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第一章 己が世に未だ渡らぬ

 

          1


 眼が合った。

 思いがけなく、眼が合ってしまった。

 決して、見ようとして見たわけではない。乳姉妹のあやめの姿が先程から見当たらず、何処にいるのかと捜しに出て、奥の使っていない塗籠から、異様な声が漏れ聴こえてきたので、妻戸をそっと開けてみると、そこで思いがけなく、あやめのあられもない姿を目撃してしまったのだった。

 あやめは妖艶な美貌に恵まれた、だが少々蓮っ葉な性格で、「こんな大原のような鄙びた処で、一生過ごさなければいけないなんて」などと、誰の前でもあからさまに不満を口にし、何かと口実を設けては、都へ出掛けて遊び回っているような娘だった。

「お前の亡くなった母親は、本当に誠実で、心掛けの良い乳母であったのに。少しは、母親を見習ったらどうなの」

 ここ大原の里でも奥深い処に、ひっそりと佇む尼寺の庵主である恵州尼にも、あやめはよく叱られていた。

「だって尼御前様、わたくしのような若い娘が、美しい物や華やかな場所に溢れた都に、心惹かれてしまうのは当然でございましょう」

「都はあの承久の乱以来、都人の心も荒んで、強盗なども横行し飢饉にも襲われた。貴族や僧侶ですら、悪行を働く者も多い。六波羅探題では人手が足りず、都の警備もおぼつかないと聴くのに」

「御安心を。危険な処などには、足も向けませんから」

「わたくしを騙そうとしても、そうはいきませんよ。お前が何処ぞの貴族の館に忍び込んで、男と逢っていることは、わたくしの耳にもちゃんと届いています」

「恋をすることが、どうして悪いのでしょう。わたくし、もう十七ですわ」

「宮様も、十七におなりでいらっしゃいます。お前は宮様の乳姉妹として、母親と同じく生命がけで、宮様をお護り致さねばならぬ立場だというのに」

「宮様だって、恋をしてもよいお年頃。大原などに籠ってばかりいては、殿方にもお逢い出来ないではありませんか」

 そう言いながらあやめは、少し蔑んでいるような表情を浮かべて、宮を振り返る。宮は答えることも出来ず、頬を真っ赤に染めて俯いてしまう。

 宮は、蓮っ葉で勝気な乳姉妹のあやめが、昔から苦手だった。子供の頃は、恵州尼やあやめの母親の眼の届かない処で、あやめに苛められたこともあったし、華やかで賑やかなことが大好きなあやめから見れば、物静かでおとなしく、一日部屋に籠っていても一向苦にしない宮は、少々苛立つ存在なのかもしれないと、宮は秘かにそう思っていた。

「宮様も、時にはわたくしのように、お忍びで都に出掛けられてはいかがです。お若いのに、こんな山奥の尼寺などに籠っていては、あっという間に年を取って、尼御前様のような堅物になるのが落ちですわ」

 恵州尼がいなくなると、あやめの口調は更にきつくなってくる。

「世が世であれば宮様も、内裏で大勢の女房にかしずかれて、華やかにお暮らしのはずなのに。そうすればわたくしだって、沢山の公達から文を頂いて、恋の駆け引きに明け暮れているでしょうに。ああ一体、何の因果で、こんな鄙びた里に暮らしていなければいけないのかしら」

 最後には決まって、そんな言葉を吐いて嘆いてみせる。宮はますます、身体を小さく縮め込むしかない。

 宮は十二年前に崩御された、故院のただ一人の姫宮であらせられる。けれど身分が低いため、宮廷から逃げるように去らねばならなかった宮の母親は、大原に住む恵州尼を頼り、この尼寺で宮を産み、宮が物心つかぬうちにひっそりと亡くなった。あやめはああ言ったが、故院に限らず、代々の帝が御手を付けた、身分の低い女人が産んだ皇子女など、それこそ数え切れないほどいる。その多くは宮のように、日陰の身として生きざるを得ず、身分高き、或いは帝の寵愛深き母親から生まれた皇子女のような、華やかで安泰な暮らしなど望むべくもなかった。

「わたくしのことなら気にしないで。恋人がいるのならいつでも、その人の処へ行けばいいわ」

 俯いたまま宮がそう言うと、あやめが流石に言い過ぎたと思ったのか、声を和らげて、

「大丈夫、どうぞわたくしにお任せ下さいませ。宮様にだって、きっと素敵な殿方が現れます。時には宮様も、華やかな楽しい思いを味わった方が宜しいのですわ」

 それには、宮は答えなかった。宮は、都になど興味を引かれなかった。恵州尼は若い頃、宮廷に仕えていたというが、その頃の思い出を宮に話したことはなく、宮もあえて訊ねたことはない。華やかな内裏での暮らしなんて、自分には似つかわしくないとも思っていたし、大原の、この小さな尼寺での静かな暮らしから、離れることなど夢にも考えられなかった。


          2


「どうあそばされました、宮様。あやめは見付かりましたか」

 恵州尼は、宮が赤い顔をして戻ってきたので、小走りで宮に近付いた。

「捜してみたけれど、あやめはいなかったわ」

「御顔がお赤うございます。御風邪でも召されたのではございませんか」

「ちょっと、夜風に当ったから……やっと雪が溶けたのに、まだ夜は冷えるわね」

「まあ、宮様がそこまでなさらなくても。全く、あやめはしようがない子だこと。暇を出すしかないかも知れぬ」

 溜息を吐きながら、恵州尼は宮を上座へ導いた。

「そんな……そこまでしては、あやめが可哀想だわ」

「宮様には、これまで御報告を控えておりましたが、あの子はこの頃、この尼寺にまで男を連れ込んでいると、おふさが申しておりました」

 おふさは、宮やあやめより四歳下の、近隣の農家から来ている娘で、この尼寺で下仕えとして働いている。あやめにはいつも、鄙者(ひなもの)などと蔑まれて苛められているから、それを恨んでいつの頃より、恵州尼に逐一、あやめの行状を報告する役目を担うようになっていた。

「宮様を置き去りにして、遊び歩いてばかりいるあやめより、おふさの方がよほど宮様思いで、真面目によく働いてくれます。まこと、おふさの爪の垢をあやめに飲ませてくれようか」

 恵州尼の怒りの声を聴きながら、宮は先程、透き見してしまったことを思い出していた。そうか、あの男があやめの恋人なのか。あやめは単衣すら脱ぎ捨てて、男の膝に跨り、腕を男の首に廻す格好で喘いでいた。思いがけない光景に宮は戸惑い、悲鳴を上げそうになった口を、慌てて袖口で抑えた。そのまま動くことも出来なくなって、妻戸の前で震えていると、あやめの胸に顔を埋めていた男が、不意にその顔を上げたのだ。

 男は、宮と眼が合った時、にやりと笑ってみせた。あやめは情事に溺れていて、宮には全く気付かない。宮は男の不敵な笑いに驚き、慌てて妻戸を閉めると、急いで自分の部屋に戻ってきた。

 思い出すと、また身体が震えてくる。顔がますます赤くなって、自分ではどうしようもなくなった。

「宮様、宮様、大丈夫でございますか」

 恵州尼が驚いて、宮の顔を覗き込むが、宮はもう言葉も出ない。

「おふさ、おふさ、宮様が御風邪を召されてしまわれたようじゃ。床を整えて差し上げておくれ」

「はい、ただいま」

「急いで御薬湯を進ぜましょう。それもこれも皆、あやめのせいじゃ。宮様があやめを心配して、御自ら御捜しになられたというのに、全くあの子は」

 風邪ではなかったが、まさか、眼にしたことを恵州尼に告げるわけにもいかず、宮は勧められるまま横になった。あの男の眼が、まざまざと胸に甦ってくる。初心な宮を嘲笑うかのような、挑戦的ともとれるあの眼。だが、そんなことを思い出せば思い出すほど、宮の胸の鼓動が激しくなり、身体の震えも止まらなくなって、宮は床の中で必死に身体を縮ませた。


          3


「宮様、宮様、お喜び下さいませ。何という幸運でございましょう」

 朝早く興奮の面持ちで、部屋に飛び込んで来たあやめは、その勢いのまま宮の枕辺に座った。

「何です、あやめ。宮様に御挨拶も申し上げないで。宮様は、御身体が優れないでいらっしゃるのに」

 宮を抱き起こしながら、恵州尼が咎める。

「あら、どうなさいまして?」

「お前の姿が見えないのを御心配になり、御自ら、外にまでお前を捜しに行ったせいで、御風邪を召されてしまわれたのですよ」

「そうでしたの、ちっとも存じ上げませんでしたわ」

 恵州尼にそう言われても、あやめは相変わらず悪びれる様子もなく、謝りもしない。宮は不思議な思いで、あやめの顔を見守った。昨夜、男の膝で嬌声を上げていた女と、眼の前のあやめは、本当に同じ人間なのだろうか。

「そんなことより宮様、素晴らしい吉報が飛び込んで参りましたのよ」

 あやめはますます興奮して、頬を紅潮させている。

「帝が、十七年行方知れずの妹宮を、御捜しになっておられるそうなのです」

「帝……?」

「帝ですって!」

 宮が、あやめの顔を見詰めながら呟いたのと、恵州尼が、寺中に響くような大声で叫んだのは、殆ど同時だった。

「朝も早くから、何を馬鹿なことを。一体誰が、そのようなことを申しているのです」

 宮の身体を支えていながら、恵州尼の方こそ、身体が激しく震えていた。

「わたくしの知り合いが、六波羅におりますの」

 恵州尼が、真っ青な顔をしていることに気付く様子もなく、あやめは、まくしたてるように説明を始めた。

「その者が昨夜、わたくしの処へ来て申すには、帝が先日、御自分の妹宮の行方を捜すよう、六波羅へ命じて来られたそうですの。十七年前、生まれてすぐに行方知れずになってしまわれた、たった一人の妹宮を、草の根分けても捜し出せと。正しく、宮様のことではございませぬか」

