モノトーン・フェザー
日本で育って現在十六歳と数ヶ月。
両親は仲良しだし弟も可愛いし、高校では友達も出来て、幸せだなぁと毎日思って生きていた。
それなのに、突然異世界に召還された。
「召還」であって「召喚」ではない。呼び戻しだ。
私が生まれ落ちたのはその異世界だったと、そこで初めて知ることになった。
知っている人など誰一人いないその世界で。
* * * * * * * * * *
弟の夏希の誕生日のことだった。
夕方に私は夏希と一緒に手を繋いで、スーパーからの帰り道を歩いていた。
十歳も年が離れている夏希は、すごく可愛い。私も両親も夏希が大好きだ。
「お姉ちゃん、トンボ!」
夕暮れの秋にトンボが原っぱを旋回しているのを見て夏希がそれを指さした。
「トンボだねー。遅くなるとお母さんが心配するから、早く帰ろう。今日は夏希の誕生日だしね」
私は繋いだ左手をぎゅっと握ると、夏希が嬉しそうに見上げてくる。
「雫お姉ちゃんは何をくれるの?」
「何もないよ。お姉ちゃんお小遣いピンチだし」
えぇーと頬を膨らませた夏希だが、目元は笑っている。なんだかんだ言って毎年私がプレゼントを用意しているのを知っているせいだ。
私は押し入れに隠した変身ヒーローのグッズを渡した時の夏希の笑顔を思い浮かべて、緩む頬を隠しながら家路を急いだ。
* * * * * * * * * *
「夏希も大きくなったよねぇ」
「なあにあんたは、年寄り臭いこと言って」
夜更けて、興奮した夏希がやっと寝たためお母さんとお父さんは、居間で紅茶を飲みながらのんびりとテレビを見ていた。
私はソファーでアルバムを開いて赤ちゃんの頃の夏希の写真をめくる。
「最初は何このサルって思ったけど、もう六歳になったんだなぁって」
「あんただってあっという間に大きくなったわよ」
呆れた表情の母に、私も笑う。アルバムの中のサルな夏希は泣いている。
「赤ちゃんって確かに顔赤いよねぇ。私もそんな感じだった?」
母の返事は一瞬遅れた。
「基本的に子供は赤いから赤ん坊って言われるのよ。あんたも当然赤かったに決まってるでしょ」
そこに父の声が割り込んだ。
「雫ももう高校生だしな。こりゃあ父さんと晩酌する日も近いな」
何だか嬉しそうな父の言葉に、母は父をからかうように言った。
「そんなこと言ってたらそのうち彼氏とか連れて来ますよ。お嬢さんを僕に下さいって」
「あー駄目駄目。父さんは『娘を嫁にやりたくない同盟』に入っているから」
どれだけ先の話をしているんだか、と私は笑い出した。
来年も再来年も、こんな日が続くのだと疑いもしなかった。
その後、部屋に戻った私は何か肌寒いような風を感じた。
「あれ、窓開けっ放しだったっけ?」
呟いてカーテンを開けると、窓はしっかりと閉まっていた。ベランダへの戸も問題なく閉じている。
エアコンが付いている訳でもなく、首を傾げたその時。
地震か何かで家が崩壊したのかと思うくらいに、急激に周囲が揺れ、足下にぽっかりと黒い穴があいた。
「――っ!?」
喉の奥から声にならない声が漏れる。穴は当然のように私を呑み込んで、浮遊感と共に視界が闇に染まった。
* * * * * * * * * *
――何が起こったの?
私は地面に座り込んだまま呆然と目を見開いた。
さわさわと木々のざわめく音がする。私の周囲には森が広がっていた。現状が理解できない。
何より理解できないのは、座り込んだ私を抱きしめる女の人がいることだ。
「カリナ! 私の、私のカリナ!」
その女の人は半狂乱と言ってもいいくらいの取り乱しようだった。私の肩口を涙で濡らしたかと思うと、慈しむような目で私を見つめた。深い緑の瞳が涙に濡れている。年は四十歳くらいだろうか。長い黒髪は綺麗に編み込まれていただろうに、興奮のあまり乱れている。
きょと、と周囲を見回すと、すぐ傍に彼女と同じ年頃の男が一人立っていた。少し離れたところに大きな丸い黒の柱のような物があり、若い男が一人いる。
「レイシー、良かった。本当に良かったな」
傍に立っている男の人は涙ぐんで、女の人に向かって言った。彼は黒い目と白銀の髪の毛をしていたので、一瞬お年寄りかと思った。顔立ちは四十歳くらいに見える。
未だに状況が掴めない。とりあえずこのレイシーと呼ばれた女の人が何故か私を抱きしめて離さないということしか。
「……あの、ここは、どこですか?」
私に抱きついた女の人の腕が、痛いほどに私を締め付ける。
そんな女の人を見て、自身の涙をそっと拭うと男の人は答えた。
「カリナ、ここは君の故郷だよ。もう何も心配いらない、僕たちがついているからね」
「え?」
故郷? って、故郷ってなんの?
