怖ろしさを、初めて知ったと言いました」

 けれども今、彰嗣は宮の顔を覗き込み、宮も彰嗣の顔を見上げて、共に幸福そうな笑顔を浮かべている。

「いや、俺も男です。畏れ多いことではあっても、俺も宮様に惚れています。何処にでも咲いているような、名もない花を差し上げた俺のような者にも、宮様はあの純真な笑顔で、心から御礼を述べて下さった。俺だけじゃない、高春も宮様のことを思えばこそ、鎌倉と大原を幾度となく往復したし、他の者も、宮様のためならばいつでも、生命を捨てる覚悟は出来ている。本音を言えば俺達は皆、宮様を手に入れた若殿のことが、羨ましくて仕方がない」

 光良は、かえでの涙に濡れた眼を見詰めた。

「でもだからと言って俺達は、宮様を若殿から奪おうなどとは、微塵も思っていません。俺如きがそのような真似をしたとて、宮様が喜ばれるはずもないし、第一、俺達は旅の間、宮様が少しずつ、若殿に惹かれておいでだったことも、早くから気付いておりましたから。御自分では、なかなか意識なさらぬようでしたが、どんな時にも彰嗣様、彰嗣様と、宮様はいつも若殿に頼り切っておられて、だからこそ大原から、一歩も御出ましにならなかったあの御方が、こんな処まではるばると、長い旅路を俺達と共にして来られたのです。ですからあなたも、宮様がようやく、若殿に心を開かれたことをお喜び申し上げ、御二人の御幸福を祈りこそすれ、それを引き裂こうなどとは、決して思わないで下さい」

「わかって、います」

 かえでは涙を拭いた。

「わたしだって、宮様には憧れていますもの。宮様のように、お淑やかで気品があって、お綺麗になれたら、どんなにいいかと思いますもの。わたしはお転婆で、岩瀬局様にはいつも叱られてばかりで……」 

「かえで殿」

「わたしなんかが逆立ちしたって、宮様の足元にも及ばないことくらい、自分でもわかっています。それに局様の仰る通り、これで若殿の将来は、保障されたも同然。今の若殿ならどんな地位でも、望むことが出来るのですものね」

「元気を出して下さい、かえで殿」

「有難う、大丈夫です。ごめんなさい……少し、一人にしておいて下さい。気晴らしに近くを歩いてきますから」

「そうですか。でも、すぐに戻って来て下さいね。そろそろお館に戻る時刻ですから」

 光良はそう言い残して、宮と彰嗣を包む輪の中に入った。かえではひとつ溜息を吐いて、あてもなく歩き出した。

 市は話題の二人を迎えて、何処も賑やかだった。北条家の祝い事にあやかろうと、誰もが声を張り上げて、品物を売っていた。かえでにも、声がかかった。

「娘さん! 娘さん、ちょっと見てって下せえ! あんたさん、北条家に御仕えしてなさるんだろ。良かったら宮様への御祝いに、何か買って行かねえかね。大丈夫、大丈夫、お安くしとくよ!」


          5


 老婆達の前では、あんなに自信満々な処を見せていたくせに、館へ戻って宮と二人きりになると、彰嗣は、宮の肌に取り縋った。

「本当に俺を、愛しているのですか」

 宮は驚いて、彰嗣を見詰めた。彰嗣の眼差しは、不安で震えているようだった。

「俺はあなたを、これ以上もないほど傷付けた男です」

「……初めて、でしたから」

 彰嗣の不安を取り除くために、宮は、その胸に顔を埋めて言った。

「あなたはいつも、どんな時も、わたくしが皇女だからと言って、御自分を飾ることもなさらず、ありのままで、わたくしに接して下さいました。あなたのような方は、本当に、初めてでしたから……」

「本当に……? 宮、本当に……?」

 宮が顔を上げて頷くと、彰嗣の顔が輝いた。

「朝子……朝子」

 そうして彰嗣は、宮の肌に繰返し、愛していると囁き続ける。宮は時折、不思議に思った。彰嗣のような男が、どうして宮の前では、そんなにも弱気になるのだろう。

「それが、男というものでございましょう」

 宮の質問に、恵州尼は微笑んで答えた。

「宮様は畏れ多くも、故院の忘れ形見でいらっしゃいます。雲上人とも呼ばれる宮様が、御自分の許へ御降嫁あそばされるなど、流石の彰嗣殿でも、以前には、考えも及ばぬことでございましたでしょう。いくら宮様を愛しておいででも、故院の御遺言をお守りするとお誓いしていても、いいえそれであればこそ、そのように宮様の前では、弱い面を見せてしまうものなのでございましょう」

「でも、わたくしのせいではないのかしら」

 俯き加減に、宮は呟くように言った。

「わたくし、わからなかったから……彰嗣様は何度も、わたくしを愛していると仰って下さったのに、わたくしは、どうしていいのかわからなかったから……」

「彰嗣殿に愛しているかと訊ねられれば、宮様もその度に愛していると、素直にお答えになれば宜しいのでございます。それで彰嗣殿も満足されるのですから、宮様がそのようなことで、お悩みになる必要はございませぬ。男とは、そういうものでございますよ」

 恵州尼はくすくす笑った。のろけていることに全く気付かない宮が、おかしくもあったし愛おしくもあった。


 ま愛しみさ寝に()は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか


(心から愛しいあなたと、褥を共にするためにわたしは行く。鎌倉の美奈の瀬川は、潮が満ちているだろうか)

「尼御前……!」

「彰嗣殿に、鎌倉の歌を教えるというお約束を、もうお忘れでございますか」

「そんな歌、わたくしにお教え出来ると思っているの」

「今の彰嗣殿のお気持ちを、良く表していると思いますけれど」

「からかわないで、尼御前」

 真っ赤に染まった頬を、宮は袖口に覆い隠した。


 (たきぎ)()る鎌倉山の木垂(こだ)る木をまつと()が言はば恋ひつつやあらむ


(薪を刈る鎌――鎌倉山の茂った木を、松――待つとあなたが言ってくれたなら、わたしはこんなにも恋に苦しんではいまい)

「宮様は彰嗣殿に、これ以上、恋に苦しむ思いをさせたくはない、そう思っておいででございますが、彰嗣殿は、宮様のためならばこの先もずっと、いくらでも恋に苦しまれることでしょうね」


