初夜
その夜、王宮の奥深くにある「禁断の園」の空気は、腐った果実のように甘く、重苦しかった。
湯殿では、数人の女官がファティマの体を洗い清めていた。
ジャスミンとイランイランの香油が、白磁のような肌にたっぷりと塗り込められていく。それは身を清める儀式というよりは、生け贄の調理に近かった。
女官たちは一言も発さない。だが、その視線には憐憫と、それ以上の好奇心が混じっていた。「あの一族皆殺しの悲劇から生き残った女が、今夜、仇の寝所に召される」という背徳的な事実は、王宮中の下世話な関心事となっていたのだ。
ファティマは、されるがままになっていた。
熱い湯が肌を滑り落ちるたび、夫トゥン・アリの指先の感触が洗い流されていくようで、彼女は吐き気を堪えた。
(アリ……)
心の中で名を呼んでも、返事はない。あるのは、瞼の裏に焼き付いた、首のない夫の姿だけ。
彼女の魂は、あの血の海に置き去りにされていた。ここにいるのは、呼吸をするだけの美しい肉人形に過ぎない。
支度が整えられた。
与えられたのは、透けるように薄い黄金色の絹衣。肌の色を艶かしく浮き上がらせる、娼婦のような装いだった。
彼女は裸足で、長い回廊を歩かされた。床の冷たさが、足裏から心臓へと這い上がってくる。
王の寝室。
そこは、マラッカ中の贅を尽くした空間だった。
天蓋付きの巨大な寝台。壁には極彩色のタペストリー。部屋の四隅には香炉が置かれ、強力な催淫効果を持つ焚香が紫煙を上げている。
その煙の向こうに、スルタン・マフムード・シャーが待っていた。
彼は豪奢なガウンを緩くまとい、勝者の笑みを浮かべていた。手にはワイングラス。その瞳は、欲望と征服欲でぎらついている。
「来たか、ファティマ」
王の声は、粘りつく油のようだった。
ファティマは無言で膝をつき、平伏した。抵抗はしない。無駄だと知っているからだ。
「近づけ」
命じられるまま、彼女は膝行して王の足元へ進んだ。
王はグラスを置くと、乱暴に彼女の腕を引き、無理やり立たせた。そして、いきなりその唇を奪った。
獣のような口づけだった。
王の舌が強引に口腔を蹂躙し、唾液と酒の味が流れ込んでくる。ファティマは身じろぎもせず、石像のようにそれを受け入れた。
王は唇を離すと、荒い息を吐きながら、獲物を品定めするように彼女を見下ろした。
「……なぜ泣かぬ?」
王は不満げに眉をひそめた。
「一族を殺した余が憎かろう? 泣き叫び、短剣でもあれば刺し殺したいと思うのが道理ではないか」
ファティマは、夜の湖面のように静まり返った瞳で、王を見返した。
「陛下」
その声は、鈴の音のように美しく、そして氷のように冷たかった。
「涙は、心ある人間が流すものです。私の心は、あの方々と共に死にました。今の私は、陛下が所望されたただの『器』にございます」
「器だと……?」
「はい。陛下がお望みだったのは、この顔と、この身体でしょう? どうぞ、お好きなようになさいませ」
ファティマは自らの手で、薄衣の紐を解いた。
絹が音もなく床に滑り落ちる。
露わになった肢体は、ランプの灯火を浴びて神々しいほどの輝きを放っていた。豊かな胸の膨らみ、くびれた腰、滑らかな太腿。完璧な造形美がそこにあった。
王の理性が弾け飛んだ。
「こしゃくな……!」
王は彼女を寝台に押し倒した。
絹のシーツに沈み込むファティマの体。王は飢えた狼のように彼女に覆いかかり、その白い肌にむしゃぶりついた。
首筋に、胸に、王の歯が立てられ、赤い痕が刻まれていく。それは愛撫ではなく、所有の刻印だった。
「お前は余のものだ! 余のマラッカだ! 誰にも渡さぬ!」
王は叫びながら、彼女を貫いた。
激痛が走った。しかし、ファティマは声一つ上げなかった。
寝台がきしむ音。王の荒い喘ぎ声。肌と肌が打ち付け合う生々しい音。
濃厚な情事の最中、王は何度も彼女の名を呼び、彼女の反応を求めた。
「鳴け! 感じていると言え! 余を王と呼べ!」
だが、ファティマは天井の一点を虚ろに見つめたまま、貝のように口を閉ざしていた。
