懐妊
季節が巡り、雨季が訪れた頃。
雨季のマラッカは、海も空も灰色に沈んでいた。
王宮の奥、ファティマの居室には、湿った風と共に、腐った果実のような吐き気が充満していた。
ファティマの体に異変が起きていた。
つわりである。
王は大いに喜び、国中に祝いの布令を出そうとした。
しかし、当のファティマは、部屋に閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。
「ウッ……!」
ファティマは、螺鈿細工の施された痰壺に顔を埋め、胃の中のものを戻していた。何も食べていないのに、込み上げてくるのは黄色い胃液だけだ。
背中をさする侍女の手が震えているのがわかる。
「お、お妃様……大丈夫でございますか。王宮医を呼びましょうか」
「必要ないわ。下がって」
ファティマは青ざめた顔で唇を拭い、冷ややかに命じた。
「誰も入れるなと言ったはずよ。……たとえ、陛下であっても」
侍女たちが逃げるように去った後、彼女は力なく寝台に倒れ込んだ。
下腹部に手を当てる。まだ膨らみすらしていないその場所に、確かな「異物」が存在していた。
(汚らわしい……)
彼女は爪を立てて、自分の腹を掻きむしった。
そこに宿っているのは、愛する夫トゥン・アリの忘れ形見ではない。父と夫を殺した男、マフムード・シャーの種だ。
あのアフリカ象のように貪欲で、脂ぎった男の血が、自分の中で細胞分裂を繰り返し、形を成そうとしている。その事実に、彼女は全身の血が逆流するような嫌悪を覚えた。
「殺してやる……」
彼女は枕の下に隠していた短剣を取り出した。
波打つ刃を持つ、クリスと呼ばれる短剣。かつて夫が護身用に持たせてくれたものだ。
これを突き立てれば、この忌まわしい種も、自分という汚れた器も、すべて終わらせることができる。
切っ先を肌に当てる。チリッとした痛みが走る。
その時、ふと、ある考えが稲妻のように脳裏をよぎった。
(待てよ……)
彼女の手が止まる。
死ぬのは簡単だ。だが、死んでしまえば、あの男――マフムードはどうなる?
一時は悲しむだろう。だが、すぐにまた新しい女を見つけ、飽食と快楽の日々に戻るだけではないか?
そして、あの男の血を引く長男アフマドが王位を継ぎ、この国は何事もなかったかのように続いていく。私の家族の死は、ただの「過去」として忘れ去られる。
(それは許せない。絶対に)
ファティマの瞳から、自殺願望という名の甘えが消えた。
代わりに宿ったのは、氷のような計算だった。
この子は「武器」だ。
あの男が何よりも欲しがり、執着している「私」の体から生まれる子供。それは、王家という堅牢な城を内側から食い破るための、最強の毒になるはずだ。
「……いいでしょう」
彼女は短剣を握り直した。
「産んであげるわ。ただし、タダでは産まない。……高い代償を払ってもらうわよ、マフムード」
その夜、雷鳴が轟く中、スルタン・マフムード・シャーは強引にファティマの部屋に入った。
「ファティマ! なぜ余を拒むのだ!」
王は焦っていた。数日間、部屋に入れてもらえないだけで、彼は禁断症状を起こした阿片中毒者のように情緒不安定になっていた。
「具合が悪いと聞いたぞ。医者に見せろ! そなたの身に何かあれば、余はどうすればいいのだ!」
王が寝台のカーテンを荒々しく開ける。
次の瞬間、彼は悲鳴に近い声を上げて後ずさった。
「な……っ!?」
そこにいたのは、寝乱れた姿のファティマだった。
豊満な胸元を露わにし、片手には抜き身の短剣。そしてその切っ先を、自らの白く滑らかな下腹部に突き立てていた。
白い肌に赤い血が一筋、ツーと流れている。
「来るな!!」
ファティマの絶叫が、雷鳴よりも鋭く王の鼓膜を貫いた。
「ファ、ファティマ……何をしている! やめろ、刃物を置け!」
「一歩でも近づいてごらんなさい。この短剣で、腹を裂いて中身を引きずり出してやります!」
彼女の目は血走っていた。演技ではない。狂気と理性がギリギリのバランスで同居していた。
「な、なぜだ……なぜ死のうとする!」
王は両手を上げ、震えながら懇願した。
「余が悪いのか? 気に入らぬことがあるなら言え! 何でも叶える! だからその美しい肌を傷つけるな!」
ファティマは、蔑むような目で王を見下ろした。
「陛下、私の腹に何がいるか、ご存知ですか?」
「な、なに? まさか……」
「ええ、子供です。あなたの子供」
王の顔が、驚きと歓喜で歪んだ。
「おお……! でかした! 余の子か! ならばなぜ……」
「だからこそです!」
ファティマは短剣をさらに深く押し込んだ。血の量が増える。
「憎い! あなたが憎い! 私の父と夫を殺した男の血が、私の中で育っているなんて……耐えられない! 今すぐえぐり出して、ドブに捨ててやりたい!」
「やめろぉぉぉッ!」
王はその場に土下座した。額を床に擦り付け、子供のように泣き叫んだ。