 鎌倉の見越(みごし)の崎の石崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ


(鎌倉の見越の崎――稲村ケ崎?――の崩れた岩のように、あなたが悔やまれるような心は、決して持ちますまい)

「わたくしは、彰嗣様の御言葉を信じているもの。彰嗣様が、待てと仰ればいくらでも待つし、共に恋に苦しめと仰るのなら、いつでもそうするわ」

「そのお気持ちを、いつまでもお大切にあそばされませ」

 不意に宮は、妻戸の前で控えている、二人の郎党の方へ振り返り、

「あ、あの、こんなこと、わたくしが話していたなんて、彰嗣様には決して言わないでね」

 頬を染め、狼狽えたように懇願する宮に、二人は思わず互いに微笑み、力強く頷いてくれた。彰嗣の指示で、あれから宮には郎党が二人ずつ、交替で護衛に付いている。彰嗣が不在の間、万一のためを考えての措置だ。皆、宮には好意を寄せているから、喜んで引き受けているが、彰嗣は館に帰って来ると、郎党達に、宮のその日の様子を、根掘り葉掘り訊こうとするので、宮としては、それが少し困りものだった。

 恵州尼は、愛情の籠った眼差しで、宮を見詰めた。故院の御命令を守り、ひたすらその幸福だけを願いながら、宮を護り育ててきた日々が、涙と共に思い出されて来た。

「どうぞ宮様、いつまでも彰嗣殿と御一緒に、御幸福にお過ごし下さいませ。宮様の今の御姿を、故院が御覧あそばされたら、どんなにか、お喜びになられたことでございましょう。わたくしもこれで、何の心残りもなくいつでも、故院のおそばに参ることが出来まする。どうぞ宮様、どうぞ……」

「そんなこと言わないで、尼御前。早く元気になって、一緒に市へ行きましょう」

 恵州尼は再び、病床の人となっていた。病んだ身で鎌倉へ下向し、何とか宮に再会出来たものの、やはり無理が祟ったのだろう。もはや宮にも、恵州尼の病状は、隠せないほどひどくなっていた。

「お義兄様も先日、尼御前にと、宋渡りの御薬を沢山寄越して下さったのよ。市の人達も、尼御前のことをとても心配してくれているわ。皆がこんなにも、尼御前のことを気にかけてくれているのですもの。きっと、すぐに良くなるわ」

「宮様……」

「前にも言ったでしょう、尼御前。父上様の御顔も、ははさまの御顔も知らないわたくしにとって、尼御前は、母以上の存在なのよ。お願い、必ず良くなって、わたくしにあなたへの孝行をさせて」

「宮様そのような、畏れ多いことを」

 恵州尼が驚いた。

「父上様にもははさまにも、わたくしは、何もして差し上げられなかったのよ。お願い、御二人の代わりに、あなたに孝行を尽くさせて欲しいの」

「宮様……」

 宮の手を握りしめて、恵州尼は涙にくれた。そのそばで、恵州尼の看病をしていたおふさは、そっと涙を拭うと、努めて明るい声で言った。

「ただいま、御薬をお持ちして参ります。それに宮様にも、御白湯を」

「わたしがお持ちしてきたわ、おふささん」

 三人が振り返ると、かえでがお盆を持って、妻戸で畏まっていた。

「失礼致します、尼御前様。お加減はいかがでございましょうか」

「有難う、今日はだいぶいいようですよ」

 恵州尼は優しく答え、宮も、かえでに向かって微笑んだ。

「あなたも、尼御前の看病を、一緒に手伝ってくれているのですってね。かえで、有難う。わたくしからも御礼を言うわ」

「そんな、当然のことです。そうだわ、おふささん。宮様からの、御下がり物のお菓子が沢山あるの。手が空いた人達から、先に頂いているわ。おふささんも、後で来てね」

「良かったら今、二人で行ってらっしゃい。尼御前には、わたくしが付いているわ」

「え、でも」

「御言葉に甘えなさい、二人とも。おふさ、お前はこの半年というもの、わたくしに付きっ切りで、家にも戻らず、はるばるここまで、一緒について来てくれたのです。わたくしに遠慮せず、少し息抜きをしておいで」

 二人がはしゃぎながら、厨へ向かう姿を見送って、恵州尼は宮に言った。

「かえでという子は、優しい子ですね。おふさのことも、よく面倒を見てくれて、おふさも喜んでいます。大原では、あやめにいつも苛められておりましたからね」

「ええ。さ、尼御前。少し眠った方がいいわ。何か、欲しい物はなくて?」


          6


「まさか、本当に宮が、彰嗣の妻になられるとは思わなかったぞ」

 御所が、声を上げて笑った。

「御所様までお騒がせ致しまして、面目次第もございませぬ」

 頬を少し赤らめながら、頼時は頭を下げた。

「まさかあろうことに彰嗣が、宮様へ想いを寄せているなどとは、わたしも流石に、夢にも思ってはおりませんでした。しかしながら彰嗣は、宮様を鎌倉へお連れ申し上げてから、あれほど派手に興じていた女遊びも、すっかり鳴りを潜めまして、以前とはまるで別人のようでございます」

「宮とて彰嗣のことは、憎からず思うておられたのだろう。何しろ初めから、彰嗣に頼り切っておいででいらしたからな」

「は。彰嗣は誓いの言葉通り、いつも宮様のおそばを離れることなく、そのことを宮様も、とても喜ばれておいででございました。放生会でも彰嗣は、例年以上に張り切っておりましたし、畏れながら宮様も、彰嗣の流鏑馬を殊の外、御熱心に御覧になっておられまして、わたしも妻も、そのことを微笑ましく思い、彰嗣の想いが、いつか宮様に届きますようにと、秘かに願っておりました。しかしながらその後は色々と、御心配申し上げることもございましたが、尼御前様が御下向なされてからは、宮様はお健やかに、御幸福にお暮らしの御様子にて、何はともあれ、めでたきことと承っておりまする」

「そうか、そうか。二人にはわたしからも、何か祝いの品を進ぜねばならぬのう。何しろ宮は、同い年であられても、わたしの叔母宮であらせられる。今後は彰嗣を、義叔父上と呼ばなければならぬかな」

