理由
一週間たっても里子が帰ってくる様子はなかった。相変わらず携帯は繋がらない。
毎日愛妻弁当を持ってきていた史郎が、ここ一週間コンビニ弁当だ。
何かあったな…
周りの人はみんな思っていたが事情を尋ねる人はいない。
里子が突然家を出て二週間が過ぎたある日。
「まだ帰ってきてないの?」
昼食後、自動販売機の紙コップのコーヒーで一服していると同じくコーヒーを手にした女性同僚につつかれた。
「いろいろと考えてみたんだけど思い当たる事がないんだよね…」
同僚は向かいの椅子に座ると続けて聞いてきた。
「奥さん普段は家でずっとお子さんたちと一緒よね?相当ストレス溜まってたんじゃないかしら?」
この言葉に史郎は反論した。
「子供とずっと一緒にいるのは当たり前じゃないか、母親なんだから。俺は外で仕事してんだからさ」
「その考え違うと思うわ」
史郎は手元のコーヒーから同僚に目を移した。
「仕事してるって言ったって、他の人としゃべれるし外に出るでしょう」
同僚は話し続けた。
「子供の相手をしながらその間に家事もやらなきゃならないし。誰とも話しをしないでずーっと家の中って意外とストレスたまるものなのよ」
周りで聞いていた他の同僚も話に入ってきた。
「疲れてるのは外で仕事してる人だけじゃないんだと思う。家にいるから楽だろうって思っていない?疲れているのはお互い様だと思うの」
男性と女性では考え方が違うものだ。
「そうだけど…」
残り少ないコーヒーを揺らしながら史郎は言った。
「仕事している人は仕事が終わったら後は自由な時間。だけど主婦は寝るまで仕事(家事)。しかも、坂上君の奥さんは今、夜間も授乳やらオムツ替えやらであまり睡眠がとれていないんじゃないかしら?」
女性側からの意見が続く。
「家に帰って家の中が片付いてるのも、すぐにお風呂にはいれるのも座れば夕飯が出てくるのも奥さんがやってくれてるからじゃない?この二週間家に帰って思わない?」
「…………」
「奥さんに感謝してる?その感謝を言葉にしてる?言葉ってとても大切よ。言葉一つで傷つくこともあるのよ。」
「気がつかないうちにひどいこと言ったんじゃない?」
一方的に女性側の意見を押し付けられている様で史郎は苛立ち、飲み終わった紙コップを握りつぶしながら「例えば?」と質問した。
「俺は仕事して疲れてるんだ!とか、ずっと家にいてお前は楽でいいな〜とか」
いつの間にやら他の女性同僚も参加している。
「昼寝してんだろ!とか。」
「そうそう。」
女性が増えてきたせいか話の中心がズレてきて話題は「男性への不満」に切り替わり、話が盛り上がりつつある。
一緒にいた男性同僚はいつの間にかどこかへ消えていない。
この輪から一刻も早く逃げ出さなければ…
女性達の白熱した話しは続く。
「あと、ちょっと育児の愚痴を言っただけで「だったら生まなきゃよかっただろ!」っていう人!!最低よね〜」
「最低!!」
もうこの話しには入っていけない。史郎は静かに席を離れた。
ひとりで考えていても、里子が出て行った理由が何一つ思い出せない。
直接里子にあって話を聞こう。
次の土曜日、史郎は里子たちがいる里子の実家に行った。
呼び鈴を鳴らし玄関先でまつ史郎。
突然の史郎の来訪に玄関へ出てきた里子の母親が驚いていた。
「おはようございます。土曜の朝からすみません。里子と話がしたくて……」
史郎の声を聞き、奥の部屋へからハルが顔を出した。
「パパ!」
満面の笑みで史郎へと駆け寄るハル。二週間見ない間にずいぶん大きくなったように感じる。
「ハル。元気だったか?ずいぶん大きくなったな〜。」
久しぶりにハルを抱き上げその重さに史郎も笑顔になった。
ハルを抱いたまま奥の部屋へ通されるとそこには、久しぶりに合う里子とリョウがいた。
随分大きくなったリョウを見て史郎は驚いた。
「リョウ、大きくなったな」
思わず口にした言葉に里子は
「……うん。」と返事をした。
二週間ぶりに交わす夫婦の会話だった。
ハルはおもちゃや絵本を持ってきてあれこれと史郎に説明し始めた。一生懸命に説明してくれるハルに