彼女の体は熱く、王を締め付けているにもかかわらず、その精神は遠い彼方にあった。
王は彼女の肉体を激しく貪りながらも、得体の知れない焦燥感に襲われていた。抱いても、抱いても、彼女の核心に触れられない。まるで冷たい深海を抱いているようだ。
やがて、王は果てた。
泥のような疲労と共に、王はファティマの上に覆いかぶさったまま動かなくなった。
静寂が戻った寝室。
汗と精液の匂いが充満している。
ファティマは、重苦しい王の体をのけようともせず、ただ瞬きをした。
その目から、一雫だけ涙がこぼれ落ち、枕に吸い込まれて消えた。
それは、彼女が「人間」として流した最後の涙だった。
それから数ヶ月が過ぎた。
王宮の人々は、奇妙な現象を目にすることになった。
絶対権力者であるスルタン・マフムード・シャーが、一人の女の機嫌を取るために奔走しているのだ。
王宮の庭園には、ファティマのために世界中から集められた珍しい花々が植えられ、孔雀が放たれた。
彼女の部屋には、連日のように贈り物が届けられた。
ペグーのルビー、インドのダイヤモンド、中国の極上の絹織物。国庫が傾くほどの財宝が、彼女の足元に積み上げられていく。
だが、ファティマは決して笑わなかった。
ある晴れた午後。
王はテラスでくつろぐファティマのもとを訪れた。
彼女は豪奢な寝椅子に横たわり、退屈そうに海を眺めていた。その表情は能面のように動かないが、憂いを帯びた横顔の美しさは、日に日に凄みを増していた。
「ファティマよ」
王は少年のように上擦った声で近づいた。
「見よ。スマトラの商人から手に入れた、黄金の足飾りだ。そなたの白い足に似合うだろう」
王は跪き、自らの手で彼女の足首に純金の輪を嵌めた。
ファティマは、まるで虫が止まったかのような無関心さで、自分の足元を見た。
「……重うございます、陛下」
彼女が発したのは、その一言だけだった。
「なんだと? これは純金だぞ。これ一つで小さな村が買えるほどの値打ちがあるのだぞ!」
「金は重く、冷たいものです。私の心を温めてはくれません」
王の顔が怒りで赤らんだ。
「ならば何が欲しいのだ! 言ってみろ! この世のすべてを余は持っているのだぞ!」
ファティマはゆっくりと王の方を向いた。
その瞳は、深淵のような闇を湛えていた。
「では、死んだ父を生き返らせてくださいますか? 夫の首を元に戻してくださいますか?」
「き、貴様……!」
王は言葉を詰まらせた。痛いところを突かれたからではない。彼女の瞳の奥にある、底知れぬ静けさに気圧されたのだ。
王は立ち上がり、彼女の頬を張った。
乾いた音が響く。
ファティマの白い頬が赤く腫れ上がった。
だが、彼女は表情一つ変えず、乱れた髪を直すことすらしなかった。ただ、殴られた頬を指先で触れ、冷ややかに王を見上げた。
「……気が済みましたか? 陛下」
その態度に、王の背筋にゾクリとした戦慄が走った。
恐怖ではない。倒錯した快感だった。
従順な女など掃いて捨てるほどいる。だが、この女だけは、決して自分の思い通りにならない。殴っても、抱いても、宝石で埋め尽くしても、その心は指の隙間からこぼれ落ちていく。
それが、どうしようもなく王を惹きつけた。
王のサディズムは、いつしか彼女の冷徹さに支配されるマゾヒズムへと変質し始めていた。
「くそっ……! なぜだ、なぜ笑わぬ! 余を見ろ! 余だけを見ろ!」
王は彼女の足にすがりつき、顔を埋めた。
ファティマは、自分の足にすがりつく「国の頂点」を見下ろした。その目は、汚物をみるように冷ややかだった。
(哀れな男)
彼女は心の中で嘲笑った。
武力で国は奪えても、一人の女の心すら奪えない。
ファティマの手が、王の頭に触れた。髪を撫でるふりをして、その爪を王の頭皮に食い込ませる。
「陛下。私はここにいますわ」
彼女は甘く、毒を含んだ声で囁いた。
「私を笑わせたいのであれば……もっと、もっとお励みなさいませ」