 宮は相変わらず、あやめの顔をぼんやり見詰めながら、頭では別のことを考えていた。それではあの男は、あやめの恋人というのは六波羅探題の者、鎌倉の御家人なのかと。

「わたくしが、御仕えしている御方が宮様だと知って、ここまで確認に来たという訳ですわ。もちろんわたくし、急ぎその者を都に帰して、六波羅と内裏に知らせるよう頼みました」

「あやめ!」

 恵州尼が再び叫んだ。

「お前、お前という子は、なんてことを。そんな浅はかな真似をして……!」

「どうして御怒りになられますの、尼御前様。おめでたいことではございませんか。これでようやく宮様も、御身分にふさわしい処遇を受けられるようになりますのよ」

 あやめもそうだが、宮も何故、恵州尼がこれほど、怒りを露わにするのかわからなかった。確かにあまりにも突然の話で、宮も茫然とするしかなかったけれど。

「きっとすぐに、内裏から御迎えが参りますわ。ああ、これでようやくわたくし達も、華やかな宮廷の一員になれますのよ!」

 あやめはもはや、恵州尼の言葉も聴こうとはせず、一人夢の中へと心を飛ばしていた。

「こうしてはいられません。急いで、御使いを迎える準備をしなくては。おふさ、おふさ! 宮様の御手水を運んできてちょうだい!」

「あやめ! あやめ、これ!」

 あやめは走るように厨へ向かい、真っ青な顔をした恵州尼と、戸惑う宮とが後に残された。

「何ということを。よりによってあの娘は、何ということを……!」

 宮は言葉もなく、怒りに身体を震わせている、恵州尼を見詰めていた。

「宮様、ご案じあそばされますな。わたくしが我が身に替えても、宮様をお護り申し上げます。仮にも宮様を、不幸な目に遭わせるようなことには、決して致しませぬ……!」

 宮の前にひれ伏して、恵州尼は力強く言った。


          4


「どういうことなのです。わたくしが、宮様の御供を許されぬとは!」

 使いの匂当(こうとうの)内侍(ないし)と、二人の典侍(ないしのすけ)を前に、恵州尼は声を上げた。

「わたくしは、宮様の御生母様がお亡くなりになられてから、宮様をお護りし、大切にお育てして参った者です。たとえ一時でも、宮様のおそばを離れることなど出来ませぬ」

「畏れながら、主上(おかみ)の御命令であらせられます」

 内侍は先程から、宮に一礼したまま微動だにせず、静かな声で答えた。

「尼御前様は、宮仕えなさっておられたと申しても、それはすでに二十年近くも昔のこと。今はここ大原に、隠棲の身でいらっしゃいます」

「いくら主上の御命令でも、そのようなこと、従うわけには参りませぬ」

「主上は、御大切な妹宮様のために、新しい女房を六十人、御自らお選びあそばされました。どうぞ後のことは御心配なさらず、御心安らかに、宮様を御送り下さいますように」

 内侍の声は、静かで落ち着いていても、有無を言わさぬ強硬な態度があった。

「わたくしは、宮様と御一緒させて頂けるのでしょうね。宮様が、ここにおられることを内裏にお知らせしたのは、このわたくしなんですのよ」

 あやめが慌てて訊ねた。内侍は、帝に仕える高級女官を前にしても、ふてぶてしい態度のあやめをちらりと見て、

「まあ、宜しゅうございましょう。宮様も、御一人で内裏に御上がりになるのは、心細いことでございましょうし」

 ようやく顔を上げながら内侍が答えると、あやめはすっかり舞い上がってしまった。

「主上は一日も早く、妹宮様の御顔を御覧になりたいと、心待ちにしておいででございます。幸い、日も宜しいこととて、三日後には御迎えが参ります」

「三日ですって!」

「それだけ主上は、この十七年もの長き間、ひたすら妹宮様の御身を、案じておいでだったのでございます。まさか大原におられたとは、夢にも思わなかったとの仰せでございました」

 その言葉は、恵州尼がこの十七年というもの、内裏に、宮の居場所をひた隠しにしていたことに、帝が御怒りになっておられることを表していた。


          5


「あんまりでございます。わたくしに、宮様から離れよだなんて」

 使いが帰ると、恵州尼は宮の前で泣き伏した。

「頼りとする方もないお気の毒な宮様を、これまでお育てし、お護りして参りましたのは、畏れながらこのわたくしでございます」

尼御前(あまごぜ)……」

 宮も、あまりにも突然で早急な話に、どうしていいのかわからない。派手好きのあやめと違い、宮は物語を読んだり、恵州尼に歌や仏道の話などを教えてもらったり、時には簀子に出て、恵州尼が育てた花を楽しみ、月や雪を眺めたりすることなどを好む、本当に物静かでおとなしい娘であったのだ。これからも、世間からはすっかり忘れ去られた者として、この大原でひっそりと暮らし、そしてこの先もずっと、そんな生活が続くものとばかり思っていた。そのことを、宮は恨めしくなど思ったことはない。故院であらせられる父院も母も、記憶のない宮にとっては、すでに遠い存在だ。

 それに先程の内侍も典侍も、宮を見る眼はとても冷たくて、皇女とはいえ所詮は日陰の身である宮を、心の中では軽蔑しているのに違いなかった。あんな女官がいるような内裏に、宮は行きたいなどとは微塵も思わなかった。

「宮様、いけませぬ。決して、内裏へ御上がりになってはいけませぬ。宮中は、あやめが夢見ているような、華やかな場所などではございませぬ。畏れながら主上は、怖ろしい御方でございます!」

「尼御前、教えて。わたくしの母は、内裏を追放されたのではなかったの? 尼御前は、何かわたくしに隠しているの?」

「それは……」

 恵州尼は、何故か口を濁らせた。

「お赦し下さいませ。わたくしの口からは何も、何も申し上げることは出来ませぬ。ただ、これだけは信じて下さいませ。わたくしがどんなにか、宮様のことを大事に思うているか」

「そんなこと、今更言われなくてもよくわかっているわ。母のないわたくしにとって、尼御前は、母以上の存在なのですもの」

「ああ、宮様……」

 再び、恵州尼は泣き崩れる。あやめはと言えば、もはや心ここに非ずといった調子で、先々のことを夢見ている有様だ。尤も、自己中心的なあやめなど、初めから頼りにもならないのだが。

「帰って来るわ」

 宮は恵州尼の手を、しっかりと握りしめた。

「わたくしだって本当は、内裏になんて行きたくはない。でも主上は、何か誤解されていらっしゃるのよ。お逢いして尼御前が、わたくしを大切に育ててくれたことを、主上にお話しするわ。そしてお逢いさえすれば、それでわたくしの役目は終わるから、大原に戻して下さるようお願いするわ。あやめだけそのまま、内裏に残ればいいのよ」

「主上は、そのようなことをお赦しにはなりませぬ……!」

「でも主上の御命令に、わたくしが背くわけにもいかないでしょう……?」

「宮様……宮様……」

 恵州尼の涙が、握り合った二人の手の上に、ぽたぽたとこぼれ落ちる。

 承久の乱後、帝の権威も朝廷の権力も、すっかり地に落ちた感があった。皇位の継承ですら、幕府の承認を必要とした。しかしそれでも、帝は帝であらせられる。ましてや、帝のたった一人の妹宮が、帝の御命令に逆らえるはずはなかった。


          6


「お美しゅうございます、宮様」

 普段は、己の美貌に自惚れ切っているあやめも、感嘆に満ちた深い溜息を吐いて、厳かな声で宮を賞賛した。

「御生まれは、やはり争えぬものでございますね。流石は姫宮様、何という気品に満ちた御姿でございましょう」

 迎えに来た内侍も、思いがけなくその無表情な顔を綻ばせて、宮を褒め称える。

 宮は帝から頂戴した、新しい衣装を身に付けていた。もちろん唐衣(からぎぬ)、裳、表着(うわぎ)打衣(うちぎぬ)、五つ衣、単、袴、そして衵扇(あこめおうぎ)とそろった晴れの装束である。三日前、内侍が帝の使いとして、初めて宮に逢った時には、宮は、着古した小袿を御召しになられていて、皇女とは申せ日陰の身とはこの程度と、内侍は心の内で軽蔑していたのだが、新しい衣装を身に付けた今の姿は、気品があって、従順な性格をそのまま表すように、淑やかな美しさに満ち溢れていた。ことに、その長い黒髪は見事なもので、先の方まで濡れたように輝き、かもじなど必要ではない。母親の身分が低くとも、故院の姫宮として恥じることのないよう、恵州尼が厳しくお育てしたのであろうと、内侍は満足そうに何度も頷いた。

「それにしましても、わたくしにまで御衣裳を頂けますとは、光栄の限りですわ。わたくし、ちゃんと着ておりますでしょうか。おかしな処などないでしょうか」

「大丈夫ですよ」

 こんな時にまで自分を宣伝するのを忘れない、あやめをちらりと見やって、内侍は言葉短く答えた。

 この娘は恐らく、下級貴族の出なのであろう。美しいが、自惚れが強く品がない。とりあえず都へは連れて行っても、折を見て体良く追い出してしまおう。内侍はそう考えて、宮を促した。

「さあ姫宮様、御出立の時刻でございます。主上が今か今かと、妹宮様の御出でをお待ちかねでいらっしゃいますれば、どうかお急ぎを」

「尼御前は……?」

 宮が初めて、口を開いた。

「尼御前様でしたら、朝早くから御堂に籠って、念仏を唱えておいでです。畏れながらお見送りは、御遠慮申し上げると」

 あやめが答えた。

「そんな……」 

 宮の身体が震えて来た。恵州尼は、宮との別れが辛いあまり、見送りを拒否する代わりに、ひたすら無事の帰還を祈って、御堂に籠り続けているのであろう。

「ささ、宮様。この期に及んで、急に薄情になった尼御前様など放っておいて、急ぎましょう」

「薄情なんかではないわ、尼御前は……」

 最後まで言わせずに、あやめは宮を急き立てた。

 簀子に出ると、立派な糸毛の車が縁先に用意されている。その周囲には宮の迎えとして、内裏から参った公達の他に、六波羅から遣わされた御家人なども大勢揃っていた。宮は急いで、扇に顔を隠す。

