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第二章 ぬばたまの我が黒髪を


          1


「随分、険しい道なのですね」

 宮は、思わず呟いた。

 切通しの道は、鬱蒼とした森と切り立った崖の間を、狭く険しい道が曲がりくねっていて、有名な鎌倉名物のひとつではあるけれど、宮にすれば、とても道だなどとは思えない。

「鎌倉は古の時代から、天然の要害の地です」

 万が一にも、宮が馬から落ちることなどないよう、片腕で宮の身体を支えながら、彰嗣は答えた。

「頼朝公が、ここに幕府を開かれたのは、鎌倉が源氏縁の地であっただけではなく、南は海に、他はすべて、(やつ)と呼ばれる山々に囲まれていたことも、重要な要因のひとつでした。この化粧坂は、鎌倉へ入るための、七つの切通しのひとつで、頼朝公が鎌倉へ入られて以降、交通量が増えたため、少しは道が改修されはしましたが、外部からの侵攻を防ぐため、このように険しいままなのです」

 彰嗣は、変わらなかった。昨夜のことは夢だったのかと、宮が思うくらい、彰嗣はいつもと全く変わらなかった。

「鎌倉の歌は、思い出せましたか」

「いいえ。ごめんなさい、まだ」

「思い出したら、また教えて下さい」

 宮はほっとしながらも、心の何処かでは寂しい思いを抱えて、光良達と談笑している彰嗣を見詰めていた。

「御覧下さい、宮。あれが鎌倉です」

 ようやく頂きに辿り着いて、そこから鎌倉の街を眺め渡した時、宮も流石に、感無量の思いがした。

「狭い街でしょう」

 彰嗣が言ったように、鎌倉の街は、家々が段々のように幾重にも重なって、ぎっしりと詰まっているように見えた。

「でも、あんなに近くに海があって、素敵だわ」

「中央を走るのが、若宮大路です。頼朝公が、政子夫人の安産祈願のため、自らも工事に参加し、若宮の社に寄進されたものです。若宮の社はもともと、都の石清水から、源頼義公が勧請なさったものなんですよ」

 若宮大路や、街の一角には、満開の桜の木も見える。

「宮の望み通りになりましたね」

 宮も嬉しそうな笑顔を浮かべて、いつものように歌を口ずさんだ。


 あをによし奈良の都は咲く花の(にお)うが如く今盛りなり


(青丹も美しい奈良の都は、咲き誇る桜が美しく輝いているように、今が盛りである)

「ここは鎌倉ですよ」

 彰嗣が笑った。

「いいではありませんの。気持ちの問題ですわ」

 海には、沢山の大きな船が往来していた。前浜の東側には、運ばれてきた年貢や物資を、納めるための倉が並び、人の往来も賑やかな場所が、和賀江の津と呼ばれる港と防波堤だと、彰嗣が教えてくれた。

 やがて一行は、街の中へと入った。街の入口に設けられている木戸を抜けると、小さな店屋や民家が慎ましく並んでおり、更に先へ進むと、それらは御家人達の大きな邸宅に変わった。街の中は賑やかで、不躾に宮を見上げる者もいて、宮は思わず、彰嗣の胸に顔を隠した。

「申し訳ありません。狭い土地で人の出入りも激しい分、新しい人間にすぐ関心が行くのでしょう」

「お館は、近いのですか」

「ええ、見えてきました」

 執権を初めとする有力御家人達は、「鎌倉中」と呼ばれる。その邸宅は、若宮大路に沿って、方眼状に区画された一帯にあったという。街には、将軍家に仕える公卿や、都から呼ばれた職人など、様々な階級の様々な人間が住んでいた。都に比べれば狭くても、諸国からも地方の御家人や、商人などが毎日のように往来して、その賑やかさは、史上最初の武家の都にふさわしいものであっただろう。

「緊張していますね」

 彰嗣が再び、宮に声をかけた。

「……わかりますか」

「都からはるばる、こんな処まで来られたのです、無理もありませんよ。ですが、御心配なく。俺の父親というのは、無骨者ではあっても、善良の固まりのような人間ですから」

 二人の乗った馬が、大きな屋敷門を潜った時である。どしどしという足音と共に、その父親のがなり声が、館中に響き渡った。

「帰って来たか、彰嗣! でかしたぞ! そなた、都から嫁を連れて来たそうだな! 二十二になってようやく、身を固める気になったか! どのようなおなごじゃ、そなたの嫁は! いやあ、めでたい、めでたい!」


          2


「まことに申し訳ございませぬ!」

 彰嗣の父時嗣は、板敷きの床に、額を擦り付けた。

「畏れ多くも姫宮様とは露知らず、まことに無礼千万な戯言ばかり申し上げてしまいましたること、この時嗣、重ね重ね、姫宮様にお詫び申し上げまする!」

「あ、あの」

 宮は真っ赤になって、袖口で顔を隠しながら、それでも時嗣に向かって手を差し伸べた。

「そんなに、畏まらないで下さい。わたくし、そんな……困ります」

「父上、もういい加減に顔をお上げ下さい。宮が困っておられるではないですか」

 彰嗣が、助け舟を出してくれた。

「宮はそのようなことで、御怒りになられるような方ではありませんよ。しかも、同じことを一体何度繰り返せば、気がすむのです」

「何を言う、そもそも悪いのは、そなたの方ではないか」

 時嗣は、頭を下げた時も大げさだったが、上げた時も大げさだった。

「畏れ多くも姫宮様を、自分の馬に一緒にお乗せするとは、無礼千万極まりないわ! もはや鎌倉中が、お前が都から嫁を連れて来たと、評判になっておるのだぞ」

「……悪いのは、わたくしなのです。わたくしが彰嗣様に、馬に乗せてくれとお願いしたせいで、そんなことになってしまったのです。わたくしの方こそ、お詫びしなくてはなりません」

「そのような! 姫宮様ともあろう御方に、お詫びなど!」

 時嗣はまたも、大げさなほど頭を下げてしまう。

「ですから父上、いい加減にして下さい。それにしても、鎌倉の連中も耳聡い。噂が巷に拡がる速さは、都の京雀どもにも負けやしない」

「……ごめんなさい」

「いやいや、姫宮様がそのような御言葉を!」

 結局、また同じことが繰り返される。

「あの通り、がさつな無骨者で、大げさすぎる処が困りものなんです。あれでも、我が北条嫡流家の生まれなんですがね。だが、その分飾らなくて、嘘も吐けない性格なので、亡くなった伯父の前執権には、一番信頼されていた弟なんですよ」

 後に彰嗣が、宮にそう教えてくれた。

 しばらくして、時嗣がようやく頭を上げた処で、彰嗣は、隅に控えていた二人の女を、宮に紹介した。

「こちらにいるのが、俺の乳母の岩瀬局と、俺の亡くなった母の姪で、女房仕えをしているかえでです」

「お初に、御眼にかかります。ただいま御紹介に預かりました、岩瀬局と申します。姫宮様におかれましては、本日、御尊顔を拝しまして、まこと恐悦至極にございます」

 優しい笑顔を浮かべて、宮に丁寧なお辞儀をした岩瀬局は、歳はとっていても、何処か品のある女性だ。亡くなった彰嗣の母の代わりに、家政を取り仕切り、館に仕える者達の、まとめ役となっているという。

「畏れながら若殿より、姫宮様の御世話をするよう、仰せつかりましてございます。こちらのかえでと共に、精一杯、宮様の御世話をさせて頂きますので、どうぞ、何でもお申し付け下さいますように」

「かえででございます。まさか内親王であられる御方に、御仕えするようになるなんて、夢にも思っておりませんでした。心を込めて御仕え致しますので、どうか宜しくお願い申し上げます」

 かえでの方は、明るい性格の娘らしく、はきはきと挨拶をした。宮は、おふさと自分の、半ばくらいの年頃であろうかと思いながら、優しく微笑んだ。

「有難う。こちらこそ、どうか宜しく」

「失礼を申し上げるようでございますが、若殿の仰る通り、本当にお優しい姫宮様でいらっしゃいますこと。わたくしやかえでのような者にまで、そのような御言葉をかけて頂けますとは、まことに光栄でございます」

 にこにこしながら岩瀬局が感嘆すると、彰嗣が溜息を漏らした。

「だから、宮のこういう無防備な処が、俺は心配なんだ」

「まあ、若殿。姫宮様になんてことを」

 岩瀬局が顔をしかめて、彰嗣をたしなめる。

「遅れてしまって申し訳ない。おお、彰嗣。元気だったか」

 小走りにこちらへ来る音と共に、立烏帽子を被り、狩衣に身を包んだ男が入って来た。

「姫宮様、ようこそ鎌倉へ御出まし下さいました。執権を務めております、彰嗣の兄、北条頼時にございます」

 几帳面な挨拶をすると、頼時は顔をしかめて、

「彰嗣も父上も、何をしているのです。御簾も下げずに、姫宮様に直接御眼にかかるなど、身分をわきまえぬ振舞い。かえで、何をしておる。すぐに、御簾をお下げしなさい」

「あの、どうぞそのままで」

 宮が止めた。

「姫宮などと申しましても、わたくしは所詮、大原の里で育った鄙者(ひなもの)に過ぎません。作法についてはわたくしなどより、皆様の方が心得ておられましょう。でも彰嗣様は、わたくしの恩人でございます。お許し頂けますなら、どうかこのまま、彰嗣様のお父様とお兄様の御顔を、よく見させて頂きとうございます」

「宮……」

 彰嗣が頭を抱えた。同時に時嗣の髭もじゃの顔も、頼時の端正な顔も、茹蛸のように真っ赤に染まった。

「何度言えばわかるんですか、宮。あなたも姫宮なら姫宮らしく、少しは高慢な処でもあればいいものを」

「あ、あの。では、どうすればいいのでしょう」

 宮は、本気で困惑している。

「これ、彰嗣。姫宮様に御無礼ではないか」

 頼時がたしなめる。

「無礼者の弟を、どうかお赦し下さい。だが、悪気はないのです。誰に対しても、思ったままを口にするのですが、不思議と憎めない奴で」

「ええ」

 宮が、笑顔と共に頷いた。飾らない彰嗣の性格は、この半月以上も共に旅をして、宮もよくわかっている。

「こいつのことだ。さぞかし姫宮様の前でも、貴族の方々の前でも、あれこれ余計なことばかり申していたのでしょう。全く先のことを思うと、頭が痛くなる」

 頼時は、彰嗣より六歳年上の、御家人というよりも、むしろ公達にふさわしいような、端正な顔立ちの男だ。伯父の前執権が突然の病に倒れた時、すでに一人息子に先立たれていた伯父は、迷いもなく、後継の座を頼時に指名した。若くとも伯父の右腕として、貢献してきた実績を評価されてのことだ。

「此度の御騒動では、さぞ、お辛い思いをなさったことでございましょう。ですが、もう御安心を。彰嗣はむろん、わたしも父も身命を(なげう)ってでも、姫宮様をお護りする覚悟でおりますれば。このような見苦しい館ではございますが、どうぞお好きなだけ御滞在あそばされて、おくつろぎ下さい。近いうちにはぜひ、わたしの館にもおみ足をお運び下さいませ。妻ともども、喜んで姫宮様を御歓待致申し上げまする」

「……有難う」

 宮は嬉しそうな笑顔を浮かべ、彰嗣を振り返った。彰嗣も頷いて、

「だから言ったでしょう、何も心配はいらないと。兄はこの通り、真面目気質の男なんですよ」

「これ、彰嗣」

 皆が和やかに笑った後、頼時は、改めて話を切り出した。

「御所からも、此度の姫宮様の御下向を、お喜び申し上げるとの御言葉を承っております。近いうちにぜひ、お逢いしたいとの仰せでございます」

「御所……様……?」

「将軍のことです。院の、二の宮様にあたります」

 彰嗣の答えを聴いた途端に、宮の身体が激しく震え出した。

「宮様……!」

 岩瀬局が慌てて駆け付け、崩れかけた宮の身体を支えた。 

「申し訳ございません! ですが姫宮様、どうか……!」

「……ごめんなさい、大丈夫です。それで、あの……わたくし、御所様にお逢いしなくてはいけないのでしょうか」

 宮の蒼ざめた顔に、頼時も思わずひれ伏した。

「は。御所は、姫宮様と同い年であらせられますが、叔母上と甥御の御関係でございます。お気が進まぬのはわかりますが、せめて一度だけでも、将軍御所へ御上がり頂くことを、お許し願えますでしょうか。御所も幼い頃に、都から鎌倉へ御下向され、父君であらせられる院の御記憶は、さほどないとの仰せでございます。姫宮様のことも、姫宮様に御同情申し上げこそすれ、父君の院を庇うような言動は、一切なさいませぬ。わたしが御供致しますれば、どうかご案じ下さいませぬよう」

「俺も一緒に行きますよ、宮」

 彰嗣が声をかける。その顔を見て、宮もようやく頷いた。

「わしも御供致そう。もし御所が、宮様に無礼でも働こうものなら、このわしが御所を成敗してくれるわ」

 時嗣が、奮い立つように言った。

「父上は駄目ですよ。御所は日頃から、無骨者の父上を毛嫌いしているのですから」

「何だと、彰嗣! そなた、父に向かって」

「彰嗣の言う通りですよ、父上。折を見てお連れしますから、今回は諦めて下さい」

「頼時まで。全くわしの息子は、どいつもこいつも、すぐに父をないがしろにする輩じゃ」

「どいつもこいつもって、我々二人だけではないですか」

 館の中に再び、和やかな笑い声が響く。


          3



 見えずとも(たれ)恋ひざらめ山の()にいさよふ月を(よそ)に見てしか


(たとえ姿は見えなくても、誰もが恋せずにはいられない。山際をたゆたっているような月の姿を、よそからでも見たいものだ――美しい女人への恋心を、月にたとえて詠んだ歌――)