「そのような。そんなことはございませぬ。彰嗣も、身分の程はわきまえております故」

「冗談だ、頼時。しかしなあ」

 慌てた頼時に、御所は笑いながら言った。

「日頃から何かとかまびすしい御台が、この頃、ますますうるさくなりおっての。彰嗣は、宮を護るなどと体裁のいいことを言って、実は、宮を利用するために鎌倉へ連れて来ただの、これを機に、将軍の座を狙うようになるに違いないだの、それこそ毎日のように、わたしにやかましく言って来るのだ」

「そのような! そのようなこと、決してあるはずがございませぬ! 北条は将軍家の姻戚であっても、もとを糺せば平家の傍流。源氏の血を持たぬ彰嗣に、将軍の座など狙えるはずもございませぬ!」

 顔色を変えた頼時は、必死の声で叫んだ。

 かつて、甲斐の武田ら源氏の流れを汲む人々は、頼朝に同族としての待遇を求めたが、頼朝は決してそれを赦さず、御家人と同等に扱った。それに逆らった者は、弟や従兄弟のみならず、次々と謀殺された。それは唯一の源氏嫡流として、己の血筋を護るためもあったのだろうが、何よりも幕府という、上皇・貴族に対抗し、東国武士の拠り処となる、連合政権の基盤を護るために他ならない。その長である、将軍の権力を強固なものとし、後白河院を初めとする、都の既存勢力に抗し圧するためには、己以外の者の台頭など、断じて赦すわけにはいかなかった。頼朝の死後、政子の継母が娘婿(信濃源氏、平賀氏)の将軍就任を謀るなど、数々の陰謀も仕組まれたが、妻である政子でさえ、源氏嫡流ではない者の将軍職など決して認めず、我が子実朝に子が望めないとわかってからは、わざわざ都に後嗣を求めた程である。しかし実朝の暗殺で、源氏嫡流は空しくも途絶えたが、征夷大将軍となる者は、清和源氏の血を継ぐ者であらねばならないという概念は、鎌倉幕府滅亡後も連綿と続き、だからこそ足利氏(下野源氏)は将軍職を望めたのだし、徳川氏は、源氏を名乗るためにわざわざ、上野国にまで先祖を求めなければならなかった。

 北条氏は、平家の傍流というが、はっきりした出自はわかっていない。頼朝の死後、幕府の実権は北条氏に取って代わられたが、果たして頼朝は、それを予期していたのだろうか。少なくとも流人時代の頼朝には、頼りとする側近もごくわずかで、平家討滅のための兵力さえなく、政子の縁で、ようやく北条氏の援護を得た頼朝は、同族を御家人と同等に扱っても、北条氏だけは重用せざるを得なかっただろう。実朝暗殺後、政子は尼の身で事実上の将軍となり、下向してきた幼い将軍の後見を務めたが、北条氏もまた、その姻戚・執権として将軍を補佐することにより、幕府の実権を握った。承久の乱直前、都にいた三浦胤義は、その兄三浦義村に宛てて、後鳥羽院方に付くよう書状を出したが、義村はその書状を携えて、政子の弟で時の執権、北条義時の許に赴き、弟の勧告を一蹴した。義時追討の名目を掲げての挙兵でありながら、義村を初め、北条方に付く御家人が多かったのは、政子の演説で頼朝の恩義を説かれたためばかりではなく、北条氏を滅ぼし幕府を壊滅させることは、それまで貴族の横暴から護り築き上げてきた、己自身の、御家人としての主体性と権利をも、すべて失ってしまうことになるからだろう。

「しかしなあ、頼時。宮は内親王宣下を受け、一品にも叙せられた故院の忘れ形見ぞ。彰嗣はまこと、宮への恋情のみで宮に近付いたのであろうか」

 御所は、尚もしつこく言い続ける。

「彰嗣が昔から、地位や名誉欲などない男であることは、御所もよく御承知のはず。それでもまだ不安だと思し召しならば、彰嗣に血判状を書かせ、御所に対し、一片の逆心もないことを証明させまする」

 畏まりながらも頼時は、厳しい眼差しで御所を見詰めていた。

「いやいや、何もそこまで。冗談だ、冗談。頼時、これはわたしが言い過ぎた。赦せ」

 御所は再び、からからと笑い出した。

「御台のせいで、わたしも余計なことを考えてしまうようだ。と申すよりわたしも、彰嗣が羨ましくて仕方がないのかも知れない。御台も宮のように、優しくたおやかな妻であったなら、わたしももう少し、御台のことを愛おしく思えるであろうに」

「宮様は本当に、純真で可憐な御方でございます。しかし畏れながら、院はまだ、宮様のことをお諦めになってはおられませぬ。彰嗣のみならず、我々北条は身命を賭けて、宮様をお護り申し上げる所存でございます」

「わたしからも頼む。これ以上宮が、院に穢されるようなことにでもなれば、わたしも耐えられぬ」

「その御言葉、彰嗣にも伝えまする」

「ところで頼時。わたしは改めて、そなたの意見を聴いておきたいのだがな」

 訝しげに顔を上げた、頼時を見詰める御所の眼は、奇妙な光を帯びていた。

「そなたは、どう思う。まこと彰嗣は、権力などに欲がないのだろうか。宮のことを、心から愛しているのだろうか」

「……それは、どういう意味でございます」

「将軍位は無理としても、執権の位ならば、彰嗣とて望まないはずはないと思わぬか。兄のようになりたいと、己も兄の幸運にあやかりたいと、いくら彰嗣のような男でも、微塵も思わぬとは言えないのではないだろうか。ましてや今、彰嗣の腕の中には、お優しく淑やかな、しかし人間(ひと)というものを、まるで御存知ではない宮がおられる。彰嗣のように、女の扱いに慣れている男ならば、宮に彰嗣が、溺れ込んでいると思い込ませるなど、弓矢を引くより容易いはず。あの宮を利用して、兄のそなたを蹴落とそうなどと、ちらりとでもそのような考えが、彰嗣の頭の中に浮かぶやもしれぬと、頼時、そなたはそう思ったことはないのか」


