暗雲
その夜、宰相トゥン・ムタヒルの屋敷は、昼間よりも明るい光に包まれていた。
一族の婚礼の祝宴である。
無数の松明が焚かれ、ガムランの調べが夜空に溶けていく。主賓の席には、貴族や豪商たちが集い、酒と笑い声が絶えなかった。
だが、宴の半ば、その空気は一瞬にして凍りついた。
入口の衛兵が、震える声で告げたからだ。
「こ、国王陛下、お成り!」
予期せぬスルタンの来訪に、広間は水を打ったように静まり返った。
招かれていない客。それも、この国の絶対的な支配者。
宰相トゥン・ムタヒルは慌てて席を立ち、平伏して出迎えた。
「へ、陛下。このようなむさ苦しい宴に、お運びいただけるとは……」
「よい、楽にせよ」
スルタン・マフムード・シャーは、従者を引き連れて悠然と歩み入った。その口元には薄い笑みが張り付いているが、目は笑っていない。
会場を見回すその視線は、獲物を探す狩人のそれだった。
「宰相の屋敷での祝い事と聞き、余も祝いの言葉をかけに来たのだ。……それに、ここには余の知らぬ『美しい花』が咲いていると小耳に挟んでな」
その言葉に、宰相の背中がびくりと震えた。
広間の隅で、夫トゥン・アリの隣に控えていたファティマは、本能的な悪寒を感じて身を固くした。
(見つかってはいけない)
彼女の第六感が、警鐘を鳴らしていた。この男の視界に入ってはいけない、と。
だが、運命は残酷だった。
王はまっすぐに、ファティマたちがいる席へと歩を進めてきたのだ。
夫のアリが、とっさにファティマを庇うように前に出る。だが、王の前では無力に等しかった。
「そちが、トゥン・アリか」
王はアリを一瞥し、鼻で笑った。
「そして、その背後に隠れているのが……噂の妻か?」
逃げ場はなかった。
ファティマは観念し、静かに立ち上がると、床に膝をつき、最上の礼をとった。
「お初にお目にかかります、陛下。……ファティマでございます」
「顔を上げよ」
王の命令は絶対である。
ファティマはゆっくりと顔を上げた。
松明の炎が揺れ、彼女の顔を照らし出す。
その瞬間、王の時間が止まった。
噂は真実だった。いや、噂などという言葉では陳腐すぎる。
夜の闇を吸い込んだような濡れた瞳、白磁の肌、意志の強さを秘めた唇。
王宮のハーレムにいる、厚化粧で着飾った女たちとは次元が違った。彼女は宝石ではない。魂を吸い込む「魔性」そのものだった。
王の喉がゴクリと鳴った。
次の瞬間、王の胸中に湧き上がったのは、愛欲ではない。煮えたぎるような「怒り」だった。
(なぜだ)
(なぜ、これほどの逸品が余のものではない?)
(なぜ、この小娘は余ではなく、隣にいる若造の妻なのだ?)
(宰相め、余を謀ったな。この至宝を独占し、余に見せぬように隠していたのか!)
王はゆっくりと手を伸ばし、無礼にもファティマの顎に触れた。
ファティマは身じろぎ一つせず、冷ややかな瞳で王を見返した。その媚びない態度が、王のサディズムに火をつける。
「……美しい」
王は呻くように呟いた。
「まことに、惜しいことよ」
その言葉の意味を理解したのは、その場にいたごく少数の者だけだった。
王は指を離すと、宰相ムタヒルの方を向き、恐ろしいほど穏やかな声で言った。
「宰相よ、よい宴だ。余は満足したぞ。……『隠し事』が露見したことを除けばな」
王は踵を返した。
去り際、もう一度だけファティマを振り返る。その瞳は、もはや人間を見ている目ではなかった。所有権を主張する刻印を打ち込むような、粘りつく視線。
「アリ……」
王が去った後、ファティマはガタガタと震え出し、夫の腕にしがみついた。
「怖い……あの方の目が、怖いです」
「大丈夫だ、ファティマ。僕が守る。父上もいる」
アリは強く抱きしめ返したが、その腕もまた、微かに震えていた。
宴の音楽は再開されたが、もはや誰も心から笑う者はいなかった。
その夜、王宮に戻ったスルタン・マフムードは、寝室で叫んだという。
「殺せ! 奪え! 余のものにせよ!」
運命の歯車が、軋んだ音を立てて回り始めた。




