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揺れる馬車の中。
楽しげに窓から外を覗くアレクセイを前に、ナタリアの脳裏には、昨夜交わした会話が蘇っていた。
――アレクセイからの提案はこうだった。
自分はこれから1週間ほどこの国に滞在する。そこでお前に一目惚れしたように見せかけて、妹と婚約者を愚弄するのはどうだ。
傷物にはしない。自分には常に監視がついているから行動の裏取りも問題ない。帰国する際には『やはり純血の人間を鼠の国には連れていけない』とでものたまおう。そして、こうも伝える。『私』が気に入った女なのだ。新しい婚約者は、せいぜいきちんと選べとお前たちの親に直々に言ってやろう。
――腐ってもお前は高位貴族だからな。今後も顔を合わせることもあろう。もしそのときになって、お前を連れた男がたいしたものじゃなかったなら、そのときはどうなるんだろうな? なんて脅し付きで。
『私は、私の好きな人間の苦しむ顔を見ることができる。お前は世間知らずの妹と婚約者を見返すことができる。どうだ? 互いに利のある関係だと思うんだがな』
提案されたナタリアは困惑しかなかった。
エミリーとセルゲイの鼻を明かせるのは正直スカッとする。だがアレクセイ側の利が薄すぎる気がした。
そもそもアレクセイは皇帝の身。30に近い彼にも婚約者がいるのではと問いただしたところ、
『いない。というか、別に作る必要がない』
『……それはどうして……?』
『鼠の異常な繁殖力のせいだよ。雌などすぐに孕ませられる。ゆえにその時がきたなら、その時に見合った女を見繕えばいい。だから私には婚約者も特定の女もいない』
『……理論が破綻していませんか? そもそも、皇帝の血を絶やさないためにも早く子供は作るべきでは……』
『あぁそれなんだがな。そも私の先祖が玉座につけたのも、他の鼠に比べて長命種だったから、それだけだからな』
ちょうめいしゅ。ナタリアは言葉をそのまま繰り返す。
『早死にを続ける一族が国を統べるわけにもいかんだろう。上があまりに早く変われば国の土台がぐらつく。そこで選ばれたのが私たちの種族だったというだけだ。そしてそのままこの地位に甘んじているが――いつひっくり返ってもおかしくはない』
『……』
『それに言っただろう。鼠の繁殖力は異常だと。私には下に15人の弟と20人の妹がいてな。私がどうこうなったり、或いは皇帝としての座を放棄したところで、相続できる奴はいくらでもいる』
『……なんだか複雑な事情で……』
笑えばいいのか驚けばいいのか。
判断しかねたナタリアは、曖昧な返事をするしかなかった。当のアレクセイは、さして気にした様子もなかった。
『……ですが、それにしたってアレクセイ様側の利益が薄いといいますか……。他国で公爵令嬢と噂になるなど、あまり外聞が良いものではないと思うのですが』
『そんなものどうだっていい。ちょうど皇帝の座に飽き飽きしていたところなんだ。私のことをよく思わない奴がいるなら玉座を開け渡すのもやぶさかではないし――なにより。さっきも言ったろう? 私は、人間の苦しむ姿に得難い快楽を得ると。どうせ期間は1週間だけなんだ。余興をすると思って楽しませてはくれないか』
――嫌なら職権濫用も可能だが? むしろそのほうがお前の苦しむ顔が見れていいかもしれないな。
嫌な笑みを浮かべたアレクセイに、ナタリアに残された選択肢は頷くことだけだった。
そうして二人の共謀は始まった。
期間は1週間。だからこそ、夜会の翌日、さっそくと言わんばかりにアレクセイがナタリアを迎えに来たのだ。
「……これからどんなご予定で?」
迎えに行くから準備はしておけよ、としかナタリアには伝えられていなかった。
荘厳な装飾で彩られた馬車の中。ナタリアはどこか肩身がせまくてならなかった。
「噂を撒くことから始めるとしよう」
「噂ですか」
「あぁ。この尻尾と服装で、私たちが高位貴族だというのは平民にもわかるはずだ。適当に市場でも歩き、平民たちの話の種になってやるんだ。鼠の皇帝とどこかのご令嬢が歩いていたな、と」
「……それは、アレクセイ様の言う『復讐』に繋がるものなんですか?」
「もちろん」
話すうちに馬車がゆっくりと停止した。
ナタリアが窓から外を覗く。到着したのは、この一帯で一番活気のある市場街だった。
*
「アレクセイ様」
「なんだ」
「ちっ……近すぎやしませんかこの距離は!」
なにかに耐えかねたようにナタリアが叫びを上げた。
それもそのはず、今のナタリアは、アレクセイに腰を抱かれ、長くて太い尻尾まで体に絡みつけられながら歩いているところだったからだ。
「当然だろう。私がお前にベタ惚れだというアピールをせねばならんからな。このぐらい普通だ。ほら見てみろ、みなこちらを見ているではないか」
キスのふりしたときよろしく、なんてことないようにさらりとアレクセイは言ってのける。
「お前だって婚約者がいたんだろう? これぐらいの距離でエスコートされるのは慣れているはずだが」
「慣れてませんよ……! 第一、セルゲイ様はエミリーにばかり構っていて……っ……こういったことはからっきしでして……!」
エミリーとセルゲイ。懇意になる以前から、頻繁に立ちくらみや貧血に襲われるエミリーに、セルゲイはつきっきりだった。
私は姉だから仕方ない。誰も病気の人を責められないわ――と遠慮し続けた結果、今に至ルーわけだが――。
「お、顔が暗いな。やはり人間のそういう顔は見ていて気持ちが晴れ晴れする」
「っ……」
「怒ったのもまた良い。私を睨んで心が落ち着くなら好きなだけ睨めばいいさ。私は、お前の義憤に駆られる怒りの顔が好きだからな」
怒ろうとした、のに。
鼠のような小賢しい理論に絡め取られ、ナタリアは怒るに怒れなくなってしまう。
「……おや? 怒るのはもう終いか?」
「……話していたらバカバカしくなってきたんです」
「それは残念」
楽しそうに笑いながら、市場の中を二人はゆったりと歩く。
アレクセイの地位が地位だけに、周囲には護衛が張り巡らされている。庶民はとても近づくことなどできやしない。
それもあいまり、とても楽しくデート、なんて雰囲気ではなかった。だが異性とこういった外出が初めてだったナタリアは、次第に、市場の様子に目を輝かせ始める。
「楽しそうじゃないか」
「そっ、そんなことは……」
「そういうふうに見えるが……、……ん? あぁなんだ、……形状から察するにはそれは串焼きだろうが……向こうの串焼き屋が美味い……?」
そんな折だった。突然、その場に立ち止まったアレクセイが独り言を呟き始めた。
「……アレクセイ様、どうされたのですか?」
「いやすまない。ほら見えるか、あれ」
アレクセイが指差した先は屋台と屋台の隙間。鼻をひくつかせるドブネズミが一匹、こちらを見ていた。
「『ゴミ漁りをしているが、あそこの屋台が一番美味い。ゴミの中に串が混じってるから食べ辛いんだけど』らしい」
「えっ、アレクセイ様、だってあれは鼠で……」
「私も鼠だろう?」
こちらを見ていたドブネズミが走り去る。
呆気に取られるナタリアに、アレクセイはどこか得意げに笑った。
「鼠は人に聞こえない周波数で会話するんだ。そして私も元は鼠だからな。全てとは言わんが、彼らの声が聞こえるんだよ」




