忍び寄る影
マラッカの王宮は、丘の上に聳え立ち、街と海を見下ろしている。
その最奥、謁見の間には、重苦しい沈
黙と、甘ったるい阿片の煙が漂っていた。
豪奢なペルシャ絨毯の上に寝そべっているのは、この国の絶対君主、スルタン・マフムード・シャーである。
彼は退屈していた。
手元には金銀財宝が山と積まれ、ハーレムには各国の美女が侍っている。だが、そのどれもが、今の彼の乾きを癒やすことはなかった。
すべてが手に入るということは、何も手に入らないことと同義なのかもしれない。満たされぬ欲望は澱のように心に溜まり、いつしかどす黒い猜疑心へと変質していた。
「……退屈だ」
王は琥珀色の液体が入ったグラスを傾け、気怠げに呟いた。
「余を楽しませるものは、この国にはもう無いのか?」
その言葉を待っていたかのように、影から一人の男が擦り寄ってきた。
港湾長官のラジャ・ムダリアである。彼は有能な商人あがりであったが、その瞳には爬虫類のような冷たい光が宿っていた。彼は宰相トゥン・ムタヒルの清廉潔白さを煙たがり、その失脚を虎視眈々と狙っている一派の筆頭だった。
「陛下。お楽しみをお求めであれば、宰相の屋敷を訪ねてみてはいかがでしょう」
ムダリアは毒蛇が鎌首をもたげるように、低い声で囁いた。
「宰相? ムタヒルのことか」
王は眉をひそめた。
「あの堅物のじじいと茶を飲んでも、余の退屈は増すばかりだぞ」
「いいえ、陛下。宰相の屋敷には、王宮すら霞むほどの『宝』が隠されているという噂がございます」
「宝だと?」
王の目がわずかに鋭くなった。
「余に献上されていない宝があるというのか」
「ええ。それは金や宝石の類ではございません。……女、でございます」
ムダリアは口元を歪め、勿体ぶるように言葉を区切った。
「宰相殿には、ファティマという名の娘がおります。その美しさたるや、天女が嫉妬して雲隠れするほど。類まれなる美貌の持ち主だとか」
王は身を乗り出した。好色な王にとって、「美女」という言葉は何よりの刺激だった。だが、次の瞬間、その表情に不快な色が混じる。
「待て。ムタヒルの娘ならば、なぜ余のハーレムに入っていない? 貴族の娘は、器量が良ければまず王に献上するのが習わしであろう」
「そこが問題なのです、陛下」
ムダリアはここぞとばかりに声を潜めた。
「宰相殿は、娘をあえて陛下から隠しているのです。『好色な王などに、大事な娘はやれぬ』と吹聴しているとかいないとか……。そればかりか、すでに身内のトゥン・アリという若造と結婚させてしまったそうです」
「なんだと……?」
王の手の中で、グラスが震えた。
美女を隠したことへの怒りではない。「王である自分がないがしろにされた」という事実が、彼の肥大した自尊心を逆撫でしたのだ。
「宰相殿は、ご自身の権力が陛下をも凌ぐとお考えなのでしょう。最近の民の噂をご存知ですか? 『マラッカに王なし、ただムタヒルあるのみ』と」
「黙れ!」
王はグラスを床に叩きつけた。破片が飛び散り、赤い液体が絨毯に染みを作る。
その赤は、まるでこれから流れる血のようだった。
「ムタヒルめ……。余の父の代から仕えているのをいいことに、増長しおって」
王の呼吸は荒くなり、瞳には狂気じみた光が宿り始めた。
彼は立ち上がり、テラスへと歩み出る。眼下には、ムタヒルの屋敷がある方角が見えた。そこから漂ってくる微かな笑い声さえも、自分を嘲笑っているかのように聞こえる。
「ラジャ・ムダリアよ」
「はっ」
「余はその女が見たい。他人の妻となっていようが関係ない。ムタヒルがそれほどまでに隠したがる『宝』、余が直々に品定めしてやろうではないか」
王の声は、欲望と憎悪で震えていた。
「もし、その女が本当に絶世の美女であり、それを余に隠していたのであれば……それは王への反逆だ。ただでは済まさぬ」
ムダリアは床に額をこすりつけながら、陰惨な笑みを浮かべた。
種は撒かれた。
あとは、狂った王の嫉妬心が芽吹き、宰相一族を絞め殺すのを待つだけだ。
風が変わり、王宮に不穏な湿気が満ちていく。
その風は、何も知らずに幸せな夜を過ごすファティマの元へと、確実に近づいていた。