私はその人の言っていることが理解出来なくて、再度左右を見回した。やはり森の中の少し開けた場所である。家にいたはずなのに、ここはどこだろう。
「あの、ここって日本ですよね。携帯電話をお借りできませんか?」
私はもしかして迷子なのだろうか。家に連絡して迎えに来て貰わないといけないかもしれない。
「ニホン?」
男の人は首を傾げる。
私はどんどん不安になっていった。緊張と不安で心臓がうるさいくらいに鼓動している。
「日本語通じてらっしゃいますよね。家にいたんですけど、気付いたら何かここにいて、困ってます。ここ、神奈川県ではないんですか?」
「ここはカイゼル国、ああ、不安になったならすまない。カリナ。僕はイバンで彼女はレイシー。君の父と母だよ」
……。何この人。ちょっとおかしいのかな。
私の目が恐怖に揺らぐのを見てか、彼は慌てたように言いつのる。
「怖がらないで。長い間待たせてすまない、ずっと君を探してた……やっと見つけたんだ僕たちの愛しい子。離れた時間が長すぎたけど、分かるだろう? 僕と君は血が繋がっているって」
イバンさんは微笑んで自分の胸に手を当てた。
人違いです、と私が震える声で言うより先に。
ポウ、と胸の中が何か暖かくなるような感覚がした。驚いて自分の胸を見ようとしたが、抱きしめているレイシーさんの背中しか見えなかった。
「ほら、レイシー。君も」
促されて、レイシーさんも鼻をすすりながらも私を離す。そして自身の左胸に手を当てた。
私の胸の中に急に蝋燭のような暖かさが満ちた。勝手に熱くなった自分の胸が信じられなくて手を当てると、トクントクンと心臓の鼓動が感じられる。
何かの間違いだと叫びたかった。
人違いだと言おうと思った。
けれど左胸の熱は彼らが手を離すと同時にふっと消えた。
「間違いなく、あんたはその二人の娘だよ。十数年前に行方不明になってたんだ。この世界じゃない別の世界に」
遠くの男の人が言っている言葉に目眩がする。
別の世界? あの人の言う異世界が――日本?
地球ではない世界に召還されたという言葉が脳裏に染みこむまでに時間がかかった。
そして理解出来た時には、私の心には一つの願いしかなかった。
「帰して……ください」
「カリナ!?」
レイシーさんの涙に濡れた瞳が、私をただ見つめる。私は震える声でただ頼んだ。
「家に、帰して下さい……! お願いします……」
「カリナ、ここが家なの! あなたの家よ! あなたは私の子供なのよ」
レイシーさんが言った言葉に、私は首を振った。信じない。信じたくない!
「君は僕たちの娘で、ここが生まれ故郷なんだよ。生まれて一年目に異世界に流されて、長い間かかったけれどもやっと召還の準備が整ったんだ」
「……」
顔を歪める私に、頬をすり寄せるレイシーという女の人。この人が私の、母?
私の脳裏に両親が浮かんだ。明るい母に、穏やかな父。可愛い弟。
――冗談じゃ、ない!
「そんなの関係ありません! 私は、日本で生まれて日本で育ったんです! お父さんもお母さんもいるし、弟だって私がいなきゃまだ泣いちゃうくらいの年なんです! 困ります、家に帰して下さい!」
「カ、リナ……何で……」
「カリナじゃないです、私は雫です!」
私の叫びに、レイシーさんは歓喜ではない新たな涙をぼろぼろと流す。
いきなりあなたは私の子供ですって、何なのそれは。
こんなの誘拐じゃないの!? 私の意志は、私の家族は、私の生活は。
私はイバンさんに視線を合わせて必死で言った。
「人違いだと思うんです。そうじゃなくても私は相沢雫という名前がありますし、私がずっと育ったのが私の家なんです。お願いします、帰して下さい」
私は引きはがすかのように、レイシーさんの肩を掴んで押し戻した。
イバンさんは酷く寂しそうな顔をして、首を振った。
「……召還した、と言ったね。僕たちは君が生まれた時から細く魂のようなもので繋がっていたんだ。だからその魂を引き寄せて呼び戻した。君がいなくなった瞬間から、全く同じ世界から人を呼ぶことすら出来ないし、戻す道筋なんてない。だってここが君の故郷なんだから」
レイシーさんもまた涙声で言いつのった。
「そうよカリナ、あなたは私がお腹を痛めて生んだ子供なのよ! 二歳の時に白黒羽に巻き込まれて居なくなってしまったの。泣いたわ。あなたがいなくなって、身も世も無いほどに泣いた! でも私はお母さんだから、あなたが一番悲しんでると思ったから、だから必死で呼び戻したのよ!」
「そんなの、望んでなんかいません!」
悲鳴のような叫び声が喉から出た。互いに必死だった。
彼女は私に理解して欲しくて。
私は戻れないと言うことを理解したくなくて。
「幸せだったのに、幸せに暮らしていたのに、どうしてこんなことをするんですか! 帰して、帰して下さい! お母さんが心配してしまう!」
「……君の」
イバンさんの、私の父と名乗る人の低い声は、震えていた。
「君の言うお母さんと同じくらいに、僕の妻も君を心配していたんだよ」
再び合わさった彼の視線には、悲しみとやりきれない思いが浮かんでいた。
こうして私は異世界へと召還された。
生まれ落ちた世界、という名の異世界へ。
* * * * * * * * * *
数ヶ月も居れば色々と分かることもある。
日本語だと思って私が話していた言葉は、この世界の言葉であり生まれて一年もすれば自然習得するものらしい。
またここは魔法工学というものが大変進んでいる世界で、個別に魔法を使える魔導師もいれば、日本での機械のように誰かが作り上げた魔法を他の人が使用できたりするのだ。