「また万葉ですか、宮」

 月を眺めながら、そっと歌を口ずさんだ宮に、彰嗣が声をかけた。宮は、頬を少し赤らめながら振り返った。

「ごめんなさい、あまりにも月が綺麗だから」

「流石に宮様は、雅びな御方でございますこと。今宵の月は、宮様を歓迎するために、一層輝きを増しているようでございます」

 早速、宮への忠誠心を示すかのように、そのそばに控えている岩瀬局が、吐息を洩らしながら感嘆する。

「尼御前に、初めて教えてもらった歌なのです」

 そして宮は、もうひとつ歌を口ずさんだ。


 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜(つくよ)に雲なたなびき


(わたくしの愛する御方が、振り仰いで見ては、逢えないことを嘆いておられることでしょう。雲よ、どうか月を隠さないで)

「わたくしがまだ幼い頃から、尼御前が繰返し、このふたつの歌を聴かせて、覚えさせられましたの。ですからわたくし、月を見ていると自然に、このふたつを口ずさんでしまうのですわ」

「大原では、宮様は、どのようにお過ごしでいらしたのですか。母御前を、早くに亡くされたとお聴きしておりますが」

 頼時が、優しく訊ねる。

「ええ。でも、尼御前がずっとそばにいてくれましたので、寂しくはありませんでした。それに尼御前は、近所の者にも慕われておりましたから、その者達が時々、畑で採れた野菜や、季節の花や、山で採れた木の実などを寺に届けては、わたくしの処にも顔を出して、里で起こった出来事などを、面白おかしく語り聴かせてくれましたの」

「姫宮様が、少しも驕るような処がなく、控えめでお優しいのは、尼御前様の御訓育の賜物でございましょう。里の者達が寺に集まったのは、尼御前様ばかりではなく、姫宮様のそんな御気性を慕ってのことですよ」

「……有難う」

 そこへかえでと他の女房達が、酒肴の載った膳を運んできて、酒好きの時嗣の顔が緩んだ。

「おお、酒が来ましたぞ。ささ、宮様。こんな狭い館の、ささやかな月見台ではございますが、月だけは大原と同じもの。今宵はおくつろぎなされて、宴を楽しんで下され」

「わたくし、御酒は」

 院に御酒を強要され、凌辱に至ったことを思い出して、宮の顔が蒼ざめた。

「宮様を御迎えしての、祝いの席でござる。硬いことを仰らず、どうぞ御一献」

「なりません、父上。宮様が、嫌がっておられるではありませんか」

「そうですよ。宮様は御酒など、お嗜みにならないのでございましょう。大殿様、そのように無理を申し上げては、宮様に失礼でございます」

 頼時と岩瀬局が時嗣を諌めたが、すでに飲み始めていた彰嗣は、呑気に瓶子を振って見せた。

「宮、少しくらいはいいでしょう。父に、付き合ってやって下さい。ほら、俺も同じ物を飲んでいる」

 宮は、なみなみと盃に注がれた酒と、彰嗣達とを交互に見詰めた。

「宮様、御無理をあそばされましては」

 岩瀬局が尚も止めたが、宮はそっと、盃に口を付けた。時嗣の顔が、更に緩む。

「いかがでございます。なかなか、いけるものでございましょう」

「……正直、よくわかりません」

「はは、初めはそうでも、すぐにうまくなりますよ。ささ、もうおひとつ」

「大殿様、いい加減になさいませ」

 宮は少しずつゆっくりと飲み、二杯目の盃を空けた。

「……不思議。何だか、ふわふわしてきたような」

「心地良くなって参りましたでしょう。さあどうぞ、酒はまだまだございますれば」

「大殿様!」

 岩瀬局が怒鳴るのも構わず、宮は、やはり三杯目を空けてしまった。

「意外に宮は、いける口ではないですか」

「うむうむ、我が家は皆、酒豪揃いでございましてな。頼時も、宮様の前でこそ気取っておりますが、その実……」

 けれども宮の頬が、みるみるうちに桜色に染まり、彰嗣と時嗣が大喜びしている姿が、急に眼の中で揺れ始めたかと思うと、突然、宮の身体は、ぱたりとそこへ倒れてしまった。

「宮様!」

 岩瀬局が叫び、彰嗣もそばに駆け付けた。

「大丈夫ですか、宮!」

「大殿のせいでございますよ、だから御止め申し上げたのに!」

「ひらに、ひらに! 申し訳ございませぬ、宮様!」

「……大丈夫、ごめんなさい。わたくしって、御酒に、弱かったのですね。皆様が、おいしそうに、飲んで、おられる、から、大丈夫かと、思って……」

「しっかりして下さい、宮」

 彰嗣が、宮を抱き上げた途端、宮の酔いは、一気に覚めた。

「あ、あの……彰嗣様、あの……わたくし、大丈夫、ですから……」

「部屋まで運びますよ。身体がふらついているではないですか」

「あ、歩けます。わたくし、歩けますから……」

「何を今更、遠慮しているんです」

 宮にすれば、彰嗣の方こそ遠慮して欲しいと思うのだが、そんなことを考えるような男ではない。

「宮様、申し訳ございませぬ! この時嗣……」

「父上も、謝罪はもう結構ですから。兄上、父上をよろしく」

 そう言って、彰嗣は宮を抱えたまま、すたすたと歩いて行く。その後を、岩瀬局とかえでが急いで付いて来た。

「あ、あの。大殿様を、叱らないで下さいね。悪いのは、わたくしなのですから」

 宮が、おろおろした様子で言うと、彰嗣が吹き出した。

「心配しなくても大丈夫ですよ。兄も宮の、そういう御気性がよくわかっただろうから、父を叱ったりなどしませんよ」

「わたくしどもも、大殿の御気性はよく存じておりまする。宮様が御心配あそばされずとも、大丈夫でございますよ」

 岩瀬局も、先程までのしかめっ面を崩して、ころころと笑った。

「かえで、御白湯をお持ちしておくれ。さあ宮様、こちらへ横におなりあそばされて」

 宮がほっとして横になると、岩瀬局が宮の長い髪を、枕元の箱に整えて入れてくれた。

「赦して下さい、宮」

「え?」

 彰嗣が、宮に衾をかけてやりながら、不意に囁いてきたため、宮は驚いて眼を開けた。

「宮が、酒など嗜まないことは知っていましたが、俺は、あなたが酔った姿を見てみたかったのです。しかしまさか、あんな簡単に倒れてしまうとは思わなかった」

 そう言って、彰嗣はくすくす笑い出し、唖然としていた宮も、思わず微苦笑を浮かべた。

「後は俺がする。局もかえでも、宴の方に戻っていいぞ」

 振り返りながらの彰嗣の言葉に、岩瀬局が眼を瞠った。

「……何でございますって? 若殿、あなた様は、仮にも姫宮様の御寝所に、侍ると申すのでございますか」

「あ、いや、旅の間、宮の寝ずの番は、俺がしていたから」

「まあ、若殿! 仮にもあなた様は、旅の間中、畏れ多くも姫宮様の御寝所に、一晩中御同室なさっておられたと、申されるのでございますか!」

 岩瀬局の眉が再び吊り上り、宮が慌てて、衾の中から起き上がった。

「あ、あの。それも、わたくしのせいなの。わたくしが、一人では怖くて眠れなかったから。でも、あの、一晩中などではなくて……」

「灯りを、もう少しお持ちして参ります。それなら宮様も、大丈夫でございましょう?」

 かえでが、くすくす笑いながら部屋を出て行き、岩瀬局も、空咳をひとつして、

「ともかく今後、宮様の寝ずの番は、わたくしとかえでが責任を持って、交替で当らせて頂きますから、御二人とも御安心を。若殿の方こそ、早く宴にお戻りなさいませ」

「と、いうことです。宮、お寝みなさい」

 笑いを堪えるような顔で頭を下げると、彰嗣もまた、部屋を後にした。

「今日はお疲れでございましょう。宮様、何か欲しい物はございませんか」

「いいえ、何も」

「わたくしは、すぐ隣で控えておりますので、何かございましたら、すぐにお呼び下さい。では、ごゆっくりお寝み下さいませ」

 宮は横になりながら、かえでが増やしてくれた、灯りをじっと見詰めた。怖くはなかった。すでにここは鎌倉、彰嗣の館である。初めの頃、うなされていた院の悪夢も、今ではもう見ることもない。隣には、岩瀬局が言葉通り、宮のために控えてくれている。怖れるものなど、何もない。なのにこの、胸を締め付けるような寂しさは、一体何なのだろう。

 こうしていると昨夜の、大磯の宿での出来事が、まざまざと思い出されてくる。宮を抱きしめた、彰嗣の腕の温もりは、今も宮の、身体の何処かに残っている。先程、あんなに狼狽えてしまったのは、そのためだ。なのに、彰嗣は変わらない。朝からずっと、いつもと全く変わらずに、まるで昨夜のことは、すっかり忘れてしまったかのように。

 ……酔っている。慣れない御酒など口にして、わたくしはすっかり酔ってしまっている。そうでなければ、こんなにもずっと、彰嗣様のことばかり考えているはずがない。

 眠ろうと思うのに、何故か意識はすっかり冴えてしまって、宮はなかなか眠ることが出来なかった。


          4


「おはようございます、宮様。昨夜は、よくお寝みになられましたでしょうか」

 かえでが、はきはきした明るい声で挨拶しながら、手水盥を運んできた。

「有難う、よく眠れました」

「良かった、大殿が御心配なさっていましたよ。御酒がまだ、残っておられるのではないかと」

 まさか、彰嗣のことを考え続けたせいで、なかなか眠れなかったなどとは言えまい。

「本当に、見事な御髪でございますこと。思わず、見惚れてしまいまする」

 宮の髪を丁寧に(くしけず)りながら、岩瀬局が溜息を漏らす。そんなことを言われると、ますます、あの夜のことが思い出されてくる。

「おや、どうあそばされました。本当に、御酒が残っておられるのではございませんか」

「いいえ、何でもないの」

 岩瀬局が、宮の髪を整えている間に、かえでは、新しい衣装の入った箱を運び入れ、衣桁に小袿を拡げた。

「若殿から、宮様の御下向の、お知らせありました時に、急ぎ整えたのでございますが、お気に召して頂けますでしょうか」

 心配そうに岩瀬局が訊ねたが、宮は話題が変わったので、むしろほっとして、笑顔を浮かべた。

「有難う、喜んで。でも、袴はないのですね」

「ああ、やはり、都では御袴を御召しになられるのでございますね。急ぎ、御用意致しましょう」

「いいえ。最近では都でも、袴を付ける者が減って来たと言います。それがこちらの風習なら、わたくしも従いましょう」

「恐れ入ります。他に、御入用の物などございましたら、何でもお申し付け下さいませ。すぐに整えて進ぜますので」

「かえでは、小袿を着ることはないのですか」

 岩瀬局は、小袖に小袿を重ねているが、先程から、くるくるとよく立ち働いているかえでは、脛まで見える短い小袖に、襞の付いた(しびら)という短い裳を腰に巻いて、街中の庶民の女達と、さほど変わらぬ姿だ。

「これ、かえで。だから、わたくしが申したであろう。宮様の御前では、小袿を着ていなければいけませんと」

「お赦し下さい、岩瀬局様。こちらの方が動きやすいので、つい」

 かえでが、恐縮してそこに跪いてしまったので、宮も慌てた。

「ごめんなさい、そんなつもりで言ったのではないのよ。かえでが、それが好きだと言うのなら、わたくしの前でも気にせずに、そのままでいればいいわ」

「恐れ入ります。この子は二年程前から、花嫁修業と称して、こちらのお館に仕えているのですが、いくらわたくしが注意しても、お転婆がなかなか治らず、母代りのわたくしを困らせております。宮様を見習って、この子も少しは、お淑やかになってくれるといいのですけれど」

「局様の御期待に沿えるよう、努力致しますわ。わたしだって、宮様には憧れているのですもの」

「有難う」

 宮は、はにかんだ笑顔を浮かべた。

「それで、かえでにお願いがあるのだけれど」


          5


「賑やかね」

「はい、とっても」

 宮は、市女笠の垂れ衣越しに、街を行き交う人々を眺めた。

 昨日、彰嗣の馬で通り過ぎた時は、人々の不躾な視線が気になり、ゆっくりと眺めてもいられなかったので、宮は、鎌倉の街をよく見ておきたいと、朝の食事がすんでから、かえでを共に、街の散策に出た。岩瀬局は案じたが、すぐに戻るからと言い置いて、出掛けた。

「御足元に気を付けて下さいね、宮様」

「大丈夫よ。それにしても、本当にすごい人出ね。ここが市なの?」

「はい。宮様は、こういう処は初めてでございますか」

「ええ、初めて。お米やお魚、野菜、反物や器、刀まであるわ。本当に、色々な物を売っているのね」

「鎌倉は毎日のように、諸国の船が沢山入って参ります。諸国の珍しい品々だけではなく、人もやって来ますよ。北条家のようなお館なら、宋渡りの唐物だって、六浦の港の方から入って参りますし」

