呼び出し
シュヴァーベン公爵夫人の爪がわたしの皮膚を切り裂き、鋭い痛みが頬を走る。
つう、と血が頬を伝っていくのを肌で感じていた。
ここまでするつもりはなかったのだろう。
出血するわたしを前に、シュヴァーベン公爵夫人は瞠目する。
気まずい空気が流れていたものの、次の瞬間にはキッと睨み付けていた。
「あの、どうして叩いたの?」
このように折檻を受ける理由が思い浮かばない。
「それは、お前が自分の立場を理解していないからです!」
「わたしの立場って、愛人の子らしくないことをしたってこと?」
「それ以外、何があるのですか!」
シュヴァーベン公爵夫人はヒステリックに叫んだ。
「たとえば、具体的にどういうことがダメだったの?」
「そんなの、自分で考えることです!」
はて、愛人の子らしくない行動とは……?
考えるも、なかなか思い浮かばない。
察しが悪いわたしの様子にも、シュヴァーベン公爵夫人は苛立っているご様子だった。
ここでわたしの背後にいた大精霊ボルゾイが、小さな声で囁く。
『その、シュヴァーベン公爵にお願いをしたのが、よくなかったのでは?』
「あ!!」
大精霊ボルゾイが言うように、母を通じて行ったささやかな〝お願い〟が、シュヴァーベン公爵夫人の耳に入ってしまったのかもしれない。
「ようやく気付きましたか?」
「お父様……ではなくて、シュヴァーベン公爵に願い事をした件が、よくなかったの?」
「そうに決まっています!」
やはりそうだったようだ。
しかしながら、そこまでおかしな願いだっただろうか。
ここまでされる筋合いはないように思えるのだが。
「どうしてここまで言われないといけないのか、という顔をしていますね」
「ええ。だって、ただお友達と遊びたいって言っただけですもの」
「ヒルディスの友人を奪おうとすること自体が問題なんです!」
ああ、そういうわけだったのか、と怒られた理由を本当の意味で理解した。
「わかりますか? 夫に久しぶりに呼びだされたかと思えば、用件があなたのくだらない願いだったことの屈辱を」
どうやらシュヴァーベン公爵は、ヒルディスの取り巻きの一人だったレンとの付き合いを許可する前に、シュヴァーベン公爵夫人に話を通してしまったようだ。
余計なことをしてくれて……!
おかげでわたしは、シュヴァーベン公爵夫人から大いなる反感を買ってしまったではないか。
頬の傷がじんじん痛む。恨みは叩いたシュヴァーベン公爵夫人ではなく、気が利かないシュヴァーベン公爵に向かって抱いてしまった。
愛人の子が、娘の友人との付き合いを望んでいるのを、夫から聞く。
たったそれだけのことだったが、シュヴァーベン公爵夫人の自尊心をざっくりと傷つけてしまったようだ。
ただ、レンはヒルディスの本当の友人ではない。
お金で雇われた取り巻きの一人だ。
レンは馬丁の息子で、シュヴァーベン公爵はそれをわかっていたはずだ。なのにどうして聞いたのか。もしや義理立てしようと考えた? そんなことなんてしなくていいのに、と声を大にして叫びたくなった。
「あの子との付き合いは許しません」
「え、どうして?」
「ヒルディスの友人を奪う必要がどこにあるというのですか!?」
「でもレンは――」
ヒルディスの本当の友人ではない、シュヴァーベン公爵に雇われただけの関係だ。
そう言おうとしたものの、喉から出る寸前でごくんと呑み込む。
もしかしたらシュヴァーベン公爵夫人は、ヒルディスの取り巻きの大半が、雇われた者だということを知らないのかもしれない。
それをわたしから聞かされたら、さらなる怒りを買ってしまいそうだ。
盛大にため息を吐きそうになったものの、ぐっと堪える。
これ以上反感を買いたくないので、殊勝な態度でいなくては。
レンとの友人関係も、諦めないといけないようだ。
「……わかったわ。もうこれ以上、レンと会いたいだなんて言わないから」
「わかればよろしい」
下げたくもない頭を下げ、部屋を出る。
なんともモヤモヤするような出来事だった。
部屋に戻ると、頬に傷を作ったわたしを見たリナがギョッとしていた。
「ヴィオラお嬢様、どうかなさったのですか?」
「シュヴァーベン公爵夫人に叩かれたの」
むしゃくしゃしていたので、正直に言ってしまった。
「レンと仲よくしたいってシュヴァーベン公爵を通してお願いしたら、夫人の耳に入ってしまったみたいで、ヒルディスの友人を奪うなって怒られたのよ」
「酷いお話です」
「でしょう?」
リナは傷口に薬を塗ってくれた。じんじんと沁みるが少しの我慢だろう。
「あーあ、最悪。あんなの、ただの八つ当たりじゃない」
シュヴァーベン公爵夫人は夫婦関係が上手くいっていないことの鬱憤を、わたしで晴らしたに違いない。
子どもだったら理解できない腹の内も、大人であるわたしはわかってしまう。
レンには悪いが、わたし達はこれ以上、お屋敷で関係を深めないほうがいいようだ。




