黄金の日々
一五〇九年、マラッカ。
マラッカ海峡を渡る風は、世界中の富の匂いを孕んでいた。
インドの綿織物、中国の絹と陶磁器、アラビアの香油、そして何より、この地を黄金の国たらしめる丁子と肉豆蒬。それらが熱帯の濃厚な湿気と混じり合い、むせ返るような芳香となって街全体を包み込んでいる。
東南アジア最大の貿易都市。
港には数千の船が帆を休め、多様な言語が音楽のように飛び交うこの街において、一際美しく、そして香り高い「華」が存在した。
トゥン・ファティマである。
彼女は、マラッカ王国の宰相、トゥン・ムタヒルの娘としてこの世に生を受けた。
屋敷のテラスで、ファティマは白檀の扇をゆっくりと揺らしていた。透き通るような白い肌は、強い日差しを避けて大切に守られ、長く艶やかな黒髪はジャスミンの花油で丁寧に梳かされている。
その美貌は「一度見れば三日は食事が喉を通らなくなる」と街の噂になるほどだったが、彼女自身はそのような評判に興味を示さなかった。
「ファティマ」
愛しい声が、彼女を微睡みから呼び戻した。
振り返ると、そこには夫であるトゥン・アリが立っていた。父と同じく高貴な血筋を引き、武芸にも秀でた若き貴公子。ファティマがこの世で唯一、心を許し、愛を捧げた男だ。
「アリ、お帰りなさいませ」
ファティマは花が綻ぶように微笑み、立ち上がった。彼女が動くと、身に纏った鮮やかなバティック(更紗)の衣が波のように揺れ、金の足飾りが涼やかな音を立てる。
アリは愛妻の元へ歩み寄ると、その細い腰を抱き寄せた。彼の衣服からは、潮風と馬の匂いがした。
「今日は港の警備を?」
「ああ。ポルトガルとかいう西方の蛮族の噂があるからな。異国の商船への臨検を強化している」
アリは少し疲れた顔を見せたが、ファティマの瞳を覗き込むと、すぐに安らぎの色を浮かべた。
「だが、この屋敷に帰って君の顔を見ると、すべての憂いが消え去るようだ。ファティマ、君は私の太陽だ」
「まあ、お上手ですこと。太陽は一つしかありませんわ」
「ならば夜空の月だ。いや、どんな宝石よりも輝いている」
二人は子供のように笑い合った。
政略結婚が常識である貴族社会において、彼らの結合は奇跡に近いほどの相思相愛だった。
強力な権力を持つ父、勇敢で優しい夫、豊かな財産。そして何より、神が丹精込めて作り上げたかのような美貌。
ファティマは、世界のすべてを持っていた。
「そうだ、父上が呼んでいたよ。今夜の夕餉は、久しぶりに一族全員で囲もうと」
アリが言った。
「お義父様が? 珍しいですね。公務でお忙しいはずなのに」
「王宮の……気まぐれな主君のご機嫌取りに疲れたのかもしれん。家族の顔を見て英気を養いたいのだろう」
アリの声がわずかに曇ったのを、ファティマは聞き逃さなかった。
現在の国王、スルタン・マフムード・シャー。
即位当初こそ賢君と期待されたが、近年はその放蕩ぶりが目立ち始めていた。酒、女、そして自分を称賛しない者への偏執的な疑念。
父である宰相トゥン・ムタヒルは、実質的にこの国を切り盛りする柱であったが、その権勢があまりに強大になりすぎたため、一部の側近たちから妬まれているという噂も耳にする。
「……陛下は、また無理難題を?」
ファティマが心配そうに尋ねると、アリは首を横に振って笑顔を作った。
「我々が心配することではない。父上はマラッカの守護者だ。揺らぎはしないさ」
アリはファティマの手を取り、その甲に口づけを落とした。
「さあ、着替えておいで。君が一番美しく見える、あの深紅の衣がいい」
ファティマは恥じらいながら頷いた。
この時の彼女は知る由もなかった。
その深紅の衣が、やがて流される一族の血の色を暗示していることなど。
そして、この幸福な生活が、薄氷の上に築かれた砂の城に過ぎないことを。
マラッカの夕日が、空と海をどす黒い赤に染め上げようとしていた。
それは、黄金の時代の終わりを告げる、不吉な予兆のようでもあった。




