事故
夏の気だるい暑さが多少残るが、心地よい風が吹き始めだいぶ過ごしやすくなった。
ハルもお兄ちゃんらしくなりリョウは寝返りが出きるようになった。
部屋の中をコロコロと寝返りで移動できるようなりリョウの行動範囲は格段と広がった。
ハルは里子の真似をしていろんなお手伝いをしてくれる。いま一番お気に入りのお手伝いは洗濯物を畳むこと。
かなりぐちゃぐちゃだが、洗濯物を畳んでいる里子の隣にちょこんと座り一生懸命畳んでくれる。
一緒に洗濯物を畳んでいると里子の携帯電話が鳴った。
里子より先に鳴っている携帯をとりに行き持ってきてくれるハル。
これも最近ハルのお気に入りのお手伝いだ。
「はいっ」笑顔で携帯を受け取り「ありがとう」とハルの頭を撫でる。
電話の着信相手を見ると父親の照良からだった。
「あらっ、めずらしい」
照良から電話が来るのは珍しかった。
あのケンカの事がバレた?
里子の父照良は厳しい人だ。
里子達のケンカの件を照良は全く知らない。和代が内緒にしていてくれたのだ。
ケンカをし里子がしばらく実家にいたあの時、ちょうど長期出張中だったため照良は喧嘩の事も里子が実家にいた事も知らないのである。
その事を照良が知ったらなんと言われるか…きっと史郎も呼び出され二人揃ってみっちりお説教をされるだろう。
ビクビクしながら電話に出る里子。
「もしもし…」
「もしもし、里子か」
「うん、どうし……」
「母さんが事故にあった。」
「えっ……」
「いま手術中だ。」
事故?手術中?
里子は血の気が引いた。
「えっ……、お母さんは大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だと思う……その話はまた後で。父さん会社から直接こっちに来たから何も持ってきてないんだ。すまないが、家に言って今から言う物を持ってきてくれないか?」
震える手でメモをとり、少し落ち着くと史郎へ連絡した後二人を連れて実家へ向かった。
荷物を持ち病院へ着いた里子は受付で母の事を説明し病室を案内され荷物を置くと手術が行われている病棟へ急いだ。
「お父さん」
手術室の前の廊下に置かれた椅子に父照良の姿があった。急に老け込んだように見えた父に里子はドキッとした。
「里子か」
顔をあげた照は駆け寄ったハルを抱き上げて微笑んだ。
「荷物持ってきたよ」
手にした荷物を手渡すと照良は「ありがとう」といい受け取った。
「これから必要な手続きをしてくるからここを任せていいか?」
照良そう言うとその場を里子に任せ看護士を捜しに行った。
背中におぶったリョウは寝息をたててよく寝ている。
里子は見慣れない場所にキョロキョロしているハルを目で追いながら椅子に軽く座った。
ハルの相手をしていると手術室とは反対方向から急いでいる足音が聞こえた。
足音が近づきその主が姿を現した。
「お姉ちゃん」
「菜々子!」
多少息を弾ませた妹の菜々子だった。
「お父さんから電話もらったんだけど…お母さんは?」
都内に勤める菜々子は照良から電話をもらうと、上司に事情を説明した。すると上司は「すぐに行ってやりなさい」と菜々子を早退させてくれたという。
「お母さんは?」
「うん、まだ中……」
手術室に目をやり里子は答えた。
「お父さんはいろんな手続きをしに行ってる」
「そう……」
とりあえずいま里子が知っている事を菜々子に説明した。
菜々子は里子に隠れるようにしているハルと目が合い
「ハルこんにちは。覚えてるかな?」
と言うと微笑んでハルに手を振ってみせた。
少し照れたように里子の顔を見上げるハルに「ななちゃんだよ」と里子が言った。
「なな?」ちらっと菜々子を見てハルが小さな声で言った。
菜々子はニコッと微笑むとハルにもう一度手を振った。
二人は並んで座りお互いの近況報告をしていたが、だんだんと口数は減り自然と視線はドアの上で光っている『手術中』という文字と手術室のドアに向けられた。
「お母さん大丈夫だよね」
菜々子が聞くと里子は黙って頷いた。
それから何十分いや、数分だったかもしれない。ドアの上で光っていた『手術中』の光が消えると共にとても長く感じた時間が終わりを告げた。
手術室からは手術を終えた和代が運ばれてきた。
里子たちは駆け寄り薬で眠っている和代に「お母さん」と声を掛けた。
「ご家族の方ですか?」
里子達を見ると、手術着をきた医師が言った。
「はい、娘です。父は手続きをする為席を外しています。母は大丈夫ですか?」
里子が答えると医師は
「手術は成功です。命に直接関わる怪我ではありません。ただ、骨盤を骨折しているので骨がつくまで、しばらくは動けません」
「入院期間など詳しい事は親御さんがきてから」と医師は言い、里子と菜々子はお礼をしてその場を去った。
術後の和代はICUに移され経過を見ることになった。
病室のガラス越しに和代を見ていた二人の元へ、医師から説明を受けた照良が帰ってきた。
〈骨盤骨折及び大腿骨骨折〉
あばらにもひびが入っているらしい。
事故は今日の二時過ぎ、買い物帰り自転車を押して歩いていたの和代を大学生の運転する車がはねたのだ。
原因はナビ操作によるわき見運転。
車は和代を跳ね飛ばしさらに和代を下敷きにして止まったらしい。
運転手が動揺し車から降りて呆然としている中、事故を目撃した人達が救急車を呼び車の下から和代を救出してくれたらしいのだ。
お礼をしようにも「当たり前の事をしただけ」と手を貸してくれた人達はその場を去ったという。
