滅亡
一五一一年八月。
マラッカの海は、かつてないほどの緊張に張り詰めていた。
沖合に停泊するのは、ポルトガルの提督アフォンソ・デ・アルブケルケ率いる艦隊。「海の悪魔」と恐れられる彼らのガレオン船は、マラッカの人々が見慣れたジャンク船とは異質の威圧感を放っていた。高くそびえる船尾、船腹に並ぶ無数の砲門は、まるで口を開けた海の怪物のようだった。
正午。
太陽が頭上に達した時、世界が裂けるような轟音が響き渡った。
一斉射撃である。
空気がびりびりと振動し、海鳥たちが悲鳴を上げて飛び立つ。
鉄の塊が唸りを上げて空を裂き、マラッカの誇る城壁に激突した。石材が粉砕され、爆発的な砂煙が舞い上がる。
王宮のバルコニーで、ファティマはその光景を見ていた。
彼女の美しい顔に、爆風の余波が当たる。
隣にいる侍女たちは耳を塞いで蹲っているが、ファティマは瞬き一つしなかった。
「……始まった」
彼女の呟きは、誰にも聞こえなかった。
続いて、第二射、第三射。
砲弾は正確無比に街を抉っていく。港に停泊していた商船が木端微塵に吹き飛び、燃え盛る木片が雨のように降り注ぐ。海面は燃える油と血で、毒々しいマーブル模様を描き始めていた。
硝煙の臭いが鼻をつく。それは腐った卵と鉄錆を混ぜたような、死の前触れの臭いだった。
戦場は陸へと移った。
マラッカ軍の頼みは、戦象部隊である。
巨大な象たちが、極彩色の装飾を揺らし、地響きを立てて進軍する。その背には勇敢な戦士たちが乗り、毒を塗った矢や槍を構えていた。
古来より、東南アジアにおいて象は「戦場の王者」だった。その巨体で踏み潰せば、どんな敵もひれ伏すはずだった。
だが、時代は変わっていた。
ポルトガル兵たちが構えたのは、冷たい光を放つ火縄銃だった。
隊長の号令と共に、一斉に火が噴く。
乾いた破裂音が連続し、鉛の弾丸が象たちの分厚い皮膚を容易く貫通した。
「パオォォォォンッ!!」
悲痛な叫びを上げ、巨獣たちがのた打ち回る。
痛みと恐怖で狂乱した象は、制御を失い、あろうことか味方の軍列へと突っ込んでいった。
阿鼻叫喚。
人間がトマトのように弾け、踏み潰されていく。
マラッカ軍の兵士たちの叫び声、骨が砕ける音、そしてポルトガル兵たちの勝ち誇ったようなラッパの音が混ざり合う。
ファティマは、王宮の高みからその様を見下ろしていた。
彼女の瞳には、燃える街の赤色が映り込んでいた。
「脆い……」
彼女はため息をついた。
「なんと脆い国。父上が心血を注ぎ、守ろうとしたものが、これほどあっけなく壊れるとは」
そこへ、伝令が転がるようにして駆け込んできた。全身血まみれである。
「へ、陛下! 申し上げます! 橋が……マラッカ川にかかる大橋が、敵に奪われました!」
王座に座り込んでいたスルタン・マフムード・シャーが、弾かれたように顔を上げた。
「な、なんだと!? あの橋を奪われては、王宮まで一直線ではないか!」
「はっ……防衛線は崩壊しました。もはや、敵の侵入を防ぐ手立ては……」
「ひっ……!」
王は腰を抜かし、ガタガタと震え出した。
その股間から、じわりと湿ったしみが広がっていく。絶対君主としての威厳は、恐怖の前に完全に溶解していた。
夕刻。
街は巨大な火葬場と化していた。
ポルトガル軍が放った火は、風に乗って住宅密集地を舐め尽くし、夜空を昼間のように赤く染め上げていた。
王宮にも、ついに火の手が回った。
豪華なペルシャ絨毯が燃え、金箔を施した柱が黒く焦げていく。
逃げ惑う女官や宦官たち。彼らは略奪に来たポルトガル兵に見つかり、あるいは斬られ、あるいは犯され、無慈悲に命を散らしていく。
