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成就

 時は流れ、一五二八年。


 マラッカ陥落から一七年の歳月が流れていた。


 スマトラ島、カンパール。亡命政権の仮王宮は、かつてのマラッカの輝きとは比べるべくもない、湿ったジャングルの奥深くに存在していた。


 雨が降っていた。


 昼夜を問わず降り続くスコールが、粗末な木造の屋根を叩く。その音は、死神が扉をノックする音のように聞こえた。


 薄暗い寝室で、かつてのマラッカ王、スルタン・マフムード・シャーが死の床に伏せっていた。


 その姿は無惨だった。


 肌は土気色に枯れ、目は落ち窪み、かつての暴君の面影はない。あるのは、過去の亡霊に怯える一人の哀れな老人だけだった。


「……ファティマ、ファティマはどこだ」


 王は譫言うわごとのように妻の名を呼んだ。


「ここに」


 闇の中から、静かな声が答えた。


 トゥン・ファティマが枕元に座っていた。

 一七年という歳月は、彼女から若さを奪うどころか、その美貌に凄みという名の磨きをかけていた。白髪一つない漆黒の髪、深淵を湛えた瞳。彼女は、老いさえも支配しているようだった。


 王は震える手を伸ばし、ファティマの手を握りしめた。


「怖い……。アフマドがいるのだ。枕元に、あやつが立っておる……」


 マラッカ陥落後、追放された長男アフマドは、実父である先王を追い、亡命政権へと逃れてきた。

 しかし王は数年前、自らの手で殺した長男アフマド・シャーの幻影を見ていた。


 マラッカ奪還に失敗した際、王は八つ当たりで長男を処刑したのだ。それもまた、ファティマが長い時間をかけて王の耳に吹き込んだ、「失敗した息子など不要」という毒が回った結果だった。


