虐殺
深夜。
静寂は、雷鳴のような轟音によって破られた。
宰相の屋敷の堅牢な正門が、破城槌によって打ち破られたのだ。
「反逆者トゥン・ムタヒルを出せ! 王命である!」
怒号と共に、松明を手にした兵士たちが雪崩れ込んでくる。
屋敷は瞬く間に修羅場と化した。悲鳴を上げて逃げ惑う侍女たち。槍で突き刺される従者たち。平和な生活の場が、一瞬にして殺戮の舞台へと塗り替えられていく。
「何事だ!」
寝室から飛び出したトゥン・アリは、廊下に広がる光景を見て息を呑んだ。
血の匂い。そして、見知った王宮の近衛兵たちが、味方であるはずの自分たちに刃を向けている現実。
「アリ! 逃げなさい! 裏口からファティマを連れて……!」
父ムタヒルが叫ぶ。だが、遅かった。
すでに武装した兵士たちが、彼らを完全に取り囲んでいた。その先頭には、あの港湾長官ラジャ・ムダリアが、勝利を確信した醜悪な笑みを浮かべて立っていた。
「宰相殿。いや、大逆罪人ムタヒルよ。神妙にいたせ」
「ムダリア……貴様、何の真似だ! 私は何もしていない!」
「問答無用。貴殿が王位を狙い、武器を集めていたことは露見している。陛下は激怒され、一族の抹殺を命じられた」
「な……っ」
あまりの荒唐無稽さに、ムタヒルは言葉を失った。
だが、兵士たちの殺気は本物だった。
「待て! 父上は無実だ! 陛下に会わせてくれ! 私が説明する!」
アリが叫び、腰のクリスに手をかけた。
しかし、次の瞬間。
ヒュッ、という風切り音と共に、数本の槍がアリの太腿と肩を貫いた。
「ぎ……ぁあッ!」
「アリ!」
悲鳴を上げて崩れ落ちる夫の姿に、奥から駆けつけたファティマが駆け寄ろうとする。
だが、薄汚い兵士の手が彼女の長い髪を掴み、乱暴に引き戻した。
「離して! アリ! あなた!」
「大人しくしろ、女。お前は殺すなと仰せだ」
床に縫い付けられたアリは、口から血を吐きながら、必死にファティマの方へ手を伸ばした。
「ファティマ……逃げ……ろ……」
「おやめください! お願いです、夫を殺さないで!」
ファティマは狂乱し、ムダリアの足元にすがった。
誇り高き宰相の娘が、額を床に擦り付け、涙と鼻水に塗れて命乞いをする。
「何でもします! 財産も全部あげます! 私も……私も陛下のもとへ行きますから! だからどうか、アリだけは助けて!」
ムダリアはその美しい顔を見下ろし、嘲るように鼻を鳴らした。
「遅いのだよ、ファティマ。陛下は仰った。『男は根絶やしにせよ』とな」
ムダリアが目配せをする。
一人の兵士が、太刀を振り上げた。
「やめろぉおおおおおおッ!」
ファティマの絶叫が屋敷に木霊する。
銀色の閃光が走り、鈍い音が響いた。
アリの首が、胴体から離れ、床を転がった。
その目は見開かれたまま、最愛の妻の方を向いていた。
「あ……あ、あ……」
ファティマの世界が白く弾けた。
続いて、父ムタヒル、兄ハッサン……愛する家族たちが次々と凶刃に倒れていく。
噴き出す鮮血が、ファティマの純白の寝間着を、おぞましい赤へと染め上げていく。それはかつて夫が「似合う」と言ってくれた深紅の衣よりも、ずっと濃く、熱い色だった。
「さあ、立つんだ」
ムダリアが、魂の抜けた人形のようになったファティマの腕を掴み、引き立たせた。
「陛下がお待ちだ。死体の山で泣くよりも、王の寝室で泣く方が似合いだぞ」
ファティマは抵抗しなかった。
夫の首が転がる血の海を、裸足で引きずられていく。
足の裏に感じるぬるりとした感触。それは愛する人たちの血。
屋敷の外に出ると、空には満月が輝いていた。
美しい月だった。
昨日までと同じ、何も変わらない月。
神は見ていた。見ていながら、この惨劇を止めなかった。
(神などいない)
輿に乗せられる直前、ファティマは一度だけ振り返った。
略奪され、火を放たれた我が家。
そこで燃えているのは、彼女の「過去」であり、「愛」であり、「無垢な心」だった。
彼女の瞳から、光が消えた。
代わりに、その暗い瞳の奥底に、小さな、しかし決して消えることのない「黒い炎」が灯った。
涙はもう枯れていた。
彼女は唇を噛み締めた。血が滲むほど強く。
(マフムード……)
その名はもはや王の名ではない。呪詛の対象だった。
(許さない。殺してやる。この身がどうなろうと、お前を、お前の国を、お前の血を、地獄の底まで引きずり落としてやる)
輿の扉が閉ざされる。
闇の中、ファティマは胎児のように膝を抱えた。
「幸せな宰相の娘」は今夜死んだ。
王宮へと運ばれていくのは、復讐のためだけに呼吸をする、美しき怪物であった。
マラッカの夜空を、焦げ臭い風が吹き抜けていく。
国を滅ぼす火種が、今、王宮の奥深くへと招き入れられたのだ。