「頼む、殺さないでくれ! それは余の希望なのだ! ファティマ、お前との間にできた子など、神の奇跡ではないか!」
ファティマは冷ややかに、床に這いつくばる王を見つめた。
機は熟した。
彼女は呼吸を整え、声のトーンを落とした。先ほどまでのヒステリックな叫びから、地を這うような低い声へ。
「……産んで欲しいのですか?」
王は顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で、何度も頷く。
「欲しい! 頼む、産んでくれ!」
「ならば、誓ってください」
ファティマは短剣を持ったまま、妖しく微笑んだ。
「この子を、次の王にすると」
王は動きを止めた。
「……なに?」
「聞こえませんでしたか? この腹の子を、あなたの後継者に指名しなさいと言っているのです」
王は困惑した。
「し、しかし……余にはすでにアフマドがいる。第一王妃との間に生まれた長男だ。彼がすでに成人し、次期王として……」
「だから、何だと言うのです?」
ファティマは言葉を遮った。
「あのアフマド王子が、私の産む子の兄になると? ……笑わせないでください」
彼女は短剣の柄を強く握りしめた。
「私は、宰相の名門の娘。そしてあなたは王。私たちの間に生まれる子は、誰よりも高貴な血を引くはず。それが、あのような愚鈍な前妻の子の風下に立つなど……死んでも許せません」
「だ、だが、法が……家臣たちが納得せぬ……」
「王こそが法であると、仰ったでしょう?」
ファティマの叱咤が飛ぶ。
彼女は寝台から降り、血のついた短剣を持ったまま、膝をつく王に歩み寄った。
そして、王の首筋に、冷たい刃をそっと当てた。
「選びなさい、マフムード」
彼女は王の耳元で甘く囁いた。
「過去の女の息子を取るか。……それとも、今、あなたが愛してやまない私と、この腹の『未来』を取るか」
王は震えていた。
喉元にある冷たい刃の感触。そして、目の前にあるファティマの圧倒的な美貌と、魔性の香り。
彼の理性は、音を立てて崩壊した。
長男への愛情など、この女の魅力の前では塵に等しかった。
「わ、わかった……」
王はうわごとのように呟いた。
「アフマドは……廃嫡する。追放でも、処刑でも、好きにするがいい」
「本当に?」
「誓う! アッラーに誓って! だから、その子を……余の愛しい子を殺さないでくれ!」
ファティマは、ふっと息を吐き、短剣を床に投げ捨てた。
カラン、という乾いた音が、王家の血統が入れ替わった合図だった。
彼女は両手を広げ、王を抱き寄せた。
「ああ、嬉しいですわ、陛下。……それでこそ、私の王です」
王は救われたように彼女の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
ファティマは王の頭を撫でながら、虚空を見つめた。その瞳は、獲物を仕留めた毒蛇のように冷たく輝いていた。
(さようなら、アフマド王子。あなたに罪はないけれど……恨むなら、自分の父親の狂気を恨みなさい)
翌日から、王宮には血の雨が降った。
王の命令は絶対だった。
長男アフマド・シャーは、「王への不敬」という曖昧な理由で地位を剥奪された。
彼を支持していた家臣たちも、次々と捕らえられ、あるいは暗殺された。反対派の貴族たちは、ファティマの息のかかった者たちによって毒を盛られ、あるいは闇討ちに遭った。
王宮のテラスで、ファティマはお茶を飲んでいた。
眼下の中庭では、アフマド王子の側近だった男が、刑吏によって鞭打たれている。
男の悲鳴がBGMのように響く中、ファティマは静かにジャスミンティーの香りをかいだ。
「陛下は、まだお部屋に?」
彼女は控えている侍女に尋ねた。
「はい。……アフマド様の追放命令書に署名されて以来、ひどく落ち込まれて、酒に溺れておいでです。『余は鬼だ、息子を売った』と泣いておられます」
「そう。可哀想な陛下」
ファティマはクスクスと笑った。
「慰めて差し上げなくてはね。……でも、もう少し苦しんでいただかないと」
彼女は自分のお腹を優しくさすった。
そこには、新たな命が確かに息づいている。
この子が生まれれば、この国は名実ともに「私のもの」になる。
「見ていますか、お父様、あなた」
彼女は空を見上げた。
「王家の血は、これで濁りました。マフムードが自分で自分の腕を切り落としたのです。……あの男にはもう、私とこの子しかいない」
孤独になった王を、死ぬまで支配し続ける。
それこそが、彼女が選んだ復讐の形だった。
数日後、正式に布告が出された。
『第一王妃の子アフマドを廃し、トゥン・ファティマの子を正当なる後継者とする』
その布告文は、マラッカ王国の滅亡を早める死亡診断書でもあった。
有能な家臣は去り、王の求心力は地に落ちた。
空っぽになった玉座の横で、ファティマだけが美しく、妖しく輝いていた。
遠くの海で、ポルトガルの船団が帆を上げていることも知らずに。