よって家の中は大変綺麗に維持されており、蛍光灯の代わりに魔法の光が天井に輝き、電話の代わりに通信魔術が発達している。
両親と名乗る人達は私を自分の家に招き、私の部屋としてずっと掃除していた部屋に案内してくれて、そのまま面倒をみてくれている。
「カ……シズク。僕は出かけてくるけど、何かおみやげで欲しい物はあるかい?」
部屋を訪ねて私に聞くイバンさんに私は首を振った。気を遣ってくれることを申し訳ないという気持ちと、放っておいてほしいという気持ちでいつも揺らぐ。
そんな私に少し困った顔をしたイバンさんは、「行ってくるよ」と手をあげて部屋を出て行った。
私はため息をついた。
イバンさんは私にあまり立ち入ってこようとはせず、会話も比較的少ないほうだと思う。
反面レイシーさんはひたすらに私の事ばかり気にしている。今もイバンさんと入れ替わりに私の部屋に来たように。
「シズク、お腹空かない? これはナナの実って言って、甘酸っぱいんだけど美味しいのよ」
彼女は必死に私との距離を縮めようとしていた。十数年離れていた心の距離を。
私の名前をシズクと呼ぶようになったし、食事時もずっと私に話しかけている。
「大丈夫です、ありがとうございます」
敬語を崩さぬ私に、レイシーさんの少し潤んだ目が無理して微笑む。
「そう、お腹が空いたらいつでも食べてね。ここにおいておくから。夕飯になったらまた呼ぶからね」
「ありがとうございます」
帰して、と泣いて叫んだ私に彼らは言った。
無理なんだ、ごめんとイバンさんは謝った。
お願い、分かって。私の子なのよとレイシーさんは私を抱きしめた。
この世界には確かに紛れこんだ人を元の世界に戻すことも、行方不明になった人を異世界から呼び戻すことも出来るのだそうだ。
だが元からこの世界にいた人を呼び戻したら、前の世界には戻す手段はないのだという。
沈み込む私にノックの音が聞こえる。返事をするより先に扉が開いた。
「よ、シズク。久しぶり」
「……キリ?」
私の部屋に勝手に入ってきたのは、キリ・カーステンだった。この異世界召還の召還主で、私の叫びにとても困った顔をしていた男の人だ。
よかれと思って子供が行方不明になった母親に協力したら、その子供は「家に帰して」と泣き叫んだという、不幸きわまりない一件に遭遇して責任を感じているらしい。
少し長めの黒髪に褐色の目をしたキリは、見た目はまだ若いように見えるのだが二十代後半らしい。少し皮肉げな笑みを浮かべた青年は、役所のようなかっちりとした制服を着ている。国の魔法工学研究員だと聞いているが。
あれから十日に一度は私を訪れ、何くれとなく話し相手になり、この世界の常識やらを教えてくれている。多分私と両親の間を取り持ちたい気持ちがあるんだと思う。
私よりちょっとだけ背が高いキリは、テーブルに置いてあったナナの実を勝手にぱくりと食べた。
「今月から王都の異界俸給が下りることになったから、お前がある程度立場が固まるまでそんなに金に不自由しないと思うぜ」
「……そうなんだ」
この世界では異世界から迷い込む人間が普通にいるらしい。
国によって対応は違うが、この国の国王妃が異界人の娘らしく、迷い込んだ人間が元の世界に戻るまでの立場の保証を積極的に行っている。衣食住の保証と、安定した生活ができるか元の世界に戻るまでの間の俸給を国が与えてくれるのだ。
その代わりに異世界の仕組みの説明や、この世界へ流用できる知識を与えることでお互いに利益をもたらしているらしい。
「私はもとはこの世界の人間らしいのに、俸給がおりるの?」
「最初の確認でほぼ知識が異世界人だったからな。そういう人間も保護の対象になる。まぁ、お前がイバン家に安住するなら別だけど」
「……」
私は黙って首を振った。キリは苦笑する。
「一応、言っておくけどな。異世界召還には金も時間も魔力もかかる。お前の両親はずっとお前を探して、やっと召還機の貸し出しを受けられたんだからな?」
「分かってる」
私のような異世界迷子を引き戻したのが森で見たあの大きな丸い黒い円……召還機らしい。
数年前に開発され、魔力充填に年単位で時間がかかる。イバンさんもレイシーさんも、何年も嘆願し、やっと全ての条件が満たされて使用の許可が下りたようだ。
その召還機と共に、操作主として来たのが若くして魔法工学の国家研究員であるキリなのだ。
「分かっているけど、ただ……どうしたらいいのか分からないから」
どうしようもないのは分かっている。
多分私は、受け入れることが出来ないのだ。レイシーさんが、私に申し訳ないと思いながらも母として娘を愛したいと思う気持ちを知っている。
それを受け入れることは、両親への裏切りと……元の世界との断絶のような気がしてしまって。
「にしたって、レイシーさんのことまだお母さんって呼んであげてねーんだろ? 言えば喜ぶぜ」
私はキリを睨んだ。彼の丸い目がたじろぐ。
「気軽にそんなこと言わないで。私にとってお母さんは、いつも明るくて、毎日パートに出かけて、夏希を幼稚園に送り届けて、美味しい夕飯を作ってくれるお母さんしかいないんだから」
キリは困ったような顔をして、頬をかいている。
「泣くなって」
「泣いてないよ」
油断すると勝手に頬に涙が流れるから、困ってしまう。故郷なんだといわれても、記憶に無い状態で十四年も経ってるんだから。私の故郷はやっぱり日本しかないのに。
「イバンさんもレイシーさんも悪くない。分かってやれよ。多分一番悪いのは俺だよ」
「うん。それは分かってるし、キリも悪くないよ」
