#4 製剤研究課の前田さん
私(前田希美)は身支度を済ませると、朝いつものように会社に向かった。会社といってもオフィスというより、見た感じは工場である。
ここ多摩川の下流域は、昔ながらの工場が多い。金属加工や電機関連、食品、などなど様々だ。
私が勤める白井製薬の工場もその一つで、主にジェネリック医薬品を製造している。
所属の部署はその工場の敷地内の一角にある製剤研究課で、職場に着くと白衣に着替えた。一応、薬剤師だ。
そして、事務所に入り、同僚達に朝の挨拶をしてパソコンに向かい、作成途中の報告書に取り掛かった。肩に違和感を感じた。
しばらくすると朝礼が始まり、主任さんが今日の連絡事項を話した。
「今日は溶剤の回収があります。皆さん、よろしくお願いします。」
白井製薬は錠剤以外にも、塗り薬を製造している。塗り薬は、薬効のある主成分とワセリン等の油分で構成されている。塗り薬の製品評価試験で主成分を抽出するために大量の有機溶剤が使用される。エタノール、メタノール、プロパノール(イソプロピルアルコール)、ジエチルエーテル、アセトン、まれにクロロフォルム、などだ。
使用済みの有機溶剤は一斗缶(昭和のコント番組でよく登場するアレだ)で評価試験室に厳重に保管されている。可燃性がある危険物だ。
3階にある評価試験室から重たい一斗缶、約30本を課員8人で階段を使って1階のパレットまで下ろす。薬剤師たちが朝から、なかなかの肉体労働だ。私は小柄なのでキツイ。ちょっと肩が痛み出した。終わる頃には腰にも違和感を感じた。
それが終わると、ようやく通常業務に向かった。本日の作業は、水虫の塗り薬テルビクリームの評価試験だ。業務用の大きな恒温機から50℃のクリームのチューブを取り出して、製造日を確認した。
半年前に試作したテルビクリームの主成分(塩酸テルビナフィン)が分解されずに保たれるかを定量試験して確認することが目的だ。
三角フラスコをガラス風防付きの電子天びん(1mg単位まで計れる)に載せて、試作品のチューブからテルビクリームを絞りだす。レシートのような計量値を大切に保管したら、いよいよ抽出作業だ。
三角フラスコにイソプロピルアルコールを入れ、恒温槽で加熱して、テルビクリームを溶かす。そして、三角フラスコにガラス蓋をして、軽く振る。加熱した有機溶剤なので、突沸には要注意だ。しかし、主成分を抽出しなければいけないので、ある程度三角フラスコを振ることも必要で、技術がいるところではある。
今度はその溶液を蓋付きのガラス試験管に入れて冷却する。すると、脂質であるワセリンが浮いて溶液の上部に固まるので、そのワセリン層を除去する。そして、ピペットでバイアル(小さなガラス容器)に出来上がった調製液を詰めた。その時、私の右肩が強く痛み出した。まずい! まだ午前中だ。
原因はさっきの一斗缶の運搬か、それとも有機溶媒を使用するこの作業室は換気扇を強く回すので、その寒さか、または連日のパソコン作業か、日頃の運動不足か、それら全てか。。。 いろいろ思案したが、残りの作業に集中した。
バイアルを液体クロマトグラフィー(成分を測定する高額な分析機器)になんとかプログラムのセット・分析スタートまでして、お昼休みとなった。
事務所に戻り、お弁当を食べながら、スマホで治療院を検索した。
会社から割と近く帰宅途中で寄れる、こもれび整体院に決めた。電話をかけてみると、女性の方が出て、丁度本日夕方に予約が取れた。ちょっと安心した。
午後は、液クロの分析状況をモニターでチェックしつつ、右肩の痛みをこらえながら報告書の続きを書いた。
夕方、定時に素早く退社して、こもれび整体院に向かった。
雑色駅から出ると商店街は帰宅する勤め人や買い物客でやや混雑していた。その中を進み、こもれび整体院をみつけた。お店に入ると女性が出迎えてくれた。昭和感がある白衣姿に、ちょっとびっくりしたが、優しい微笑みに癒された。そばで、やや大きな白い犬が寝ていた。問診表に記入していると、スクラブを着た整体の先生が出て来た。
「いらっしゃいませ。整体師の野崎と申します。肩の痛みだそうで。」
「そうなんです。前から気にはなってたんですけど、痛みが強くなって。。。よろしくお願いします。」
「じゃあ、こちらで横になって、楽にしてください。」
大きなバスタオルを掛けて、早速、野崎は肩を触診した。
「肩と首の筋肉が硬くなってますね〜。これは痛いですよね。今のお仕事は長いんですか?」
「3年目なんです。お薬を分析する仕事をしてまして、あと報告書を作成したりしてます。
ああ、あと、たまに重い物を運びます。今日は朝から一斗缶を運んだんですよ〜。階段で!」
「なんか、いろいろ大変ですね〜。」
「そうなんですよ。医薬品の承認申請には、試験データとか膨大な書類が必要なんです。だからパソコンの作業も多いです。」
野崎は全身をほぐしながら聴いていた。
「医薬品は安全性とか、安定性が求められるんです。買って一年位で、効き目がなくなったらダメですからね〜。
うちの会社は後発のジェネリックばかりだからまだいいけど、新薬のところだったら気が遠くなりますよ〜。」
「ちなみに、アトピーの薬とかも作ってます?
