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「物陰でこそこそ泣いているとは、それこそ鼠のようだな」
薄暗い夜の庭園。咲き誇る花々は、どれも目を見張るような高級品ばかり。手入れもこれ以上なく行き届いている――のは、ここがひとえに王宮内の中庭という立地のせいかもしれない。
限られた貴族しか立ち入ることのできない、その芳しい王宮の庭で。公爵令嬢がひとり、さめざめと泣き腫らしていた。
そんな折だった。一人の男が、令嬢に声をかけたのは。
「あの場で婚約破棄を受けるとは勇ましいことこの上ない思ったんだがな。まさかこんなところで泣いているとは」
男の言葉に、公爵令嬢――ナタリアは動揺からびくりと肩を跳ねさせた。
「っ……誰ですのあなたは……! その口ぶりでしたら先ほどの騒動は見ていられたんでしょう……!?」
半ば叫ぶようにナタリアは言う。
けれど、殿方に涙を見せるのは言語道断だと、彼女は振り向くことはできなかった。
「見たくて見たわけではない。あれぐらい騒ぎを起こせば嫌でも耳に入る。それに伴い騒動の渦中まで目にしてしまう――のは、なんら不思議な話ではないだろう」
「わっ、私だって騒ぎを起こしたくて起こしたわけでは……!」
ぎり、と唇を噛み締めながら。
現実から目を背けるように、ナタリアはきつく目を瞑った。
ナタリア・クローデル。18歳。
現国王の妹である母。それに侯爵家出身の父。妹を一人もつ彼女――が巻き込まれた騒動。それは、他国の王侯貴族も交えた夜会で行われた婚約破棄騒動だった。
ことの発端はナタリアの妹であるエミリーが、ナタリアの婚約者である公爵令息のセルゲイ・マルシャンとこそこそ関係を持ち始めたことから始まる。
いつからそうなったのか、ナタリアもわからない。だが気づいたときには、セルゲイはエミリーに首ったけだったのだ。
もちろん両親にだって訴えた。
エミリーのやること――セルゲイと二人で街に出たり、ナタリアを差し置いてお茶会に興ずる。パーティーの場ではエスコートの場を奪う――のはあまりにおかしいのではないか、と。
けれどこの両親。エミリーのことを、それはそれは猫可愛がりしていたのだ。
エミリーは体が弱かった。
3歳しか年の離れていないナタリアは覚えていないが、エミリーは幼い頃に何度も死にかけたらしい。そのせいもあって、両親はひたすらに彼女に甘かった。
『まぁまぁ、あんなの今だけだ』
『セルゲイのことは兄のように慕っているだけだろう』
『ナタリアは姉なのだから、エミリーに少しぐらい譲ってやりなさい』
そう言うばかりで、結局ナタリアの言葉は聞き入れてもらえなかった。
そして今夜。決定的な事件が起こったのだ。
『ナタリア! 君がエミリーにしてきた意地悪な話には心底がっかりしたよ! よって僕はこの場で! 君との婚約を破棄する!』
『セルゲイ様……? 突然なにを仰るのです? それに意地悪ですって? そんなものエミリーにしたことは……』
『お姉様っ……もう忘れてしまったのですか……! 体が弱く、床についてばかりの私に、セルゲイ様とのことをご自慢ばかりされていたことを……! 病気ばかりの貴方は着る機会ないでしょ、とドレスを無理やり奪ったり……!』
――そんなこと、断じて、絶対にありえない。
そもそもセルゲイはエミリーに夢中で、彼と二人きりでどうこうということ自体があまりなかった。
ドレスにしたって、――母親譲りの黒髪ストレートに赤い瞳のナタリアは少しキツめの印象を与える顔立ち。
対するエミリーは、父親譲りの金髪のゆるふわな髪にエバーグリーンの瞳。姉妹でありながら、二人の顔立ちはそれは対照的なものだった。
外見の特徴が違いすぎる。だからドレスを奪ったところで、エミリーのドレスをナタリアが着こなせるはずがなかった。
『事実無根です!』
ナタリアとて目一杯反論する。だがそのうち泣きだしてしまったエミリーに、会場の気持ちは彼女に傾いてしまう。
そうなってくるとナタリアへ向けられるのは非難の目だ。
いくら違う、事実無根だと叫んだところで、涙を滲ませる女に勝てるわけがなかった。
『ほら見ろ! お前の数々の悪行を思い出し、エミリーが泣きだしてしまったではないか!』
肩を寄せ合うふたり。さながら物語の主役のよう。
そこでナタリアの中でなにかがぷつりと切れた。
――エミリーの虚言を疑うこともなく、まして私に汚名を着せようとしている。そんな男なんて――
『――貴方なんてこちらから願い下げよ! 婚約破棄でもなんでも受けてみせるわ!』