「人の出入りが激しい街だと、彰嗣様も仰っていたわ。都もそうなのでしょうけれど」

「宮様は、都にはあまり、御出ましになられたことはなかったのですか」

「ええ」

 宮は、言葉少なく答えた。本当ならばあのまま、大原の里から一歩も出ることなく、その生涯を小さな尼寺の中で、ひっそりと終えていたはずだったのに。

「何か、お買い求めになってみません?」

「いいの?」

「ええ。少しですけど、お金を持ってきましたから」

 そう言ってかえでは、宮を馴染みの、餅などを売っている店へ連れて行った。

「おや、かえでさん。お美しい御方を連れて、お買い物かね」

「ええ、ばばさま」

 かえでは店番をしている、人の良さげな老婆の耳に、何事か囁いたが、途端に、その老婆の眼が大きく見開いて、

「こ、こ、こ、これはとんだ御無礼を!」

 いきなり土下座しそうになったので、宮は慌てた。

「やめてよ、ばばさま。こんな処で」

 かえでも慌てた。

「お忍びなのよ、他の人達が怪しむでしょう。そこのお菓子を、宮様に売ってちょうだい」

「な、な、な、何でもお持ち下さいませ! どうぞ、ささ、どうぞ!」

「かえでったら。いちいち、わたくしの身分を打ち明けなくてもいいわ」

 人中に戻ると、宮はかえでに注意したが、かえでは肩をすくめて、ぺろっと舌を出した。

「申し訳ありません、宮様。まさか、あんなに驚かれるとは思わなくて」

「ここから出ましょう。少し、人混みに酔ったみたい」

 二人は市を離れ、木戸からも出ると、極楽寺への道を辿り始めた。

「お寺も沢山あるのね。桜が満開で、街は今が一番綺麗ね」

「紅葉の頃も綺麗ですよ。宮様が御出ましになられたから、桜も咲き甲斐がありますわ」

 しかしふと、周囲に誰もいなくなってきたことに気付いて、二人は足を止めた。

「……戻りましょうか」

「はい、宮様」

 急に不安にかられ、二人とも急ぎ足で、木戸まで戻ろうとした時だ。突然、周囲の木立の中から、いかにも人相の悪い男達が、二人を取り囲んだ。

「宮様!」

 かえでは宮を庇って、男達の前に立ちはだかった。

「何者です! この御方を、どなたと知ってのことですか!」

「かえで!」

 勢い良くても、所詮は若い娘二人。男達は難なく、二人を捕えてしまう。

 一味の頭らしい男が、じろじろと二人を値踏みするように、見廻しながら近付いてきて、乱暴に宮の市女笠を剥ぎ取った。

「こりゃあいい。こちらは何でも、畏れ多くも姫宮様らしいぞ。久し振りに、とびきりの上物を手に入れたな」

「宮様! 宮様を離しなさい、この無礼者!」

「元気のいい娘だな。こっちも高く売れそうだぞ。貴種好みもいれば、じゃじゃ馬を好む奴もいるからな」

 宮は突然のことに、がたがた身体を震わすばかりだ。

「宮!」

 その時だ。彰嗣が、三人の郎党を引き連れ、馬を全速力で走らせて来るのが見えた。

「彰嗣様……!」

 彰嗣は、馬を走らせたまま弓を構え、その矢は、宮を捕えていた男の喉を、狙い(たが)わず貫いた。そして男達が怯んだ隙に、主従ともども、男達の中へまっすぐ駆け込んで、頭の男は瞬く間に斬り殺され、他の者も斬られたり、馬の足に蹴散らされるなどして、あっという間にいなくなった。

「宮様! 宮様!」

「かえで……!」

 かえでは半べそをかきながら、宮の許へ駆け寄った。彰嗣も馬を降りて、二人の許へ駆け付ける。

「かえで!」

 彰嗣の方は、怒り心頭だ。

「馬鹿か、お前は! こんな処まで、宮をお連れするとは! しかもよその者に、宮の御身分を打ち明けるとは、愚直者のすることだ! 俺達が間に合ったからいいようなものの、もう少しで取り返しのつかぬ処だったんだぞ!」

「ごめんなさい! ごめんなさい、若殿! お赦し下さい!」

「あ、あの、わたくしが悪いのです」

 泣き叫ぶかえでを庇って、宮は二人の間に入った。

「わたくしがかえでに、街に連れ出して欲しいと頼んだのです。かえでは悪くありません。悪いのは、わたくしなのです」

「わかっていますよ、そんなことは」

 彰嗣は、今度は宮に咬み付いた。

「あなたは、どうしてそうなのですか! おとなしいならおとなしいままでいればいいものを、いつもこのように突然、大胆な真似をするんだから! 無防備過ぎるのも、大概にして下さい!」

 宮は、言葉もなく唖然として、彰嗣の怒りに満ちた顔を見詰めていたが、急に、くすくす笑い始めた。

「……何を笑っているんです」

「ごめんなさい。でも、嬉しいの」

 そう言いながら、宮は笑い続ける。

「そんな風に、わたくしを叱り付ける人なんて、あなたが初めてなんですもの……だから、何だか嬉しくなってしまって……ごめんなさい」

 すると彰嗣は、すっかり気の抜けた顔になり、溜息を漏らした。

「だから、そういう処が無防備だと言うんですよ。狡いんだから、宮は」

 連れて来た郎党達も、くすくす笑い出した。

「ともかく鎌倉見物なら、後で俺が案内しますから。戻りましょう、父上と岩瀬局が心配していますよ」


          6


「ようこそ宮、よく鎌倉へ御出まし下さった。慣れぬ旅路は、宮にはお辛いものでありましたでしょう」

 笑顔を浮かべながら、御所は宮に、歓迎の言葉をかけた。

 数日後、宮は、彰嗣と頼時に伴われ、将軍家御所に上がっていた。

「お初に御眼にかかります。御所様には、御機嫌麗しく……」

「ああ、いや、一品宮ともあろう御方が、そのような下座からなど!」

 慌てて立ち上がり、御所は宮のそばに急いで行くと、宮を立ち上がらせた。

「あ、あの」

「さ、どうぞこちらへ。内親王宣下を受け、一品位にも叙されているあなたが、このような処から御挨拶なさるなど、御身分にふさわしくありませんよ」

「で、でも」

 宮は蒼ざめた顔で、そばに控えていた彰嗣と頼時を振り返る。だが御所は、半ば強引に、宮を上座の方へ導いてしまう。

「御所様、宮様が怯えておられます。宮様は、控えめな御方でいらっしゃいますから、御無理を強いるものではありません」

 頼時が静かな声で、御所を諌める。

「何を申す。それではまるでわたしが、宮を苛めているように見えるではないか」

 御所が顔をしかめると、彰嗣が口を開いた。

「畏れながら御所は、院によく似ていらしゃるのです」

「彰嗣様……!」

 宮の顔は、ますます蒼ざめてしまう。流石に御所の顔色も曇って、宮は俯かざるを得なかった。

「そんなに似ておりますか、わたしは。あの院に」

「お、お赦し下さいませ……」

「仕方ありません。間違いなくわたしは、院の子ですからね。ですがわたしは、院に対して、親子の情など感じたことは、一度もないのです。院は御自分の子に、愛情を注ぐような御方ではないし、特にわたしはわずか五歳で、この鎌倉に追い払われてしまったのですから、恨みこそあれ、子としての愛情など、微塵もありません」

 将軍家は、初代頼朝からわずか三代で源氏嫡流家が途絶え、尼将軍と呼ばれた北条政子の要請で、まずは、頼朝の遠縁にあたる九条家、承久の乱後は、親王が将軍職を継いできた。実権は北条氏が握っている以上、明らかな傀儡である。だが、ただの傀儡であっても、幕府の建前として、将軍の座を空けておく訳にはいかない。実戦には役に立たなくても、兜を飾る前立てのように、幕府にもお飾りは必要なのである。

「わたしも宮と同様、院に心を傷付けられた者の一人です。此度のことは心から、宮に御同情申し上げておりました。院に代わって、わたしが宮に謝ります」

「そんな、御所様に謝って頂くなんて……」

「たった御一人の妹宮に、兄としてあらぬ御振舞い。さぞお辛く、哀しい思いをなさったことでしょう。されど、わたしは院の子。どうぞ院の代わりに、謝らせて下さい」

 そう言って御所は、宮に頭を下げた。宮は困って、再び彰嗣と頼時の方に振り返る。彰嗣は、やや軽蔑の籠ったような眼差しで、御所を見ていたが、頼時の方は、宮ににこりと笑いかけ、大きく頷いてみせた。

「御所様、何もあなた様が、そこまでなさる必要はないのではございませんか。悪いのは御所様ではなく、父君の院なのです。そうまでなさっては、かえって卑屈に見えますわ」

 不意に上座から、派手に仕立てた小袿を着た女が、扇越しに言い放ち、御所が慌てて頭を上げた。

「何を申す、御台。わたしの何処が卑屈だと」

「お美しい姫宮様でいらっしゃいますこと。気品があって、お淑やかであられて。でも、畏れながら母君は、白拍子でいらしたとか」

 怯んだ宮に向かって、頭を下げることもせず、御台所は名乗った。

「初めまして。わたくしは御所様の正室、潤子と申しまする。そこにいる執権殿と弟君の、従姉妹でございます」

 美しい女ではあるけれど、冷淡な眼差しで宮を見ている。特に、彰嗣達兄弟を見る眼には、明らかな憎悪が籠っていた。

「彰嗣殿が、宮様を御助けになられたのだとか。今は彰嗣殿のお館に、御滞在なさっておられるのでございましょう?」

「……はい。彰嗣様にも頼時様にも、とても良くして頂いております」

「左様でございますか。でも、お気を付けあそばしませ。その二人は、前執権であるわたくしの父と兄を殺した、張本人でございますから」

「御台! 何を申す!」

 御所が叫んだ。

「嘘ではございませんわ。御自分が執権の座に就くために、頼時殿は彰嗣殿と共謀して、わたくしの父と兄を殺したのです」

「何を根拠に、そのようなことを! 執権が、お前の父の右腕として働いた実績を重んじて、お前の父自ら、その後継者に選んだことは、周知の事実ではないか!」

「周囲は知らずとも、娘のわたくしはよく存じております」

 宮は不安そうに、彰嗣と頼時を見詰めているが、二人とも動じる気配もなく、静かな表情を浮かべている。

「これだけは申し上げておきますわ。まんまと父から執権の座を奪って、満足なさっておられるのでしょうけれど、わたくしと御所様の間には、二人の男の子がおりまする。いずれ、上の子は御所様の後を継ぎ、下の子は頼時殿、わたくしの代わりにあなたから、執権の座を奪い返してくれることでしょう。まだ幼いからと油断しておられると、必ず痛い目に遭いましてよ」

「もうよいから下がりなさい、御台! 宮の御前で、恥ずかしいとは思わぬのか!」

「それでは、失礼致します」

 この時だけは丁寧なお辞儀をして、潤子は部屋を辞した。

「申し訳ない、宮。御台が、無礼なことをあれこれ申して。頼時もすまぬ。代わりに、わたしから謝る」

「いいえ、御所様。わたしは、気にしてなどおりませぬ」

 頼時は、笑顔を浮かべた。

「いつものことです。慣れております、どうかお気遣いなく」

「すまぬ。宮もどうか、御台の他愛のない戯言と思うて、お赦し頂きたい。前執権だった御台の父親が、溺愛していた娘なので、少々我儘が過ぎるのです。それよりも、宮に贈り物があります。ぜひこれを、受け取って頂きたい」

 そばにいた近侍の者が、捧げ持ってきた物を受け取って、御所が宮に差し出すと、それを見た宮の眼が、途端に輝き始めた。万葉集の新しい写本であった。

「差し上げます。どうぞ、お持ち下さい」

「宜しいのですか。大切な物なのでございましょう」

「わたしが鎌倉へ来ることが決まった時、わたしの母が、鎌倉のような田舎では、書物ひとつ手に入れることも叶わぬのではないかと、歌集や物語など沢山写させて、持たせてくれたのです。頼時から、あなたが万葉をとてもお好きだと聴いて、急いで写させたのですよ。ここにあるのは一巻だけですが、他の巻もただいま写させておりますので、出来次第、宮に届けさせましょう」

「有難うございます」

 宮は、御所に来て初めて、こぼれるような笑顔を見せた。

「ずっと、読みたかったのです。尼御前にも見せたら、きっと大喜びしますわ」

「喜んで頂けて良かった。新古今も写させましょう。そうだ、物語もいかがですか。源氏物語は、お読みになられましたか」


          7


「良かったですね、宮様」

 今も写本を大事そうに抱えて、彰嗣の馬に乗っている宮に、頼時が声をかけた。

「しかし御所も、嫌味を言うことだけは忘れないのだから、始末が悪い。鎌倉では、書物ひとつ手に入らぬときたからな。宮様にはわたしから、写本をお贈りするつもりでいたのだが」

 そう言って、頼時は声を上げて笑い、彰嗣も鼻を鳴らした。

「潤子もしつこい女だ。一体何度、同じことを繰返し言えば気がすむ。俺はもう、耳にたこが出来そうだ」

「あ、あの」

 宮が、おずおずと訊ねた。

「御台様の……先程の御言葉は……」

「気にすることないですよ、宮。潤子は、昔からああいう女です。伯父は、執権としては優れていたが、娘の教育だけは、完全に失敗したってことだ」

「これ、彰嗣。全くその口の悪さは、何とかならぬものか。けれど宮様、どうか本当に、お気になさらないで下さい。御台は、潤子は彰嗣と同い年で、子供の頃から二人は喧嘩ばかりして、仲が悪かったものですから」

「我儘で贅沢で、そのうえ高慢ちき。伯父が、散々甘やかして育てた上に、わざわざ、都の内大臣に頼み込んで養女の肩書をもらい、御台所にまでさせてしまったのだから、今ではすっかり天狗になって、始末に負えない」