「『父上、なぜ私を殺した』と……あやつが余を睨んでおる……」


 王は涙を流した。


「余は呪われているのか? 国を失い、子を殺し、こうして異国の土で死ぬのか?」


 ファティマは、王の手を握り返した。その手つきは、病人をいたわる看護師のようであり、獲物の息の根を止める瞬間の捕食者のようでもあった。


「いいえ、陛下。呪いではありません」


 彼女は優しく囁いた。


「これは『選別』です。弱き血は淘汰され、強き血だけが残る。……陛下は、私の息子アラーウッディーンという、最強の後継者を残されたではありませんか」


「アラーウッディーン……そうか、あの子が……」


 王の目に、微かな光が宿った。


「あの子は、余に似て強い王になるか?」


 ファティマは微笑んだ。


「ええ。あなたよりも強く、賢く、そして誰よりも『私』に似た王になるでしょう」


「そうか……なら、よい……」


 王は安堵の息を吐いた。

 その呼吸が、次第に浅くなっていく。


「ファティマよ……。余は、そなたを愛していたぞ。……そなたに出会えたことだけが、余の人生の……光……」


 最期の言葉は、吐息となって消えた。

 握りしめていた力が抜け、王の手がシーツに落ちた。


 かつて東南アジアの覇者として君臨した男の、あまりにあっけない幕切れだった。

 部屋に静寂が満ちた。雨音だけが響いている。


 ファティマは、死に絶えた王の顔を見下ろした。


 悲しみはなかった。憎しみさえも、もう薄れていた。あるのは、長く退屈な仕事が終わった時のような、淡々とした達成感だけだった。


「おやすみなさい、マフムード」


 彼女は王の目蓋まぶたを指で閉じた。


「ゆっくり眠りなさい。……あなたの罪は、私がすべて歴史に刻んであげますから」



 寝室の扉を開けると、廊下に一人の青年が立っていた。


 アラーウッディーン・リアヤト・シャー2世。


 ファティマとマフムードの息子であり、後のジョホール王国初代スルタンとなる若者である。


 彼は、父の惰弱さではなく、母の冷徹な美しさと知性を受け継いでいた。


「母上。……父上は?」


「逝きました」


 ファティマは短く答えた。


 青年王は、一度だけ寝室の方を見て、すぐに母に向き直った。


「そうですか。……では、葬儀の準備と、即位の儀を進めねばなりませんね」


 その声に感傷はない。彼はすでに知っているのだ。父はただの飾りであり、この国の真の支配者は目の前にいる母であることを。


「アラーウッディーン」


 ファティマは息子の頬に手を添えた。


「よくお聞きなさい。今日からあなたが王です。この新しい国ジョホールは、あなたのもの」


「はい、母上」


「けれど、忘れてはなりませんよ。あなたの体には、かつてこの地で最も高貴だった『ベンダハラ(宰相)一族』の血が流れていることを。……殺された私の父、トゥン・ムタヒルの血が」


 息子は母の瞳を覗き込んだ。そこにある底知れぬ闇と、激しい情念の炎を見た。


 彼は聡明だった。幼い頃から母に聞かされていた「寝物語」の意味を、今完全に理解したのだ。


 父が祖父を殺し、その父の血統を母が根絶やしにし、自分という存在に入れ替えたことを。


「承知しております」


 息子は恭しく母の前に跪いた。


「私の血は、母上の血。父の罪を浄化し、母上の誇りを取り戻すために、私は王となります」


 ファティマは満足げに頷いた。

 これでいい。

 マフムードの血統(前妻の子ら)は死に絶えた。


 残ったのは、私の血を引くこの子だけ。

 マレー半島の王統は、今日この瞬間、完全に私の一族のものとなったのだ。



 葬儀が終わり、夕暮れ時。

 ファティマは一人、王宮の外れにある丘に立った。


 雨は上がり、雲の切れ間から黄金色の夕日が差し込んでいた。濡れたジャングルの木々が、宝石のように輝いている。


 風が吹いた。


 その風の中に、懐かしい香りを感じた気がした。

 白檀の香り。スパイスの香り。


 遠い昔、平和だった頃のマラッカの香り。


(アリ……お父様……)


 彼女は胸元から、古びたロケットを取り出した。中には何も入っていない。ただ、かつて愛する夫トゥン・アリが贈ってくれた、小さな布切れが入っているだけだ。


 一七年。長かった。

 愛する男の首が転がったあの夜から、彼女はずっと地獄を歩いてきた。

 心を殺し、体を売り、憎い男に抱かれ、その子を産み、育て上げた。

 復讐のために、自らも修羅となった。


 だが、終わった。


 憎い男は死んだ。彼の国も滅びた。


 そして今、新しい国が、私の血によって治められようとしている。

 ファティマは、西の空を見つめた。


 その彼方には、かつての故郷マラッカがあるはずだ。今はポルトガル人のものとなり、石造りの要塞に変わってしまった街。


「戻ることはないわ」


 彼女は呟いた。


「あそこはもう、私の場所ではない」


 彼女は視線を足元に戻した。

 泥にまみれた大地。そこから力強く伸びる緑の草木。


 ここが、私の国だ。私が勝ち取った、新しい世界だ。


 ふと、彼女の強張っていた肩から力が抜けた。

 張り詰めていた糸が、ようやく切れたようだった。


 彼女の口元が緩んだ。


 それは、王に見せた誘惑の笑みでも、街が燃える時に浮かべた狂気の笑みでもなかった。


 少女のような、無垢で、晴れやかな微笑み。

 

「……勝ったわ」


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、風に溶けた。

 彼女は笑った。声を上げて笑った。


 一七年分の涙と、怒りと、愛をすべて吐き出すように。


 夕日の下、ジャングルの緑に包まれて、国を動かした一人の女性が笑っている。

 その笑顔は、どんな宝石よりも美しく、そして残酷なほどに輝いていた。


 歴史は記すだろう。


 マラッカを滅ぼしたのは、ポルトガルの大砲ではない。


 一人の美しき王妃の、静かなる復讐であったと。




 マラッカ王国はポルトガルに制圧された後、マレー半島の南端を転々とする。南端のジョホールにたどり着くと、そこに根ざしジョホール王国となった。


 マラッカ王国はこうして滅びたが、その後身であるジョホール王国のスルタン位(王位)は、現在のマレーシア連邦でも継承されている。 

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