後先考えず叫んで――そこでナタリアはハッとした。
周囲の冷ややかな目線。自分から叫んでおいて、衆目に耐え切れなくなってしまった。
結局そのまま、会場を抜け出してしまった。
憎たらしくて悲しくて悔しくて、涙が溢れて止まらなかっと。こんな情けない姿、誰にも見せたくない。そう考えたナタリアが選んだ先が――王宮の、この庭だったというわけだ。
「お前も、あの男と女の番も愚かなことよ。夜会の座で騒ぎを起こすなど、考えなしもいいところだ」
「ですからっ……あれは私がやりたくてやったわけでは……っ……セルゲイ様とエミリーが勝手に共謀して……!」
「それはそうだろうな。あのときのお前の様子を見るに、まったく予想していなかったのだろうというのは、こちらからも見て取れた」
「……っ……わかってるならどうして酷いことばかり仰るのですか……っ……それになんですか貴方は……! 私はこれでも公爵令嬢でっ……!」
あまりに失礼な物言いの男に、とうとう我慢できなくなったナタリアがばっと振り向いた。
涙が流れていようが関係あるまい。この失礼な男に、なぜ自分が礼儀を以て接する必要があるのか。
「酷いもなにも。私は提案しにきたんだよ、ナタリア」
振り向いたナタリアは絶句する。
声の主である男は――鼠の獣人を統べる帝国の皇帝だったからだ。
名前はアレクセイ。30歳。絹を思わせる長い銀髪に、鮮血のような真っ赤な目。鼠獣人の証である長く太い尻尾。すらりとした長身の美丈夫で、ナタリアはもちろんその存在を知っていた。
「しっ……し、しし失礼いたしました……!」
他国とはいえ背後の男が皇帝だったとは。
慌てて頭を下げようとしたナタリアに、待て、とすぐに声がかかった。
「頭を下げるな。泣き顔を見せてみろ。……なるほど? お前のその顔、近くで見るとなかなかにそそるものだな」
「へっ……? なにを仰って……」
「提案にきたと言っただろう。いいかナタリア。私はね、純血の人間どもの苦痛に歪む顔がなにより好物なんだ」
「ゆ、歪む……?」
「想像してみろ。王侯貴族の集う夜会。そこで手酷く婚約破棄された公爵令嬢が――婚約破棄を突きつけた男より高位の男と共に歩いていたなら――面白いとは思わないか?」
「あ、あの……」
「お前はあの二人に嵌められたんだろう? なればこそ、私と歩くお前の姿を見でもしたら、セルゲイとか言うアホはプライドがへし折られるやもしれんな。妹のほうは悔しさから舌打ちまでするかもしれない」
「し、失礼ですが、先ほどからなにを……」
「復讐したいとは思わないか」
「へっ」
「復讐というには軽いかもしれん。だがお前のプライドを粉々に打ち砕いたあやつらに、一泡吹かせたいと。お前は思わないのか?」
鼠獣人の証である長く太い尻尾を揺らしながら、アレクセイは、嗤った。
*
「あらぁお姉様。そんなに着飾ってどこにお出かけで?」
その翌日。パーティーの疲労も抜けないまま、ナタリアは外出の準備に追われていた。
「セルゲイ様とも婚約破棄したわけですし……もしかしてもう男漁りのご予定で?」
ばたばたと準備をするナタリアにかけられたのは、エミリーの煽るような言葉。
言い返そうとしてナタリアは押し黙る。今はそれどころではない。急いで準備しなければあの人が――
「ナタリアっ……!?!」
――予想はすぐに現実となる。
血相を変えた父が、ノックすらせずナタリアの自室に飛び込んできたからだ。
「お、っお、おおおお前に客人がっ……!? いやおかしい、なぜ、そんなことっ……」
今までにないぐらい慌てる父を見て、ナタリアは思わずため息を吐いた。
「……すぐ出ます。それとお父様、今日は帰りが遅くなるかもしれません」
端的に告げて、ちらりとエミリーを一瞥する。
彼女はといえば、状況が飲み込めていないのか怪訝そうな面持ちだ。
「……お姉様? どこに行くの?」
聞こえなかったふりをしてナタリアは部屋を出る。
それから、はしたないと思いながらもドレスの裾を押さえてできる限り走った。はしたなさよりも、あの人を待たせることのほうが怖かったからだ。
「おや、ずいぶんめかしこんだようだな」
肩で息をしながら外に出れば――涼しい顔をしたアレクセイがナタリアを出迎えた。
「昨日の今日だ。そこまで気合いを入れずともよかったのに」
「そういうわけには……皇帝陛下と肩を並べるのであれば、」
「名前で呼べ名前で。その方が『それらしい』だろう」
「……ではアレクセイ様と」
