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「お姉様のお花っ! 全部私の部屋に運んでっ!」
エントランスに入るや否や、ヒステリックな声でエミリーが叫んだ。
それを嗜めに入ったのは――驚くことに、二人の父であるデニスだった。
「えっ……エミリー。それはやめないか。陛下から献上された花なんだ、……それはナタリアのもので……」
「別に今は陛下なんていないんだから平気よ! どうせバレないわ! ほら早く運んで運んで!」
というわけでせっかく選んでもらった花。
それも全てエミリーに取られてしまった。
だけれどナタリアの心はいつもより落ち着いていた。
『お前の妹のことだ。お前に贈った花も必ず欲しがるだろう。だがそんなものいくらでもくれてやれ。代わりにお前にはこれをやる』
『……押し花の栞、ですか?』
『あぁ。店先で売っていてな。形に残るものはあまり渡したくはなかったが……致し方あるまい。いらなければ適当に捨てろ。捨てるのが忍びないのであれば、読まない本にでも挟んでおけ』
『……そうまで仰るのなら別に贈らずともよかったのでは……』
『さすがに全てを奪われるのは見ていて偲びないからな。公爵令嬢にやる品ではないかもしれないが、まぁ我慢してくれ』
白く小さな花が押された栞。花の名前はわからない。庶民向けのプレゼントだというのに、どうしようもなく心が躍った。
『奪われっぱなしはお前だって癪だろう。それだと隠し持つことができる。もし本当に生花を奪われたのなら、それを慰みにでもしておけ』
湯浴みを終えたナタリアは、栞を抱きしめながらベッドに転がる。
殿方にこんなことをされたのは初めてだった。
アレクセイから貰ったのは、宝飾品とは比較にもならない安価なもの。だがこれまで貰ったどんなものより、価値があるように思えた。
――明日はどこに行くのだろう。
後で父から聞いた話だが、ナタリアがアレクセイと出ている間に、アレクセイの使者から書簡が届いたとのことだ。
なんでも『ナタリアのことを気に入った。この国にいる間は少し貸してくれ。どうせ婚約破棄されたばかりで特定の男がいるわけではないのだろう。ならばなにも問題ないはずだ』とのことだった。
手の回し方にナタリアは舌を巻く。
受け取った栞は可愛らしいものなのに、アレクセイはやり手だ。皇帝の座に飽き飽きしていると言っていたが、しばらくは皇帝の座につかざるを得ない男であることは確かだった。
*
翌日、ナタリアが目を覚ます頃には、ぴかぴかに磨き上げられたエミリーがいた。
エミリーからの嫌味を浴びつつ、ナタリアも外出の準備を始める。さて、もうそろそろで終わる、なんてときだった。
――アレクセイが屋敷に来訪したのは。
昨日より早いことに驚きつつ、侍女たちも急ピッチで準備を進める。けれど一歩遅かった。
ナタリアがアレクセイの元に行く頃には、エミリーがアレクセイ相手に鼻を伸ばしているところだった。
「アレクセイ様っ……!」
昨夜よろしくナタリアは走ってアレクセイの元を訪れた。
息を切らしながらやってきた姉に、吹き出したのはエミリーだった。
「やだぁお姉様ったら。走ってくるなんて無様ねぇ」
「アレクセイ様をお待たせするわけには……っ」
「ご来訪を予想して早くから準備するのがマナーじゃなくって?」
――大嘘つきめ。
懇意にしている侍女が耳打ちしてくれだのだ。エミリーは、アレクセイに会うために日が昇るのと同時に起き、準備をしていたのだと。
「……申し訳ありません……」
エミリーのことは腹が立つ。だが一理ある話ではあった。
素直に謝るナタリアに、だがアレクセイは不思議そうな面持ちだ。
「なぜ謝る必要が? 私はナタリアに、昨日と同じ時間に来ると伝えていたからな。それに合わせて準備を行うのはなんら不思議ではない」