娘を取り戻そうとしたレイシーさんも、妻の望みを叶えるために奔走したイバンさんも、召還機の操作主として両親の頼みを受けて召還をしたキリも。
そして私が家族を恋しく思って泣くことも。
多分誰も悪くはない。だからこそ悲しい。
私はごしっと涙を拭うと、話を切り替えた。
「ねえ、白黒羽ってなに?」
レイシーさんが言っていた。あなたは白黒羽に巻き込まれたと。私がこの世界から飛ばされた根本の原因らしいのだが何のことだか分からなかった。
「モノトーン・フェザー? あー、そっちの世界にはないのか?」
「初めて聞いたよ」
「なんつーのかな。ここにあるものを別の世界に飛ばしてしまう自然現象だな。竜巻のように舞い上がるんだけど、周囲をぐるぐる回る風が魔法の光で白と黒の羽のように見えるからそう名付けられたんだ」
「どんな風に発生するの?」
「分からん。気付いたら発生して、周囲の者をなぎ倒して、中心のものだけどこか別の場所に連れてっちまうんだよ」
ふうん、と返事をする私に、キリの鋭い目が向けられる。
「元の世界に戻れるわけじゃねーぞ。もっと酷い別の世界に飛ばされて死んじまう可能性だってあるんだからな」
「……」
本当に、誰が悪い訳でなくても、上手くいかないものだ。
* * * * * * * * * *
その日からしばらく経った。
まだレイシーさん達との間は少しぎくしゃくしている。私は自室のソファーで考え込んでいた。
――このままずっと、ここにいる訳にはいかない。どうしても私にはあの二人を両親と呼ぶことが出来ないのに、傍に居ればいるだけ傷つける気がする。
そこにちょうどキリが私を訪ねてきた。
彼に飲み物を出しつつ反対側のソファーを勧めて、キリからのお土産のお菓子を広げると私は尋ねた。
「ねぇ、私はこの世界で何になれるのかな?」
彼は目を丸くした。しかし顔をほころばせると強い口調で言った。
「何にでも」
「何にでも?」
「そうだ、何でもなれる。望むなら仕事も紹介するし、伴侶が欲しいならそれだって叶う」
思わず笑ってしまった。伴侶って、結婚か。彼氏すらいたことがなかったのに一足飛びすぎる。
彼は多分、私がこの世界でちゃんと生きていこうとしていると思って喜んでいるのだろう。暇だからという名目でちょくちょく王都から寄ってくれるのだ。
責任感が強いからこそ、キリは私を放っておけないのだと思う。
「どこかの研究者とかにもなれる?」
私の言葉は予想外だったのか、キリは一瞬戸惑った顔をしたが、それでも頷いた。
「最初は研究助手で見習い扱いだろうけど、なれると思うぜ」
その言葉に力を得たように、私は言った。
「私、研究者になりたい」
魔導師になれるのならば一番それが良かったのだろうが、残念ながら私の魔力は通常より大分低い。魔力飽和量の低い地球でずっと過ごしていたせいだと言われている。
こちらの世界から任意の異世界に行く方法は確立していない。あの召還機ですら引き戻し専用なのだ。
魔法でもとの世界に戻る事が出来ないのなら、魔法工学に頼るしかない。
「白黒羽を研究したいの」
あっけにとられた表情のキリは、しばらくの沈黙の後に言った。
「……お前がそうしたいなら、別にいいと思うぜ」
もしも望むのなら、王都の研究室に話をつける、という彼の言葉に私は頷いた。
* * * * * * * * * *
その夜、私は二人にお願いをした。
「白黒羽を研究したいんです。どんな理由でどのように発生して、どうしたら防げるのか」
二人は渋い顔をした。特にレイシーさんは既に涙目で私を口説き落とすように言う。
「白黒羽は自然現象だもの。理由も理屈もないのよ。発生条件自体全然知られていないし、何よりあなたと離れるのはもう嫌!」
取り乱すレイシーさんを宥めるように肩を抱いて、イバンさんは口を開いた。
「それを研究してどうしたいんだい?」
「私がここにいる意味と、ここからいなくなった意味が知りたいんです」
その言葉にレイシーさんは顔を歪め、再度いやいやをするように首を振った。
「シズク、そんなことする必要なんてないじゃない! あなたはここにいるんだもの」
「レイシー、僕たちの娘は心の決着をつけようとしているんだよ。邪魔をしちゃいけない」
「だってあなた、離れたくないの。二度と帰って来なかったら、私……私」
少し胸が痛かった。私はレイシーさんから離れて、二度と帰って来ないつもりだった。
研究が成功したら地球に戻れることになるし、失敗しているうちは戻る事はないだろうから。
最後までレイシーさんは抵抗したが、イバンさんの説得で何とか私はこの家を離れることになった。
そして私は王都で国家研究員助手として預って貰えることになった。
国家研究員のキリが私を助手として受け入れてくれたという理由が一番大きいと思う。
* * * * * * * * * *
正直、研究員というものをなめていた。
「シズク! 早く第六十八魔法陣持ってこい!」
キリの怒鳴り声に駆け足で第六十八魔法陣の紙を手渡す。返事すらする余裕もないようで、キリはその魔法陣を浮かび上がらせて、別の魔法陣と掛け合わせている。
研究所で、私はひっきりなしに研究所内を飛び回り、紙に書かれた魔法陣や本を持って来たり、報告書を研究所長に届けたりしていた。
魔法工学というのは、魔法と機械を融合させたようなものである。日本でテレビの仕組みなど知らなくてもテレビが点けられるように、魔法が出来なくても空が飛べるように開発するのが魔法工学なのだ。それには主に数千種類もある魔法陣と魔法系統の組み合わせにより、新たな魔法陣や魔法の呪具を作ることからなる。
