ヴィオラと母の人生
生まれてから十年間、お世話になったシュヴァーベン公爵家のお屋敷を明日出て行く。
一回目の人生ではなんらかの要因によりシュヴァーベン公爵の寵愛がなくなり、自暴自棄になった母は酒浸りになるだけでなく、賭博に夢中になってしまった。
挙げ句、シュヴァーベン公爵家の財産を横領したのが露見し、追放されてしまった。
一回目の人生ではしばらく宿暮らしをして、手持ちのお金が尽きる前に母が恋人を作って、その男の家に転がり込んだのである。
けれども今回は、母は自らシュヴァーベン公爵の屋敷を出て、わたしと二人で選んだ家に住み、代筆や翻訳の仕事をしながら暮らすのだ。
母の仕事は順調そのもので、依頼が途切れない。
最近、母は仕事にやりがいを感じているようで、とても活き活きしていた。
いい傾向だ、と思う。
わたし達は間違わない。
正しい人生を生きて、馬鹿みたいな男に引っかからないようにしながら、強かに暮らしていくのだ。
シュヴァーベン公爵夫人はわたしと母に金貨百枚も用意してくれた。
母の収入もあるし、これだけあれば数年は暮らしていけるだろう。
リナへの給料も払える。
引っ越し先のアパートメントは、築百年と古いものの中はきれいで、変な住人もいない。
隣人も人の良さそうなご夫婦だった。
たくさん悩んで選んだ家具に、お揃いの食器、かわいいカーテン――わたしと母のお気に入りが詰まった部屋での暮らしが始まるのだ。
ちなみに、家探しがもっとも大変だった。
見て回っても、母が気に入らないのである。
妥協してほしいと何度言ったことか。
最終的に決まったアパートメントは、もともと貴族の邸宅だったものを改装したもののようで、大理石の床と白亜の外観を母が気に入ってくれたのだ。
根気よく物件を探してくれた仲介人には感謝しかない。
リナはすでにシュヴァーベン公爵邸での仕事を辞め、わたしと母が住む新しいアパートメントに拠点を移している。
シュヴァーベン公爵夫人はリナに退職金をたっぷり用意してくれたようだ。
さらに、次の仕事を探すときに有利となる紹介状もいつでも書いてくれるという。
至れり尽くせりの退職だったわけだ。
あまりにもとんとん拍子に進んでいくので、ついつい大精霊ボルゾイに零してしまった。
「順調過ぎて怖いわ。三回目の人生は、このままハッピーエンドかも!」
『ふふ、その調子ですわ!』
幸せな人生とは?
ふと、考えてみる。
ナイトの野郎に引っかからず、悪い商人に騙され、その妻に愛人と疑われずに死なない人生。
このまままっとうに生きていたら、もしかしたら将来、わたしは運命的な誰かと出会って、結婚するのだろうか?
ふと、黒い板金鎧姿の青年が思い浮かんだ。
大人になったレン――というか、アイスコレッタ卿!?
どうして彼の姿を思い出してしまったのか。
まるでアイスコレッタ卿が運命の男性みたいではないか。
ないないない、ないから!
頭を振って否定する。
彼は友達だ。そう、友達!
そう結論づけて、これ以上深く考えないことにした。
◇◇◇
今晩、シュヴァーベン公爵夫人とシュヴァーベン公爵家での最後の食卓を囲む。
母とシュヴァーベン公爵夫人が向かい合って話すところなど、見るのは初めてだ。
正直なところ、気まずさしかない。
母が嫌がらずにお誘いに応じたのも意外だった。
立つ鳥跡を濁さず、という感じなのだろうか。その辺の心境はよくわからないのだが。
母は戦場にでも出るかのごとく、お気に入りのドレスを選び、念入りに化粧をし、髪も丁寧に結い上げていた。
これまで見た中で、もっとも美しい母の完成である。
「なんなのよ、そんなにじっと見つめて」
「いえ、きれいだと思って」
「当たり前よ。惨めになって家を出ると思われたくないから」
仕事もあって、住む場所も見つかって、胸を張って家を出るのだ、と母は言う。
時間になり、シュヴァーベン公爵夫人の侍女が迎えにやってきた。
「ヴィオラ、行くわよ」
「ええ」
やはり母は戦いにでも挑むかのように、勇ましい顔で食堂に向かったのだった。
廊下を歩いていたら、修道女を引き連れたヒルディスと鉢合わせする。
ヒルディスは母に気付くと、会釈した。
このまま去ると思っていたのだが、ヒルディスは母に話しかけてきた。
「明日、ここを出られるのですね」
「ええ、そうよ。その、あなた達家族の間に割って入ってしまって、迷惑をかけたわね」
母からこんな殊勝な言葉が出てくるなんて。
なんだか感極まってしまう。
「いいえ、お気になさらず。両親の仲は、あなたがやってくるよりも前に冷え切っていたようですので」
意外な真実である。
母という愛人を迎えたことにより、シュヴァーベン公爵夫妻の関係は悪化の一途を辿ったものだと思っていた。
実際はそうではなくて、もともと不仲だったようだ。
「どうか、お元気で」
「あなたも」
ここでお別れとなるのだが、つい気になったことがあったので聞いてみた。
「それはそうと、これからどこかに行くの?」
侍女が外出用の鞄を持っているので、気になったのだ。
夜会や晩餐会に行く格好でもない。まるで昼間に出かけるような出で立ちなので、どうしたのかと訊ねる。
「これから救貧院に行くんです」
「救貧院? 身寄りのない子ども達がいる施設のこと?」
「いいえ、救貧院は大人版の孤児院みたいなところです」
「どこにそんなのがあるのよ?」
「下町の中央広場の端にありますよ」
「ふうん、そうなの」
なんでも今日は夜のミサを救貧院で特別に行うらしい。慈善活動の一環なのだとか。
「ヴィオラ、あなたも行きますか?」
「どうして!?」
「そのほうがいいと思いまして」
こんなふうに誘ってきたのは初めてである。
なんの風の吹き回しか、と思ってしまった。
「それに大人同士の食事なんて、つまらないでしょう?」
むしろ、救貧院に行くほうがつまらないのではないか、と思ってしまう。
そんなことは言えるわけもなく、無難な言葉を返した。
「いいえ、大丈夫よ。お母様とシュヴァーベン公爵夫人がどんな会話をするのか、ずっと気になっていたから」
「そうですか」
ヒルディスの意外な優しさに、少しじーんとしてしまう。
これまでは無視されていたのに、今は気にかけてもらえるくらいにまで関係が改善していたなんて。
数年後に再会したときは、変に意識せずにいられるだろうか?
そうであってほしいな、と思ったのだった。
ヒルディスと別れたあと、母がぽつりと零す。
「ねえヴィオラ。あなたは救貧院に行ってもいいのよ。シュヴァーベン公爵夫人との食事なんて、あの子が言っていたように面白くなんてないんだから」
「救貧院に行くほうが絶対につまらないから」
そんな会話をするうちに、シュヴァーベン公爵夫人が待つ食堂に行き着く。
深呼吸したあと、中へと入ったのだった。