 御家人達が並んで跪いているその前には、年配の男と若い男とが、やはり共に跪いていた。御家人達の前にいるということは、年配の方の男が、六波羅探題の役を担っている、北条一族の者なのだろう。だが、その隣の若い男が不意に顔を上げ、宮はひどく驚いてしまった。それは正しく、あやめの恋人であったからだった。

 折烏帽子に太刀を佩き、直垂を着ている男と、己は単衣を着崩して、一糸纏わぬあやめと情事に耽っていた男とが、とても同一人物などとは思えなかったが、その顔にも眼差しにも、宮は確かに見覚えがあった。あの時は、挑戦的な眼を宮に向けたが、今はそんなことなど忘れたかのように、無表情な顔で宮を見上げている。いや、許しもなく顔を上げたまま、不躾に宮を見詰めているような処は、相変わらずの大胆不敵さだが。

 あやめは男に気付かないのか、突然立ち止まった宮に、驚いて声をかけた。

「どうかなさいましたか、宮様」

「……わたくし、行かないわ」

 その男の顔を見詰めているうちに、言い知れぬ恐怖が宮を襲った。何故だかわからないが、不吉な予感が宮の心を占めた。

「行きたければ、あやめだけお行きなさい。わたくしは、尼御前の許に戻ります」

「何を馬鹿なこと仰っているんです。ここまで来て、何を今更」

 あやめは、あきれた声を上げた。

「主上がお待ちかねなのですよ。さあ急いで」

「あやめ……!」

 宮は抵抗空しく、あやめに車の中へ押し込まれてしまった。


          7


「姫宮様、こちらでございます」

 内侍が恭しく、宮を案内する。

 宮の顔は蒼ざめ、身体が震えて来るのを、先程から必死に堪えていた。

 あの男を初め、大勢の御供に護られながら、宮は心ならずも大原の里を離れ、都へ、そして内裏へと運ばれてきた。ようやく車から出てみると、有頂天でついてきたはずの、あやめの姿は何処にも見えず、震え声で内侍に訊ねても、

「車が、遅れているのでございましょう。ささ、お早く」

 取り付く暇も与えない。糸毛の車の後には、何台もの網代車が連なって、都大路を華やかに通って来たというのに。宮は今度こそ、本当に一人にされてしまったのだ。こんなことでは果たして無事に、大原へ帰ることが出来るのだろうか。

 不安に駆られながら、内侍に紫宸殿へと案内される。まさか自分が内裏へ、しかも、この紫宸殿に足を踏み入れる日が来るなんて。流石にこの時は宮も、夢を見ている心地がした。御簾越しに上達部が居並び、恭しくひれ伏してはいても、一同の関心が十七年もの長き間行方知れずでいた、帝の妹宮に集中していることが、ひしひしと伝わってくる。中には、宮の素性を疑っている者も、一人や二人ではないはずだ。

 すると宮のみならず、そこにいたすべての人間が、驚く事態が起こった。御帳台の中におられたその御方は、宮の姿を御覧になった途端に、そこから小走りに出て来られたかと思うと、何が起きたかわからず混乱する宮を、大きな腕で抱きすくめてしまわれたのだった。

「宮、宮……! よく御無事で……!」

 その御眼には、涙が光っておいでだった。

「わたしはこの十七年、ずっとあなたを捜していたのだよ。わたしの愛しい妹宮、もう離さぬ。これからは、わたしがずっとそばにいるからね」

 宮は驚きのあまり、帝が宮を力強く抱きしめ、愛おしそうに髪を撫でられても、茫然としてされるがままになっていた。


          8


「先程は、驚かせてすまなかったね。でも、あなたがあまりにも母君に、若菜御前に似ておられたので」

 揃って清涼殿へ御移りになられても、帝は、宮の手をお離しにならなかった。

「母を、御存知なのですか」

 先程から、何とか帝から離れるすべはないものかと、困り果てていた宮は、驚いて顔を上げた。帝は頷かれて、

「あなたの母君も、お美しい御方であられた。ひとさし舞えば、大輪の花が舞い散るかのようで、見ている誰もが魅了された。まこと、素晴らしい舞姫であられた」

 宮の亡くなった母親が、白拍子だったことは聴いてはいたが、その人となりを聴くのは初めてだった。

「あなたは、御自分の母君のことを、何も聴いておいでではないのか」

 宮が思わず頷くと、帝はお嘆きになった。

「何ということだ。恵州尼は、あなたに何も教えなかったのか。どんなにかわたしが、あなたの身を案じ、その行方を捜していたことを知りながら、大原のような、鄙びた里にあなたを隠し、実の母君のことすら教えず、閉じ込めていたというのか」

「どうか、そのようなことを仰せにならないで下さいませ。尼御前はわたくしを、それは大切に育ててくれました」

 宮は、悲痛な声で訴えた。

「わたくしが、今日ここへ参りましたのは、畏れながら、主上の誤解を解くためでございます。尼御前は確かに、わたくしには何も教えては参りませんでしたが、わたくしはそれに、不満を感じたことなどございませぬ。尼御前は、わたくしにとっては、母にも等しい存在でございます。どうか尼御前を、お責めにならないで下さいませ」

「あなたは優しいのだね。わかった、あなたに免じて、恵州尼の罪は問わぬとしよう。何よりこうして、あなたは無事に、わたしの許に帰って来てくれたのだからね」

 宮は恐る恐る、帝の御顔を見上げた。帝は御年、三十八になられる。御背が高く、少し痩せ気味で、青白い肌の、美しい御方であられるが、その御眼は一体何を考えておられるのか、宮は皆目見当もつかない。

「お、主上……!」

 再び帝に抱きしめられて、宮はすっかり狼狽えてしまった。

「……お離し下さいませ……お赦し下さいませ……」

「何故だ。先程も申し上げた、わたしはあなたを離さない。弟の帝が御隠れになられた今、あなたとわたしは、たった二人の兄妹なのだからね」

 故院は、帝が御病弱でいらっしゃるのを案じられて、皇位を兄宮ではなく、弟宮に御譲りになられたという。しかしながら、その弟の帝が三年前に御隠れになり、皇位は、兄君の帝がお継ぎになられたのだ。

「でも……でも、わたくしの母は……」

「お美しい舞姫であられたと、お教えしたではないか。后妃ではないことを、恥じることはないのだよ」

 紫宸殿で、宮は、内親王宣下の儀式を受けた。しかも、内親王の位階としては最高位の、一品位(いっぽんい)に叙されたのである。后妃腹でもなく、内裏で育ったわけでもない宮にとっては、まさに破格の待遇だ。思いがけない内親王位と、兄帝の先程からの御振舞いに、宮はすっかり混乱してしまっていた。

 狼狽しているのは上達部も、女官達もそうだった。内侍は先程から、怯えたような眼の色を浮かべて、兄帝が妹宮になさるとは思えぬような、帝の過度な御振舞いを見守り続けていた。

「畏れながら主上、酒肴の用意を整えてございます。宮様も、あちらに御移り頂きますよう」

「おお、そうか。さあ宮、御一緒に」

 宮を腕に抱きしめられたまま、御立ちになられる。宮はますます狼狽し、あまつさえ、恐怖まで感じてきた。

「どうなされた」

 腕の中で震えている宮に、主上は囁くようにお訊ねになる。

「わたしがいるではないか。怖いことなど何もないのだよ」

「……お願いが、ございます」

 宮の声も震えている。

「何だね。何か、欲しい物でもあるのかな。これからのあなたは、何でも望んでいいのだよ」

「……わたくしを、大原に戻して下さいませ。わたくしは所詮日陰の身、内裏も内親王も、わたくしには過ぎたものでございます。主上の、温かい御心遣いには、本当に感謝申し上げております。でも、やはりわたくしのような者には、内裏での華やかな暮らしより、大原の里の方が似合うのでございます」

 帝がお答えになるまでに、しばらくの間があった。

「そんなにも、大原の里が恋しいのかね」

 宮が頷くと、主上は深い溜息を吐かれた。

「せっかく、十七年間離れ離れになっていた、兄と妹がこうして再会出来たというのに……」

「……お赦し下さいませ……」

「わかった。だが、せめてしばらくの間だけでも、内裏にいてはくれまいか。あなたと二人、ゆっくり語り合って、失われた十七年の時を取り戻したいのだよ」


          9


 宮は、突然飛び起きた。

 いつの間にか、夜着に着替えさせられ、見知らぬ御帳台の中に横たわっていた。確か、帝がどうしても宮をお離しにならなくて、一緒に御酒を飲んだのだ。御酒など飲んだことのない宮は、初めお断り申し上げたのだが、帝がしきりにお勧めになられるので、仕方なく口にした。しかし、その後の記憶はない。ひと口飲んだだけで倒れたということは、宮が御酒に慣れていないばかりでなく、あの御酒に、何かが入れられていたのではないだろうか。

 大原を後にする時に、宮を襲った不吉な予感が甦る。だが、逃げようと思う間もなく、やはり夜着を御召しになられた帝が、宮のいる御帳台の中へ、突然入って来られた。

「怖がらなくても、いいのだよ」

 恐怖のあまり、動くことも出来ない宮を、抱きしめながら囁かれる。

「わたしが、あなたを幸福にする。もう、寂しい思いはさせない」

 帯が解かれ、宮の肌が露わになる。その背中に帝の唇を感じて、宮は思わず悲鳴を上げた。

「きめ細やかな肌だ。それに、とても良い香りがする」

 満足そうに呟かれて、帝は、宮の肌に御顔をお埋めになる。

 何が自分の身に起きているのか、宮は、理解出来ずに苦しんだ。帝の腕の中で、宮は生まれた時の姿にされ、あの時のあやめと、同じことをしているのだと気付いた時、宮は、再び悲鳴を上げた。