いくつもの魔法陣を消し炭と化して、キリはため息をついた。
「駄目だな。第二十七魔法陣とは理論系統が違うのか」
研究所は王宮に隣接した広い土地に建てられている。七つの研究施設があり、そのうちの一つに私とキリの研究室がある。研究室は一級研究員には一人につき一室貰えるようで、私はキリの助手なので彼と一緒の部屋の片隅を借りている。
キリは今、転送の魔法陣を改良研究している。テレポートと呼ばれるその魔法陣は、ある程度の魔力を必要としたが短距離の行き来を可能にした。例えば王都から私がいた村に一瞬で来るくらいには。
彼はそれを「魔力が無い人も移動可能」にすることに今夢中なのだ。
キリは日によっては一日中研究室に籠もっているし、作り上げるときに魔力を使うから体力的にもボロボロになって研究室に泊まり込んだりもしている。
研究員というものがこんなに大変そうだなんて想像もしていなかった。キリはいつも「暇だったから」と言いながら気軽に私の様子を訪ねて来たが、完全に嘘だとすぐに分かった。本気で忙しすぎる。
「キリ、休憩しない?」
「ん……、あー。わかった」
正直使いっ走りレベルの私は、キリが倒れる前に適度に休憩を取らせるくらいのことしか出来ないのが情けない。私が声をかけると素直にキリは研究書を置いて、どさりとソファーに座った。
「はい」
キリの前に紅茶そっくりの飲み物を置く。見た目は普通の紅茶なのだが多少魔力回復する不思議なお茶だ。
疲れたように首を回して、キリはクマの出来た目をこする。また昨日も徹夜したのか、と私はキリを睨んだ。
「ちゃんと昨日寝たの? キリ」
「魔力が回復する程度には寝た。もうちょいだと思うんだよなぁ。組み合わせと系統立てさえ間違えなければ、転送時の魔力吸収量をほぼ無しに出来るはずなんだ」
「絶対ろくに寝てないでしょ。身体壊したら意味ないと思うよ」
ちなみにキリのやっている研究は上級なため、私には正直よく分からない。こちらの世界の常識である魔法陣の仕組みから何から、知識として詰め込み、学んでいくしかないのだ。
そんな訳で私は時々、キリに子供向けレベルの手ほどきを受けている。主に魔法陣を解放……浮かび上がらせて他の魔法陣と合成させるのが第一段階らしいが、解放すらまだまだなのだ。
私が入れた紅茶を飲みながら、キリは私を見て口の端を上げて反撃してきた。
「シズクは第一魔法陣の解放は出来るようになったのか?」
「……もうちょいで出来るような気がする」
「で、昨日はちゃんと寝たのか?」
「……」
ベッドの中で練習していたなんて言えない。まさか目の下にクマでも出来ているのかと、慌てて私は壁の鏡を覗き込んだ。特に何ともなっていない気がするが……。
「シズクは無理するとあっという間に魔力が枯渇するから、見ればすぐ分かる」
「……」
人のことが言えなくなってしまったため私は黙り込んだ。キリはニヤリと笑うと、紅茶を飲み干した。
「まあ、魔力自体は低いけど負けん気が強い奴は研究員に向いてるぜ」
「ホント!? キリ」
ぱっと笑顔になった私にキリは笑ったまま言う。
「研究対象は悪いけどな」
「それは放っといて」
彼は白黒羽の研究自体、あまりやる意味がないと思ってるようで肩をすくめた。
「白黒羽は、ふと生まれて十分ほどで消えていくもんだから、誰もそんなの研究にしねーな。他にもっと作り上げたい魔法工学や、研究したい災害があるし」
確かに、人のことだったならそうなるだろうとは思う。
私は曖昧に苦笑してみせる。キリはそれ以上は何も言わなかった。
ただ、私は、多分怒りと希望をそこに向けるしかなかったんだと思う。
家に帰れない。故郷はここなんだと押しつけられて。
それでも最大の原因が自然現象だったといわれてはどうしようもない。だからせめてそのメカニズムを研究することで私にとっての折り合いをつけ、あわよくば地球へ戻る手立てがないかと思っているのだ。
しかし研究は、半年近く経った今でも遅々として進まなかった。
何しろただの自然現象と言われるような出来事だ。
年間数例程度しかないし、毎回必ず人を巻き込むわけでもない。平原にいきなり生まれて渦を巻きながら十数分程度で消えていく竜巻で、周囲に巻き上げた風が白と黒の羽のように見えるだけなのだ。
「うし、続きやるか。シズクは系統の二千番から三十例ずつ持って来て」
「はーい」
キリの言葉に応じながら、思う。
せめて。
せめて一目見たい。私をこの世界から切り離し、そして地球に送ってしまった白黒羽を。
* * * * * * * * * *
研究所に来てもうすぐ一年になる。
「あなたがシズク?」
いつものように魔法図書館から魔法陣を写し取り、キリのいる研究室へ戻ろうとしたときに声がかかった。
そこにはキリと同じ服装に身を包んだ聡明そうな眼鏡の女の人が立っていた。国家研究員だ。
「はい、何でしょう?」
私が聞き返すとその女の人は棘のある声で言った。
「役にも立たない研究をして、ろくな魔力もなく、キリの迷惑になってるのは自覚してるの?」
「えっ」
いきなり敵意満面で言葉の刃が飛んで来た。正直こちらに来てからあからさまな敵意を向けられたことがなかったので、驚きで固まった。
「私はセアラ。あなたがキリの助手にならなかったら、私が助手になる予定だったのに」
戸惑って言葉が出ない私に、彼女は不愉快そうに鼻を鳴らす。
「助手が魔法陣もろくに解放できないのはあなただけよ。だからいつもキリは苦労しているんだって分からない?」
キリが、苦労? 私が迷惑をかけている?