ちょっと前に患者さんでいましてね〜。」
「ああ〜、ステロイドの軟膏、作ってますよ。
アトピーとかアレルギーの患者さん、多いですよね。」
「ちょっと腰の方に手を入れますよ。」
「あっ、はい。」
「少し硬いですね〜。腰もちょっと良くないです。」
野崎は前田さんの身体を真っ直ぐに整えてから両下肢の長さ、骨盤の上前腸骨棘、両肩の左右バランスを確認した。
腰部の原因は、腰椎3番(L3)だ。
「少し右脚を広げますよ。」
と、告げて、前田さんの右脚を床に付けながら開脚(外転)した。最大限に開いてから中間の位置まで戻した。
そして、また両下肢の長さ、骨盤の上前腸骨棘、両肩の左右バランスが整っていることを確認した。
右脚は開いた状態のまま、今度は首肩の調整に入った。
右腕の手関節、肘関節、肩関節の動きと可動域を確認した。同様に左腕の各関節についても確認した。
「右の肩関節が良くないですね〜。
前田さんの場合、右の肩が前に出てます。いわゆる、巻き肩というヤツです。それで、肩の前の大胸筋あたりが硬くなってます。
手や腕はよく使いますか?」
「よく仕事で使います。朝からパソコンのキーボードやら、フラスコやピペット操作やらです。
帰宅してからも、お料理やスマホでSNSしたり、検索したりで、一日中なんです。。。」
前田さんは、やや苦笑気味な表情で話してくれた。
野崎は身体状況を説明した。
「まあまあ酷使してますね。
あんまり手や腕を使い過ぎると、根元の肩に症状が出やすいんですよ。
例えば、昔の農家のお母さんは、朝から野菜を手で収穫したり、除草したり、田植えや稲刈りも全て手作業だったんですよ。
家に帰っても、お料理やお掃除も手だし、お洗濯も洗濯板でゴシゴシして、しぼるのも手。夜は針仕事もあったりで、一日中、それも何十年も手作業でやってたんですよ。
肩に痛みがあっても、長い間がんばっていると、変形性肩関節症になるんです。関節内に棘のような骨が出てきて、しまいには、痛みで腕が上がらなくなったり、うしろで着物の帯が結べなくなったり、大変だったんですよ。」
前田さんの表情は曇ってきた。
「ごめんなさい。おどかすつもりじゃないんです。ちょっと使い過ぎたら、お風呂で休めたり、休日はあまり使わないようにしたり、ケアすれば大丈夫です。」
野崎は、そう説明してから、左手を前田さんの後頭部の下に、右手を右肩の肺経の中府あたりに優しく添えた。
数分そのままにすると、前田さんの呼吸は緩やかになり、次第に深い呼吸となった。
野崎はゆっくり手を離して、数分、前田さんを見守った。
「じゃあ、そろそろゆっくり起き上がってみてください。」
前田さんは、やや眠たげな表情で小上がりに腰掛けて、肩を回した。
「だいぶ肩の痛みが取れました。重かった腰もスッキリしました。
ありがとうございます。」
「おお〜、よかったです。
今夜は、ゆっくりおやすみくださいね。」
前田さんは会計を済ませると、軽い足取りで雑色駅へ向かった。