そんな混乱の中、ファティマの寝所だけは、奇妙なほど静かだった。
彼女は身支度を整えていた。
宝石類は最小限にし、動きやすい衣を纏う。そして、胸元には一振りの短剣を忍ばせた。
揺りかごの中では、生後間もない息子が、不思議なほど安らかに眠っている。
「ファティマ! ファティマ!」
扉が乱暴に開かれ、マフムード王が入ってきた。
彼は髪を振り乱し、顔は煤と涙でぐちゃぐちゃだった。
「余を置いていかないでくれ! 怖いのだ、一人にしないでくれ!」
ファティマはゆっくりと王の方を向いた。
背後でカーテンに火が燃え移り、彼女のシルエットを逆光で浮かび上がらせる。
その姿は、地獄の業火の中に立つ魔女そのものだった。
「陛下。……ご覧になりましたか?」
ファティマは、窓の外を指差した。
「あなたの街が燃えています。あなたの民が死んでいきます。……きれいですね」
「き、きれい……? 気が触れたのか!?」
「いいえ。これは浄化です」
彼女は夢見るような声で言った。
「夫の血を吸った土、父を殺した命令を下した広間……すべてが灰になっていく。私の胸のつかえが、煙と共に空へ昇っていくようです」
王は呆然と彼女を見つめた。
この期に及んで、恐怖するどころか、恍惚としている妻。
彼は初めて、自分が抱いていた女の「正体」を垣間見た気がした。だが、今の彼には、その女に縋るしか生きる道はなかった。
「た、助けてくれ……。余はまだ死にたくない……」
ファティマは冷ややかに微笑み、眠る息子を抱き上げた。
「ええ、死なせはしません。あなたはまだ、死ぬことすら許されないのですから」
彼女は王の手首を掴んだ。その力は、男の王が痛みを覚えるほど強かった。
「来なさい、マフムード。地獄の底までお供します」
脱出は過酷を極めた。
王宮の裏門から抜け出し、ジャングルへと続く獣道を目指す。
頭上を砲弾が飛び交い、近くで建物が崩落する轟音が響く。
途中、逃げ遅れた民衆の死体が道を塞いでいた。
王は「ひぃっ」と悲鳴を上げて足を止めたが、ファティマは表情一つ変えず、死体の山を跨いでいった。
彼女の白い足が、泥と血で汚れていく。だが、彼女は気にしなかった。この血の道こそが、新しい国へと続くレッドカーペットなのだから。
やがて、丘の上にたどり着いた。
ここからは、燃え落ちるマラッカの全貌が見渡せた。
かつて「東洋のベニス」と謳われた栄華の都は、今や巨大な焚き火となっていた。
海には勝者であるポルトガル船団の灯りが揺れ、陸では敗者たちの断末魔が木霊する。
王はその場に膝をつき、子供のように泣きじゃくった。
「余の国が……余の財宝が……」
ファティマは、その隣に立ち、風に吹かれていた。
熱風が頬を撫でる。
彼女は息子を抱き直し、燃える王宮を見つめた。
そこには、かつて愛した夫との思い出も、憎しみの記憶も、すべてがあった。
「さようなら」
彼女は呟いた。
それは誰に向けた言葉だったのか。死んだ前夫か、殺された父か、それとも自分自身の過去か。
ファティマの口元が、ゆっくりと歪んだ。
炎の赤を受けて、その唇が鮮血のように輝く。
彼女は笑っていた。
国が滅びる音を聞きながら、彼女は生まれて初めて、心の底からの解放感を味わっていたのだ。
「さあ、行きましょう」
ファティマは王の背中を蹴りつけるようにして促した。
「ジャングルの奥へ。獣のように這いつくばってでも生き延びるのです。……この子が、新しい王になるその日まで」
二つの影が、深い闇の森へと飲み込まれていった。
背後で、マラッカ王国の終焉を告げる塔が、轟音と共に崩れ落ちた。