言われた言葉がぐるぐると頭を回る。確かにキリには何かと気を使って貰っているし、彼が研究員助手として雇ってくれなければ私がここにいるのはありえない。能力のある子供なら恐らく二桁の魔法陣を解放出来るのだが、私はまだ一桁なのだ。
「キリは若くして一級の国家研究員になった天才なのに、あなたに足を引っ張られたらたまったものじゃないわ。キリの罪悪感につけ込んで、いつまで調子にのっているつもりなの?」
言葉が胸に突き刺さる。身を縮めるしかない私と、睨み付ける彼女にやわらかい声がかけられた。
「はいはい、そーこーまーでー」
驚いて声のしたほうを向くと、そこには美しいドレスをきてにこにこ笑っている女性が立っていた。周囲には何人も男の人が控えている。
「王妃様!?」
セアラは驚いて叫ぶと、すぐに跪いた。
え、王妃? 王妃って。
「いいのいいの、立っていいわ。私はシズクに会いに来たのよ。ちょっと外して貰って良いかしら?」
「は、はい! 失礼します!」
深く頭を下げて、慌てたようにセアラはその場を立ち去った。
……王妃様!?
「すみません! 失礼しました!」
慌てて私も跪く。キリが言ってた、異世界人の娘という王妃様だ。焦げ茶色の目と長い黒髪の女性はとても整った顔立ちをしている。ほんわかとした雰囲気の優しそうな女性だった。五十代くらいの年齢に見える。
「いいの、立ってシズク。よかったら一緒にお茶しないかしら? 誘いに来たのよ」
「ええっ、あの」
王妃様にお茶に誘われる理由が全く分からない。完全に初対面のはずなのに。
私は手に持った魔法陣を抱きしめるようにして首を振った。不敬になるのだろうか。でもこれだけは伝えておかねば。
「あの、今は仕事中でキリを待たせていまして……」
「ああ、お使いなのね。代わりに行かせるから大丈夫よ」
そう言って彼女は私の手に持った魔法陣を傍に控えている男の人に手渡すと「キリのところに持っていってさしあげて」と微笑んだ。
侍従らしき男性は深々と頭を下げて「御意」と答える。
「……」
これは選択肢の選べない状態だ、とすぐに分かった。
「さ、行きましょシズク。研究所の端に王室専用の客間があるのよ」
そう言って笑う王妃様に、もはや何も言えずに私は付いていった。
* * * * * * * * * *
のほほんという言葉がとても似合う様子で王妃様はソファーに腰掛けている。反対側の私は、ふかふかすぎるソファーに埋もれそうになりながらも小さくなって紅茶を飲んでいる。
……一体何のようなのだろう。もしやクビとか!? いやでもそれなら多分キリから言われるだろうし……。
キリ、ああ……私、色々甘えすぎていたのかもしれないなぁ。
先ほど言われた言葉を思い出して、私はため息をついた。彼が私を呼び寄せたことに責任を感じているのは分かっていた。ただ頼れる人がキリしかいなかったから、魔法の使い方や様々な魔法工学をキリに教わることをやめられなかった。一年も経ち、常識も覚えてきた。彼から離れるべきなのだろうか。
「ねえ、シズク」
「はっ、はい!」
思考に埋もれそうだった私に、柔らかな王妃様の声がにっこりと尋ねる。
「お見合いする気ない?」
「はいぃ!?」
予想外すぎる質問に、思わず素っ頓狂な声が漏れた。お見合い!? なんで、というか誰と!?
遠回しの退職勧告かと思いきや、王妃様は神妙な顔である。
「お見合いって、な、何ででしょうか」
「私のお母様が異界人であることはご存じ?」
私が頷くと、彼女はゆっくりと紅茶に口をつけた。
「お母様はこの世界に紛れ込んで相当苦労なさったらしくて、私を産んですぐ亡くなってしまったの。異界俸給はある意味私の……できなかった親孝行のつもりなのよ」
ズキ、と胸が痛んだ。どちらの両親の、とも言えないが、私もきっと親孝行は出来ないだろうなぁ……。
「まあ幸い異界の知識は凄いものも多いから、悪い政策ではないと王も言ってくださってるしね」
クスクスと笑う王妃様は花のようにほころんだ笑顔を見せる。
「でもあなたは、初期から返納なさっているでしょ?」
「あ……はい、すみません」
国家研究助手としてわずかながら給料を貰っているため、異界俸給は断った上で給料の一部はイバンさん達へ送っている。私を探したりと、様々なことに相当のお金がかかっているだろうことは想像に難くない。実際私にはお金の掛かる事が殆ど無いのだ。家は研究員用の寮があるし、食事は寮で出るし、服は制服がある。
「謝ることはないのよ。でも遠慮することもないの。当然の権利なのよ?」
「じゃあ、あの、それを……キリの研究費として回して貰ってもいいですか?」
先ほど言われた言葉がまだ胸に刺さっているため、どうにか恩返しを、と企んだ私に王妃様は軽やかな笑い声を響かせる。
「あら、駄目よ。キリは既に国家研究員のなかでも一級研究員ですもの。既にいくつもの革新的な魔法工学機を生み出しているから、研究費は湯水の如く使い放題よ? まぁ、使うだけで成果を出してくれない人はどんどん級が下がるのだけど、キリは優秀だものね」
そう言って王妃様は笑った。
「一応それは覚えておくわ。で、本題なのだけど、シズクはお見合いする気はないかしら? とある貴族が伴侶を探しているのだけれど、もしまだ早いと思うなら婚約だかでもいいのよ。お見合いの申し込みを研究所にしたのだけど、聞いているかしら?」
全く持って初耳だった。私は紅茶をテーブルに置いて首を振る。