「いやあああ!」

 違う、違う。わたくしは、あやめとは違う。こんなことを、望んだ覚えはない。ましてや帝と自分は、実の兄妹ではないか。

「お赦し下さいませ、わたくしは妹でございます……主上の、妹でございます……!」

 だが帝の御耳に、宮の悲鳴が届くことはなかった。宮は抗うことも、逃げ出すことも許されず、ただ泣き叫び続けるしかなかった。


          10


「北条彰嗣殿」

 声をかけられてゆっくり振り返ると、直衣姿の公達が、親しみの籠った微笑を浮かべながら、こちらへ近付いて来た。

「どうなさった、こんな処で。そちらは仁寿殿です。いくらあなたが執権殿の弟君でも、こんな処にいては、御咎めを受けてしまいますよ」

 確か、宰相中将といったか。

「これは申し訳ない。酔いを醒まそうと思って、夜風に当っていたのですが、そんな処にまで来てしまいましたか。するとあちらが清涼殿、向こうが女御方のおられる、後宮というわけですね」

「ええ。でも今の主上は、大変御機嫌が宜しいですからね。ましてやあなたは、帝の妹宮を捜し出された功労者でもある。今宵の温明殿での宴も、あなたをねぎらうためにわざわざ、帝が御催しになられたのだから、たとえあなたが後宮に忍び込んだとしても、帝は、御咎めにはならないのかもしれませんね」

 公家というのは、何かと言えば武士に対して、「関東の(えびす)」と罵り蔑むが、この中将は、彰嗣に侮蔑的な態度を取ることもなく、気安く声をかけてくれる。根が優しい男なのだろう。

「そのことですが、先程は驚きました。まさかその妹宮を、皇后になさるとは」

「ええ、わたしも驚きました。帝にはすでに、五人の女御が御仕えあそばされ、御寵愛を受けている女官も、数多(あまた)おられるというのに。明日の御朝議は、さぞかし荒れることでしょう」

 そう言って、溜息を漏らす中将を、彰嗣は見詰めながら言った。

「ですが、そのようなことが赦されるとは、とても思えません。畏れながら実の妹宮、しかも、その御生母の身分は后妃ではない。鎌倉の兄も、さぞかし驚くことでしょう」

「そうでしょうね。しかし、大きな声では言えぬが、帝や上皇が、御自分の異母妹宮と通じた例は、過去にもあったのですよ。兄君の御子を、御産みになられた妹宮も、実際におられる」

「だが、まさか公然と、それも皇后にとは」

「前代未聞です。皇位に就かれて三年、中宮もお立てにならず、それが突然、行方知れずでおられた妹宮を捜し出して、皇后に据えるなどと。執権殿もでしょうが、関白殿や大納言らが承知なさるとは思えません。いや、誰もが、主上は狂われたのだと思っているはずです」

 中将は、再び深い溜息を漏らした。

「あなたの前で、申すべきことではないのかも知れませんが、姫宮様は今頃、どんな御気持ちでおられることでしょう。御迎えの折り、ちらりと御姿を垣間見てしまったのだが、鄙びた里育ちとは思えぬ、気品に満ちた、お優しい御顔立ちの御方であられた。こんなことになって、さぞかしお嘆きであろう」

「宰相中将……」

「いや、これは申し訳ない。口にしてはならぬことを」

「宮様は、すでに後宮にお入りなのでしょうか」

「いいえ、噂によれば帝はずっと、夜の御殿(おとど)に宮様をお籠めになっておられるらしい。明日の、三日(みか)の夜の餅の儀式がすむまでは、恐らくそのままなのでしょう」

 そして中将は三度目の、更に深く、長い溜息を漏らした。

「こんな処で、長々と話をしてしまって申し訳ない。わたしは宴に戻ります。あなたも、そろそろ戻られた方がいいですよ」

 寂しげに微笑んで、中将は戻って行った。

 中将のあの様子では、宮にひと目で恋をしたのだろう。折りを見て、求婚することも考えていたのかもしれない。そしてそれは宴に出ていた、他の若い公達も同じであろう。皆、宮の御迎えを命じられた者ばかり、宮を捜し出した彰嗣に褒美をやり、共にねぎらうために催された宴であったのだから。

 己の足元を見詰めて、しばらく考えてから、不意に彰嗣は、清涼殿へ急いで歩き出した。ともかく、中将からは思った以上に、情報を聴き出すことが出来たのだ。心の内で、彰嗣は中将に感謝した。

「さて」

 帝の御寝所から、どうやって姫宮を救い出すのか。清涼殿には、数多くの女官が詰めて、宮を見張っているのに違いない。渡殿の前で、彰嗣の足は止まった。これからどうするか。彰嗣があれこれ考えていた時、静まり返った暗闇の中で、不意に、ことりと小さな音がした。

 清涼殿の妻戸が、わずかに開いた。驚いたことには、そこからふらりと、まるで亡霊のように、姫宮本人が現れたのだ。

 宮は夜着の上に、小袿を一枚羽織って、まるで狂女のように、ぼんやりと月を眺めていた。その頬には、涙が光っている。すっかり面やつれして、大原を出た時の、気品に満ちた姿とは、まるで別人だ。どれほど苦しみ、どれほど泣いたのだろうか。宮が、ゆっくりと歩き始めた時、彰嗣は高欄を飛び越えて、宮の前に立ち塞がった。

 宮は、突然現れた男の顔を見て、驚愕した。あやめの恋人が、何故こんな処にいるのだろう。

「どちらへ行かれます」

 彰嗣が口を開いた。

「向こうは後宮だ。御自ら、兄帝の後宮へ入られるおつもりですか」

 するといきなり、宮が彰嗣に飛びかかってきた。宮は思いもかけぬ速さで、彰嗣の懐剣を奪い、自分の胸に突き立てようとした。

「何をされる!」

 彰嗣は宮の手から、懐剣を叩き落とし、その(かいな)をひねるように握りしめた。

「離して! 死なせて! わたくしを死なせて!」

 初めて、宮が声を上げた。

「早まった真似をなさるな! このようなことで、生命を粗末にされるな!」

「あなたが!」

 彰嗣を見る宮の眼は、強い憎悪に満ちていた。

「あなたがわたくしを、捜したりしなければ! あなたがわたくしを、大原から連れ出したりしなければ!」

 その場に崩れるように座り込むと、宮は、火が付いたように泣き叫んだ。

「そう、あなたをこんな目に遭わせたのは俺だ。だから俺は、余計にあなたを死なせるわけにはいかない」

 宮は驚いて、彰嗣の顔を見上げた。

「しばらく、眠っていて下さい」

 その言葉と同時に、宮の腹部に彰嗣の拳が当たり、宮はそのまま、彰嗣の胸に崩れ落ちた。

「そなたは、六波羅の者か」

 突然、清涼殿の方から女の声が響いた。

「ちょうど良かった。そのまま宮様を、内裏の外へお連れして差し上げるように」

 彰嗣の前に現れたのは、宮を内裏へ連れて来た、あの匂当内侍である。

「主上は、まだしばらく、宴からお戻りになられぬであろう。今のうちじゃ。一刻も早く、宮様を逃がして差し上げておくれ」

「……宜しいのですか。勾当内侍を務めるあなたが、主上を裏切る真似をして」

「このままでは宮様は、お気が狂うてしまわれる」

 内侍の無表情な顔に、初めて苦渋の色が浮かんだ。

「いや、狂われてしまわれたのは、むしろ主上の方じゃ。正気でおられれば、たった御一人の妹宮に、あのような酷い真似をあそばされるはずがない。更には、その妹宮を皇后になどと……! このように純真で可憐な御方を、これ以上穢させてはならぬ。御政道を、正さねばならぬ」

 不意に内侍は、皮肉の籠った微笑を浮かべた。

「いや、そうではない。わたくしも、帝の御寵愛を受けたおなごの一人じゃ。主上の、異常なまでの妹宮への御執着に、些か嫉妬致しておる。たとえ主上に背いても、主上がお愛しになられるおなごなど、一刻も早く追い出したいというのが、正直な処」

 そして内侍は、彰嗣の腕の中の、宮の涙に濡れた顔を見詰めた。

「主上の御考えになることは、よくわからぬ。そなたのような、殿上も赦されぬ関東の夷を、わざわざ内裏に招いて宴を催すとは、よほど宮様を手に入れたことが、嬉しくていらっしゃるのであろう。じゃが、主上が宮様と褥を共にあそばされたのは、昨夜一夜限り。たった一夜の悪夢と思うて、宮様が忘れて下さることを祈ろう」

 内侍は彰嗣を睨み付けて、

「さあ、何をぐずぐず致しておる。主上が戻られぬうちに、早く」

 彰嗣は無言のまま、宮を肩に担ぎ上げると、内侍に一礼し、高欄から飛び降りた。

「御無事で」

 暗闇の中へ、宮を抱えて走り去る彰嗣の背中を見送りながら、内侍は呟いた。


          11

 

「この辺りでいいだろう」

 道からかなり外れた、葦がさらさらと風に揺れている草原で、彰嗣はようやく馬を止めた。

 彰嗣の家の郎党で、彰嗣とは乳兄弟にあたる光良が、柔らかな草場を選んで、幾重にも褥を重ねて敷き、更には念を入れるように、衣をその上に丁寧に拡げた。その前に、大きな長櫃を担いでいた二人の男が、ゆっくりと長櫃を下ろし、担ぎ棒を外した。従者らしからぬ屈強な身体つきの、二人の姿はもちろん仮のもの、実は光良と同じく、彰嗣の家の郎党である。光良もその二人も、他の一行の者達も、長櫃の周囲に、しかしずっと後方に下がって跪いた。

