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それから数日して、ナタリアは国を発つことになった。
両親と、それに妹。セルゲイとその両親から謝罪したいとの申し出もあった。
だがもう終わったことだと全て跳ね除けて、ナタリアは、アレクセイと共に鼠獣人の国へと発ったのだ。
不安がないと言えば嘘になる。
けれどもきっと、アレクセイの隣であれば幸せになれると、そんな直感がナタリアにはあった。
そうして無事にナタリアがアレクセイの妻として正式に皇后の座に就き――あっという間に、10年の月日が過ぎ去った。
*
「ふふ、ふふふ。いやなんだ、私は今、たいへん機嫌がよくてな。そうだ。10年ぶりの帰国なんだ。また横抱きで入場してやろうか」
騒がしいパーティーホール。の、入場門の前で。
あの頃よりいくばくか年老いたアレクセイが、笑いを噛み殺しながらナタリアの腰を抱いた。ゆらゆらと揺れる尻尾をナタリアの体に巻きつけて、楽しそうな声を漏らす。
「もう! そんなことをしたらあの子たちが勘違いしてしまいすよ! 人間の国では横抱きで入場するものだ、って……!」
返事をするナタリアも、10年前のあの頃よりは確実に年老いた。
だが、日々アレクセイに愛され、そして皇后として忙しい日々を過ごす彼女には、――本人は無自覚ではあるが――あの当時にはない威厳が確かに宿っていた。
「それがどうした。なにか問題でもあるのか」
「大アリですとも! 大体、アレクセイ様ももうお年なんです! 腰は労ったほうが……っ」
「失礼な。お前ぐらい、いつだって抱けるとも」
貫禄といえばアレクセイだって同じだ。
ナタリアのためにその地位を退くとまで言ってのけた男。だが国がそれを許さなかった。
結局のところアレクセイは皇帝のまま。そして、髪を後ろに撫でつけ、年相応の貫禄を身に纏うアレクセイは――軽々と、ナタリアを抱いてしまった。
――ナタリアとアレクセイは、3人の子供たちとともに、ナタリアの祖国へ赴いていた。
国王が生前退位する運びとなったのだ。それに伴い行われる新国王の即位式。二人はそれに招待されたというわけだった。
ナタリアにとって10年ぶりの祖国。
距離があったから、というのもおおいにあったが、アレクセイの国で皇后に就いた彼女はとにかくもう忙しくてならなかったのだ。
人間ではありえない数のアレクセイの兄弟たち。それらの顔と名前を覚えるところから始まった。文化の違いに戸惑いつつ、帰国して一層深くなったアレクセイの寵愛を一身に受けながら、あれよあれよという間に妊娠。その傍に皇后の仕事もこなしつつ、気づけばあっという間に10年が経ったというわけだった。
目まぐるしくはあった。
だが嫌な思いはなかったとナタリアは胸を張って言える。文化の差で戸惑ったこともあった。それでも、アレクセイの隣は、セルゲイなんかよりずっと、ナタリアにとって居心地の良い場所だったのだ。
「アレクセイ様、っ下ろしてください!」
「嫌だ」
「わがままですね!」
「今さら」
押し問答をしているうちに扉が開いてしまう。ざわついていた会場が一瞬静まり、すぐに黄色い悲鳴で満たされた。
ナタリアはもう全てを諦め、振り落とされないように、アレクセイの首に腕を絡めた。
「相変わらずお熱いことで」
喧騒の中。声をかけられたナタリアが顔を上げれば、エカテリーナその人が、彼女の夫と共に二人の前に立っていた。
「お久しぶりです。申し訳ありません、こんな格好で入場など……」
「あら、お気になさらないで? 以前手紙にも書きましたが……貴方たちのおかげで、お姫様抱っこ♡ に憧れを持つ令嬢が多いんだもの」
ねぇ? とエカテリーナが夫たる人物に目配せする。
うんうん、と同調して頷いてみせるエカテリーナの夫は――彼女が懇意にしていた侯爵令息だった人物だ。
ナタリアがアレクセイの国に嫁いでしばらくしてから。どんな手を使ったか定かでは無いか、『例の令息と結婚できた』という手紙が届いたのだ。
どうやって結婚まで至ったのか、ナタリアは未だもって知らない。というか知るべきではないかもしれない……と思い、聞くことすらしなかった。
そしてそれをきっかけにエカテリーナとは文通を交わす仲になった。他愛のない話から、お互いのちょっとした悩み事の相談まで。
その中にはもちろん、エミリーやセルゲイ、クローデル家の近況も書き連ねられていて――、
「……あ……」
エカテリーナの背後。視線を感じてナタリアがそこを見やれば、エミリーとセルゲイが、ナタリア達からずっと離れたところでこちらを見ていた。
あの婚約破棄騒動をきっかけに、クローデル家は落ちぶれた。
信頼をなくし、そしてろくに教育の受けていなかった二人が家督を継いだ。そこからの凋落はあっという間だったという。