          7


「宮……!」

「……彰嗣様……」

 郎党からの報告を受け、宮の部屋へ駆け付けた彰嗣は、泣き崩れている宮を、急いで抱きしめた。

「ごめんなさい……お帰りになられたこと……気付かなくて……ごめんなさい……」

「そんなことはどうでもいい。しっかりして下さい、宮」

「申し訳ございませぬ!」

 岩瀬局の声に彰嗣は、その場にひれ伏している、局とかえでを振り返った。

「申し訳ございませぬ、若殿! 決して宮様には、尼御前様の詳しい御病状などお伝えせぬようにと、あれほど厳しく申し付けられておりましたのに……!」

「……二人は、悪くございません……どうか誰のことも、御責めにならないで下さいませ……わたくしが自分で、医師に問い質したのですから……」

「宮……」

「尼御前は……尼御前の生命は……もう、あと三月もないと……」

 彰嗣の腕の中で、宮は再び泣き崩れた。

「少し寝んで下さい、宮。今は、何も考えてはいけない」

「かえで、宮様に御薬湯を」

 かえでは頷いて、立ち上がった。

「尼御前に……尼御前に、もしものことがあったら……わたくし……本当に一人に……一人になってしまう……わたくし……」

「そんなことはない、朝子。俺がいる」

 彰嗣のその言葉に、かえでの足が立ち止まった。

「俺がいる……何があっても、俺が朝子のそばにいる……だから怖れるな。あなたは決して、一人なんかじゃない」

「……彰嗣様……彰嗣様……」

「かえで、何をしておる。早く、御薬湯をお持ちせぬか」

 岩瀬局に咎められて、かえでは急いで部屋を出た。その顔は、宮に仕える忠実な娘のものではなく、激しい嫉妬に燃えた、女のものに変わっていた。


          8


 かえでは振り返って、宮へ声をかけた。

「宮様、今朝ほど御気分が優れないとお伺い致しましたが、もう大丈夫なのでございますか」

「ええ、有難う。少しの間だけだったから、もう大丈夫よ」

「上人様は本堂ではなく、宿坊の方におられるようです」

「わたくしが心を込めてお願いすれば、必ず上人様は、尼御前のために祈祷をして下さるわね」

「はい、必ず」

 宮はあれから、館の持仏堂に籠り、恵州尼の快復を祈る日々を送っていた。朝早くから夜遅くまで、過剰なほどに宮は祈祷に専念した。

「宮様、尼御前様が御心配なさっておられます。どうか、御無理をなさらないで下さいませ」

「せめて、お食事だけでも召し上がって下さいませ。宮様までが御病気になられましては、一体どうあそばされます」

 おふさや岩瀬局が忠告しても、宮は、耳を貸そうともしなかった。

「無理をなさるな。宮にもしものことがあったらそれこそ、尼御前様の生命は危ういものとなってしまうでしょう」

「大原では、尼御前はいつも、わたくしの幸福を祈ってくれました。わたくしが、尼御前のためにしてあげられることは、これくらいのことしかないのですもの」

 更には、彰嗣が言葉を尽くして宮を諌めたが、宮は少しも動じなかった。

「お願いでございます。どうかこれだけは、わたくしの気のすむまでやらせて下さいませ。尼御前のために出来ることがあれば、わたくしは、何でも致す覚悟なのでございます」

「あなたは、どうしてそうなのだろう。一度そうと決めれば、俺が何を言っても、決して意志を曲げないのだから」

 そう言って溜息を吐いてから、彰嗣はいきなり宮を抱き上げ、そのまま寝所へ運んだ。

「嫌! 彰嗣様、嫌!」

 彰嗣が宮の唇を塞ぎ、抱く腕に力を込めると、宮は忽ちのうちに、彰嗣の胸の中に崩れ落ちた。

「こうでもしないと朝子は、眠ることさえ拒む」

 はらはらとこぼれ落ちる涙を拭い、彰嗣は、宮に沿い臥しながら呟いた。恵州尼にさえ嫉妬する、己の心を嘲笑いながら。

 しかしそれでも尚、宮は、持仏堂に籠ることをやめようとはしなかった。いくら彰嗣達が案じていても、少しくらい体調が優れなくても、ひたすら仏像の前に座り続けた。宮自身が繰り返し述べているように、父院の御顔も、母の顔も知らない宮にとって、恵州尼は宮の、かけがえのないただ一人の母であったからだ。たとえ一日でも、一刻でも、恵州尼に長く生き続けて欲しかった。祈り続ける宮の頬を、ひとすじの涙が流れ落ちた。

「宮様」

 遠慮がちにかけてきた声に、宮は初めて顔を上げた。

「かえで。ごめんなさい、気付かなかったわ」

「申し訳ございません。どうしようかとも思ったのですけれど、でも、宮様に早くお知らせしたいことがあって」

 何処か思い詰めたような、かえでの表情を見てとって、宮はそちらに向き直った。

「先日、岩瀬局様の御使いで市へ参りました時、大御堂(勝長寿院)に、都からの高僧が御滞在なさっていると聴きましたの。その上人様はとても高名な祈祷僧で、今までに、沢山の方の病をお治しになられたのだとか」

 その言葉に、蒼ざめた宮の顔が、少しずつ輝きを帯び始めた。

「ただ、とても頑固な御方でいらっしゃるので、近頃では御祈祷を頼まれても、滅多に受けては下さらないのだそうです。でも宮様が直々にお願いすれば、上人様も快く尼御前様の御祈祷を、引き受けて下さるのではないでしょうか」

 宮は忽ち、かえでの提案に取り縋った。

「大御堂へ参られるのでございますか」

 岩瀬局は驚いた。持仏堂に籠りきりだった宮が、ようやく姿を見せてくれたと思えば。

「そうお急ぎにならず、若殿がお帰りになられてから御相談なさった方が」

「お願い。上人様は、近く都へお帰りになられるそうなの」

 今宵、彰嗣は宿直(とのい)であった。北条家の一員として、執権の兄を補佐する立場であり、彰嗣自身、侍所の役にも就いている。まして内親王を妻に迎えたことで、彰嗣の存在は、幕府内でも重みを増してきていた。院への心配はあっても、仮にも幕閣に名を連ねる者が、政務を怠るわけにもいかない。宮には常に、郎党達が交替で護衛に付いているとはいえ、彰嗣が不在の時に宮を外へ出すことは、岩瀬局にとっても、重い決断を強いられることだった。

「霊験あらたかな上人様に、御祈祷して頂くことが出来れば、尼御前の病も、少しは良くなってくれるかも知れないでしょう。どうかお願い、彰嗣様には、わたくしが後で謝るから」