 彰嗣だけが長櫃に近付き、蓋を開けた。中には宮が、両手足を後ろ手に縛られ、口には猿轡を噛まされて、入っていた。彰嗣は宮を抱き上げると、褥に敷いた衣の上に宮を下ろし、己も宮の前に跪いた。

「宮」

 声をかけても、宮は横たわったまま、死んだように動かない。

「ここは、近江の湖です。昨夜、六波羅の叔父に許しを得て、逢坂の関を越え、ここまであなたをお連れ致しました。お護りするためとは申せ、仮にも姫宮を、このように縛めましたこと、重々お詫び申し上げます。されどあのままでは、あなたはまた、生命を絶とうとされる心配がありましたので」

 彰嗣は顔を上げた。

「ここからは、輿を用意させております。俺も、いつまでもあなたを、そのような御姿のままにさせたくはない。どうか共に鎌倉へ行くと、仰っては頂けないでしょうか」

 宮の閉じられた眼から、涙がはらはらとこぼれ落ちた。

「若殿……!」

 光良がはっとして、思わず声を上げた。彰嗣は、不意に宮を抱き起こすと、その縛めを解いた。宮も突然の解放に驚いたが、長いこと拘束され、長櫃に監禁されていたため、身体を動かすことも出来なかった。

「……殺して……」

 彰嗣に身体を預けながら、弱々しい声で宮は懇願した。

「あなたは、武士でしょう。わたくし一人、手にかけるのは容易いはずだわ。お願い、少しでもわたくしを哀れと思うのなら、その刀でわたくしを殺して……!」

 そうして泣き続ける宮を、何を思ったか彰嗣は、もう一度抱き上げて立ち上がった。

「若殿、どちらへ……!」

 葦原を抜け、彰嗣は宮を、湖の岸辺へ連れて行った。

「……あ……!」

 宮は、生まれて初めて見る湖の光景に、驚きのあまり、思わず涙が止まってしまった。彰嗣が、陽射しで温まった砂浜に抱き下ろしても、宮は、しばらく言葉もなく、食い入るように湖を見詰め続けた。

 大原で生まれた宮は、此度のことが起きるまでは、一度も里から出たこともなく、小さな尼寺の内だけを、己の世界として育った。まさかそんな自分が、この近江の湖を、我が眼にする日が来ようとは。なんと大きく、なんと美しいのだろう。流石にこの時ばかりは宮も、己の哀しみを忘れていた。

「……たぶん、ここから北西の辺りになりましょうか。古の昔、天智の帝がこの湖の岸に、都を御造りになられたのは」

 彰嗣が突然、思いもかけぬことを言い出したので、宮は驚いて振り返った。

「天智の帝は、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし、様々な改革を行われた、英邁な帝であられたと聴いています。都は帝が崩御された後、壬申の乱で天武方に滅ぼされてしまったが、もしそのようなことがなければ、都は今も、この近江の湖の、ほとりにあり続けていたのかもしれません」

 小さな波が静かに寄せて来て、二人の足元の砂を洗う。

「いや、何もそんな、古い時代のことなど持ち出さなくても、もっと近い時代のものを探せば、たとえば平家。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表すとは、よくぞ言ったものだ。近江の都も、平家の栄華も、永遠に続くものなどありはしない。栄えるものは、いずれ滅ぶ。この世は、無常の上に成り立っている」

 彰嗣の眼は、ずっと湖に向けられている。この男は、一体何が言いたいのか。宮は、彰嗣の顔を見上げながら(いぶか)った。

「近江の都はこの葦原に覆われ、平家の一族が栄えた六波羅は、我ら鎌倉の者にとって代わられた。時というものは、すべてをその彼方へと流れ去る。そして人間(ひと)は、そうしたものをすべて忘れてしまうものです。それは、ある者にとっては哀しいことであっても、ある者にとっては大きな慰めとなるでしょう。宮、今回、あなたが受けた大きな傷も」

 ゆっくりと、彰嗣が宮を見下ろす。

「いつかは、時が癒してくれる。今は、あることないこと噂しているであろう都人も、いずれは宮のことを、綺麗に忘れてしまうのです。だからどうか、むやみに生命を絶とうなどとなさらないで下さい。今すぐにではなくても、いずれは再び、元の静かな暮らしに戻れる日が、必ず来るはずです。何より、母代りの尼御前様を哀しませるようなことが、あなたに出来るはずがない」

 先程から、身体の震えが止まらなかった宮は、恵州尼の名が出た途端、再びその眼に涙を溢れさせた。

「泣いて下さい。思う存分、泣いて下さい」

 その場に泣き崩れた宮の背を、彰嗣はそっと撫でた。

「泣くことはいいことです。泣くだけ泣いて、心の中のわだかまりを、すべて吐き出して下さい。俺は宮が、必ず立ち直って下さるものと信じています」

 不思議なことに、彰嗣の大きく暖かな手が、傷付いた宮の心を、優しく包み込んでくれるように思えた。


 ささなみの国御神(くにつみかみ)(うら)さびて荒れたる都見れば哀しも


(ささなみの国を護る、神の御心も今は衰えて、荒れ果てた都を見るのは、何と哀しいことであろう)

 湖を見詰めて泣きながら、宮は静かに、そっと呟いた。


          12


 額にのせられていた布が、新しく取り換えられて、その冷たい感覚に、宮は深い眠りから覚めた。

「お気が付かれましたか」

 枕元には、彰嗣が控えていた。

「ここは……?」

「鏡の宿です。畏れながらあの後、宮が熱を出されたので、こちらへお運び致しました」

 鏡の宿とは、当時、中仙道にあった宿場町である。宮は、湖の岸辺で泣き疲れるまで泣いて、そのまま熱を出してしまったのだ。

「何か、欲しい物はありませんか」

「……お水を」

 彰嗣は、すぐに宮を抱き起こして、器に入った水を飲ませてくれた。

「申し訳ありません」

「え?」

 再び褥に宮を横たえながら、彰嗣が謝罪の言葉を述べてきたので、宮は驚いた。

「俺のような者が、姫宮を介抱するなんて……最初は、ここの女達に頼もうと思ったのですが、こういう処の女は大抵、遊女ばかりなので、宮の御世話をさせるのは、どうかと思って」

「どうか、そんなお気遣いはなさらないで下さい。わたくしの母も、白拍子でした」

 宮は、思わず微笑んだ。

「でも、あなたがして下さる方が、ずっと嬉しいわ。あなたは、わたくしの生命の恩人なのですもの」

 この時、この男にしては、珍しいことが起こった。宮のこの言葉に、彰嗣が思わず顔を赤らめたのである。

「そう言えばわたくし、まだあなたに、御礼も申し上げていなかったのですね。有難う。わたくしはもう少しで、取り返しのつかないことをしてしまう処でした」

 彰嗣は、宮の顔を見詰めた。生母の身分は低くても、宮は、畏れ多くも故院の姫宮、帝の妹宮なのである。大原の鄙びた里で育ったためとはいえ、少しも驕る処がなく、何と素直で純真なのだろう。あの、真面目な宰相中将がひと目惚れしただけあって、彰嗣に対しても、丁寧な言葉遣いを忘れない。こんな可憐な宮を、手籠めになさるとは、あの帝も酷なことをなさったものだ。

「どうかなさいまして?」

「いいえ」

 彰嗣も微笑み返した。

「何も御心配なさらず、今夜はゆっくりお(やす)みになって下さい。部屋の外には郎党どもが、宮をお護り致しておりますし、御差支えなければ俺も、ずっとおそばにおります。御身体の具合は、いかがですか」

「有難う、大丈夫です。でも本当にわたくしを、鎌倉へ連れて行くおつもりですの?」

「俺は、仮にも姫宮を内裏、しかも清涼殿から盗み出して参ったのですよ。俺も宮も、もはや都にはいられません」

「けれど、あなたに御迷惑なのでは」

「俺の方こそ、宮には、辛い思いをさせてしまったのです。俺には宮を、護らなければならない義務がある」

 宮は彰嗣を見詰め、彰嗣は宮を見詰めた。宮は、湖で宮の背を撫でてくれた、彰嗣の大きな温かい手に、視線を向けた。今思い返しても、その温もりは、宮の心を慰め、包み込む安らかさがあった。

「ひとつ、お伺いしてもいいですか」

 彰嗣が口を開いた。

「何でしょう」

「先程、宮は湖で、歌を口ずさんでおられたようだが」

「ああ」

 宮は、再び微笑んだ。

「万葉集の歌です。あなたが、近江の都のことを仰ったので、それで思い出して」

「万葉……あの中に、天智帝の都の跡を詠んだ歌があるのですか」

「ええ。わたくしが口ずさんだのは、高市(たけちの)黒人(くろひと)という方が詠んだものですけれど、柿本人麻呂も、長歌とその反歌を詠んでいます」

「きっと、天智帝の御代を懐かしんで、湖を訪れたのですね」

「そうですね。でも、わたくしの方こそ驚きましたわ。失礼ですけれど、まさかあなたの口から、古の話を聴くとは思わなかったので」

「これでも俺は、歴史に興味がありましてね。先程、平家の話もしたが、壇ノ浦や、義経公が自害した平泉も、以前、訪れたことがある。そういえば大原には、建礼門院様が隠棲されておられましたね」

「ええ。あの里の人達は、御隠れになられた今でも、女院様をお慕いしています」

 不意に彰嗣は、ほっとしたような微笑を浮かべた。

「良かった。だいぶ、お元気になられたようですね。湖では正直、どうなることかと気が気ではなかったが」

 宮は眼を瞠って、思わず微笑んだ。

「そうでしたの? その割には随分、大胆なことをなさる方ですね」

「宮も、おとなしいと思って油断していると、俺から懐剣を奪ったりなどなさって、お互い様ですよ」

 そして二人は、誘い合わせたかのように、もう一度笑った。

「そうだ。俺はまだ、宮に名乗りもしていませんでしたね」

 彰嗣はそう言って、宮の前に(かしこ)まった。

「失礼致しました。俺は鎌倉執権が弟、北条彰嗣と申します」

「執権殿の……」

「六波羅には南方探題を務める、叔父の手伝いで参っておりました。叔父からも、こちらのことは心配せず、宮を無事に鎌倉へ送り届けよと、申し付けられております。さあ、どうぞ本当に、もうお寝みになって下さい。几帳を寄せておきましょう」