「それでいい。それで、ナタリア。お前の屋敷の窓に張りついてこっちを見てる女。あれはお前の妹か」
アレクセイが顎でしゃくった先。悪魔のような形相でこちらを見つめるエミリーが見えた。
「えぇ、そうですが……、……エミリーの姿は昨日も見たのでは……?」
「興味のない女の顔を覚えている暇ないんだよ。あぁ、それにしてもあれは酷い顔だな。愉快愉快。なに、もっとあれを醜くさせようか」
心底楽しそうに笑ったアレクセイは、後ろで結えていた髪をやおら解いた。
訳もわからずナタリアが見つめていると、突然腰が強く抱き寄せられる。
アレクセイがその長身を屈めた。今にもキスできそうなところまで、顔の距離を詰められる。屈んだ拍子、ナタリアの顔を隠すように長い銀髪が垂れた。
「少し我慢しろ」
――ぎゃっ、と遠くで悲鳴が聞こえた。
庭師の男の声だった。一方のナタリアは、自分が今なにをされているのか訳がわからなかった。わかるのは、至近距離にいる男の顔が整いすぎているということぐらい。目と鼻の先で見る赤い瞳は、心を奪われそうなぐらい綺麗なことだけ。
「……ふふ、妹の醜い顔。お前も見れたらよかったのになぁ?」
それから少しして、ゆっくりとアレクセイが離れていく。
ナタリアは状況が掴めない。アレクセイはナタリアの腰を抱いたまま、停められていた馬車にエスコートする。
「あの、アレクセイ様、なにを……」
「口づけするふりをしただけだ」
さらりと答えられ、ナタリアは足が止まりそうになる。だがエスコートされている立場、立ち止まることもできず、そのまま馬車へと連れ込まれた。
「威厳が出そうだからと伸ばしていたが長髪も便利だな。あの小娘、私の髪に阻まれて、私とお前が本当に口づけしたと思っているに違いない」
アレクセイが合図を出す。ゆっくりと馬車が動き出した。
「あぁそれにしても面白かった。人間の苦悶に歪む顔はやはり最高だな」
けらけらと笑うアレクセイの声に連動してか、あるいは馬車の振動のせいか。長い鼠のゆらゆら揺れる。
「……本当に人間がお嫌いなんですね」
「それは語弊がある。お前たちの実験は、私たちに二足歩行、知恵と言葉を与えたからな。四足もいいものだが、やはり高い視点で見る世界はなかなかに良いものだ。故に嫌いではない。ただ、苦しむところを見るのが好きというだけだ」
――そもそも鼠獣人は、人間が鼠に対して常日頃から行っていた度重なる臨床試験、遺伝子操作や薬物投与の末――ある日異変を起こし、産まれた生物だった。
四足歩行から二足歩行へ。
人間と同程度の知能を有し、人間の言語を理解する。
それが、アレクセイを筆頭とした鼠獣人たちだった。
最初こそ屠殺だなんだと、新しい生物を亡き者にするための政策が取られた。
だが繁殖能力の高い彼らは瞬く間に数を増やしていった。
やがて制御しきれなくなった当時の国王は、辺境に領地という名の隔離地を与えたのだが――あまりに著しいスピードで増えること。また、実験動物として扱われていた頃の名残で、人間に対して憎悪の念を抱いている者が少なくはなかったことから、ある懸念を抱き始める。
――このままでは国が乗っ取られるかもしれない。
今はどうにか押さえつけることがてきても、数年後はどうなっている? そう考える程度には、鼠の繁殖力は異常だった。
やがて当時の国王はこう決断する。
鼠獣人たちに『生物として人間と同等の権利を有する地位を与える』と。そしてそれを最大限示すために、与えた領地を、一国として認めることにしたのだ。
そうでもしなければ、なぜこうまでなって人間の傘下にいねばなるまいと鼠獣人からの反発は必至だった。その末に生まれた国。それが、アレクセイが統治する鼠獣人の国だった。
それが今から遡って300年ちょっと前の話。ナタリアももちろんこの話は知っていたが、彼女からしてみれば、昔話と等しい歴史の話だった。
だが鼠獣人は違う。
潮流も変わり、今では人間と友好的な関係を築くまでに至った。だがそれでも、アレクセイのように、『人間の苦しむ姿』に一定の快楽を得る個体がいるのだという。
『遺伝子改変、薬物投与、夥しい数の死体とともに積まれた実験の数々……先祖の苦しみを忘れるな、と、遺伝子に刻まれているんだろうな。だからこそ私は人間の苦しむ姿を見るとおおいに満足してしまうんだよ』
昨夜。庭園で内緒話のように囁かれたこと。
あのときはアレクセイの言葉をなにひとつ信じることはできなかったが――ナタリアは、今その言葉を身に沁みて感じていた。
この男、本当に人間が苦しむ姿に快楽を見出しているのかもしれない、と。