「彰嗣」

「兄上の代わりに、俺が宮に説明しますよ。確かに伯父は、一人息子を流行病で亡くしてから、潤子の産んだ子を、いずれ執権にと考えていた。だが潤子の産んだ子は、上がふたつ、下はまだ乳飲み子です。孫が無事に育つまで、一体何年かかるんです。だから伯父は、それまでの空白期間を埋めてくれる人物にと、兄上に白羽の矢を立てたんですよ」

「では、やはり嘘なのですね? 頼時様や彰嗣様が、御親戚の方を殺しただなんて……」

「当たり前ですよ。御所も、根も葉もないことと一蹴していたではないですか」

「ああ、良かった……本当に良かった。いいえ、御台様の御言葉を信じたわけではないのですけれど、でも頼時様は、どんなにか御心を痛めておられるのではないかと、秘かに心配しておりましたの。頼時様は本当に御誠実で、お優しい御方ですから……」

「宮」

「え?」

 宮が顔を上げると、頼時の顔は、すでに真っ赤になっている。

「執権殿のそんな御顔を、初めて見ました」

 供をしていた光良達が、声を上げて笑う。彰嗣は溜息を吐き、

「どうしてそうなんだ、宮は。仮に兄上が極悪人だったとしても、あなたの前では殺気も失せてしまう」

「ご、ごめんなさい。でも、どうすればいいのかわからなくて」

 宮は、本気で焦っている。頼時が笑い出した。

「謝るようなことではございませんよ。宮様は、宮様のままでいらっしゃれば宜しいのです。宮様にそう仰って頂くだけで、わたしも心強くなります。写本は、御所に先を越されてしまいましたが、代わりに貝合わせの道具を誂えて、お贈り致しましょう。いいえ、ぜひそうさせて下さい。宮様が、あまりにお優しい御方なので、わたしも、何かを差し上げなくてはいられないのです」


          8


 宮は、鎌倉での新しい生活に、少々戸惑いながらも、楽しみつつ慣れて行った。なかなか回復出来ぬ恵州尼から、時折届く手紙に涙ぐんだり、月や花を眺めては、一人物思いに耽ることもあるけれど、御所から届けられた写本を読んだり、屋敷に仕える若い娘達を集めて、頼時から贈られた、貝合わせや碁並べなどの遊びに、興じたりすることもあった。しかし宮が一番喜んだのは、彰嗣に伴われて、鎌倉の街や人々の生活を見ることであった。

 彰嗣は約束通り、宮を、色々な場所に連れて行ってくれた。頼時の館を訪問したり、鎌倉の街中や、寺や港、時には切通しを越えて、近隣の村々などにも足を運んだ。

 市では初め、宮の身分に恐れおののいていたあの老婆も、いつの間にか宮に懐いて、今では宮が何かひとつ求めると、あれも持って行け、これもそれもと、供の郎党達が持ち切れないほど、売り上げを無視してまで持たせた。大荷物を持たされた郎党が、老婆に文句のひとつでも言おうものなら、

「大の男が何を言うね! 普段は我こそ鎌倉武士だの何だのと、ふんぞり返っているくせに! これはわしが、宮様に召し上がって頂くために、精魂込めて作った物ばかりじゃ! つべこべ言わず、とっとと持ってかねえか!」

 宮は、どちらかと言えば少食の質だから、殆どは館の女達に、御下がり物として配られてしまうのだが、老婆はそんなことには頓着しない。その上、老婆ばかりではなく、宮が市を歩けば、あちらこちらから声がかかった。

「宮様、宮様、うちにも寄って下さいな」

「宮様! 桐生から新しい反物が入りましたで、御覧になってって下せえ! 都でもこんな上等なんは、なかなか手に入らねえ。さあさあ御遠慮なく、御遠慮なく!」

「人気者ですねえ、宮は」

 彰嗣は半ばあきれ、半ば喜びながら、いつも宮に付き添ってくれた。

 こうして桜が散り、青葉揺れる季節も瞬く間に過ぎて、時は緩やかに、穏やかに流れて行った。

「……かえでは先程から、何をしているの?」

 ある時、宮は、かえでが時折、おかしな行動をすることに気付いた。

「申し訳ありません、宮様。わたし、宮様の真似をしようとしていたのです」

 簀子で不意に振り向かれ、かえでは顔を赤らめながら、宮に説明した。

「真似?」

「はい。宮様の仕草や、歩き方を真似すれば、わたしのお転婆も、少しは治せるのではないかと思いまして。それで先程から、宮様の御裾を、こっそり見ながらやっているのですけど、宮様は、衣擦れの音しかお立てにならないのに、わたしはどうしても、足音が大きくなってしまうのです」

「まあ」

 思わぬかえでの告白に、宮は思わず微笑んだ。

「宮様は本当に、何をなさっていても、物音なんて少しもお立てにならないのですね。どうすればそんな風に、お淑やかに出来るのですか」

「そんな風に、考えたことはなかったけれど」

 答える宮も、頬を桜色に染めた。

「わたしだけじゃありません。他の女房達も皆、宮様のようになりたいって言って、こっそり真似していますよ。わたしなんか、せっかくおそばに御仕えしているのに、かえではちっともお転婆が治らないのね、なんてからかわれているし」

「大原では、わたくしもあやめに、宮様はおとなし過ぎて、いらっしゃるのかそうでないのかわからないと、よく言われていたわ」

 二人が声を合わせて笑っていると、庭先から、矢が的に当たる快い音が聴こえた。見れば彰嗣が、弓場(ゆば)で矢を射ている。

「見事なものですね」

 宮が声をかけると、

「もうすぐ、放生会ですから」

「八月の、若宮の御社の放生会で、流鏑馬の行事が行われるのです。若殿は毎年、首位を独占なさっておられるんですよ」

 説明するかえでの方が、彰嗣よりも自慢気な様子である。

「そういえば極楽寺坂の時も、賊を一発で討ち取って、助けて下さいましたわね」

 宮の眼が、嬉しそうに輝いた。

「見ていても宜しいでしょうか」

「構いませんよ、どうぞ」

 彰嗣は、鎧直垂に短い袴という姿で、今日は朝から暑いためか、肩脱ぎした上に籠手を着けている。次々と矢を放つ、彰嗣の顔にもはだけた胸にも、玉のような汗が流れ、それが時折、陽射しに当って光った。それを眺めているうちに、宮の心はいつしか、あの大磯での夜へと戻って行った。

「有難う」

 宮は確か、そう言った。

「あなたがいなければ、わたくし、とっくの昔に死んでいました。有難う。本当に、有難う」

 そして彰嗣は、頭を下げた宮を、力強く抱きしめたのだった。

 あれから彰嗣の様子に、変わりはなかった。宮への接し方も、口の悪さも、以前と全く変わらなかった。彰嗣は弓ばかりでなく、他の武芸も秀逸しているのだろう。逞しい胸が、それを証明している。本当にわたくしは、あの胸に抱かれたのかしら。あの大磯でのことは、わたくしが見た夢だったのではないのかしら。

 その時、不意に、彰嗣が宮を振り返って、お互いの眼が合った。宮は、思わず立ち上がった。

「どうなさったのです、宮様」

 かえでが驚いて宮を見上げると、その顔が真っ赤に染まっていた。宮はいつの間にか、彰嗣の胸に見惚れていた自分に気付いて、狼狽えたのである。しかもそれを、彰嗣に見透かされてしまったような気がして、更に狼狽えた。

「お待ち下さいませ、宮様!」

 彰嗣の視線に、これ以上耐え切れなくなって、宮は自分の部屋へ、音もなく小走りに駆け戻って行った。でも、まさかその夢に、続きが用意されているとは、宮は思いもしなかった。


          9


「お目覚めですか、宮様」

「かえで……?」

 宮は、驚いて起き上がった。いつの間にか、自分の部屋に戻って来ている。かえでは笑いながら、説明してくれた。

「宮様ったら、海辺で貝殻拾いに夢中になられて、随分長いこと散策されていらしたんですって? 光良さん達が捜しに行った時には、宮様、若殿にもたれて、よくお寝みになっていらしたって、光良さん、笑いながら話してくれましたよ」

 貝殻……そうだ、確かに拾っていた。それは今も、文机の箱の中に、きちんと納められている。でも。

「まあ、宮様。首筋が赤くなっていますわ」

 突然、かえでが声を上げ、宮が慌てて首筋を押さえた。そこはまるで、火のように熱く火照っていた。

「虫にでも刺されたのでしょうか。少しお待ち下さい、すぐに塗り薬をお持ち致しますから」

 ……違う、虫なんかじゃない。宮の首筋を赤く染めたのは、虫などではなく、彰嗣の、燃えるように熱い唇だ。

 一気に記憶が甦り、首筋のみならず、宮の身体が熱く燃え上がった。


          10


「今朝、尼御前から手紙が届きましたの」

 昼下がりの海岸を歩きながら、宮は、彰嗣に報告した。

「尼御前も齢が齢故、大原の暑さがこたえている様子。なかなか医師が、床上げを許してはくれないと、手紙でぼやいておりました」

「心配でしょう」

 彰嗣は、言葉少なく答えた。高春は、宮へは過労だと伝えていたが、実は、恵州尼の心臓がかなり弱ってきていることを、彰嗣に、内密で知らせていたのである。

「大原に一度、帰った方がいいのかしら」

 打ち寄せる波を眺めながら、宮が呟くように言った。

「おふさも今頃、心細い思いをしていることでしょうし。それにあやめも、今頃どうしているのか心配だわ」

「本気ですか」

 彰嗣の、その強い調子に、宮は思わず振り返った。

「あなたが突然、大原に帰ってしまったら、ここの者達は皆、どれほど嘆くことか」

「い、いえ……すぐにではありませんわ。わたくしだって、鎌倉が大好きになってしまったのですもの」

「そうですか」

 彰嗣が、安心したように息を吐くのを見て、宮は頬を染めた。何だか今日の彰嗣は、いつになく、宮に接近し過ぎているように感じるのは、気のせいだろうか。

「まあ、綺麗な貝」

 宮が、嬉しそうな声を上げた。

「御召し物が汚れますよ、宮」

「大丈夫ですわ、これくらい」

 今日は久し振りに、彰嗣は名越坂を越えて、宮を、鎌倉から少し離れた海へと連れ出した。鎌倉の夏も熱い。宮が初めての地で迎えた、夏の疲れを癒そうとの、彰嗣の配慮である。馬を光良達に任せて、二人は、誰もいない海岸を散策していた。

「かえでが、宮様はどんなに暑い日でも、おみ汗ひとつお掻きにならないと、驚いていましたよ。高貴な御方は、御身体のつくりからして、わたしどもとは違うのでしょうかと」

「そんな……ただ子供の頃から、尼御前には、姫宮ともあろう御方が、おみ汗をしとどに流すような、はしたない真似はあそばされませぬようにと言われておりましたから。それよりもほら、こんなに綺麗な貝」

「こういう時の宮は、まるで子供ですね」

「わたくし、海が好きですもの」

「田子の浦でも、随分とはしゃでいたし。そんなにも、海がお気に召しましたか」

「ええ、見ていると心が豊かになりますもの。でも、一番心に残っているのはやはり、あの近江の湖でしょうか」

 はっとして、宮は口を閉じた。何故か、口にしてはいけないことを、言ってしまったような気がした。

「ここにも、貝がありますわ。ほら、あそこにも」

 宮は何とか、その場の雰囲気を変えようと焦った。彰嗣もそうだけれど、宮自身もいつもとは違う。何だか先程から、狼狽えてばかりいる。

「そういえば、こんな歌があるのを思い出しましたわ」


 我が背子に恋ふれば苦し(いとま)あらば(ひり)ひて行かむ恋忘れ貝


(あの御方を想う心は苦しいから、機会があれば拾って来よう。恋を忘れさせてくれるという貝を)

「恋を忘れさせてくれる貝が、本当にあったらいいですね。そうすれば、苦しい片想いなどしなくてすむのでしょうに」

 拾った貝を眺めながら、呟くように宮は言った。

 彰嗣は、すぐには答えなかった。宮が不思議に思って、何気なく彰嗣を振り返ると、彰嗣は、それまで宮が見たこともないような眼差しで、宮を見詰めていた。

「それは俺に、宮を忘れろということですか」

 ようやく彰嗣が口を開いた時、宮はすでに、その場から動けなくなっていた。


 ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れて更に恋ひわたるかも


 彰嗣の口から出たその歌に、宮の顔が蒼ざめた。

「……その歌……」

 宮の声も震えている。彰嗣は以前、歌などいちいち覚えてはいないと、そう言っていたはずなのに。

「俺はこの歌が、あなたの、俺に対する気持ちを、表しているのだと思っていた」

 震えて立ち竦む宮に、彰嗣はゆっくり近付いて行った。

「だがあなたは、あの院に、容易には消せぬ深い傷を負わされた。しかもそれは、俺の責任でもある。そんなにも簡単に、俺を受け入れてくれるはずがない。だから、待っていた。あなたがこの鎌倉で、心の傷を癒し、再び穏やかに、笑顔で暮らすことが出来るようになるまで。今更、大原にあなたを帰す気など毛頭ない」

 宮は、首を振って拒もうとした。だが彰嗣は、怯えている宮を、自分の胸の中に引き寄せてしまった。

「宮はあの時、俺に御礼がしたくても、自分には、何も差し上げるものがないと言いましたね。俺が欲しいのは、あなた自身です、宮」

 彰嗣は、震えている宮の唇に、自分の唇を重ねた。宮の手から、拾った貝殻がこぼれ落ちる。

「……やめて……」

 宮がかすれた声で懇願しても、彰嗣は唇を重ねてくる。何度も繰り返し、繰り返し。

「宮は、俺が嫌いですか」

 その問いに、宮は思わず、涙に濡れた眼を開けた。突然抱きすくめられ、口付けられて、彰嗣の思いがけない豹変に、宮はすっかり混乱していた。何と答えればいいか、わからなかった。そして彰嗣は、声も出せずにいる宮を、今度はいきなり抱き上げた。