「あ、あの。本当に、そばにいて下さいますの?」

「御嫌なら、俺は、郎党どもの処に」

「い、いえ。そばにいて下さい。そうして欲しいのです」

 小さな声で、まだ怖いから、と口籠るように言ってから、宮は続けた。

「それから、お願いがあるのですけれど」


          13


「本当に、大丈夫ですか」

 彰嗣は、もう一度念を押した。

「輿をやめて、馬に乗りたいなどと……見かけによらず、宮は大胆なことを言い出す方ですね」

「ごめんなさい。でも」

 宮は、腰に衣を引き上げてたたみ込み、市女笠にたれ衣を付けた、所謂壷装束の姿だ。このような姿も初めてなので、裾の辺りを気にしているのは、若い娘らしくもあるが。

「でも、輿よりも馬の方が、景色を楽しめるのではないかしら、と思って」

「物見遊行ではないのですがね」

「……ごめんなさい」

「しかし正直、万一追手がかかった時には、輿よりも馬の方が逃げやすいですから、こちらとしても有難い」

「きゃっ!」

 初めてというわけでもないのだが、いきなり彰嗣に抱き上げられたので、宮は驚いて声を上げた。しかし、いざ馬に乗せられると、その高さにもまた驚いて、宮は、馬の鬣にしがみ付いた。そばにいた光良も、思わず声を上げた。

「そんなに怖がらないで下さい、宮様。わたしが手綱をお持ちしておりますから」

「で、でも」

 宮はしがみ付いたまま、顔も上げられない。

「仕方ないな」

 彰嗣が呟いたかと思うと、いきなり宮の後ろに飛び乗って来た。

「俺に掴まっていて下さい。この馬は優しい性質ですから、乗せている者の気持ちを読み取って、宮を怖がらせたりはしませんよ」

「ごめんなさい……きゃあ!」

 宮が、再び叫んだ。

「失礼。笠が邪魔なので、外させて頂きます」

 そう言って彰嗣は、宮の市女笠を郎党の一人に渡し、代わりにその男が持ってきた袿を、宮の身体に包み、懸帯を結んでやると、光良から手綱を受け取った。

「さあ、宮」

 宮はそろそろと起き上がって、そっと彰嗣に身体を預けた。彰嗣も、馬をゆっくりと歩かせる。

「寒くはありませんか」

「ええ、大丈夫です」

「霧が明けてきましたね」

 出発は、朝早かった。まだ暗い中を起き出し、宿の女達に身支度を手伝ってもらって、宮は彰嗣達に伴われ、こうして生まれて初めての旅に出た。宮が大原の里を後にした時、まさかこんなことになるとは、もちろん夢にも思わなかった。ここ数日の間に、何という運命の激変であろうか。

「どうしました」

「……尼御前が」

 大原に残してきた恵州尼は、今頃、どんなに宮の身を心配していることだろう。

「もう少し先へ進んだら、大原へ使いを出しましょう」

 彰嗣がそう言うと、宮の顔がぱっと輝いた。

「そうして下さるの、有難う」

 しばらく行くと、川の流れる音が聴こえてきて、やがて霧の中から、その川の姿が現れた。

「川を渡るのですか」

「大丈夫、この川は浅いから、濡れることもないですよ」

 すると宮の口から、ひとつの歌が流れ出た。


 人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る


(人々の噂がうるさく煩わしいので、わたくしの生涯で初めての、夜明けの川を渡ります)

「その歌は?」

但馬(たじまの)皇女(ひめみこ)様の御歌ですわ。恋人の穂積(ほづみの)皇子(みこ)様に、逢いに行く処を詠んだのです」

「普通は男性の方が、女性の処に通うものではないのですか」

「ええ。でも但馬皇女様は、すでに高市皇子様のお妃でいらっしゃって」

「ああ、赦されぬ恋をしているわけだ。確か穂積皇子と高市皇子は、天武帝の御子ではなかったですか」

「ええ……それに、但馬皇女様もそうですわ」

 宮の声が、小さくなった。

「古の頃の皇女様は……御生母の異なる御兄弟の許へ、嫁ぐのがしきたりでしたから」

 世が世であれば宮も、帝の妃となっていてもおかしくはない。宮は押し黙り、俯いた。

 宮の心を引き立てようと、彰嗣は話題を変えた。

「朝川渡る、か……そういえば俺は子供の頃、朝弥と呼ばれていました」

「え?」

「俺の幼名ですよ。今頃の時間に生まれて、ぎゃあぎゃあ大声で泣いていたからそう名付けたと、父が教えてくれました」

「朝弥……」

「宮も今、運命という、生涯最初の大河を渡っているのですね」

 彰嗣が宮を励ますように、そっと腕を廻した。

「その河の先に、何があるのかはわからない。でも俺は、宮がその河を無事に越えて、幸福になれるよう祈っています」

「……有難う」

 朝霧が消えていく中、川で餌を漁っていた鳥達が、一斉に飛び立った。


          14

 

 一行は順調に、鎌倉への旅路を進んだ。鏡の宿を出た後は、不破の関を越えて、美濃の国へと入る。宮はさほど疲れる様子もなく、彰嗣と共に馬に乗り、見るもの聴くものすべてを珍しがって、旅を楽しんでいた。

 土手に花が咲いていると言って喜び、小川に魚の姿が見えると言って喜ぶ。特に、満開の桜の下を通りかかった時には、宮の喜びようは大変なものだった。

「桜なら、都でも咲いていましたよ」

 彰嗣があきれると、

「そうでしたの。わたくし、少しも気付きませんでしたわ」

 確かに、緊張と恐怖に怯えながら都入りした宮は、桜を愛でるどころではなかったが。

「この分だと、桜と共に鎌倉へ入ることになるかもしれませんね」

「素敵。本当に、そうなるといいのですけれど。見て下さい、あそこにもお花が」

 すると光良が気をきかせて、一行から抜け出すと、すぐにその花を摘んで戻って来た。

「なんて綺麗なのでしょう。わたくしのためにわざわざ有難う、本当に嬉しいわ」

 それは何処にでも咲いている、ありふれた野の花だ。宮のような言わば雲上人が、花を献上されたからと言って、光良のような郎党如きに、そんなにも顔を輝かせながら礼を述べるなど、普通ならあり得ない。彰嗣もそうだったが、宮のあまりにも純真な様子に、光良も忽ち真っ赤になり、そのことでしばらくの間、同輩にからかわれることとなった。

「無防備過ぎますよ、宮は」

 彰嗣が、諌めるように言う。

「皇族や貴族の姫君というのは皆、高慢ちきで、俺達のような鎌倉武士など、相手にもしないと思っていたが。あのあやめだって、自分は畏れ多くも、故院の姫宮様に仕える女房なのだから、こんな鄙びた処で、いつまでも暮らしていていいはずがないと、散々文句を言っていましたよ」

 あやめの名が突然出てきたので、宮は驚き、彰嗣の顔を見上げた。

「宮の乳姉妹でしょう、あやめは。当たり前だが、あなたとは正反対の女ですね」

「あ、あの。あやめは何処にいるのですか」

「さあ」

「え? ど、どうして」

 自分のために、あやめと別れてきたのではないのかと、宮は遠慮して、彰嗣の前ではあやめの話をしないでいたのに。

「宮と一緒ではなかったのですか、あやめは」

「……内裏に着いた時にはもう、あやめとは引き離されてしまっていて」

「体良く追い出されたわけか。まあ、仕方ないですね。身持ちの悪い女を、姫宮のおそばに置いておくわけにはいかないですから」

「あ、あの」

「何です?」

「……あなたは、あやめの恋人ではないの?」

 彰嗣は眼を瞠った。

「驚いた。俺があの女の恋人だと、そう思っておられたのですか」

「だ、だって」

 今度は、宮の顔が真っ赤になった。最初に彰嗣に逢った時、この男は、あやめの胸に顔を埋めていたのである。あの時の、彰嗣の挑戦的な眼を思い出して、宮はますます狼狽した。

「一度や二度、肌を合わせたくらいで、そう簡単に恋心など芽生えるものではないと、俺は思いますがね」

 そんな宮を見詰めながら、彰嗣は言った。

「それに、あの女はただの好き者だ。あちこちの貴族の館に忍び込んで、複数の男と情事を重ねていたし、俺が大原を訪ねた時も、宮のことを確認しただけで帰るつもりかと言うから、ちょっと抱いてやったまでです。それ以上の関係ではありませんよ」

 宮は、もはや返す言葉もない。

「初めてお逢いしたあの時も思ったが、本当に初心な方ですね、宮は。俺が今までに抱いた女の数を数えれば、俺には恋人が、それこそ二十人はいることになりますよ。いや、三十人かな。それとも四十……まさか、五十はいかないと思うけど」

 腕を組んで、首を傾げる彰嗣の様子に、宮は唖然とするばかりだった。そんな二人の様子に、それまで、神妙な面持ちを崩さずにいた光良達は、ついに堪え切れず、爆発したように笑い出した。


