騒動のあとで
マルティナ夫人が使った〝猛毒の聖杯〟は液体に猛毒を付与する祝福だったらしい。
大聖堂に乗り込んできたマルティナ夫人が持つ酒瓶に入っていたのは、魔法で生成された、揮発油だった。
揮発油というのは塗料の原料として使われるようで、エドウィン・フェレライの商会で取り扱っていた商品だったらしい。
また、工場で使用される燃料としても使用されている。
特徴として、揮発油というのはよく燃えること。
通常、油というのは液体に火を付けただけでは燃えないらしい。
けれども揮発油は火を付けた時点で、ボッと燃える。
二回目の人生で、マルティナ夫人が撒いた油も、揮発油だったに違いない。
そんな揮発油に、〝猛毒の聖杯〟の祝福を付与した物は、対象を確実に仕留める最悪の液体と化すわけだ。
エドウィン・フェレライはあの場で亡くなり、葬儀が執り行われた。
その喪主として、マルティナ夫人が現れたのである。
あの騒動で主聖堂の半分は焼け、死者は聖騎士を含めて四名。
それなのに、罪は不問とされている。
おそらく継承したエドウィン・フェレライの遺産の一部を、聖教会に寄付したに違いない。
マルティナ夫人の凶行を目撃した人々も、悪夢をみたとでも思っているのか、本人を糾弾する者はいなかったようだ。
もしかしたらそういう人達も金の力で黙らせている可能性がある。
なんて強かな女性なのか。
これくらいしないと、荒波のような人生を思うように舵取りできないのかもしれない。
そして、わたしが知る中でもっとも強かだと思っていた女性――母はといえば。
「お母様、大丈夫? 食欲がないって、メイドから聞いたんだけれど」
「ええ」
あの騒動以来、母はすっかり意気消沈していた。
シュヴァーベン公爵のお渡りもぱたりとなくなったことから、自信がすっかりなくなってしまったらしい。
体調もよくないようで、一日中臥せっているという。
あの自信過剰で、強気な母はどこにいったというのか。
もうそろそろ、ここに居続けるのは限界なのかもしれない。
意を決し、母に提案してみる。
「お母様、ここを出ていかない?」
「え?」
「この前、主聖堂でマルティナ夫人の凶行を見たでしょう? もしかしたらお母様も、あんなふうになってしまうかも」
それは母も想像していたのだろう。
「下町だったら、わたし達が暮らせる家があるはずよ」
「でも、どうやって生きればいいの? わからないわ」
「お母様は文字が書けるから代筆の仕事とかあるし、異国語にも精通しているから翻訳の仕事だってできる。わたしも新聞配達だったらできるわ。他にも、仕事はいくらでもあるはず」
働くことについて提案すると、母はショックを受けた表情を浮かべる。
生まれてこの方、働いたことなどないので、そのような反応をしてしまうのだろう。
「無理よ、働くなんて……」
「だったら、マルティナ夫人がされたように、略奪女として殺されてもいいの?」
「な、なんてことを言うのよ!!」
どうやら母は、他人の男を奪っていた自覚がなかったようだ。
わたしの場合はヒルディスが婚約者だったことを知らなかったので、略奪女の自覚がなかったことについては許してほしい。
「死ぬのは、嫌……」
「そうでしょう?」
せっかくだから追いだされないうちに、しばらく暮らしていけるだけの生活費を貰えないだろうか。
母の自尊心は許さないだろうが、わたしはそんなものはないので交渉できる。
シュヴァーベン公爵夫人と少し話をしてみよう。
あまり一気に話を進めても、母が混乱するだけだろう。
そう思って今日のところはこれくらいにしておいた。
◇◇◇
後日、シュヴァーベン公爵夫人と面会の時間を設けてもらった。
もちろん、わたし一人で挑む。
やってきたシュヴァーベン公爵夫人は、思いがけない姿だったので驚く。
顔の半分に包帯が巻かれていたのだ。
そういえば、と思い出す。
マルティナ夫人が放った火が、シュヴァーベン公爵夫人の帽子に燃え移っていたのだ。
「火傷を、してしまったの?」
「ええ」
すぐにシュヴァーベン公爵が火を手で払って消したようだが、皮膚に軽度の火傷を負ってしまったらしい。
「まあでも、この騒動のおかげで、夫との仲が良好になりましたので」
にっこり微笑んでいたものの、穏やかな笑みには見えない。
わたし達母子に対する優越感みたいなものが滲んでいるように思えた。
まあ、ご機嫌ならばそれでいい。交渉を始めよう。
「それで本題なんだけれど、これからわたしと母はここを出ていこうと思って」
「まあ、どうして?」
大げさに驚いた様子を見せる。
理由なんてわかっているだろう、なんて言いたくなったもののぐっと我慢する。
「最近具合が悪いみたいで」
「それから?」
「シュヴァーベン公爵のお渡りもないみたいだし」
「まあ! そうだったのですね!」
知っている癖に。という言葉は喉から出る寸前で呑み込んだ。
「それで、お願いがあるんだけれど、母の治療費と、しばらく暮らせるくらいの生活費を用意していただきたいの」
お願いします、と殊勝な様子で頭を下げた。
本当はここまでしたくないのだが、母との平和な暮らしのためだ。
そう言い聞かせる。
頭を上げると、シュヴァーベン公爵夫人は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「わかりました。用意しましょう」
「ありがとうございます!!」
なんとか交渉は成功したようだ。