 一体、何をする気なのか。宮は逃げることも出来ず、ただ、身体を強張らせるしかなかった。彰嗣は、岩場の陰に宮を運んで行くと、直垂の上衣(うわぎぬ)を脱ぎ、砂場にそれを拡げて、宮をそっと横たえた。

 宮は恐る恐る、再び眼を開けた。彰嗣の顔は、すぐ眼の前にある。更に何を思ったのか、小袖の前をはだけて、わざとその胸を宮の眼に晒した。そのくせ、宮を落ち着かせようとでもいうのか、宮の髪を撫でたり、肩から背中、腰の辺りまでさすったりするが、宮の震えは止むどころか、ますます大きくなってしまう。

「……俺に、あなたを下さい、宮……」

 再び唇を重ねるが、それだけでは飽き足らず、宮の頬から細い首筋へと、彰嗣の熱を帯びた唇が、宮の肌を辿って行く。

「……い……や……」

 涙が溢れてくる。叫びたいのに叫べない。まさか彰嗣が、こんなことをするなんて。しかもこのような場所で、怯える獲物を弄ぶ獣のように、宮の肌を求めてくるとは。院の腕から、宮を助けてくれたはずの彰嗣が、院に代わって、宮と交わろうというのか。

「いやあああ!」

 波の激しい音と共に、宮の叫び声が、初めて彰嗣の耳に届いた。我に返った彰嗣の腕の中で、宮は、肩まではだけた肌を、がたがたと大きく震わせた。彰嗣が、怖くて怖くて堪らなかった。

「赦して下さい、宮……!」

 彰嗣は慌てて、宮を抱き起こす。

「今日の俺は、どうかしている。あなたの心の傷に、塩を擦り込むような真似をするとは。どうかお赦し下さい、宮」

 そう言いながらも彰嗣は、宮を離そうとはせず、宮の髪に顔を埋めながら抱きしめ、その背を優しく撫でた。

「でも、俺は本気です。いつから、どうしてなどと言われても、俺にもわからない。ただ、これだけは言える。俺は本気で、あなたを愛している」

 宮は怯えた眼差しで、彰嗣を見詰める。

「信じて下さい。今は無理でも、いつかは俺を受け入れて欲しい。俺は、あなたが俺を愛してくれるようになるまで、いつまでも待っています。だから戯れにでも、あのような歌を口ずさむのはやめて下さい。大原に帰るなどと、決して言わないで下さい」

「……彰嗣様……」

「何も言わないで……今はただこうして、そばにいてくれるだけでいい……愛している、宮……」

 声も立てずに泣き続ける宮を、彰嗣は囁きながら抱きしめる。その言葉を聴きながら、いつしか宮は、気を失ってしまった。


          11


 彰嗣の唇の熱さも、胸の鼓動も腕の温もりも、そして言葉のひとつひとつも、宮は、まざまざと思い出した。それと同時に涙が、後から後から、止め処もなく溢れてくる。

「……どうして……彰嗣様、どうして……」

 大磯での出来事は、共に見た夢のままで終わって欲しかったのに。彰嗣には、宮の生命を助けた恩人のままで、ずっといて欲しかったのに。

「宮、あなたを愛している。愛している……」

 繰り返し囁かれた、彰嗣の言葉。宮の肌に刻み付けられた、彰嗣の強い色情。

「やめて……お願い、やめて……」

 宮の心には、恐怖しかない。彰嗣が、院と同じ魔物に見えてしまう。宮が信じてきたものが、彰嗣の行為ひとつで、微塵に壊されてしまった。

 薬を持ってきたかえでは、妻戸の前で思わず足を止めた。宮が衾の中で、激しく泣いている声が聴こえていた。


          12


 ようやく涼しくなり、鎌倉も秋の装いに彩り始めた頃、宮は、久し振りに御所を訪問した。

「ようこそ、宮。しばらくこちらには、御出まし頂けませんでしたね」

 御所は、恨めしそうな声で宮に言った。

「放生会の時も、将軍家の席にお誘いしたのに、宮は北条家の席で、頼時達と流鏑馬を御覧になっておられた」

「も、申し訳ございません」

 宮は狼狽え、御所に頭を下げた。

「いや、そこまで恐縮なさらずとも。わかっております、御台と同じ席にいるのは、宮には心苦しいことでしょう。お断りされても致し方ない」

 御所は、声を上げて笑った。宮は、返す言葉が見付からない。

「御台は昨日から、風邪で寝込んでおりましてね。ですが正直、わたしも、御台がいない方が気が楽です。おや、御顔の色が良くありませんね。どうかなさいましたか」

「いいえ、何でも」

 宮は先程から、後ろで控えている彰嗣が気になって仕方がなかった。

 前回と同じように、頼時が共にいてくれれば良かったのだが、あいにく頼時は、ここ最近多忙を極め、今日も、宮の供をすることが出来ないのだという。ではせめてもと、宮は輿を希望したが、彰嗣は取り合ってもくれず、いつものようにさっさと、宮を自分の馬に乗せてしまった。

 しかし彰嗣は、あのようなことをした後でも、やはり全く変わらなかった。宮をあれほど怯えさせ、動揺させておきながら、憎らしいほど、いつもと全く変わった様子がなかった。けれどもそのおかげで、かえでには、つまらない詮索をされずにすんだのだが、宮は何だか、彰嗣に振り廻されているような気がした。

「あー、あきちゅぐだあ」

 そこへ、御所と潤子の間に生まれた、上の若君が、嬉しそうにとことこ走りながら、姿を現した。

「あきちゅぐ、あきちゅぐ」

「御機嫌ですね、若君。先日お贈りした弓は、お気に召して頂けましたか」

 母親とは仲が悪くても、彰嗣は、若君を可愛がっているらしい。若君も、彰嗣にはすっかり懐いている様子で、嬉しそうに抱き付いた。

「ああ、彰嗣。実はあの弓のおもちゃは、御台が危ない物だと言って、捨てさせてしまったのだよ。若が流鏑馬の時の、そなたの姿に憧れて、自分もやりたいと大騒ぎしていたのに。潤子は、次の将軍になる者に、弓の稽古など必要ないと言ってな。本当にすまぬ」

 そう言って、妻一人の責任にしているが、御所とて、弓矢になどさわったこともない。

「それでは若君、代わりに、俺の馬に乗せて差し上げましょう」

 彰嗣は全く気にするでもなく、大喜びしている若君を連れて、部屋を出て行った。宮は、小さくほっと息を吐く。今は出来る限り、彰嗣から離れていたかった。

 潤子が寝所に籠っているおかげで、恐妻家の御所も、いつもよりくつろいだ様子を見せていた。

「鎌倉には慣れましたか、宮」

「はい、皆がとても良くしてくれますから。これも、彰嗣様のおかげですわ」

 そうだ。いつも宮は、彰嗣に心から感謝している。本当に、感謝しても感謝し切れない。だからこそ彰嗣には、あのようなことをして欲しくはなかったのに。

「宮は、彰嗣がすっかりお気に入りのようですね。何かと言えば、彰嗣、彰嗣だ」

「そんな……」

 宮の顔が赤く染まる。

「本当ですよ。あなたのおそばには、いつも彰嗣がいる。どんな時でも彰嗣は、あなたから離れることがない」

「彰嗣様は、わたくしの恩人です。それに彰嗣様も、わたくしを護るのは、御自分の義務であると」

 それ以上の関係を、いくら彰嗣が望んでも、宮には応えることは出来ない。

「義務、ね」

 その時、意味あり気に御所が呟いたので、宮は、思わず顔を上げた。

「本当に、それだけなのでしょうか。あの彰嗣が、ただそれだけのために、宮をはるばる鎌倉まで連れて来たのだと、宮は本当に、そう思っていらっしゃるのですか」

「……どういうことですの」

「宮は御存知ないでしょうが、彰嗣は、抜け目のない男です。兄の頼時に、思いがけなく執権の座が転がり込んできて、自らも、それにあやかりたいと彰嗣が考えたとしても、おかしくないではありませんか」

 御所は、薄気味悪い微笑みを浮かべている。

「失礼なことをあえて申し上げれば、宮、あなたはお人好し過ぎて、人間(ひと)というものをまるで御存知ない。執権の弟という幸運を、彰嗣のような男が、利用しないはずがないではありませんか。しかも今度は自分の懐に、内親王が転がり込んできたのですよ。これを好機と、思わぬような男ではない」

 宮の身体は先程から、小刻みに震えていた。

「あなたのことですから、お気付きにもならなかったのでしょうが、先日の放生会で、あなたが我が将軍家ではなく、北条家の席にいらしたことは、大変重要な意味を持っていたのですよ。一品位を持つ内親王を擁することで、執権は、御家人の一員に過ぎないはずの北条家は、仮にも主君である将軍家と、同等の立場であると、鎌倉内外に示したことになってしまったのです。そして更に、弟の彰嗣が、あなたを自分のものにすれば、北条家は、次に何を手に入れることが出来るでしょう。院の義弟、帝と将軍の義理の叔父となれば、どんな地位でも思いのままです。たとえば、兄が執権ならば、弟は将軍に、とかですね」

 そう言って御所は、宮をしばらく見詰めていた。宮はすっかり動揺して、もはや御所の顔を見上げることも出来ない。すると不意に、御所が声を上げて笑い出したので、宮は驚いて顔を上げた。

「冗談ですよ、宮。これは少し、悪ふざけが過ぎました。申し訳ない、謝ります」

 今更謝っても、もう遅い。彰嗣が、遊び疲れて眠ってしまった若君を抱いて、戻ってきた時には、宮の顔はすっかり蒼ざめ、身体の震えを懸命に堪えていた。

「大原に、帰ります」

 帰りの馬上、宮はやっと聴こえるような声で、彰嗣にそう告げた。

「尼御前が、心配なのです。お願いします。わたくしを、大原に帰らせて下さい」

 彰嗣の顔を見上げることは、出来なかった。


          13


「これで、いいのよ」

 夜、褥の上で、宮はそう呟いた。

 初めから、そうすれば良かったのだ。鎌倉という地に、思いがけなく愛着を持ってしまったために、ついずるずると、長く滞在してしまったが故に、彰嗣を、あのような行為に走らせてしまった。思い起こせば、大原を後にしてから、すでに半年以上も過ぎている。病み付いたままの恵州尼を、たった一人にして。今にして思えば、熱田の社にいた時に、鎌倉へ行くなどと言わず、そのまま、大原に帰ってしまえば良かったものを。

 けれど、鎌倉を離れると決意はしても、それはそれで寂しさが込み上げてくるのも、また事実だった。頼時や時嗣や、この館に仕える人々、宮が来るのを、今か今かと待ち侘びている、老婆を初めとする市の人々……。宮が思う以上に、宮は、鎌倉という地を愛し始めていたのだった。

 宮は、小さく溜息をつくと、褥にそっと横になった。考えていても、仕方がない。御所の言葉は、宮にはあまりに強烈過ぎた。彰嗣が、御所の言うような人間だとは、宮にはとても思えない。彰嗣は、権力の座を望むような、そんな人間ではない。宮を利用しようなどと、考える人間では決してない。だが宮の存在は、彰嗣にとって、負担以上の存在なのだ。このままでは、宮が彰嗣に、どんな災いを及ぼしてしまうかわからない。今のうちに、彰嗣から離れた方がいい。宮が大原に帰ることが、彰嗣にとって一番良い方法なのだ。

 そんなことを考えていると、ますます眠れない。宮はそっと寝返りを打ち、灯りを見詰めた。宮の寝所の灯りはいつも、かえでが多めに用意してくれる。宮が恐怖を感じずにすむよう、よく眠れるように。でも今夜は、いつまで経っても眠れなかった。

「誰……!?」

 突然、宮は声を上げた。几帳越しに、人の気配を感じたからだ。

「彰嗣様……!」

 いや、予感はあった。仮にも姫宮の寝所に、男の分際で、しかも自らも夜着の姿で侵入してくるなど、彰嗣ならやりかねない。何より、宮は彰嗣に、言ってはならぬことを言ってしまったのである。大原に帰るなと懇願した彰嗣に、帰ると答えた宮。予感というよりも、宮は、覚悟していたと言うべきかもしれない。彰嗣は、宮を制止するために、必ずここへやってくる。

「御所に、何を言われたのです」

 起き上がりかけた身を、小刻みに震わせている宮に、ゆっくり近付きながら、彰嗣は口を開いた。

「答えなくてもわかっている。御所のことだ、彰嗣は宮を利用して、位人臣を極めようとしているとでも言ったのでしょう。あの性悪な男の、言いそうなことだ」

「……来ないで……お願い……」

 それだけ言うのも、やっとだった。蒼ざめ、震えている宮の顔を覗き込む、彰嗣の眼差しは、宮の身を突き刺すように鋭かった。

「地位も名誉も、俺はそんなものを、一度として望んだことはない。俺が望んだのは唯一、あなた自身だ」

 右手で宮の腕を掴み、自分の方へと引き寄せながら、左手では、己の襟元を無造作にはだけて、その逞しい胸に宮を押し付ける。

「恨むなら俺ではなく、御所を恨むがいい。俺は、望んだものは必ず手に入れる。あなたの肌も、あなたの心も」

 海辺の時と、全く同じだった。彰嗣は、人が変わっていた。いつもの、宮を宮とも思わないような、ずけずけと思ったことを口にし、言葉遣いもぞんざいで、でも思いやりのある優しい彰嗣の姿は、何処にもなかった。今の彰嗣は、実の妹を無残に凌辱してみせた、あの院と同じだった。宮の肌を望む、今宵こそ、宮を我がものにしようと欲する、男の本能のみに囚われた、獣と化していた。