          15


 尾張の国萱津の宿で、彰嗣は、おもむろに話を切り出した。

「明日は、熱田の社に参拝して頂きます」

「草薙の剣が、祀られている御社ですね」

「そうです。すでに大宮司には、宮が参られることをお伝えしております」

「どうして」

 宮は驚いた。

「皇族に縁ある御社を無視して、このまま鎌倉へ参るわけにはいきません」

 宮がいくら訊ねても、彰嗣は、それ以上答えなかった。

 当然のことではあるが、何処の宿においても、宮の身分は極秘とされた。宿の者達は、ただやんごとなき身分の御方とのみ伝えられ、宮の顔を見ることも許されなかった。宿ごとに宮の世話をする女達も、用がすめばさっさと部屋を追われ、彰嗣や郎党達が、厳重に宮の周囲を固めた。それなのにどうして今になって、宮の身分を明かさねばならぬのか。宮を護るために、鎌倉へ連れて行くと言いながら、彰嗣は急に、考えが変わってしまったのだろうか。ここまで来て、宮は、都へ連れ戻されてしまうのだろうか。

 褥に横たわったまま、宮は、几帳をじっと見詰めていた。几帳の向こうでは、彰嗣が無言で控えている。鏡の宿以来、宮は、一人では眠ることが出来なくなっていた。部屋の片隅に籠る闇を見ていると、そこから今にも、帝が現れて来られるのではないかと、思えてくるからだ。そんな宮が怯えることのないよう、彰嗣はいつもそうして、宮が眠るまでそばにいてくれた。更に部屋の前では、光良達が毎晩、交替で寝ずの番をしている。常に宮のことを護ろうとする、そんな皆の気持ちが嬉しくて、宮はいつの間にか皆に甘え、その負担となっていたのではあるまいか。

「眠れませんか」

「い、いえ」

 宮は慌てた。泣いていたのが、彰嗣にわかってしまったのだろうか。

「御心配なさらずに。あなたを、見捨てるわけではないのですから」

「……本当?」

「俺は、嘘など吐きません」

 翌朝、宮は郎党達の担ぐ輿に乗り、彰嗣に付き添われて社に向かった。本殿で参拝をすますと、大宮司は、自分の館へ宮を案内し、御簾越しにひれ伏した。

「思いもかけず本日は、姫宮様に御参拝を賜り、まことに身に余る光栄でございます。この熱田の社は、都より遠く離れているとは申せ、畏れ多くも草薙の剣を奉り、皇室とも縁深き社にて、神々も姫宮様の御出ましを、さぞお喜びのことと存じ上げます」

「……有難う」

「ここまでの旅路は、姫宮様にはさぞ、お辛いことでございましたでしょう。どうぞ今日はおくつろぎあそばされて、旅のお疲れを癒して下さいますように」

 女房が白湯を運んでくる。

「有難う。でも、疲れてはおりません。むしろ、楽しい旅でした」

「その、申し上げにくいことではございますが」

 頭を上げながら空咳をして、大宮司は続ける。

「ここ尾張にも、都の噂は流れて参ります。畏れながら姫宮様のことも、すでにわたくしの耳に届いております」

「宮様……!」

 大宮司の言葉が、宮に与えた衝撃は大きかった。そばに控えていた女房が、慌てて宮を介抱し、大宮司も再びひれ伏した。

「申し訳ございませぬ! 宮様、申し訳ございませぬ! しかしながら……!」

「……大丈夫です、ごめんなさい。どうぞ、お話を続けて下さい」

「……その、帝のことでございますが……畏れながら帝におかれましては、御譲位あそばされたとの由にございます」

 宮の眼が、大きく見開かれた。

「御譲……位……?」

「はい。今は亡き御弟の帝の御遺子、つまりは帝の甥御様であられる親王様が、皇位に御就きあそばされたとか」

「……帝には、東宮様がおいでなのでは」

「はい。ですが、帝……いいえ、今では院とお呼び申し上げる御方は、此度の、宮様の御騒動もそうでございますが、以前より、何かと奇行の多い御方でございまして、たとえば、側近の奥方を寝取られるなど、関白殿や大臣方を悩まされることばかり、なさっておられたそうでございます。そして此度のことで、流石に関白殿も、堪忍袋の緒が切れたのでございましょう。御譲位とは名ばかり、俗な言葉で申し上げますならば、畏れながら院は、皇位から引き摺り降ろされたのでございます」

 つまりは、宮中内で政変が起きたということである。宮は、言葉もなかった。

「そもそも、院は東宮であられた頃より、皇位にふさわしくないとして、故院が病弱と称し、院にではなく、弟宮に御譲位あそばされました。ところが弟帝が三年前、突然御隠れになられ、今の帝ではなく院御自らが、皇位に御就きあそばされたのでございます。都では、院が弟帝を殺めておしまいになられたのだと、もっぱらの評判でございます」

 そのようなことは、宮は何も知らなかった。若い頃、宮中に仕えていた者として、恵州尼には、そのような宮中の醜聞など、宮に話すことは出来なかったのだろう。

「都では、殆どの者が、宮様に同情を寄せているとのことでございます」

 大宮司は、更に話を続けた。

「もはや、何の御心配もございませぬ。宮様も、晴れて都へ、お帰り出来るようになられたのでございます。宜しければわたくしどもで、鄭重に宮様を都まで御送り致しますれば、どうぞ宮様には御安心あそばされて、しばらくここに御逗留下さいますように」

 都へ、大原へ帰れる? 宮の眼に、恵州尼の姿が浮かんだ。宮にとっては母以上の存在である、懐かしい恵州尼のそばに。

「……いいえ」

 宮は、部屋の隅で畏まっている、彰嗣に視線を向けた。

「ここまで、来てしまったのですもの。わたくしこのまま、鎌倉まで行きとうございます」

「左様でございますか」

 大宮司はにっこりと笑い、ゆっくり身体を起こしながら続けた。

「わたくしは、実は鎌倉とも縁がございまして、初代将軍頼朝公の御生母は、わたくしども一族の娘でございました。鎌倉も、なかなか良い土地でございます。ですがせっかく、こうして熱田に御出まし頂きましたのでございますから、御差支えなければしばらくはやはり、ここに御逗留下されますよう、心よりお願い申し上げます」


          16


 現在は街中にある熱田神宮も、当時は、東と南の門側が海に面していたという。大宮司の好意で一旦、旅の荷を下ろすこととなった宮は、馬で、鳴海の干潟への散策に出ることにした。

「あーあ」

 後ろでいきなり、付き添ってくれた彰嗣が、腕を伸ばして声を上げたので、宮は驚いて振り返った。

「久し振りに畏まったりすると、疲れるんですよね。宮は、俺達にも気さくな御方だから、気兼ねしないですむんですけど、大宮司殿のおそばでは、流石に神妙にしなくてはいけないので」

 宮は、くすくす笑った。

「あなたは、帝……いいえ、院の御譲位を知っていたの?」

「ええ、まあ。大宮司のお話の通り、院は以前から、何かと騒ぎを起こしておられる方だったので、鎌倉の兄も次に何かあれば、譲位は免れぬだろうと言っていましたし、六波羅の叔父からも、その後の様子を伝える手紙を、送ってもらってもいたので」

「ひどいわ。どうしてわたくしには、何も教えて下さらなかったの?」

「宮には、御自分の意志で、鎌倉へ行ってもらいたかったからですよ。光良達は、鎌倉に着くまでは、宮には何もお伝えしない方がなどと言っていたが、そういう訳にはいかないでしょう。だが、宮が、大宮司殿の前ではっきり言って下さったから、光良達も大喜びしていますよ。あなたはすっかり、連中を虜にしてしまいましたからね」

 宮の顔が赤くなる。

「俺も、あなたに万葉の歌など教えてもらって、楽しませてもらってますしね。もしあなたが、大原へ帰ると言ったらどうしようかと、正直冷や冷やしてましたよ。ああ、大原には先程、郎党の高春を送りました」

「あなたも、わたくしが一緒で嬉しいの?」

「ええ」

「本当に? わたくし、本当に鎌倉へ行ってもいいのかしら」

「今更、何を言うんです。鎌倉へ行きたいと言ったのは、宮でしょう。父も兄も、きっと大喜びしますよ。都に比べると何もない、狭い処ですが、どうぞお好きなだけ御逗留なさって下さい」

「有難う」

 緊張と不安から解放され、宮は輝くような笑顔を浮かべた。

「無防備です」

「え?」

「あなたはどうして、そんなに無防備なんだろう。純真で可憐だと言えば聴こえがいいが、気を付けないと宮、悪い男に騙されますよ」

「そんな、まさかわたくしなどに、殿方が」

「ほら、そういう処が無防備だと言うんです。光良達だけじゃない、あの時、大原へ迎えに来ていた公達も皆、あなたへ秘かに想いを寄せていたんですよ。あの方々も今頃、あなたを盗んできた俺を、さぞかし恨んでいることでしょう」

 あなたは? 彰嗣様は、わたくしのことをどう思っているの?