「な、ならどうしてアレクセイ様はこんなお時間に……」
「そんなの簡単だ。ナタリアの顔を早く見たくなっただけだ」
面と向かって。エミリーなど眼中にないように、アレクセイが甘い声で囁いた。
「好きな女を待つのもまた楽しい時間であるからな。今日も美しいな、ナタリアよ」
「ア……アレクセイ様! わたくしのほうが今日は良いドレスを着ていましてよ!」
割って入ったのはエミリーだ。
確かに今日のエミリーの気合いの入りようには目を見張るものがある。
ふんわりとした女性らしいシルエットの、柔らかなブルーのドレス。裾にかけて小さな宝石が散りばめられており、甘さの中にもどこか品のある仕上がりになっている。
「確かにそのドレスはよくできているな。生地も一級品。デザイナーの腕もいいのだろう。お前によく似合っている」
「そうでしょう!? ほら聞きましてお姉様? アレクセイ様もこう仰ってるのよ」
突きつけられた言葉にナタリアの胸がずきずきと痛みだす。
どうして胸が痛いの? 浮かぶ疑問に答えは終ぞ出てはこない。
「10人男がいたなら、9人が似合うと誉めそやし、可愛いと賞賛するだろうな」
「! アレクセイ様もそう思われますか! やはりアレクセイ様のお目は高い……! 今日は姉ではなく私と――」
「だがな、ナタリアの妹。あいにく私は、外れたその一人だったらしい」
エミリーを横切り、アレクセイがナタリアの傍に立つ。
そしてあろうことか。一国の皇帝であるアレクセイが――跪き、ナタリアの手をとり、手の甲にキスを落とした。
「私にはお前の方がよほど目を惹く」
――どっ、とナタリアの心臓が大きく鳴った。
これは演技。エミリーの悔しがる顔を見るための偽り。現にアレクセイは、心底楽しそうな様子だ。
「それと……、……おかしいな? ナタリア、お前から花の香りがまったくしないな」
立ち上がったアレクセイが、すん、と鼠かくやと鼻を鳴らす。
「あれだけの量の花を贈ったのだ。香りがついていてもおかしくないのだが……」
なにかがナタリアの頭頂部に触れた。
今度はアレクセイがナタリアの頭に鼻を押し付けているではないか。ついでに唇まで触れているものだから、これは実質頭にキスされているのと同じでは……!? とナタリアは混乱する。
「は、花は、その……」
「アレクセイ様! お花なんですが! あんなに大量の花は邪魔だとお姉様が仰り、捨てようとしたんですの!」
漁夫の利だとでも言わんばかりにエミリーが叫ぶ。
「せっかくのお花がかわいそうだと思って、わたくしが引き取ったのです!」
――さぁお姉様に失望してちょうだい。
そんな思惑が見透く言葉。ナタリアは反論しようとして、それはアレクセイに制された。
「それは悪いことをした。なに、あの花とて、私が無理やり贈りつけたものだったからな」
「っ……どうしてお姉様を責めないのですか!?」
「どうしてもなにも。私が一方的にしたことだ。花には悪いが、邪険にされるのも致し方あるまい」
「ですが!」
「なぜお前がそうも疑問を呈する? これは私とナタリアの問題なんだ。部外者のお前が首を突っ込む話ではないはずなのだがな?」
握られたままだった手。そのまま、自然な動作でエスコートされる。
エミリーはといえば――顔を真っ赤にさせ、今にも掴みかかりそうな勢いでナタリアを睨みつけていた。
「そうだ、ナタリアの妹」
「なっ、なんでしょう!?」
「私はお前に名前で呼ぶことを許可した覚えない。アレクセイ、などと金輪際呼ぶな。お前も一応は公爵令嬢なのだろう? 他国の皇帝への振る舞いを見誤れば、外交問題に発展しかねないからな」
エミリーがなにかを叫んだ。
だがアレクセイはそれから一度も振り返ることなく、ナタリアと共に馬車に乗り込んだのだった。