現に、今のエミリーが着るドレスは一昔前に流行ったもの。手入れも行き届いていないボロボロのドレスだった。
――昔のように啖呵を切ってなにか言ってくるだろうか。
ナタリアは二人をじっと見る。だが二人は、蛇に睨まれた蛙のように、その場から動こうとはしない。むしろ、怯えるように、さっとナタリアから目を逸らしたではないか。
「腑抜けが。いざこうしてお前に睨まれると動けない、ときたか」
隣で見ていたアレクセイが鼻で笑う。
本当にそうだ。10年前のあの勢いは一体なんだったのだろう。だがもう、それも終わった話だ。ナタリアは過去を振り返っている場合ではないのだ。
と、そのときだった。
「おとーさま! おかーさま! お姫様抱っこ♡で登場するのは本当だったんですね!」
「エカテリーナ様がおしえてくれました! あなたのお父様とお母様はぜったいぜったいお姫様抱っこ♡で入場するって!」
「わたしもお父様にお姫様抱っこされたい!」
両親譲りの赤い目を爛々と輝かせた、ナタリアとアレクセイの3人の子供達が突撃してきたではないか。
遅れて、子守りのために連れてきたメイドが走ってやってくる。やんちゃ盛りの子供たち、メイドだけで御するのは難しかったのだろう。
「まぁ待て。こういった場ではな、妻だけお姫様抱っこするのが正式なやり方なんだ」
「「「そうなんですか!?」」」
「そうだとも。私が嘘をついたことがあるか? ないだろう? だからお前達をお姫様抱っこするのはまた後で。部屋に戻ってからしてやろう」
きらきらお目目の子供達に、ナタリアはなにも言えなくなってしまう。どうにか訂正しないと、と頭を抱えながら、ナタリアはもう一度だけ、妹と、かつての婚約者に目を向けた。
――今さらもう話すことなどない。
思い出話をしたいとも、かといって恨みつらみを口にしようとも思わなかった。
婚約破棄は確かに辛くはあった。だがそのおかげで、ナタリアはかけがえのないものを手に入れた。
かといってなにもしないのもよくない気がした。あることないことを流布され、自分達の名誉に傷がつくのは困る。ナタリアは少し迷って――
「……礼儀正しいな、お前は」
「そうでしょうか? どちかといえば嫌味ったらしいの間違いでは?」
「だとしても、あんな奴らにわざわざ頭を下げることなどないだろうに」
わざとらしく。こちらに視線を投げる二人に、とびきりのカーテシーをやってのけたのだ。
会場がざわつく。
10年前の婚約破棄騒動など、知らない貴族もままいる。だがそれにしたって、鼠獣人の皇后の座を手に入れた女が、落ちぶれた貴族に礼儀をもって頭を下げる。
その真意を探り、しばらくはナタリアと、エミリーとセルゲイ夫妻の噂で持ちきりとなるだろう。無論、噂はきっとエミリーとセルゲイを責める論調になるに違いない。そもそも、
「おや。悔しそうな顔をしているな。あそこでお前と同じようにカーテシーのひとつもできないからこそ、あやつらは二流なんだ」
アレクセイの言うように、そこで同じことをし返せない二人。皇后が頭を下げたのに、それに対する礼はないのかと、まず糾弾されるはずだからだ。
10年前と変わらず、ナタリアの腰を抱き、体に尻尾を巻きつけながらアレクセイは言う。確かにエミリーとセルゲイは、悔しくさに顔を歪ませているところだった。
「良かったではないですか。アレクセイ様の好きな、人間の苦しむ顔が見れて」
む、とアレクセイが眉間に皺を寄せる。
「言っていなかったか? 私はもう、人間のそういう顔には興味がないんだ」
「? そうだったんですか? 初耳ですね。ですがどうして」
それはな、とアレクセイは苦笑する。そうして、内緒話をするように、ナタリアの耳元に唇を寄せた。
「どうでもいい人間の顔など見たって仕方がない。私が興味のある純血の人間は、後にも先にもお前だけだと気づいたからな」
――アレクセイと結婚して。この程度の睦言など散々言われてきたはずだ。
なのにナタリアの頬はかっと熱くなる。公の場でこういうことをされたのは久しぶりだからだろうか、アレクセイに反論しようとして、
「あっ! お父様がまたお母様に恥ずかしいこと言ってる!」
「やめなよ!」
「外だよ!」
「む……、……夫婦としての仲睦まじさを見せつけるのも重要なのだぞ? 世の中には愛し合ってもいないくせに婚約破棄だのなんだのする馬鹿がいてな……」
「あ! お父様がまたお話し逸らしてる!」
「大体、そんなことする貴族いるわけなくない!?」
「お父様の作り話って下手くそ!」
「……おいナタリア。少しは助け舟を出してくれないか」
「ふふ、すみません。面白くって……」
3人の子供たちと愛する夫に囲まれながら、ナタリアはおかしそうに笑ったのだった。
これにて完結です。ここまで読んでくださりありがとうございました。
ムーンライトノベルズの方でR版も投稿しているので気になる方はぜひ(Rシーン以外は全て同じです)。