 それでも宮に、必死な表情で懇願されれば、岩瀬局も、渋々了承せざるを得なかった。急ぎ輿が用意され、郎党二人とかえでに付き添われて、宮は大御堂に向かった。しかしその門前で、かえでは不意に、宮の輿を止めさせたのである。

「御二人は、ここでお待ち下さい。ここから先は、宮様とわたしだけで参ります」

「何を仰る、かえで殿」

 突然のことに、郎党達は驚きの声を上げた。

「宮様のおそばを離れるなどしたら、我々が若殿に叱られてしまいます」

「どうかお赦し下さい。上人様はとても頑固な御方なので、沢山の人間に押し掛けられることも、嫌がるそうでございます」

「輿を下ろして下さい。大丈夫、わたくし参ります」

 宮が、輿から降り立った。

「心配しないで。ここも以前、彰嗣様に連れて来て頂いたことがありますから。院主様にもその時、御眼にかかっております」

「しかし、宮様」

「お願い。少し、かえでと話もしたいの。こんな時でなければなかなか、そういうことも出来ないのですもの」

 かえでの顔が強張った。郎党達は尚も案じたが、結局、宮に押し込まれるかたちで、その場に留まることになった。

 本堂の方から、経を唱える声が響いている。宮の前を誘導するかたちで先を歩きながら、かえでは内心穏やかではなかった。こんな時でなければ出来ない話とは、一体何なのだろう。

「あの、宮様」

「……ここは、平治の乱で無念の最後を遂げられた、父君義朝公の菩提を弔うため、頼朝公が御建てになられたものだと、彰嗣様が教えて下さったわ」

 かえでが、思い切って宮に訊ねようとすると、宮は、不意に大御堂の話を始めた。

「その翌年には、頼朝公御長女の大姫様が、ここへ参籠されておいでだったそうよ。大姫様は幼い頃、許婚(いいなずけ)でいらした木曽義高様を、実の父君に、殺されてしまわれた御方なのだそうね」

 境内には、白や赤の山茶花が咲き誇っている。それを見詰めながら、宮は静かな声で語った。

「そして大姫様は、義経公の御愛妾だった静御前を、ここへお招きなさったそうなの。静御前と言えば、やはり頼朝公の御前で、吉野に追われた義経公を慕う舞を舞われた、とても気丈な御方で知られているわ。でも、生まれた子さえも取り上げられて、海に放り込まれ殺されてしまったのだとか。大姫様御自身も、義高様を殺されて以来御病気がちで、帝(後鳥羽院)の後宮にお入りになるお話が、お決まりになる直前、二十歳になるやならずで、亡くなってしまわれたのだとお聴きしたわ。共に、頼朝公に愛する御方を奪われて、悲劇の御生涯を送られた御二人は、ここで、どんなお話をなさっておいでだったのでしょうね」

 不安の面持ちで、自分を見詰めるかえでを、宮はゆっくりと振り返った。

「岩瀬局に聴いたわ。かえで、あなたは彰嗣様の許婚だったそうね」

「宮様……!」

 かえでの顔が真っ青になった。

「ごめんなさい……何も知らなかったとはいえ、わたくしは、あなたをずっと傷付けていたのね」

「宮様が、お悪いわけではありません。どうかそんなこと、仰らないで下さい」

「でも、かえで」

「わたしなんかが若殿の妻になっても、何のお役にも立ちません。わかっています。わたしなんかよりも宮様の方がずっと、若殿におふさわしいのだってこと」

 そう言いながらもかえでの眼からは、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。

「宮様は、内親王の御身分をお持ちです。わたしから見れば、とても手の届かない雲の上の御方です。誰よりもお淑やかで気品があって、とてもお優しくて……。いくら宮様の真似をしても、わたしなんか、宮様の足元にも及びません。その上、若殿はあんなにも、宮様のことを想っておいでではありませんか。わたしなんて、若殿は振り向いてもくれない……」

「本当にごめんなさい……でも、どうか赦して欲しいの」

「宮様……」

「わたくし、身籠ったようなの」

 この言葉に、かえでの涙が止まった。

「そう、彰嗣様の御子よ。岩瀬局に言われて気が付いたの。尼御前のことに夢中で、わたくしもすっかり忘れていたのだけれど、わたくしはここしばらく、月のめぐりがなかったの」

「本当に……? 宮様、若殿の御子を……?」

 頬を染めつつ、宮はそっと頷いた。

 かえでの身体が、途端に震え始めた。蒼ざめ、憎悪に満ちたその顔を、かえでは躊躇いもせず宮に向け、宮は思わず後ずさった。その時だ。突然、見知らぬ男達がばらばらと現れ、宮を取り囲んだ。