「……や……!」

 逃れたくても、逃れられない。宮の唇を貪りながら、着ているものを剥がすなど、これまで数多くの女と、情事を重ねてきた彰嗣には、弓を引くことよりも容易い。

「やめて、嫌! かえで、かえで!」

「かえではいません」

 彰嗣の声は冷たかった。

「かえでは下がらせました。今夜から、宮の寝ずの番は俺がするからと」

 宮の身体が凍り付く。彰嗣は褥の上に、宮の身体をそっと横たえた。多く灯された灯りが、きめ細やかな宮の肌を、彰嗣にありありと見せ付ける。

「誰か! 誰か来て! お願い、助けて!」

「こんな処に、俺以外の誰が来ると言うのです」

 恐怖のあまりかすれてきた声を、それでも必死に、力の限り出した宮に、彰嗣はせせら笑うように告げた。

「ここは俺の館です。父も、岩瀬局も、俺がここで何をしようと、誰も止める者はいない」

「ひ……どい……」

 彰嗣の指が、宮の柔らかな頬を、細い首筋を、そしてまろやかな胸のふくらみを、ひとつひとつ味わうように辿って行く。唇を貪るのも、激しさを増す。

「ひどいのは、あなたの方です。帰らないでくれと、俺は頼んだのに。そばにいてくれと、言ったのに」

 この時だけは、彰嗣の眼が哀しく曇った。

「あなたのあの言葉が、俺の歯止めを外した。あなたにも俺自身にも、もう俺を止めることは出来ない」

「いやあああ!」

 ひどい。ひどい、ひどすぎる。彰嗣のために、宮は鎌倉を去るつもりだったのに。これ以上、彰嗣の負担とならないために、宮は決意したというのに。

 所詮、彰嗣も、院と同じであったのか。こんなにも安易に、己の欲望のためだけに、宮の肌を弄ぶ、魔物と化してしまえるのか。

 舐め尽くすように宮の肌を味わう、彰嗣の腕の中から、宮は声を限りに泣き叫び続けた。


          14


 翌朝、小走りで宮の部屋へと急ぐ、岩瀬局の後を、かえでも必死で追っていた。だが突然、岩瀬局が足を止めて振り向いたので、驚いたかえでも、そこに立ち止まった。

「かえで、すまぬ」

 岩瀬局の、かえでを見詰める眼は、憐みが籠っていた。

「若殿の亡き母君は、御生前、姪のそなたを、若殿の嫁にと望んでおられた。わたくしも、いずれこの館の嫁になる者として、花嫁修業と称し、そなたを預かり世話をしてきた。だが、もうその約束は果たせなくなってしまった」

 かえでの顔は、先程から真っ青だ。

「宮様は、俗な言葉をお許し頂けるのならば、若殿が仰る通り、無防備で初心な御方じゃ。若殿が、宮様に想いを寄せていることに、全く気付く様子もおありではなかったから、昨夜のことは、さぞかし驚きあそばされたことであろう。じゃが、若殿は真剣じゃ。複数のおなごと、戯れの恋にいそしんでおられた御方が、今では宮様の純真さに、本気で恋しておられる」

 局は、ぽろぽろと涙をこぼすかえでを、じっと見詰めた。

「宮様は、畏れ多くも帝と御所の叔母宮、一品位をお持ちの内親王であらせられる。若殿の御正室に、宮様を御迎えすることが出来れば、この館にとっても、稀に見る光栄。若殿の将来も、より輝くものとなるであろう。たとえば将軍位を望むことも、よもや不可能ではない。それより二十二になっても、一向に身を固めようとなさらなかった若殿が、あんなにも宮様を、ただ御一人の女人を恋い慕うようになられるとは、若殿をお育てした者として、これほどの喜びはない」

「……局様、わたしは……」

「そなたも、宮様のことはお慕いしているであろう。わたくしに免じて、宮様を赦して差し上げておくれ。そして此度のこと、心から祝福して差し上げて欲しい。宮様は、兄君の院に酷い目に遭わされ、若殿が心ならずも、それに加担してしまったことは、そなたも知っての通りじゃ。初めは若殿も、宮様への贖罪から、宮様への奉仕のおつもりでおられたが、今ではただ御一人の愛する女人として、生涯お護りする覚悟でおられる。よいな、宮様はそなたの大事な主。今後もそなたは、宮様に心して御仕え申し上げるのですぞ」

 そして岩瀬局は、またくるりと向きを変えると、再び宮の部屋へ急いだ。かえでも涙を払い、慌ててついて行く。

 二人が館の一番奥にある、宮の部屋に近付いた時だった。宮の部屋に通じる妻戸が、静かに開かれた。

「若殿……!」

 夜着姿でふらりと現れた彰嗣は、沈痛な面持ちで、岩瀬局とかえでの姿が眼に入っても、唇を引き結び、しばらくの間、自分の足元を見詰めて立ち尽くしていた。二人とも、彰嗣にかける言葉が見付からず、やがて彰嗣が無言で立ち去っても、そのまま見送ってしまって、それからやっと我に返ると、急いで宮の寝所へ入った。

 宮はいつもと同じように、長い髪を箱に入れて、行儀良く寝んでおられるように見えた。だが、岩瀬局がそっと衾を外した時、かえでは、宮の肌のあらゆる処に、以前かえでが、虫刺されと思った跡があるのを認めた。

「宮様。宮様、どうぞお目覚め下さいませ」

 宮の閉じられた瞼にも、まだ涙が光っている。局が衾を戻し、肩の辺りを軽く叩くと、宮は、その重い瞼をようやく開けた。

「宮様、御気分はいかがでございましょうか」

 岩瀬局の声が、宮の意識をはっきりさせたのと同時に、宮は悲鳴を上げた。

「嫌! 嫌! いやあ!」

「宮様! 宮様、お気を確かに!」

「……穢れているの……! わたくし、穢れているの……! お願い、さわらないで……!」

「お静まり下さいませ、大丈夫でございますよ。宮様は決して、穢れてなどおられませぬ。かえで」

 局はかえでに、彰嗣が捨て置いていた、宮の夜着を急いで持って来させると、宮をそれに包んで抱きしめた。

「お赦し下さいませ。若殿も、宮様のお気持ちが若殿に向かわれるまではと、気長にお待ちするつもりでおいでだったはずなのに。どちらかと言えば、性急な質の御方でございますから」

 そう言いながら溜息を吐いて、局は、宮の背中を優しくさすってやった。宮は、局の膝にしがみ付いて、しばらく泣き続けた。

「……若殿はああ見えて、意外と筆まめな御方でございましてね」

 宮の泣き声が小さくなってくると、局は何を思ったのか、現在の状況には、関係がないと思われることを話し始めた。

「宮様もお聴きでございましょうが、若殿は旅がお好きで、いつも旅先から、こまめに手紙を書いて、鎌倉に送って下さっておりました。執権の兄君には、訪れた土地の事情や人々の暮らし振りを、わたくしには、息子の光良や供の者達の様子を、大殿にはなんと、旅先で抱いたおなごの感想を」

 局は一体、何を言いたいのだろう。宮は、涙に濡れた顔を上げて、訝しげに局の顔を見詰めた。

「宮様のことも若殿は、詳しく書き送って下さいました。御自分の軽はずみな行動で、深い傷を負われてしまった宮様を、生涯かけてお護りする覚悟だと……初めは、強い義務感からであったのに、それが、切ないほどの恋心に変わっていったことは、お手紙の文面からも、よく伝わって参りました」

 その言葉に、宮の涙も一時止まった。局は、優しく宮の顔を見詰め、背中を撫で続ける。

「若殿をお育てした者として、宮様にお願い申し上げまする。どうか若殿の想いを、受け入れて頂くことをお許し願えますでしょうか」

 宮はそれに、答えなかった。再び局の膝に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。

「かえで、お湯を運んできておくれ」

 局もそれ以上は、宮に要求しなかった。

「ひとまずは落ち着かれて、御身体をお浄め致しましょう。こういうことは、急ぐことではございませぬ。ただこれだけは、申し上げさせて下さいませ。若殿は、本気でございます。本気で心から宮様のことを、恋い慕っておられます」


          15


 宮は、起きることは起きたが、一日ぼんやりとしていて、部屋からも出なかった。食事も殆ど摂らず、そうこうしているうちに、また夜が来た。

「ひと口だけでも、召し上がって頂けませんか」

 かえでが、夕食の膳を勧めたが、宮は首を振って、箸を取ることもなかった。

「では御気分直しに、御髪を整えてみてはいかかでしょう」

 やはり黙してはいたが、宮はこくりと頷いた。しかし鏡の前に座っても、鏡を覗こうともしなかった。

「本当にいつ見ても、見事な御髪でいらっしゃいますね。宮様が、お羨ましいです」

 宮の髪は、今日も濡れたように輝いて、同じ年頃のかえでから見ても、思わず溜息が出るほどだ。複雑な思いはあっても、やはり賞賛の言葉を口にせずにはいられない。

「……ぬばたま」

 その時ぽつりと、宮の口から言葉がこぼれた。

「どうしてわたくし、あの歌を口ずさんだりしたのかしら」

 その場にいなかったかえでには、何のことだかわからない。何気なく後ろを振り返って、思わず声を上げた。

「若殿!」

 いつからそこにいたのだろう。頼時の館から帰ってきたばかりの彰嗣が、厳しい顔で口を結び、宮をまっすぐ見詰めて佇んでいた。

「……嫌……!」

 同じく振り返った宮は、忽ち真っ青になって、慌てて及び腰で逃げ出そうとするが、彰嗣はそんな宮を、あっという間に捕えてしまう。

「離して、嫌!」

 己の胸に宮を埋めて、彰嗣はかえでを睨み付けた。かえでは、慌てて櫛笥などを片付けると、部屋を飛び出すように出て行った。

「かえで! 待って、かえで!」

「呼び戻して、我々の行為を、かえでに見せ付けるおつもりですか」

 彰嗣は、嫌がる宮を抱き上げ、褥に運んだ。

「嫌! 離して、お願い! お願いだからやめて!」

 袴の帯を解き、小袖の前をはだけて、彰嗣は、こぼれ出た胸のふくらみにむしゃぶり付く。

「いやあああ!」

 乱暴なことこの上ない。彰嗣は、一体どうしてしまったのか。宮は以前の、優しい彰嗣に戻って欲しかった。だが今宵も、彰嗣は、宮と褥を共にすることを強いた。宮の泣き叫ぶ声が、館の中に響く。


          16


 先程まで、泣き叫んでいた声が途切れたと思うと、いきなりがくりと、仰け反っていた背中が崩れた。またも、気を失ってしまったのだ。彰嗣の執拗な愛撫に、必死で無駄な抵抗を繰返し、力尽き果てて気を失う。こんなことが、もう十日以上も繰り返されていた。

 彰嗣もようやく、宮の身体から離れた。宮の乱れた髪を掻き上げ、涙に濡れた頬に口付ける。宮は、すっかりやつれ果てて、ここしばらくは、あの純真な笑顔を見せることもない。彰嗣は、宮の流れ落ちる汗を拭き取ってから、剥ぎ取った夜着を引き寄せ、着せてやった。

 乱れた髪も丁寧に箱に納め、衾に宮を包んでやる。愛おしそうに頬を撫で、唇を重ね、尚も宮の顔をしばらく見詰めていたが、やがて己の小袖を肩にかけると、音も立てずに、彰嗣は寝所から出て行った。

 簀子に出ると晩秋の月が、冷たく澄んだ空気の中で、明るく輝いていた。ひとつ溜息を吐いてから、彰嗣はふらりと歩き出した。

「彰嗣。どうした」

 月見台に立ち寄ると、思いがけなく先客がいた。時嗣だ。

「父上こそ。こんな夜更けに酒ですか」

「お前のせいだ、馬鹿者。毎晩毎晩、しつこく宮様をお泣かせさせおって。お気の毒で、わしらはろくに寝てもおれんわ」

 息子を罵りながら、それでも隣に座った彰嗣に、盃を渡した。

「お前、宮様を殺す気か」

 彰嗣の盃に、なみなみと酒を満たしながら、時嗣が訊ねた。

「自分のせいで宮様を、院の毒牙にかけてしまった。生涯かけて、宮様をお護りするなどと申しておきながら、これでは結局、お前は院と同じではないか」

「わかっています。今の俺は、自分でも最低な人間だ」

 苛立った声で、彰嗣は答えた。

「俺も、じっくり待つつもりだった。宮はあまりにも無防備過ぎて、それだけ、院に負われた傷は深い。けれど、大磯で思わず抱きしめてしまった時、宮は歌を口ずさんで、俺の気持ちに応えてくれた。時間をかけて宮の心が癒されれば、宮も、俺のことを愛してくれるようになると確信した。なのにあの性悪男が、宮に余計なことを吹き込んで……!」

他人(ひと)のせいにするな。お前のお蔭で、毎日のように、皆がわしの処に、苦情を言いに来るようになったのだぞ。局はこのままでは、宮様がお前に殺されてしまうと怒鳴りおるし、光良達も市の老婆達から、宮様が全く市に、御姿をお見せにならなくなった、もしや御病気なのかと、質問攻めに遭ったと言って、愚痴をこぼす。頼時は頼時で、しばらくの間、宮様を預からせてはもらえないかと言ってきよるし」

