愚か者
ナイトの野郎名義のアパートメントにいる限り、出くわすことは想像できていた。
けれども出て行こうとしているところで鉢合わせるなんて、まったくついていない。
「よかったって、なんの用事なの?」
彼に借りなどなかったはず。
別に将来を誓いあった仲ではなく、わたしは彼の愛人だった。
引き留める要素なんてないのに……。
ナイトの野郎は何かをずいっとわたしの前に差しだしてきた。
一瞬、拳を向けてきたと思ったが違った。
彼の指先には、ダイヤモンドが鏤められた白銀の婚約指輪が握られていたのだ。
「え、何?」
それはヒルディスに渡すはずの、大聖堂で保管されていた大事な婚約指輪である。
なぜ、わたしに差しだしているのか。
問い詰めるようにナイトの野郎を見たら、彼はとんでもないことを口にした。
「ヴィオラ、結婚しよう!」
「は?」
理解が追いつかず、思わずナイトの野郎を睨んでしまった。
「この指輪が欲しかったんだろう?」
たしかに昨晩、わたしはその指輪を欲しがる素振りを見せた。
しかしながら心から望んでいたことではない。
ヒルディスのための婚約指輪だとわかっていて、よこせと言っただけだ。
「昨日はできないって言ったのに、どうして? 気が変わったの?」
「いや、一晩考えて、ヴィオラがいかに大切な存在か気付いたんだ。やはりお前と離ればなれになるなんて、考えられない」
「ふーーーん」
わたしが興味がないような反応を示したからか、ナイトの野郎はショックを受けたような表情を浮かべる。
「なんでもする! 盛大な婚約パーティーを開いてやってもいい!」
「ヒルディスはどうするの? 王族であるあなたと、大聖女の婚姻は大事なものなんでしょう?」
この国にとって、大聖女の祝福を持つ者との結婚は重要なものである。
大聖女がいなければ、国は荒れ、飢餓に襲われ、魔物もはびこる最悪な状態に陥るのだ。
国の安寧を得るために、王族は古くから大聖女を娶ってきたのである。
このぼんくら王族はその辺をどう考えているのか聞いてみた。
「ヒルディスは……他の王族が結婚すれば、いい」
「未婚男性は、あなたの三歳の甥っ子殿下しかいないけれど?」
三歳児との結婚なんて、シュヴァーベン公爵側が認めないだろう。
いったい何を考えているのか。
「だったら、大叔父……レイライト大公とか」
「たしかに独身だけれど、レイライト大公は離婚歴のある上に、御年七十歳じゃないの」
三歳児と七十歳児、どちらも結婚相手として相応しくない。
王族の中で結婚適齢期なのはただ一人、この男しかいないのである。
「お願いだから馬鹿なことは言わないで、大人しくヒルディスと結婚なさいな」
「いやだ!」
成人男性の「いやだ」を初めて聞き、心の奥底から「こいつは何を言っているんだ」と思ってしまう。
「ヒルディスはあまりにも地味で、一緒にいても楽しくない。そんな女との結婚なんてご免だ!」
「高貴な方々の結婚って、そういうものなのでしょう?」
だから結婚に愛を求めず、皆、決まって愛人を迎えるのだろう。
母と父の関係は長年不可解でしかなかったが、そういうことだったのか、と今になって理解することができた。
「周囲の人達だって、納得しないわ」
「だったら逃げよう! 誰も知らないような辺境へ行って、二人だけで暮らすんだ!」
一回目の人生であれば、喜んで彼の手を取っていたのかもしれない。
今のわたしは、土壇場で裏切るナイトの野郎を知っている。
きっと今後も何かあったとき、彼はわたしを切り捨てるであろうことはわかりきっているのだ。
さらに、辺境になんか行って、いかにして暮らすというのか。
その辺、少し興味があったので聞いてみた。
「王都生まれ、王都育ちのあなたが、どうやって辺境で生きていくの?」
「お金はある」
「そのお金は、第二王子としての財産でしょう? 何もかも捨てるつもりで、お金だけ持っていったら、それは横領になるわ。何もかも捨てる、というのはそういうことなのよ」
現実を突きつけられたナイトの野郎は、深く傷ついたような顔でわたしを見つめる。
半端な覚悟しかないのに、駆け落ちなんか提案しないでほしい。
「辺境と呼ばれる場所は、過酷な環境なの。酷く暑かったり、日照りが続いたり、逆に雪深くて凍えるような寒さだったり。もちろん、そんな暮らしを支えてくれる使用人なんていないのよ。ボタンのかけ方でさえよくわからないあなたは、そんな生活なんて想像できないでしょう」
そんなのわかっている、汗水垂らして働くつもりだ、と訴える気概なんてさらさらないようだ。ナイトの野郎は口をパクパクさせるものの、返す言葉が見つからないのだろう。
ぐうの音も出ない、というのはこのような状況を言うのだ。
「ねえ、わかった? わたし達が結婚するのは無理なの」
「ではない」
「え?」
「無理ではない! 結婚するんだ!」
彼はそう言ってわたしの指先に、婚約指輪を無理矢理嵌めようとしてくる。
その瞬間、体が燃えるように熱くなった。
「――!?」