「ハルはいっぱいお話できるようになったんだね。すごいな〜。すっかりお兄ちゃんだな。」
と胡座の上に座っているハルの頭を撫でながら言うとハル笑顔で史郎の顔を見上げて「うん!」と元気いっぱいの返事を返した。
しばらくおもちゃで遊んびながら史郎にまとわりついていたハルだが、里子の母親が気を利かせてくれ「ハル、ばあばと一緒におやつ買いに行こうか」と何気なくハルを連れ出してくれた。
2人っきり(リョウは部屋の隅でお昼寝中)になった里子と史郎。
お互い相手が口を開くのを待っているかのように重い沈黙が続いた。
このままじゃ埒があかない
すでに冷めてしまったお茶を飲み干し史郎が口を開いた。
「里子…突然出て行った理由を教えてくれないか?俺なりに考えたんだけど、思い当たる事がわからないんだ」
里子は顔を上げて
「言葉は大切なの。何気ない一言が人を傷つけることもあるの」
そこまで言うと里子の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「言った本人は覚えていなくても……言われた人はずっと覚えているの」
真っ直ぐと史郎を見据えて里子は手の甲で涙を拭った。
「もちろん史郎は覚えていないでしょうね。」
涙を溜めた目で里子は皮肉たっぷりの笑顔で黙っている史郎に言った。
史郎は戸惑った。里子を泣かせるほどひどい言葉を俺が?
里子には悪いが全く思い出せない……。
「悪かった……」
「悪かった?自分がなんて言ったかわからないのに謝るの?正しい事を言ったかもしれないのに?」
「そ、それは……。ごめん、本当に思い出せないんだ。」
申し訳なさそうに史郎がいう。
「なにをすれば許してくれる?戻ってきてくれる?」
気持ちが不安定になっている里子を刺激しないように優しく声を掛けた史郎だったが、里子は涙をためた瞳でキッと史郎を睨んだ。
「あの言葉は一生忘れないし、何度謝られても許さない!」
どちらかと言えばおとなしめな性格の里子の口から出た言葉に史郎は驚いた。
しばらくの沈黙の後、気持ちが落ち着いたのか里子が小さな声で話始めた。
「……ただ話を聞いてほしかったの。一日中子供の相手と家事で気がつくと1日が終わってるの。史郎が帰って来ても寝てしまった後は取り残されたみたいで淋しかった。自分は何のためにここにいるんだろう?って。」
時折流れ落ちる涙を指で拭いながら、小さな声でしゃべる里子。史郎はその言葉を聞き逃さないように静かに聞いていた。
「史郎が仕事で疲れているのは知っていたけど、もっと私の話を聞いてほしかった。嘘でもいいから「頑張ってるね」って言ってほしかった……家事育児をしているだけでまるで家政婦みたいな生活がいやだった。」
言われてみれば仕事から帰ってきてもハルやリョウには話しかけていたが、里子と会話らしい会話はしていなかった。
里子の話相手もしてなかった。
「ごめんね…こんなのわがままだよね。謝るのは私。なにも言わずに出てきた私が悪いの。」
「いや、里子の気持ちに気がつかなかった俺も悪いよ。辛かったよな、ごめんな。」
もう涙は出ていない。
「こんなわがままな私だけど、史郎の所に戻ってもいいかな?」
里子が恥ずかしそうに言った。
「いや、それを言うのはこっちの方だよ。里子、俺のところに戻ってきてくれるか?」
「うん。」
やっと笑顔になった里子と史郎。
「たらいま〜」
ハルが大量のおやつが入った袋を手に帰ってきて机にお菓子を出しパパのママのハルのと分けだした。
「あら、いい顔になったじゃない」と里子の母親が二人を見て言った。
「ごめんねお母さん。」
「夫婦ケンカはいっぱいしなさい。そして必ず仲直りすること。」
にっこりと微笑んで人生の先輩として助言した。
「史郎くんも夕飯は食べていくでしょ?明日までお父さんは出張だし、今晩一人で食べるのは寂しいわ。」
非常に断りにくい言い方をして史郎を強引に食事へ誘った里子の母。
夕飯をご馳走になり、何気なく出されたビールに口を付けてしまい車の運転ができなくなった史郎は結局里子の実家に一泊する事になった。