「……かえで……!?」

「お赦し下さい、宮様。わたし、もうこれ以上耐えられない。どうしても若殿を、あなたに奪われたくはないのです……!」

「かえで……!」

 逃げる間もなかった。宮は、男達に囚われると同時に、口を塞がれ気を失った。


          9


「若殿!」

 彰嗣が突然、馬に乗って現れ、郎党達はひどく驚いてしまった。

「局から使いが来た。宮は、こちらにおられるそうだな」

「はい、申し訳ございませぬ。何でも、都から参られた高僧に、尼御前様の御祈祷をお頼みになりたいとの御希望で」

 郎党の言葉を最後まで聴かず、彰嗣は足早に門を潜り、郎党達も慌ててその後を追った。

「これは彰嗣殿。久しゅうござる」

 二人の若い僧を従え、親しげに声をかけて来たのは、大御堂の院主だった。

「姫宮様と御結婚なさったそうですな。おめでとうござる。こちらでも御二人のことは、大層な噂になっておりますぞ」

「院主様。こちらに、都からの高僧が御滞在なさっておられるそうですが」

 挨拶もそこそこに、彰嗣が院主に訊ねると、院主は首を傾げた。

「高僧? 何のことです」

「若殿!」

 郎党の一人が叫んだ。

「宮様に、高僧の祈祷の話をしていたのは、かえで殿です!」

「一体、何のお話です。姫宮様は、こちらに御出ましなのでございますか」

 院主が戸惑いながら訊ねても、彰嗣は、何かを睨み付けるような顔をしたまま押し黙っている。

「若殿……!?」

 息を切らしながら走って来たかえでは、思いもかけずそこに、彰嗣の姿を見付けて立ち止まった。

「宮は何処だ、かえで!」

 かえでがこれまで見たこともない、まるで鬼のような顔をして、彰嗣がかえでを怒鳴り付けた。かえでは答えることも出来ず、真っ青になって震え上がった。

「答えろ! 宮は何処にいる!?」

「彰嗣殿、これはどういうことです。姫宮様は一体……」

 混乱しながらも院主が、更に問いかけた時、数名の僧が叫びながら、こちらへ駆け付けて来るのが見えた。

「院主! 大変でございます、宿坊から火が!」

「本堂にも! 何者かが放火したものと思われます!」

「若殿! 若殿、宮様が!」

 郎党が再び叫び、彰嗣も、かえでに向かって叫んだ。

「かえで、貴様! 院の手下を手引きしたのか!」

 かえでの身体が、その場に崩れ落ちた。


          10


 大御堂から出た火は、郎党達の助けもあって、すぐに消し止めることが出来たが、宮の誘拐と共に、事件は一気に鎌倉中へ知れ渡り、街中は騒然となった。

 だが、北条家の館の中は、不気味なほど静まり返っていた。その表の間では、かえでが真っ青な顔をして、震えながら座り込んでいる。彰嗣の命令で郎党達に囚われ、引き摺られるようにして、ここまで連行されてきたのだ。周囲には彰嗣と時嗣はもちろん、緊急で呼び出された頼時や、岩瀬局を初めとする家中の者達、それこそ通常であれば、表の間へ入ることが出来ない下仕えの者さえも、男女を問わず揃っていた。だがしかし、口をきく者は一人としておらず、ただ誰もが、冷たく怖ろしいほどの眼差しで、じっとかえでを睨み付けていた。

「……尼御前様は、このことを御存知なのか」

 ようやく、彰嗣が呟くように訊ねると、局が頭を下げた。

「申し訳ございません。宮様がお出掛けになられましてから、にわかに、宮様は何処におられるのかと、ひどく取り乱し始めたのでございます。恐らく、母代りとしての直感で、宮様の御身に危害が及ぶと、感付かれたのでございましょう。そのためわたくしも、急ぎ若殿に、使いをお送りしたのでございますが」

「宮様御誕生の時から、ひたすら故院の御遺言を守り、母代わりとして、宮様をお育てしてこられた御方じゃ。病の身でありながら、周囲の反対を押し切って、はるばる鎌倉まで御下向なさったほどじゃからのう」

 涙ぐみながら、時嗣がぼそりと呟いた。

「御薬湯を差し上げましたので、今はよく眠っておられますが……可哀想に、おふさはずっと泣いています。あの子も、宮様が大原を後になされてから、たった一人で、宮様の御身を案じつつ、尼御前様の看病をしていたのですから」

 その話を、かえでは震えながら聴いていた。かえでのことを可愛がり、いつも優しく接してくれた人々を、完全に敵に回してしまったのだと思いながら。

「もう一度、訊く。かえで、お前は何処で、院の手下に逢ったのだ」

 彰嗣が訊ねても、かえでは、顔を上げることも出来なかった。

「答えろ! いつからお前は、院の手下に成り下がっていた!?」

「少し落ち着け、彰嗣。そう怒鳴ってばかりでは、かえでも答えられまい」

 頼時が口を挟んだ。

「だが、わたしもかえでに訊きたい。かえで、宮様付きの女房になれたことを、あんなにも喜んでいたお前が、どうしてその宮様を、あっさり裏切るような真似が出来たのだ。あれほど宮様が院に怯え、その御子である御所のことも、内心怖れておられたことを、お前とてよく知っていたはず。いや、そんなことを今更、訊くこともあるまいか。忠誠を誓ったはずの宮様を、こうも簡単に院に売り渡してしまうほど、お前は、宮様と彰嗣の此度の結婚を、許すことが出来なかったのだからな」

「かえで、貴様!」

 彰嗣が叫び、かえでに飛びかかった。かえでが悲鳴を上げる。

「彰嗣!」

「やめぬか、彰嗣!」

 頼時と時嗣が、辛うじて彰嗣を押し留め、光良達も駆け付けて、共に彰嗣を抑え込んだ。

「落ち着け、彰嗣! お前にも、非がなかったとは申せまい!?」

「離してくれ、兄上! 俺達がこうしている間にも、宮は、宮は!」

「落ち着け! 六波羅にも、各地の港や宿にも、すでに急使は送ってある。まずはこうなってしまった状況を、詳らかにすることから始めねば」

 弟を叱責し、怯えて泣いているかえでに、頼時は改めて向き直った。

「お前も、いつまでも泣いていないで、わたしの質問に答えなさい。自分のしたことが宮様ばかりではなく、わたし達をも裏切った結果になってしまったこと、お前にもようやくわかったであろう。そのことに早く気付いておれば、お前は、わたし達の信用と愛情を、一度に失うこともなかったであろうに。いや、今更、そんなことを言っていても仕方がない。さあ、答えなさい。お前は一体何処で、院の配下の者と、接することが出来たのだ」

 頼時の声は落ち着いているが、それだけかえでには、冷たく怖ろしいものに聴こえていた。

「……市……」

 それでもようやく、唾をごくりと飲み込み、今にも消え入りそうな勇気を振り絞って、かえでは声を出した。

「……市で、小物を売っていた男に、声をかけられたのです……」

「その者が、院の配下の一人だったのだな。宮様が、彰嗣と結婚なされたことはもちろん、お前が彰嗣の許婚だったことも、あちらはすでに調べていたわけか」

 かえでが、震えながら頷く。

「宮様は何よりも、尼御前様の御病状を案じておられる。祈祷のためだなどと口実を設けて、宮様を大御堂へ誘い出し、速やかに院側へ引き渡せと言われたのだな。そうすれば宮様と彰嗣を、引き離すことが出来るからと」

 もう一度頷いてから、かえではぽろぽろと、涙をこぼし始めた。

「泣くのはやめなさい。その涙は己のためのもので、宮様のためではないだろう。今のお前に、その涙を流す資格はないよ。たとえ、ここでお前が彰嗣に殺されても、誰も文句を言う者などおるまい。先程、わたしが彰嗣を止めたのも、お前から話を訊き出すためであって、別にわたしは、お前の生命が惜しいわけではないからね」