「全然聞いてないです。というか、その、お見合いの意味がよく分からないのですが……」
なぜ王妃様がお見合い斡旋業者のようなことをしているのかが一番わからないが。
「あれ? シズクの世界でもお見合いって、あるわよね?」
「あります。ありますけど、何故お見合いを勧められるのか意味が分かりません」
やはり退職勧告なのだろうかと涙目の私に、王妃様は口元に指を当てると悪戯っぽく囁く。
「素敵な人なのよ。まだ若いけどお金持ちだし、あなたを受け入れた上で研究の続きも勿論出来るように尽力してくれるって。今キリのところにいるのと同じくらいに不自由はしないと思うわ」
「私……やっぱりキリの迷惑になっていますか?」
尋ねる声が震えてしまった。
優秀な研究者であるキリのところから私を動かしたいのだろうかと見当をつけて尋ねると、王妃様は首を振った。
「それはないわ。そもそも、キリって助手を受け入れてくれなかったのよ。気が散るって」
「えっ!?」
だって、さっき、あの人が……。
「セアラ? あれは前からキリの研究に惚れ込んでいて、あの子も研究員なのだけれど助手でいいからキリと研究したいってずっと研究所長に直談判してたのよ。断られ続けていたみたいだけどね」
信じられない気持ちで、その言葉を聞いていた。キリには散々こき使われているが、それ以上に色々教えて貰えている。少なくとも魔法工学の研究員として相当優秀なのは分かっていた。
「キリにとって迷惑じゃないなら、私はキリのところで研究を続けたいです」
キリからは白黒羽なんて無駄な研究だ、とよく言われるけど、無駄と言いながらも資料の収集や魔法陣の展開など、色々手助けをしてくれている。ぶっきらぼうだけど、優しい人なのだ。
「あらぁ……やっぱり」
「やっぱり?」
ふぅ、とため息をついた王妃は立ち上がった。
「実はこのお見合いの話って、既にお断りされているのよねぇ、研究所から」
「えええ!?」
何も聞いてないうちに既に話は終わっていた。驚きだ。
「あなたが望むなら異存はないから直接聞いてくれて構わないけど、帰還を諦めさせようとしているだけなら無駄だし、お断りだって。シズクの面倒は一生俺が見るから、ってキリから言われてるのよぉ」
残念そうに王妃は言うが、何もかも初耳すぎて意味がわからない。ぱくぱくと口を開けたり閉めたりする私に、会釈して王妃は部屋を出て行った。
「残念だけど、お見合い相手には謝ってお断りしてくるわぁ」
呆然とする私を一人残して。
* * * * * * * * * *
「どういうことなの!?」
私が戻ってすぐさまキリに詰め寄ると、予想していたのだろう彼は苦笑して一枚の写真のようなものを出した。
「これな。国でも有数の金持ちの、グリブ子爵から見合いの申し込みが来た。王妃様経由で」
「何で!?」
「子爵が嫁を探していて頼まれた、と言っていたがどこまで本当か分からん。あの人は異界人贔屓だから、結婚して幸せになりましたというお前を見てニヤニヤしたいんじゃねーかと思う」
「なんでそんな親戚のおばちゃんのような立ち位置なの王妃様は!?」
「知らん」
私はその写真も見ずにキリに突き返した。どんな人だろうと無理だ。この世界に定住する気はやはりない。
「いいのか? 金持ちで人の良さそうな顔した子爵だぜ?」
「誰とも結婚なんて考えたこともないし、無理だよ!」
私が顔をしかめて返事をすると、キリはため息をついた。
「誰とも、ねぇ。……まあ、そうだろうな」
「第一、キリが既に断ったんでしょ?」
「……そこまで聞いてんのかよ。余計なことだったか?」
「全然問題ない。これからも是非断っておいて」
はいよ、と頷いて研究に戻ろうとするキリに、付け加えた。
「あとキリは、そんなに責任感じなくていいからね。あの召還機作った責任」
私の言葉に、彼は驚いたように振り返る。その褐色の瞳が辛そうに細められた。
「……知ってたのか?」
「そうでもなきゃ、一生私の面倒を見るとまで言わないんじゃないかなって思ったのよ」
人一人の一生を抱え込もうと思うほどに、彼の悔恨は深い。もしかしたら初めてあの召還機を使ったのじゃないかとも思う。そしてあれはそのまま、研究室の奥底に押し込められている気がする。
「そもそも、原因は白黒羽なんだから、そこまで抱え込まなくていいよ」
そう言うと彼はまた苦笑した。
「素直に抱え込ませてくれるような奴なら、楽だったんだけどな」
褒められたのかけなされたのか、よく分からないので私が目を瞬かせると、彼は私の頭を軽く小突いた。
「ほら、仕事に戻るぞ。お前は第七魔法陣の解放な」
「はーい!」
素直に返事をすると、私は自分の机に向かった。背後で小さなため息が聞こえた気がして、私が振り返るとそこには既に背を向けたキリしかいなかった。
ふと窓の外を見ると、青々とした木々が揺れている。
――もう、一年。まだ、一年。
どちらとも言えずに、私は目の前の魔法陣へと向き直った。
* * * * * * * * * *
それは、とても突然のことだった。
「シズク!」
血相を変えて研究室に飛び込んできたキリが叫んだ。彼は郊外にいくつかの試作品を置いて、転送の魔法陣の効果と距離を試しているところであった。
魔法陣は半分以上の魔力吸収を抑えられるようになっていたが、まだ私の魔力量では使えるものでなかった。
そんな彼が郊外から、転送の魔法陣を使って急に戻ってきたのだ。駆け寄ってくると、私の腕を掴んで慌てた表情で言った。
「郊外に白黒羽が出現した!」
白黒羽――!?