 生まれて初めて見る海の風景なのに、何故かそちらはうわの空で、それよりも無意識のうちに、心の内でそう呟いていた自分に、宮は驚いた。


          17


 大宮司の、心尽くしのもてなしを受け、十分に身体を休めた宮は、再び彰嗣達と共に旅に出た。宮は相変わらず、輿ではなく馬に乗ることを好み、だがやはり一人では無理なので、彰嗣が常に付き添っていた。

 大原へ使いに出た高春は、一行が三河の国赤坂を過ぎる頃、早くも追い付いてきた。やはり同輩達に、

「一刻も早く、宮様のおそばに戻りたかったのだろう」

などとからかわれながら、尼寺の状況を報告してくれた。

「畏れながら、尼御前様におかれましては、宮中から宮様が、行方知れずになられたという報告を受けた後、御倒れになったとのことでございます」

「尼御前が……!」

 宮の顔は真っ青になり、思わずその場に立ち上がった。

「いいえ、どうか御心配なさいませんように。わたしが訪ねました折り、尼御前様は、それは大喜びで迎えて下さいまして、宮様が御無事でおられること、鎌倉へ向かわれておられることなどを、涙をこぼしながらも繰り返し、わたしにお訊ねになっていらっしゃいました。お世話をなさっているおふさ殿によりますと、医師の診立てでは、お疲れが出ただけとのこと、ゆっくり御身体を休ませれば、また快方に向かうとのことにて、尼御前様御本人も、御身体が回復すれば、御自分も鎌倉へ行きたいと仰せになり、いずれ御迎えに参るお約束をして、こちらへ戻って参りました」

「……有難う」

 宮の眼からも、はらはらと涙がこぼれ落ちて、やがて宮は、両手に顔を埋めた。そんな宮のそばで、彰嗣は口を閉ざしたまま、宮の涙を見詰めていた。

「万葉というのはやはり、皇族や貴族の方々の歌ばかり集めたものなのですか」

 また旅に戻ると、彰嗣は宮に訊ねた。 

「いいえ、身分は特に問いません。名もなき民人が詠ったものも、沢山入っております。そう、東歌と言って、東国の人々の間で詠われたものもありますのよ」

「へえ、ああいう雅びなものは、貴族独自のものだと思っていましたがね。俺達の先祖の中にも、そんな輩がいたのかな」

「もちろんですわ。防人の歌などは哀しいけれど、心を打つものがありましてよ」


 置きて行かば(いも)ばま(かな)し持ちて行く梓の弓の弓束(ゆづか)にもがも


(置いて行けば、わたしは妻を、切ないほど愛おしく思い続けることだろう。出来ることなら妻が、この携えて行く弓の、弓束にでもあってくれればよいものを)

「斉明帝の御代、皇太子(ひつぎのみこ)であられた天智帝は、百済救援のため、白村江(はくすきのえ)で唐・新羅の連合軍と戦ったが、あいにく日本軍は惨敗。唐・新羅の来襲を防ぐために、東国の男達は遠い筑紫へと、防人として駆り出されて行った」

「ええ。きっと、愛しい方の許へも帰れず、亡くなられた方も沢山おられたのでしょうね」

「俺達は、そうして何百年もの間、朝廷に虐げられてきた。頼朝公が、鎌倉に幕府を開いたのは、そんな俺達の歴史を変えるためです」

 彰嗣の声には、静かな怒りの色があった。

「自ら開墾し、死に物狂いで護っている我が地から、貴族どもは搾れるだけ搾り取ってきた。土地とは一体、誰の物です。俺達の先祖が、血の汗を流して働いてきたのは、貴族どもに贅沢三昧をさせるためではない」

「……ごめんなさい」

「いや、あなたが悪いわけではありませんよ、宮。誤解しないで下さい」

 彰嗣は優しく言った。

「教えて下さい。他には、どんなものがありますか」

「東歌ですか。そうですね」


 稲突けばかかる()が手を今夜(こよい)もか殿の若子(わくご)が取りて嘆かむ


(稲を突くと、あかぎれが切れてしまうわたしの手を、今夜も若殿様は、愛しんで嘆いて下さるかしら)

「素敵な歌でしょう。きっと二人は、身分違いの恋をしているのですね」

「そうですかね。俺にはどうもその男が、娘を騙しているように思えるんですがね」

「え?」

「きっとその娘も、宮のように、初心で無防備なのではないのですか。男の方はどうせ、もっと身分の高い娘と結婚の約束をしていて、そうとも知らず娘は毎夜、その男に弄ばれているってわけだ」

「まあ、ひどい。彰嗣様は、意地悪なことを仰るのね」

 二人の周囲にいる、郎党達も笑い出す。

「鎌倉のことを詠った歌も、もしかしたらあるんですかね」

「あると思います。ええ、ありますわ。ごめんなさい、すぐには思い出せませんけれど」

「それにしても宮は、万葉にお詳しい。御自分でも、歌を詠まれるのでしょう?」

「いいえ。それが、全然駄目。万葉がお好きなのに、和歌を詠むのは苦手なんてと、尼御前にも笑われておりました」

 宮は、顔を赤らめながら言った。

「尼御前は万葉に造詣が深く、自分でも歌を詠むことが得意で、わたくしは子供の頃から、尼御前に万葉の歌を教わって参りました。たとえ自分では詠めなくても、古の素晴らしい歌を沢山覚えれば、それだけでも立派な宝になるからと」

「俺のような無教養な人間には、とても手に届かない貴重な宝ですよ。最近のものはどうです。確か、新古今とかいうのがあったような」

「円位上人(西行法師)や大炊御門斎院様(式子内親王)、それに京極中納言(藤原定家)などの歌ですわね。もちろん、それらもとても素晴らしいのですけれど、でもやはり、万葉の先人方がおられたからこそ、こうして後世に繋がっているのではないのでしょうか」


          18



 天地(あめつち)の 別れし時ゆ (かむ)さびて 高く貴き 

 駿河なる 富士の高嶺を (あま)の原 ()()け見れば

 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず

 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける

 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は


(天地が初めて別れた時より、神々しく、高く貴き駿河の富士の高嶺を、大空に振り仰いでみれば、空を渡る陽の光は隠れ、照る月の光も見えなくて、白雲すらも、流れるのをためらい、いつまでも雪が降り続いている。これからも語り継いで行くことよ、富士の高嶺は)

「はしゃいでいますね、宮」

 彰嗣が、宮に声をかけた。

「そうでしょうか」

「はしゃいでいますよ。何ですか、その長い歌は」

山部(やまべの)宿禰(すくね)赤人(あかひと)の、富士を詠んだ歌ですわ」

「ただ長ったらしいだけで、俺にはさっぱりわかりません」

「だってここは駿河、田子の浦でしょう。不破の関も清見の崎も、同じく万葉に詠われましたけれども、中でもこの赤人が詠んだこの歌は、特に優れたものです。何よりも、まさかこのわたくしが、この眼で富士を見る日が来るなんて」

 宮は先程から、青い空に鮮やかに映えている富士の姿から、眼が離せないでいるのである。

「それはわかりますが、やっぱり俺には、その歌は理解出来ませんよ」

「では、これは?」


 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける


(田子の浦を通って出て見ると、それは真っ白に、富士の高嶺に雪が降り続いている)

「ああ、それなら俺にもわかりますよ」

「わたくしも随分、沢山の歌をあなたに教えて参りましたわね」

 ようやく彰嗣の方に振り返りながら、宮は言った。

「今までお教えした中で、彰嗣様が一番お好きなのはどれでしょうか。皆、とても素晴らしくて、わたくしには、なかなか選ぶことが出来ないのですけれど」

「俺に、そんな質問しないで下さい」

 彰嗣は本気で焦った。

「俺がいちいち、歌を覚えていられると、本気で思っておられるんですか。俺に言わせれば、宮の方こそ意地が悪いですよ」

 光良を初め、二人に同行している一行は、一体これで何回、爆笑させられたかわからない。


          19

 

「明日はいよいよ、鎌倉に入ります」

 大磯の宿での夜、彰嗣は宮をねぎらった。

「この旅も、ようやく終わります。お疲れではありませんか、宮」

「いたわって下さって、有難う。でも、疲れてはおりませんわ。箱根では、初めて温泉というものを楽しませて頂きましたし、三島の社も面白うございました。彰嗣様が、わたくしを楽しませるために、わざわざ立ち寄らせて下さったのだと、皆が教えてくれました。本当に有難う」

「いや、俺の方こそ楽しませてもらいました」

「でも、鎌倉はもう眼の前なのに、ここへ泊ることにしたのも、わたくしのためなのでしょう?」

「あなたのためと言うよりは、俺自身のためだと言うべきかな。俺は少しでも長く、あなたと一緒に旅がしたかった」

 宮は、眼を瞠った。それは、どういう意味なのか。

「わたくし、あなたにどんな御礼をすればいいか……正直、ずっと悩んでいましたの。でもわたくしには、あなたに差し上げるようなものなんて、何もないのですね。いつも、あなたに助けて頂いてばかりで」

「御礼なんて、とんでもない。当然のことをしたまでです。あなたには、本当に申し訳ないことをした。言ったでしょう、あなたを護るのが、俺の義務だと」

 宮は俯いた。義務。その言葉が、寂しく聴こえてしまうのは、一体どうしてなのだろう。

「どうかなさいましたか」

「本当にわたくし、鎌倉へ行ってもいいのでしょうか」

「またそんなことを。今更、行かないなどと言われても困ります」

「でも……」

「俺は、迷惑だなどと思ったことは、一度もありません」

 きっぱりと言い切った彰嗣の顔を、宮は、静かな澄んだ眼で見詰めた。

「宮……!」

 彰嗣は驚いた。宮は突然、彰嗣に向かって両手を突き、頭を下げてきたのである。

「有難う」

 宮の手に、涙がひとつこぼれ落ちた。

「あなたがいなければ、わたくし、とっくの昔に死んでいました。有難う。本当に、有難う」

「おやめ下さい、宮!」

 彰嗣が叫んだ。それと同時に、互いが、思いもかけなかったことが起こった。彰嗣は頭を下げた宮を、いきなり力強く抱きしめたのである。

 抱きしめられた宮はもちろん、彰嗣も自分のしたことが、俄かには信じられなかった。二人が我に返って離れるまでに、どれくらいの時間そうしていたのか、どちらもわからない。

「あやめも、言っていましたが」

 再び俯き、言葉もない宮に、彰嗣はぽつりと言った。

「あなたの御髪(おぐし)は、いつも濡れたように光り輝いていて、本当に、溜息が出るほどお美しい。あやめも御髪だけは、宮様に敵わないと言っていましたよ」

 思わず顔を上げた宮に、彰嗣は優しく微笑んだ。まるで先程のことは、夢の中の出来事であったかのように。


 ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れて更に恋ひわたるかも


(ぬばたまのような漆黒の、わたくしの黒髪を引きほどくように、心も乱れて更に恋しく思います)

 無意識のうちに、口ずさんでいる自分に気付いて、宮は頬を赤らめた。もはや顔を上げて、彰嗣の顔を見ることも出来ない。そして彰嗣も、そんな宮を黙って見守り続けていたが、不意に立ち上がった。

「もう、お寝みになって下さい。今、女達を呼んできます」






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