「怪我が完治しても以前のようには歩けなくなる可能性があるみたいなんだ」
「そんな……ひどい!」
菜々子が目に涙をため怒りに体を震わせて言った。
里子はガラス越しに和代を見つめながら身動きせずにその話を聞いていた。
「加害者が後日謝罪に来ると言っていたがお断りしたよ」
照良の目にも怒りがこみ上げていた。
「当然よ。たとえ来たとしても追い返すわ」
菜々子は怒りをあらわにした口調で気持ちをはきだした。
仕事を終えた史郎が病院に駆けつけた。
「里子」
疲れて里子の膝の上で眠ってしまったハルを起こさないように史郎は里子に声を掛けた。
「疲れてるのにごめんね」
「いや。それよりお義母さんは?」
「今日明日は薬で眠らせちゃうって……」
史郎の登場で張っていた緊張が解けたのか里子は静かに泣き出した。
「里子?お義母さんそんなに悪いのか?」
史郎は困惑し里子に聞いた
「ううん、ごめん。史郎が来たらなんか安心しちゃって。お母さんは大丈夫よ。でも骨盤を骨折してるから治るまでだいぶかかるそうよ」
「そうか」
なんと声をかけていいのかわからない史郎はそのまま黙って里子の横に座った。
面会終了時間になり病室から照良と奈々子がロビーへやってきた。
照良は史郎と里子の膝の上で寝ているハルをみた。
「史郎くん、忙しいのにすまないね…ハルも疲れちゃったか。悪かったな」
「いえ、とんでもないです。お義母さんは大丈夫ですか…」
少し和代の事を話した。奈々子はしばらく実家から会社に通う事になり、その日はそれぞれの家に帰る事になった。
次の日里子が病院へいくとちょうど白衣を着た照良が和代のベッドの脇についていた。
和代は今日も断続的に痛み止めの薬を投与されており目が覚めていてもあまり意識がハッキリしない状態だ。
里子がガラス越しに見ていると、照良はまだ口から水分の補給も出来ない状態の和代に、水を含ませたガーゼで唇をそっと濡らしてやったいた。
「かわいそうに……」
照良の口がそう言っているように動いた。
里子は廊下に出てひと息ついた。
あんな状態の母を見るのはつらい。憔悴している父の姿をみるのも辛かった。
しばらくすると照良が出てきて里子に気がついた。
「今来たところなの」
ハルの手を引き里子はリョウの乗ったベビーカーを押し笑顔で言った。
里子と照良が話していると、事故の知らせを受けた和代の兄弟が駆けつけた。
「照良さん!」
「兄さん」
和代の姉の久恵と弟の節男だ。
「家に電話したら、菜々子ちゃんが照良さんはこっちにいるって行ったから」
「姉さんは?」
「義姉さん節男君、遠い所すみません」
照良は二人を促し和代のいる病室へ案内した。
病室から帰ってきた久恵は「2、3日駅前のホテルに泊まってるから何かあったら連絡して」と言い帰って行った。
叔母達をロビーまで送ると里子は振り返り
「お父さん家帰った?」
と照良に聞いた。
「帰ったよ」
「帰っただけでしょう?寝た?食事は?」
返事のできない照良に里子はため息をついて
「ひどい顔よ。お母さんも起きた時お父さんがそんな顔じゃがっかりじゃない?少しはさっぱりすると思うから」
とひげ剃りやタオルなどが入った紙袋を照良に手渡した。
顔を洗いヒゲをあたると少しサッパリした気分になった。照良は病院の食堂へ行き軽く食事をした。
二日しかたっていないに久しぶりに食事をした気分だった。
外へ出て一服しているとポケットで携帯が鳴った。
「お父さん、あたし今日はこれで帰るね。家の方も片付けないといけないし。菜々子と相談して1日交代で病院行くことにしたから。またね」
ふと前を見ると、道を挟んだ向こう側に里子が手を振っている姿が見えた。ハルも一緒に両手を振っている。
「じいじー!バイバーイ」
フフっと笑いハルに手を振り返しながら「悪いな…助かるよ。気をつけて帰るんだよ」
と電話越しに里子へ言った。
「菜々子?病院にくる前にお母さんの着替えとタオル数本持ってきてくれる?お父さんどこにあるか分からないんだって」
次の日、里子は菜々子へ電話をしたまっていた家事を片付け始めた。
「……お母…さん……お母さん分かる?」
朦朧とする意識の中、誰かが和代を呼んでいる。
誰?
お父さん?
里子?それとも菜々子?
「……う…ん」
頭の中ではしっかり返事をしたつもりだが、声がうまく出せない。なんだか頭がボンヤリしてとても眠たい。
体を動かしたくても、体全体がとても重くて動かせない。
そのうち和代はまた深い眠りに飲み込まれていった。
目が覚めた和代はハッキリしない視界でボンヤリと周りを見た。
ここは何処だろう?病院のような……
自分はなんでここに寝てるの?
「あら武藤さん、目が覚めた」
看護師がキョロキョロしている和代を見て声を掛けた。
思うように声がでない和代は目を瞬きし看護師に合図した。
「先生を呼んでくるからね」と看護師は部屋を後にした。
廊下を行く看護師は途中照良にあい和代が目を覚ましたことを伝えた。
菜々子が和代のところへ行くと医師と照良が話しているところだった。
和代の話によると事故にあった直後から目が覚めたさっきまで記憶はないという。
叔母達が来て声を掛けて貰った事も夢だったのか現実だったのかわからなかったらしい。
半年後、最初の診断の通り、元通り普通に歩く事ができなくなった和代は杖をつき無事退院した。
退院後も一週間に一度はリハビリに通わなくてはならないということだった。