一瞬理解出来ずに呆けたあとに、私は思わずキリにすがりついた。
「連れてって! お願い!」
彼は何も言わずに、私の肩を掴むと、すぐに転送の魔法陣を開いた。
ぐらりと歪む視界が、すぐに落ち着いたかと思ったらそこは郊外の平原だった。足下には転送の魔法陣、そして周囲を見るとすぐに分かった。
あれが、白黒羽!?
広い平原に竜巻のように渦巻いているものは、周囲の何もかもを巻き上げている。巻き上げられた土や木の黒色と、魔法の白光が渦巻き勢いよく回る様は、確かに白と黒の羽が舞い上がっていくようであった。その美しさと荒々しさに、私は目を見開いてその渦を見つめた。
白黒羽は木をなぎ倒し、ぐるぐるとその身に巻き込んだかと思えば、外へと吐き出していった。その中心には何もなかった。
私は思わず駆けだした。
「シズク!」
少しだけ私の左袖が引かれたような気がしたが、そんなことも、キリの叫びも耳に届いていなかった。
――帰りたい。
白黒羽は郷愁だった。ずっと探し求めて、それが、今。目の前に――!
私は平原を駆け抜けて、白黒羽に手を伸ばした。
その瞬間、視界が急に浮かび上がり、地面から私の身体が浮かぶ。ぐるぐると旋回する渦に巻き込まれるように振り回されて、勢いに目も開けられなかった。
「――っ! ――ク!」
キリの声が、遠い。
轟々と耳元には風の音が襲いかかり、風に舞う木の葉のように私は渦の周囲を振り回され、そして。
回る勢いのまま、投げ捨てられるように外に放り出された。
「――! ぐっ……」
地面に叩き付けられた衝撃で声も出ない私に、近寄ってきたキリは呆れたような、怒ったような。なんとも言えない顔をしている。
「……言っただろ。最初から中心にいなきゃ、どこにもいけない」
激痛で声も出ない私を、彼は容赦なく叱りつけた。
「叩き付けられて死んだら満足だったか? そんな死に様で本当に良かったのか?」
――帰りたい。
お父さん、お母さん。夏希。
もう二年も経ったよ。本当なら高校三年生になっているのに。
私の事、心配してる?
私がいなくて、泣いてる?
もう諦めちゃったかな。行方不明で、家出か事件か分からなくて。きっと苦しんでるよね。
私も諦めた方が楽なのかな。戻れないことを受け入れるしかないのかな。
「……っ! う、わぁぁん!」
地面に横たわったまま、ついに私は泣き出した。わーわーと子供のように、両手で顔を覆って。
そんな私の頭を撫でるキリは、いつものように皮肉げな微笑を浮かべながらも、全く困ったやつだと言わんばかりだった。
「帰り、たいの。やっぱり、諦められない……っ」
喘ぐように、私は泣きながら言った。
白黒羽の中心に最初から居続けることなんて無理だ。どこでいつ発生するかも予想がつかないのに、そんな偶然に期待することが馬鹿なのかも知れない。
それでも、諦めきれない。
「じゃあ諦めなきゃいいだろうが」
「……え?」
私がキリを見上げると、彼は頷いた。
「だからさ、白黒羽を研究対象にすることが間違ってんだよ。もっとこう、異世界へと繋ぐ道を開き続けて探す方が手っ取り早くないか?」
「……」
目から鱗が落ちるとはこのことか。私は泣くことも忘れて呆然と呟いた。
「……それは思いつかなかった」
「何回も言ったぞ。白黒羽の研究は無駄だって。全く聞く耳を持たないから、一度痛い目に合わせてやろうと思ってよ」
「……」
充分痛かった。というかどっか折れてるんじゃなかろうかと思うくらい痛かった。
おそるおそる身を起こすと、変にねじれているようで足が動かなかった。これは折れているのかも知れない。
「ほら、手かせよ。背負ってやるから。治療しに戻ろうぜ」
「……うん」
私がすん、と鼻をすすりながら彼に手を伸ばすと、彼は仏頂面をした。
「戻らせたくない気持ちもあるからあんまり勧めたくなかったんだけど、目の前で白黒羽に飛び込まれるよりましだ。肝が冷えたわ」
「え?」
「何でもねーよ。さっさと戻って白黒羽の研究を破棄して、別のにするぞ」
「うん……」
私はもう一度すん、と鼻をすすると平原を振り返った。そこにはすでに白黒羽は存在しなかった。巻き上げられた土や木が、周囲に散らばっているだけだった。
白黒羽はとても綺麗に見えた。綺麗だけどただの自然現象なのだ。
だから憎み続けることなんて出来なくて、すがることもできないと、無情に放り出されて分かった。
私の今までのこだわりも一緒に投げ出されたかのようだ。
痛みを堪えてキリの背中におぶさると、小さく呟いた。
「レイシーさんに、手紙書く……」
「そうしてやれよ」
「白黒羽に突っ込んだら手痛くあしらわれましたって」
「やめろあの人心配性なんだから。発狂して王都に来て泣き喚くぞ」
そう言うキリの背中に顔を埋めると、私はもう一度鼻をすすった。