「……お……お赦し下さい……お赦し下さい……」

「質問に答えなさい。院の目的は、宮様を取り戻すことだけではない。院は恐らくこれを機に、討幕の挙兵を謀るおつもりなのだろう」

 その言葉に、誰もが頼時の顔を見詰めた。

「わたしは何も知りません! 何も知りません! 本当です、信じて下さい!」

 かえでは、激しく首を振った。

「わたし、わたしはただ、宮様のことがお羨ましかっただけなのです。誰よりもお淑やかでお優しくて、気品に満ちた生まれながらの皇女様に、わたしだって本当に、心の底から憧れていたのですもの。一品位をお持ちの内親王殿下に、わたしなんかが敵うわけがない……!」

「宮様は初めから、恵まれた境遇におられたわけではない。早くに母君を亡くし、父院とも引き離され、大原のような鄙びた里で、日陰の身としてお育ちになってこられた御方だ。その上、兄院にあるまじき御振舞いをされ、心に深い傷を負われて、はるばる鎌倉まで逃げて来られねばならなかった。彰嗣が、宮様のような御方に惹かれるのは、むしろ当然のことだと、そなたは思わなかったのか」

「それでも嫌、それでも嫌だったのです! だって、だって宮様は、あんなにも若殿のことを、怖がっておいでだったではありませんか! 毎夜毎夜、あんなにも泣き叫んでおられたのに、どうして今は笑ってらっしゃるの!? 本当は、若殿を愛してなんかおられないくせに、どうして今は、まるで初めからそうだったように、若殿の腕の中にいらっしゃるの!?」

 泣き叫ぶかえでを、彰嗣は黙って見詰めていた。すると先日、宮が恵州尼を見舞った時、付き添っていた郎党の一人が、彰嗣のそばに跪いた。

「宮様は、尼御前様と御一緒に、鎌倉の歌を口ずさまれながら、尼御前様に、若殿への想いを語っておいででございました。若殿が宮様に、御自分のことを愛しているのかと、毎夜のようにお訊ねになられるのは、宮様御自身が、若殿を愛しておられることにいつまでも気付かず、そのために長いこと、若殿をお苦しめさせたせいなのではないのかと、尼御前様に、御相談をなさっておられたのでございます」

 その言葉に、かえでの涙が止まった。

「……宮は、俺のことを本気で愛している。俺を夫と認めてくれたからこそ、朝子という己の名を、俺に教えてくれた」

「わたしだって、わたしだって若殿のことが、ずっとずっと好きでした!」

 かえでが叫んだ。

「小さい時からずっと、若殿に憧れていたのです。だから、だから亡くなられた奥方様が、若殿の許婚に、わたしを選んで下さった時には、天にも昇るような思いで、このお館にやって来ました。若殿が旅に明け暮れて、殆ど鎌倉に戻って来られなくても、かりそめの恋に興じて、次々と女人方の間を渡り歩いておられても、母君思いでいらした若殿が、奥方様の願いを裏切るはずはないと、ずっとそう信じて……!」

 大声を上げて、かえではその場に泣き伏した。だが無言で、その姿を見詰める彰嗣の顔に、怒りも憐みも、何の感情も浮かんでは来なかった。すると岩瀬局が、堪え切れなくなったかのように、かえでのそばに跪いた。

「若殿、お願いでございます! どうかわたくしに免じて、かえでをお赦し下さいませ! かえでの此度の不祥事には、わたくしにも責任がございます! どうか、どうか、これまでのこの子の忠勤に免じて、母代りとしてこの子の世話をして参りました、乳母のわたくしに免じて、どうか、どうか……!」

「若殿、本当のことを仰って下さい! 若殿は本気で、宮様のことを想っていらっしゃるのですか! あんなにも沢山の、女人方を惑わせておいでだった若殿が、宮様だけには真剣に恋しているなんて、わたしには信じられない! いつものかりそめの恋の戯れだと、初心な宮様を、おからかいになっておられるだけだと、どうかそう仰って下さい!」

 庇ってくれた局にも構わず、半ば半狂乱になって、かえでは泣き叫び続ける。

「若殿が好き! 若殿が好きです! わたしなんかが、宮様に敵うわけがないってわかっていても、それでも嫌、それでも嫌です! 若殿が本気で、宮様に恋しているなんて嫌! 若殿が、わたしの若殿が、宮様だけには真剣だなんて、そんなこと認めたくない! 認めたくないの! 絶対に嫌! 絶対にいやあ!」

 彰嗣は相変わらず、ひと言も言葉を発することなく、無表情でかえでの涙を見詰めている。岩瀬局が狼狽えていても、何度も時嗣に、何か言葉をかけるよう促されても、戸惑う郎党達がかえでを庇い始めても、泣き叫ぶ娘を前にして、冷酷なまでに動じることがなかった。

「……かえで、俺もお前のことは、好意を持っている。お前は明るくて、くるくるとよく働いて、宮のことも、親身になってよく世話をしていたからな」

 ようやく、その重い口が開かれたのは、かなり長い時を経た後だった。

「母が在世であれば、あるいは俺も、母の願いを叶えてやろうとしたのかも知れない。だが、宮のように本気で、お前のことを愛してやれたとは、俺には思えない。俺にとってお前は、可愛らしい妹。それ以上にもそれ以下にも、お前のことを想ったことは一度もない。ましてや院のように、妹を抱くことなど、俺には出来ない」

 かえでの悲鳴が、館の中に響き渡った。


          11


「意外だな、彰嗣」

 二人の女房が、かえでを別室に下がらせるのを見送って、頼時が口を開いた。

「以前のお前は、かえでにはもう少し、優しくしていたように思うが、まさかあのように冷酷な言葉を、お前の口から聴くとは思わなかった」

「あれくらいはっきり言わなければ、あいつにはわからないだろう」

「わかっているのさ、かえでも。わかってはいても、それでもお前を諦めることが出来なかった。かえでも、女だったということだ」

 頼時の顔は、優しく微笑んでいた。

「だが、念のために訊いておこう。まさかとは思うが、お前、かえでには手を出してはおるまいな」

「何を言っているんだ、兄上。俺を、院なんかと一緒にしないでくれ」

 うんざりしたような顔で、彰嗣は言った。

「俺にしてみればあれが、かえでへの精一杯の答えだ。いくら俺でも妹を、戯れの恋に巻き込むつもりはない」

「宮様は?」

 重ねて、頼時が訊ねた。

「宮様のことはどうなのだ。かえでが言ったように、お前は実際、宮様をたぶらかすつもりで近付いたのではないのか」

 この言葉に、周囲にいた郎党達が、一斉に彰嗣の顔を振り返った。

「……初心で世間知らずな娘だと、それが初めて逢った時の印象だ。気を付けなければ悪い男にたぶらかされると、何度も宮をからかった。なのに気が付いてみると、すっかり虜にされてしまっていたのは、宮ではなくて俺の方だった」