「兄上にも誰にも、宮を渡すつもりはありません」

「宮様を大事に思うておるのは、お前だけではないと申しておるのだ、馬鹿者」

「宮を想う気持ちも、俺より勝る者はいない。宮は、俺だけのものです」

 息子の言葉に、時嗣は唖然とし、そして溜息を漏らした。

「変わったな、彰嗣。抱いた女の感想で埋め尽くした、ふざけた手紙をわしに送っていたお前が、まさかそこまで、宮様に溺れるようになるとは、わしも流石に、夢にも思わなんだわ」

「俺も未だに、自分で自分が信じられませんよ。仮にも故院の姫宮、本来であれば、俺達のような鎌倉の人間など、近付くことも出来ない高嶺の花に、俺自身がこんなにも、囚われるようになるとは。皇女というのは殆どの場合、一人身で生涯を過ごすのが普通だといいます。高位の貴族でも、皇女を正室に迎えることは、大きな負担を伴うからでしょう。それに、皇位存続という大義名分の前では、女系皇族の増加は、決して望ましいものではない。白河院以降、愛娘の生活の安定と、幼帝の後見を図るために、その幼帝の姉妹を未婚のまま立后し、院号宣下して女院とすることも行われたが、高貴の血筋を護るため、ひいては、莫大な皇室の所領を護るために、たとえ后妃腹と生まれても、その血筋が故に犠牲となり、不幸な人生を生きなければならなかった皇女は、それこそ数え切れないほどいるのでしょう」

 彰嗣は、盃を一気に空けた。

「待ってさえいれば、宮は俺のものになる、そう思っていた。だが、違う。抱いてみてわかった。宮はただの、素直で従順な娘じゃない。どんなに隙間なく肌を合わせても、俺が宮の心に入り込もうとしても、宮は決してそれを赦さない。俺と宮の間には、見えない壁が存在している。何をしても、その壁を乗り越えることは出来ない」

 彰嗣もこれまで、数多の女と情事を重ねてきた。肌を売ることを生業とする、遊女はもちろん、あやめのような好色の女も、市井の生娘も抱いた。時にはあろうことか、何処ぞの貴族の館に忍び込み、そこの姫君に、夜這いをかけたことすらある。それでも、自ら彰嗣を誘う女はいても、彰嗣を拒むような女など、これまで一人もいなかった。兄の頼時と共に彰嗣も、鎌倉の娘達に人気がある、若い御家人の一人だったし、光良を初め、若い郎党達をも巻き込んで、かりそめの恋の駆け引きを、一体何度重ねてきたか知れない。女の扱いなど、彰嗣には手慣れているはずだった。しかし、宮は。あの姫宮は、今までの女達とは全く違う。身分だけではない。宮の中の何かが、他の女達とは全く異なる何かが、宮を、彰嗣などには決して手の届かない、遥かに遠い存在へと変えてしまっている。

「確かにあの御方には、何処か孤独な影がおありだ。お前だけではなく皆が、あの御方をお護りしたいと思うのは、そのせいなのかもしれん。恐らく院も、宮様のそういう処に惹かれたのじゃろうて」

「院には渡さない!」

 彰嗣の顔色が変わった。

「わかった、わかった。そう怒鳴るな。まあ飲め。だいたいお前は昔から、性急過ぎる嫌いがある。ともかくここは、宮様のお気持ちがお変わりになるのを、じっくり待つしかあるまい。お前の心がまことのものであれば、いつかは宮様も、お前を受け入れて下さる日が来ようぞ」


          17


 翌日、彰嗣が宮の部屋を訪れてみると、宮は簀子に座って、庭を眺めていた。

 鮮やかに咲いている菊の花を見詰めているが、明らかに心ここにあらずといった風で、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。

「宮の名前を、教えて下さい」

 昨夜、声を殺して泣く宮にそう言った時、宮の肌は大きく震えた。

「宮が、鎌倉へ来てもう半年以上、俺と契りを結んでからも半月経つのに、俺は、あなたの本当の名前を知らない」

 震える宮の肌を味わいながらも、彰嗣の声は切なかった。

「どうしても俺を、夫と認めてはくれぬのですか。そんなにも、俺のことがお嫌いですか」

 いくら頼んでも宮は答えてはくれず、だからつい昨夜も、荒々しく抱いてしまった。

 これでは駄目だ。こんなことが続いては、いつか俺は、本当に宮を殺してしまう。今も宮は、食事も殆ど摂らず、誰とも口を利かなくなって、一日中ああしてぼんやりと、虚ろな眼で庭を眺める日々を送っている。やはり宮の望み通り、大原へ帰した方がいいのだろうか。だが彰嗣には、それだけはどうしても出来なかった。今、大原に宮を帰したら、二度と宮には逢えなくなる。ならば兄の申し出を受け入れて、しばらくの間だけでも、兄の館に宮を預けようか。だがそれすらも、彰嗣には決しかねた。

 ふと、宮がこちらを振り返り、彰嗣の姿を眼にした途端に、怯えた顔になった。

「宮……!」

 逃げようとする宮を、すかさず抱きしめる。出来ない。たとえ一時でも、宮を手離すことなど出来ない。何故こんなにも、宮一人に囚われてしまったのか、彰嗣自身にもわからなかったが、ただ愛しいと想う気持ちが、身体の奥底から津々と込み上げてくる。宮を失うことなど、考えたくもない。

「赦して下さい」

 身体の奥から振り絞るような声で、彰嗣は言った。

「俺の我儘で、宮をこんなにも苦しめてしまった。赦して下さい。やっと、決意することが出来ました。あなたを、大原まで御送り致します」

 宮は眼を瞠った。彰嗣が震えている。宮を抱きしめて、恐らく彰嗣には何よりも辛いその言葉を、かすれた声で口にしている。

「申し上げます!」

 震える手を、宮が彰嗣の背に伸ばそうとした時、岩瀬局のやや興奮した声が、二人の許にまで届いた。

「たった今、尼御前様がお着きになられました! 宮様、尼御前様が、鎌倉へ御下向あそばしたのでございますよ!」


          18


「尼御前!」

 息せき切って表の間に駆け付けた宮は、懐かしいその人の姿を眼にした途端に、涙を溢れさせた。

「宮様!」

 病のためばかりではなく、愛しい宮の身に起こった、数々の出来事のために心身共にやつれ、それでも宮が姿を現した時には、恵州尼もまた声を上げて、小走りに駆け寄る宮を抱きしめた。

「尼御前! 尼御前……!」

「ああ宮様、よくぞ御無事で……! 本当によく、よく……!」

「……尼御前……!」

 宮はもう、その名を呼ぶことしか出来ない。

「……お辛かったでございましょう……お苦しかったでございましょう……宮様、宮様、お赦し下さいませ。わたくしがおそばに付いていながら、宮様をあのような、怖ろしい目に遭わせるとは……お赦し下さいませ、どうか、どうかお赦し下さいませ……宮様の御命令とあれば、わたくしはこの生命を絶って、宮様にお詫び申し上げまする」

 涙にくれながら詫びる恵州尼の、その温かい胸の中から、やはり涙に濡れた顔を上げて、宮は声もなく、ただ首を振る。宮が生まれたその日より、ひたすら宮を護り育ててくれた、母とも慕う恵州尼に、何の罪があるというのか。

 気付けば、恵州尼の後ろには、旅姿のままのおふさが、やはり涙を浮かべて二人を見守っていた。

「……おふさ……おふさも……」

「大恩ある尼御前様を見捨てては、大原の母達に叱られます」

 宮がその名を呼ぶと、おふさも顔に手を当てた。

「それにあたしも……あたしも宮様のことは、ずっと御心配申し上げておりましたから……尼御前様が、必ずや鎌倉へ参ると仰っているのに、それを御止めするなんて、あたしにはとても出来ませんでした……!」

 そう言い放つと、おふさもその場に突っ伏し、声を上げて泣き出した。

「良かった……良かったですのう、宮様。どうぞ思う存分、お泣きなされ、尼御前様にお甘えなされ……」

 もともと涙もろい時嗣が、大きな音を立てて鼻をすすり、岩瀬局もまた、袖に涙を濡らした。

「本当に、宮様も尼御前様も、どんなにお苦しみになられたことでございましょう。ことに尼御前様は、御身体の具合が優れないとお聴きしておりましたのに、それを押してまで御下向あそばすとは、それほど宮様の御身が、御心配でおられたからでございましょう」

「畏れながら、初めはわたしも、尼御前様を御止め申し上げたのでございますが」

 離れた処で、光良達と共に畏まっていた高春が、顔を上げて述べ始めた。高春はこの半年、大原と鎌倉を幾度となく往来し、宮と恵州尼の手紙のやりとりや、恵州尼や尼寺の世話を、自らかってしていたのである。

「尼御前様の御決意は非常に固く、御医師の猛反対も押し切られて、是が非でも我が身は、宮様のおそばに参らねばならぬと仰せになり、決して御心を変えようとはなさいませんでした。そのためわたしも、六波羅の南方探題殿に御相談申し上げ、こうして尼御前様を、鎌倉へお連れ申し上げた次第でございます」

「よいよい、高春。何はともあれ尼御前様が、こうして無事に、鎌倉へ御到着あそばしたのじゃからの。ともかくめでたい、めでたい」

「有難うございまする、大殿様。本当に、北条の皆様方には、何と御礼を申し上げればよいか。ことに、彰嗣殿」

 ずっと俯いていた彰嗣が、初めて顔を上げた。

「あなた様には本当に、感謝してもし切れませぬ。宮様を御助け下さいました御恩、この恵州尼、終生忘れは致しませぬ。有難うございまする、有難うございまする……」

 涙にくれながら彰嗣に手を合わせると、恵州尼は、己の胸から離れぬ宮をもう一度抱きしめた。彰嗣は口を閉ざし、宮を見詰めたままだった。


          19


「……あやめは……?」

「あやめのことなど存じませぬ。そもそもあの娘が、色事に現を抜かして、己が宮様の女房であることや、宮様が大原に隠れ住んでおられることを、軽はずみに吹聴などしなければ、このように宮様が、お苦しい目に遭われることも、都から逃げ出されることも、あそばされずにすんだはずではございませぬか。宮様があのようにふしだらな、遊び好きの不忠者を、案ずる必要などはございますまい」

 ようやく涙を拭いて訊ねた宮に対し、未だにあやめへの怒りが収まらぬ恵州尼は、冷たく言い放った。

「それよりも宮様、大切なお話がございます。北条の方々も御揃いの処で、ぜひ御一緒にお聴き下されたく」

 恵州尼は、宮の前に畏まった。

「実はわたくしのもとに、あの院の内侍から、秘かに手紙が送られてきたのでございます。それによりますれば、院は、皇位への復位を画策あそばされておられると」

 院、という名を告げただけで、宮の身体が大きく震えた。

「宮様、お逃げ下さいませ。鎌倉に逃げたとて、安心など出来ませぬ。院は怖ろしい御方、未だに宮様を御自分の皇后に御迎えすることに、執念を燃やしておられるとのことでございます!」

「いやあああ!」

 叫び声と共に、宮がその場に崩れ落ちた。

「嫌、嫌、いやあ! 助けて、誰か助けて!」

「かえで、御白湯を持って参れ!」

 岩瀬局が、宮の許に駆け付ける。

「お静まり下さいませ、宮様! ここは鎌倉でございまする! 院は遠い都におられます故、どうか、どうかお静まり下さいますよう……!」

「おお、何ということ……申し訳ございませぬ! 宮様、申し訳ございませぬ!」

 恵州尼が再び宮を抱きしめ、宮もまた、その腕の中で狂ったように泣き叫んだ。

「尼御前……! 尼御前、助けて……! 怖い……怖いの……! お願い、助けて! 嫌、嫌、いやあああ!」

「宮様、お静まり下さいませ。わたくしが、おそばにおりますよ。わたくしがこうして、御髪を撫でて差し上げますよ。宮様がお小さい頃のように、宮様がお静まり下さいますまで、こうして抱いていて差し上げますよ」

「尼御前……尼御前……」

 宮に優しく囁く一方で、恵州尼は涙を流し、己も泣き叫んだ。

「お恨み申し上げまする……! お恨み申し上げまする、院! わたくしの大切な養い君に、何という酷い仕打ちを……! 何故、宮様がかように、お苦しみあそばさねばならぬのです……! 出来ることなら宮様に代わって、このわたくしが、院をお討ち果たし申し上げたい……!」

 この時、北条家の者すべてが一斉に、彰嗣に非難の眼差しを向けた。お前も、院と同罪だと。それでもやはり彰嗣は、宮から視線を離さぬまま、微動だにしなかった。


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「お赦し下さいませ、宮様。故院からも、くれぐれも院には気を付けよ、決して宮を、院の眼に触れさせてはならぬと、あんなにも御注意を受けておりましたのに。それなのにどうして、わたくしはいとも簡単に、宮様を、院に手渡すような真似などしてしまったのでしょう。あの時、愚かにもわたくしは、大原の古びた尼寺で慎ましく暮らすより、帝の妹宮として、宮中で華やかにお暮らしになる方が、宮様の御幸福のためなのではないのかと、浅はかな考えを抱いてしまったのです。ああ、お赦し下さいませ、宮様。どうか、どうかお赦し下さいませ。あやめを責める資格など、わたくしにはございませぬ。いいえ、わたくしも所詮、あの娘と同罪なのです。この上は、我が生命を絶って、故院に直にお詫び申し上げなければ、わたくしの気がすみませぬ……!」

