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乱心

 祝宴から三日が過ぎた。

 宰相トゥン・ムタヒルの屋敷には、嵐の前の海のような、重苦しい静寂が漂っていた。

 王宮からの呼び出しはない。それが逆に不気味だった。


 その沈黙を破ったのは、王宮から遣わされた一人の宦官かんがんだった。


 彼は宰相と、その家族たちが集まる広間に通されると、恭しく、しかし残酷な「内意」を伝えた。


「――陛下はこう仰せでございます。『トゥン・アリよ、汝の妻を離縁せよ』と」


 その場にいた全員が息を呑んだ。

 あまりに理不尽、かつ道徳を無視した命令だった。イスラムの教えにおいて、正当な理由なき離縁の強要は罪である。ましてや、それを王が自らの欲望のために命じるなど、言語道断であった。


「ふざけるな!」


 トゥン・アリが激昂して立ち上がった。


「ファティマは私の妻だ! 物や家畜ではない! 陛下といえども、人の妻を奪う権利などないはずだ!」


「アリ、控えよ」


 父ムタヒルが静かに、しかし厳格な声で息子を制した。そして宦官に向き直り、深く頭を下げた。


「使いの方よ。陛下にお伝えください。……『我が一族は王に忠誠を誓っております。財産も、この命さえも差し出しましょう。しかし、アッラーの法に背くことだけはできません』と」


 それは、明確な拒絶だった。

 宦官は無表情のまま頷き、無言で去っていった。

 ファティマは震える手で夫の袖を掴んだ。アリの体温だけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。


「お義父様……私たちは……」


「案ずるな、ファティマ。陛下も一時の迷いであろう。私が明日、改めて参内し、説得を試みる」


 宰相ムタヒルは気丈に振る舞ったが、その目には隠しきれない憂色が漂っていた。彼は知っていたのだ。一度火がついた王の異常な執着は、道理などでは消せないことを。


 ――同刻、王宮。


 宦官の報告を聞いたスルタン・マフムード・シャーは、手元にあった中国製の磁器を壁に叩きつけ、粉々に砕いた。


「余に説教だと? 神の法だと!?」


 王は泡を飛ばして叫んだ。


「この国の法は余だ! 神の代理人はこの余だ! ムタヒルめ、たかが家臣の分際で、余の願いを拒むか!」


 その怒りの炎に、港湾長官ラジャ・ムダリアが油を注いだ。


「陛下、お鎮まりください。……やはり、私の睨んだ通りでございましたな」


「何がだ!」


「ムタヒルは、もはや陛下を王とは思っておりませぬ。娘を差し出さぬのは、それを『次期王妃』にするつもりだからです」


「……どういう意味だ?」


「簡単なことでございます。ムタヒルは自ら王になるつもりなのです。だから娘を手放さぬのです。娘婿のアリを次期王に据え、娘を王妃にする。そうやって、陛下の血統を根絶やしにする計画なのでございましょう」


 それはあまりにも荒唐無稽な嘘だった。

 だが、嫉妬とコンプレックスで理性を失った王の耳には、真実よりも心地よく響いた。


「証拠はあるのか」


 王の声が低くなった。殺意の温度だ。


「ございますとも」


 ムダリアは懐から一通の書状を取り出した。もちろん、彼が偽造させたものである。

「これはムタヒルが武器商人と交わした契約書。彼は屋敷の地下に大量の武器を隠し持ち、さらには自分のために『黄金の玉座』を作らせているとの報告も入っております」


 謀反。


 権力者が最も恐れ、そして政敵を葬るのに最も都合の良い罪。

 王は書状をひったくり、読みもせずに握りつぶした。


 彼の目から、迷いの色は消えていた。あるのは、自分を拒絶した者たちへの昏い破壊衝動だけだった。


「クリス(短剣)を持て」


 王は短く命じた。


「裁判など無用。ムタヒル一族は、大逆罪である。……男は全員殺せ。根絶やしにせよ」


 ムダリアが嗜虐的な笑みを浮かべて平伏した。


「承知いたしました。……して、女たちは?」


 王は玉座に深く沈み込み、天井を仰いだ。その脳裏には、あの夜見たファティマの、冷たく美しい瞳が焼き付いている。


「ファティマは殺すな。生かして、余の前に引きずり出せ」


 王は歪んだ笑みを浮かべた。


「夫と父の死に顔を見せつけた後、たっぷりと可愛がってやる。……それが、王に逆らった報いだと教えてやるのだ」


 夜が更けた。


 王宮から、武装した兵士たちの群れが、音もなく動き出した。

 彼らが目指すのは、静まり返った宰相の屋敷。

 捏造された罪状シナリオを手に、死神たちが更新を開始した。


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