これからのこと
下町にあった自宅を抜け出し、引っ越してきた先は貴族街にある洗練されたエリアだ。
辺りにはオシャレなカフェや高級店がずらりと並び、夜になれば魔法灯が鮮やかに輝く。
七階建てのアパートメントの最上階に私は住んでいるのだ。
魔導昇降機で七階まで上って扉に手をかざすと、登録しているわたしの魔力を感知し、自動で鍵が開く仕組みだ。
真珠みたいな照りのある大理石の床は今日もきれいに磨かれていてピカピカ。
テーブルにはアイロンがパリッと利いたクロスがかけられていて、長椅子もカバーをかえたのか、とてもいい匂いがする。
寝室のシーツも皺一つなく、サイドテーブルには美しい薔薇の花が活けられていた。
この部屋はメイド付きで、不在中に整えてくれるのだ。
『まあ、豪勢なお宅ですのね!』
「そうでしょう?」
この家をわたしに与えたのはナイトの野郎である。
その事実ですら、今は気に食わない。ここにいるだけでなんだかイライラする。
「さっきのワイン、一杯あいつの顔にでもぶちまけてくればよかったわ」
もったいなくて、飲み干してしまったのだ。
いまさらながら後悔する。
『あの、ぶちまけて、というのはどういう意味ですの?』
お上品な大精霊サマは、下町仕込みの語彙に馴染みがないようだ。
「なんでもないわ、覚えなくていい言葉なの」
『そうですのね』
寝室の壁に手をかざすと、金庫の扉が出てきた。
メイドが出入りするので、高価な品物はこの中で管理するよう管理人から言われていたのである。
そこにはこれまでの二年間、ナイトの野郎がわたしに贈ってくれた物が納められていた。
ダイヤモンドの一揃えに、血塗れルビーの指輪、真珠のティアラに水晶の靴、エメラルドの腕輪、金の髪飾りに銀の首輪などなど、全部で二十四点。
すべて丁寧に寝台に並べていく。
『このお品、すべてあなた様の物なのですか?』
「ええ、そうよ」
こういう高価な品物は、盗品だと疑われないように所有証明書が発行される。
そのさい、きちんとわたしの名義で署名していたのだ。
「だからあの人と別れても、これらはわたしの物なの」
もちろん、後生大事にするわけがない。
明日、わたし名義の品物は売るつもりだ。
「管理人に宝石商を呼ぶようにお願いしないと」
他にもドレスや調度品、ワインなどの酒類なども売ってしまおう。
宝飾品と同じように、すべて寝台に並べておく。
『まあまあ、貴族様のお店みたいですわね』
「でしょう?」
店名を考えるならば、〝第二王子の貢がせ屋さん〟である。
『しかし、このようにたくさん並べては、夜、眠れないのではなくって?』
「ここで寝るつもりはないの」
あの男がさんざん眠った寝台なんて気持ち悪くて無理。
ここにいるのも嫌な気持ちになっていたが、一晩だけ我慢しなければ。
「明日、この品物を売ったら、ここを出て行くわ」
『引っ越しされるのですか?』
「ええ」
ナイトの野郎と別れたのだ。出ていなくても、そのうち追いだされていただろう。
「しばらくは宿暮らしになると思うの」
これだけの高価な品を売り払えば、しばらくは暮らせるはず。
新居を決めて、生活に必要な品を買い揃えて、仕事も決めて――。
「それから母を探すわ」
シュヴァーベン公爵邸から追いだされたあと、母の恋人の家を転々としていた。
母の美貌が衰え、恋人がいなくなってからは下町に住んでいたが、酒浸りな母が継続して家賃を払える能力があるとは思えない。
きっと追いだされて、別の場所にいるのだろう。
「母の行方を探すのが先決なのかもしれないけれど、母を支えるために生活の基盤を整えてからのほうがいいと思って」
『そう、ですわね』
なるべく最短で決めるつもりだ。
それまでもう少しだけ待っていてほしい。
「こんなの、勝手かしら? すぐに探しに行くべき?」
『いいえ、あなた様の人生はあなた様のものですから、他人のためにすべてを割く必要はないと思います』
その言葉を聞いて、気持ちが軽くなる。
「ありがとう。これから、頑張れそうだわ」
『はい!』
まずはここにあるわたし名義の品物を売り払って、新しい生活を始めるための活動をしなくては。
「もう、寝ましょう。今日は疲れたわ」
そう言って、大理石の床に寝転んだ。
硬い上にひんやりしていて寝心地は最悪である。
けれども不潔な大聖堂の牢獄よりは百万倍もマシだと思ってしまった。
『あらあら、そんな硬いところで眠らずに、絨毯が敷いてあるところでお眠りになればいいのに』
「ここにある絨毯は、ナイトの野郎をイメージして柄や模様を選んだ物だから、寝転びたくないの」
『で、でしたら……』
大精霊ボルゾイは私の隣に寝転がり、ぴたっと体を密着させてくる。
『少しは温かいでしょうか?』
「ふかふかね。それに毛並みもよくて、温かいわ」
眠れないのではないか、なんて思っていたが、大精霊ボルゾイが寄り添ってくれたおかげで眠りに就くことができたのだった。