 恵州尼の膝にしがみ付いて、ぴくりともしない宮を抱きしめ、涙をこぼしながら話す恵州尼の言葉に、宮は思わず、涙に濡れた顔を上げた。

「……故院……が……?」

 ゆっくりと起き上がりながら、宮は、不思議そうに恵州尼の顔を見詰めた。

「……まさか、そんな……故院が、わたくしのことを気遣われるなんて……」

「ああ、宮様。やはりあなた様は、父君であられる故院を、そのように思うておいでだったのでございますね。致し方なかったこととはいえ、何と哀しいことでございましょう」

 そう言って恵州尼は、再び涙にくれる。

「お赦し下さいませ。でも、それもすべては故院の、宮様を想われての御計らいなのでございます。宮様をお護りするために、故院はわたくしに、宮様を親の愛情の薄い子として、日陰の身のまま育てよと……」

「……どういうこと……? 尼御前、あなたは何を言っているの。まさか、まさか故院がわたくしを……だって、たかが白拍子ふぜいの産んだ子が……」

「何という……! 何というお情けない御言葉! 宮様、あなた様は仮にも、御自分の母君様を、そのように思うていらしたのでございますか! あの御方は、若菜御前は確かに白拍子なれど、舞うことに生命を賭けていらした、稀代の舞姫でございました! 簡単に肌を売る遊び女のような者達と、御自分の母君様を、一緒になどあそばされまするな!」

 恵州尼は畏まりながらも、怒りに震えた声で叫んだ。

「ああ、でも、結局はそれも、わたくしの責任なのでございますね。されど、いくら愛する我が子のためとは申せ、その子に愛情を注ぐことも赦されず、宮様を御懐妊あそばした若菜御前を、心を鬼にして宮中から追放致さねばならなかった、故院の御心中をどうかお察し下さいませ。そもそも院が、院があのような怖ろしい御方でさえなければ、宮様も、故院の御愛情を一身に、お受けすることが出来ましたのでございましょうに……!」

「……故院が……故院が、わたくしと母を愛していたと……愛していらしたのだと、尼御前は言いたいの……?」

 震える声で宮は訊ねた。

「もちろんでございます! 故院は、とても御誠実で御立派で、まこと、帝にふさわしい御器量の御方でございました。母君様とは、二十以上も御齢が離れておいででございましたけれども、若菜御前の、大輪の花のような舞を心からお愛しあそばされ、そして御前も、帝の御誠実さに心惹かれたのでございます。御二人は、確かに愛し合っておられました! そのことは、畏れながら帝の乳兄妹として、最も御信頼を頂きました女官として、長年、故院のおそば近く御仕え申し上げていたわたくしが、誰よりもよく存じ上げております!」

 恵州尼の叫び声には、すべての思いが込められていた。

「……されど、わたくしは初め、夢にも思わなかったのでございます。院も……院も」

「母を、愛しておいでだったのでしょう? 院は、わたくしを抱きながら、ずっと母の名を呼んでおられたわ」

 俯いた宮の言葉に、彰嗣の顔色が変わった。

「ですから故院は心ならずも、宮様と母君様を、追放致さねばならなかったのでございます。院の危険な御性格を、早くから見抜いておられた故院は、わたくしへ内密に、御二人の守護を御命じあそばされました。今でも涙をお堪えになりながら、何度もわたくしに頼むと仰せあそばされた、故院の御声がありありと思い出されます。そのためにわたくしは、大原の伯母を頼って尼となり、宮中を出た若菜御前を引き取って……」

 彰嗣を初め、北条の主だった人々は宮の周囲に控え、共に恵州尼の話に耳を傾けていた。そして皆、一様に宮を見詰めていたが、宮はあらぬ方向を見詰めたまま、ただ茫然としているのみだった。だがやがて、震えるその唇から、こぼれるように歌が流れ出た。


 見えずとも誰恋ひざらめ山の末にいさよふ月を外に見てしか


 恵州尼が、深く頷いた。

「……左様でございます。あの万葉の御歌は故院が、母君様に贈られたものでございます。音曲にも絵にも、すべての芸事に、優れた才能をお見せあそばされた故院が、どうしてなのか唯一、御歌だけは御苦手でいらして、それでも母君様のために、お好きな万葉の中からお選びになり、秘かにお届けあそばされたのでございます。そして母君様も、折り返しにあの御歌を」


 我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき


「もうおわかりでございましょう。あの御歌こそは故院が、心から母君様を愛しておられた御証。そして故院は、母君様の姫宮御出産の知らせが、秘かに内裏に届きました折、こう仰せになられたそうでございます。たとえ、皇女として生きることは叶わなくとも、宮には一人の娘として、穏やかに、幸福に生きて行って欲しい。そして、身分など一切問わぬ。ただ我が身の代わりに、宮を心から愛し、その生涯を護り抜いてくれる者が、宮の前に現れてくれることを望む。その者が我が身の分まで、我が身が宮に注ぐ御愛情の分まで、宮を愛してくれることを強く望むと……」

 突然、宮がふらりと立ち上がった。

「宮様! 宮様、どちらへ参られます!?」

 宮は振り返りもせず、そのまま表の間を出てしまう。その後を、急いで彰嗣が追った。

「宮様、お待ち下さいませ!」

「お待ちを! 尼御前様、どうかお待ちを! 宮様のことは、どうぞせがれめにお任せ下されたく……!」

 時嗣が慌てて恵州尼を止め、その前にひれ伏した。

「尼御前様に折り入って、お願い申し上げたき儀がございます。どうか、どうかお聴き入れ下されたく、こうしてこの時嗣、尼御前様に伏してお願い申し上げまする!」


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 宮は、まだ茫然としているようだった。何処へ行くつもりなのか、彰嗣が追っていることに、全く気付いてもおらぬ様子で、歩いている足元もおぼつかなかった。だが彰嗣も、あえて宮に声をかけることなく、黙ってその後を追った。

 やがて、宮は月見台に上がると、見えない月の方向に向かって、ゆっくりと腰を下ろした。彰嗣もやはり黙したまま、宮のそばに座った。彰嗣の存在に、宮も気付いているはずであったが、怯えもしなければ振り返ることもなく、まるで人形のようにじっとしたまま、身動きひとつしなかった。

「……望まれて生まれた訳ではないと、ずっとそう思っておりました……」

 ぼんやりと庭を見詰めていた宮が、初めて口を開くまで、しばらくの間があった。

「だって、何も知らされてはいなかったのですもの。大原で生まれ育って、生涯あの寺を出ることもなく、ひっそりと生きて死ぬのだと、それがわたくしの運命なのだと、ずっとそう思っておりました。あやめがいくら不平を申し立てても、わたくし自身は、都での華やかな暮らしなんて、考えることも出来なかったし、そのことに、不満を持ったこともありませんでした。所詮、わたくしは日陰の身。それ以上望むことなど、日陰の身にはおこがましいことですもの……」

 いつの間にか、宮の眼からは涙が溢れていた。彰嗣が不意に、宮の背中から力強く抱きしめてきても、宮は拒もうとしなかった。

「……誰かを愛し、愛される資格など、わたくしにはないと思っておりました。故院が白拍子ふぜいの女を、慰み者にして産ませた子に……その上あろうことか、実の兄に穢されたこの身に……」

「あなたは、穢れてなんかいない」

 彰嗣が宮の耳元に、振り絞るような声で囁く。

「あなたは、貴族どもが関東の夷と罵る、俺達鎌倉の者にも、優しい言葉と純真な笑顔で、いつも心から接してくれた。無防備過ぎると俺が案じるほど、素直で従順で、穢れというものを知らなくて。だからこそ俺だけではなく、あなたと逢った誰もが、あなたに魅了されずにはいられなかった。そのくせ突然、驚くほど大胆にも、強情にもなってしまう。俺から懐剣を奪い、心まで奪っておきながら、どんなに俺が願っても、決して俺に、あなた自身を赦してはくれない。ましてや院のような方に、あなたを本当に穢すことなど出来はしない」

「……違います。わたくしは、誰も信じていなかったの。故院のことも、母のことも、尼御前のことさえも……誰かが本当に、わたくしを愛してくれているなんて、少しも信じてはいなかっただけなのです……」

「心にもないことを、言うものではない。そんな言葉を、誰が信じるのです」

「本当ですもの……だから……だからどうしても、あなたを受け入れることが、出来なかった……」

 初めて宮が、声を上げて泣いた。それまで、声を押し殺すような泣き方をしていた宮が、初めて彰嗣の腕の中で、声を上げて泣いた。

「……愛している……」

 更に腕に力を入れながら、彰嗣は続ける。

「どうか信じて下さい、宮。そして、俺を受け入れて下さい。何度でも言う、俺は、本気であなたを愛している。いつから、何故かと問われても、俺にもわからない。ただ、あなたをこうして腕に抱いているだけで、あなたへの想いが、身体の奥底から込み上げてくる。今更、あなたを手離すことなど出来ない」

「……本当に、出来ると思うのですか……」

 ゆっくりと振り返りながら、宮が訊ねる。

「……愛し方も、愛され方も知らないわたくしが……本当にあなたを、愛することが出来ると……」

「愛して欲しい。俺は、故院の分まであなたを愛する。故院の御望み通り、生涯かけてあなたを護り抜いてみせる」

「……もうやめて……! 何も言わないで……!」

 宮が激しく首を振った。

「……あなたが……あなたが、何度もそんなことを仰るから……わたくしが……わたくしが、どんなに自分の心を偽ろうとしても……これ以上……もう、出来ないではありませんか……」

「宮……!」

 初めて宮が、自ら彰嗣の胸にしがみ付いた。彰嗣も、宮の唇を激しく貪りながら、ただひとつの言葉を繰返し囁いた。

「愛している……愛している、愛している……!」

「……彰嗣様……」

 宮の頬を、新しい涙がはらはらとこぼれ落ちた。だがそれは、決して哀しみや苦しみのためなどではない。


 ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れて更に恋ひわたるかも


 あの歌。大磯の宿での、今でも夢のようなひと時に、宮が口ずさんだ歌。あの時、無意識に口ずさんだそれを、今の宮は彰嗣の腕の中で、彰嗣のために、心を込めて口ずさんだ。もはや自分の心を、偽る必要もない安堵感と共に。

「俺のものに、なってくれますか」

 抱きしめながら訊ねた彰嗣の言葉にも、宮は、その腕の中でこくりと頷いた。

「俺のそばに、いてくれますか。俺を、夫と認めてくれるのですか」

 縋り付くように囁かれるその言葉に、宮は、ひとつひとつ頷いてみせた。彰嗣は信じられぬ思いで、そんな宮を見詰めている。先程まで、あれほど彰嗣を拒んでいた宮が、今では自ら、彰嗣の胸に顔を埋めているのだから。そして、更には。

「……朝子……」

 眼を閉じて、まだかすかに震えの残る声で、宮がそう呟くように言った。

「……朝子ですわ……わたくしの名前……」

「……宮……」

「……教えてくれと、仰いましたでしょう……わたくしも、あなたと同じです……朝の光が、産室に差し込んだ頃に生まれたから、そう名付けられたのだと、尼御前が教えてくれました……きっと、きっとそれも故院が……わたくしのために、わたくしのためを想って……」

 内裏で内親王宣下を受けた時にも、宮はその名を告げて、院を驚かせ申し上げていた。

「何を馬鹿な。それはあなたの、仮の御名であろう」

 皇女は通常、内親王宣下と共に帝より名を賜る。しかしながら、実名を呼ぶことは身分上憚られるため、出生順や地位、または住む場所により、女一宮や一品宮など、日常的には仮名や愛称で呼ばれた。宮ならばさしずめ大原の姫宮、今では鎌倉の姫宮とでも呼ばれようか。

「畏れながら申し上げます」

 しかしその時、公達の一人が進み出て、恐る恐るこう申し上げた。

「主上も御存知でございましょう。わたくしの亡き父は、故院の側近の一人でございました。その父が遺した日記の中に、『大原の姫宮、朝子の御名賜る』との記述があったことを、つい今しがた思い出したのでございます。いえ、故院の、姫宮様に関すると思われる記述は、その一行のみで、亡き父も他には一切、何も書き残してはおりませんでしたが、実際この御方が、大原に住まわれておられることと、その御名を名乗っておられることは、この御方が真実、主上の妹宮であらせられることの、確たる御証と申せるのではないのでしょうか」

 宮が生まれた時、故院は、内親王宣下が不可能であられても、父親として、我が子の命名だけはなさりたいと、強く思し召されたのであろう。院は渋々ながらも、宮のその名を正式に認められたのだった。

 この時、宮は、何も知らなかった。皇女の名についてのしきたりも、自らの名前のことも、その時初めて知らされて、院と同様ただ驚くしかなかったが、かと言ってそれが、故院が宮のことを、愛しておられた証拠などとは、愛されなかった子と思い込んでいる宮には、考えることも出来なかった。けれど今なら、すべてを知った今ならば、宮も素直に、故院の愛情を受け入れることが出来た。

 彰嗣が、宮の顔を自分の方に向けると、宮は、涙に濡れた眼をそっと開けた。

「古では……女人が、自分の名前を告げることは、その御相手の方に、身も心も許すことを意味します……つまりはその方を、夫と認めることと……」

 その後を、宮は続けることが出来なかった。再び唇を塞がれ、彰嗣の胸に顔を埋められ、息も出来ぬほどに抱きしめられてしまったのだから。しかしその頬には、後から後から涙が、止め処もなくこぼれ落ちていた。

「……宮様……」

 しばらくの間を置いて、月見台に、時嗣や岩瀬局に付き添われた、恵州尼が姿を現した。宮が、彰嗣に抱きしめられている姿を眼にして、少々戸惑いの色を浮かべてはいたが。

「宮様、大丈夫でございますか」

「……尼御前、話があるの」

 そっと彰嗣の胸から離れ、涙を払いながら、宮は恵州尼に向き直った。

「わたくし、彰嗣様の妻になったの」






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