 宮のことを語る彰嗣の眼差しは、先程のかえでに向けた眼差しとは、全く変わっていた。

「俺も、随分と多くの女を抱いてきたが、今ではもう、その女達の顔も名前も、あらかた忘れてしまった。今の俺は、自分でも不思議なほど宮に溺れている。宮の肌、宮の髪、宮の声、宮の息遣いや涙までも、そのひとつひとつが、かけがえもないほど大切で愛しい」

「変われば変わるものだな。女の肌など知り尽くしているお前が、そこまで宮様に溺れるとは。出逢った時からそうなのか」

「わからない。いつから、何故などと訊かれても、俺にも答えられない。いつの間にか宮に惹かれ、手離すことが出来なくなった。宮は俺のものだ。院にも、他の誰にも、宮を渡すつもりはない」

 不意に、彰嗣がふっと微笑んだ。

「だが兄上、情けない話だが、俺は毎夜、確かめずにはいられなくなるのだ。何しろ俺は軽はずみにも、宮をみすみす、院の餌食にさせてしまった男だ。こんな俺を、宮は本当に赦してくれたのか、本当に心から、俺のことを信じて愛しているのか、いちいち宮に確かめなくては、不安で不安で堪らない」

「本気なのだな」

「ああ」

「御所も、宮様を妻に出来たお前を羨んでいたが」

 頼時が、再び微笑んだ。

「わたしもお前が羨ましいよ、彰嗣。たった一人の女に、そこまで入れ込むようになれるとは。昔はともかく、今のようなわたしの立場では、自由な恋愛なぞ望めないからな」

 そこでふと、それまでずっとそばに控えて、二人の会話を聴いていた岩瀬局が、彰嗣の前に進み出た。

「宮様は、御懐妊なさっておられます」

 局の言葉に、彰嗣が眼を瞠った。

「いいえまだ、御医師に確かめたわけではございませぬが……けれど宮様は、ここ幾日もお食事を召し上がらず、今朝はことに、御気分の不快を訴えておいででございました。とは言えすぐにご快復あそばされましたし、初めはわたくしも、尼御前様の御身を案じて故のことと思うておりましたが、やはり、間違いなく御懐妊であると思われまする。月のめぐりも、ここしばらくはございませぬ故」

 彰嗣は、茫然と局の顔を見詰めていた。局の言葉が、理解出来ていないかのようだった。

「若殿、どうされたのです」

 光良が声をかけても、まるで固まったように動かなかったが、それでもようやく口を開いた。

「……まことか、それは」

 局が力強く頷くと、今度は不意に(きびす)を返し、人々が止める間もなく、彰嗣は表の間を出て行った。

 何処を目指して、というわけではない。けれど彰嗣の足は、自然と月見台へ向かっていた。宮が初めて館へ来た日の夜、月の歌を彰嗣達に教え、初めての酒を口にして酔い、そして何より宮があの日、彰嗣を心から受け入れてくれた、あの月見台に。

 宮がよく月や庭を眺めていた、お気に入りの場所に立つと、彰嗣は改めて、宮のことを想い浮かべた。じっと、己の掌を見詰める。今、この手には空虚感が纏わり付いている。宮を失って、気が狂いそうなほどの、激しい空虚感。つい今朝まで、この手は宮の、あの見事な黒髪に触れていたというのに。端々まで濡れたように、光り輝くあの黒髪を、何度も心を込めて撫でていたのに。そしてその感触に、ようやく目覚めた宮は、恥らいと共に純真な笑顔を、彰嗣のために浮かべてみせてくれたのだ。

 ひとつ思い出すと、宮のすべてが、次々と心に浮かんでくる。宮は優しかった。毎夜、不安に駆られながら、宮の肌を求める彰嗣に、宮はいつも優しく応えてくれた。宮の、かぐわしい香りさえ漂う、きめの細かな肌を、彰嗣は一体何度、味わってきたことだろう。かつて漁った数多の女など、冷酷なほど、あらかた忘れてしまったというのに。辛うじて覚えている女でも、宮の気高くしなやかな肢体に、比べられる女など一人もいなかった。

 ……多摩川で、愛する娘への想いを詠った男よ。今の俺には、お前の気持ちが痛いほどよくわかる。お前もそうだったように、何故こんなにも俺は、あの姫宮のことばかりが愛おしいのか。いつからこんなにも、宮一人に囚われるようになってしまったのか。ただこうしている間にも、宮のことを考えただけで、身体の奥底から、宮への愛情が切ないほど込み上げてくる。宮にも告白した通り、宮のような初心な娘を、かつての彰嗣が好んだようには思えない。それなのにどうして、今はこんなにも、宮のすべてが愛おしく感じられるのか。

「……そうか」

 彰嗣が呟く。

「これが、恋というものか」

 いつから、何故なんてわからない。ただ、宮のすべてが愛おしい。宮の肌、宮の髪、宮の声、その息遣いや涙さえも、そのすべてが愛おしくて堪らない。今すぐに、宮をこの腕に抱きたい。宮の肌に触れ、愛していると、何度でも囁いてやりたい。正しく俺は、真実の恋に落ちたのだ。宮、内気で奥手なはずのあなたは、まんまとこの俺を、数多の女をたぶらかしてきたこの俺を、いとも容易く、恋という甘美な罠に捕えてしまったのだ。

「俺のものだ……俺の……院などに渡してなるものか」

 待っていろ。必ず宮、あなたを取り戻す。この手に、あなたを奪い返してみせる。

「若殿」

 簀子に控え、彰嗣からの指示を待っていた光良が声をかけた。

「今行く」

 強い決意を胸に、再び彰嗣は踵を返すと、兄達の待つ表の間へと戻って行った。






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