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腐った水【夏のホラー2025】

作者: 江渡由太郎

 それは、ごくささいな違和感だった。

 夏の終わり、蝉の声が濁りはじめた頃――。


 あつしが通う都立の高校では、古い理科室の蛇口から腐った水が出るという噂があった。あつしはそんな話を信じていなかったし、第一、理科室なんてこの三年間で二度しか使ったことがなかった。

 けれど、ある日、放課後の補習を受けるために理科室に入ったとき、その噂が単なる“噂”ではなかったことを思い知る。


「くっさ……」


 鼻を突く腐臭。排水溝の奥から湧き上がるようなぬめっとした異臭。

 理科教師の佐伯は平然としていたが、他の補習組の生徒も顔をしかめていた。あつしは、ふと、蛇口のひとつがわずかに開いているのに気づいた。そこから、ぽた……ぽた……と、濁った水滴が漏れている。まるで腐った肉を煮たような、そんな色と匂いだった。


 それから数日、淳の周囲に異変が起こりはじめる。

 まず、クラスメイトの一人――吉田が失踪した。理科室の補習に一緒に参加していた生徒だった。家には帰っていないらしく、母親が学校に乗り込んでくる騒ぎになった。


 そして夜、あつしの自宅の洗面所の蛇口から、同じような腐った臭いの水が出るようになった。

 母親は「古い配管が原因かもね」と言っていたが、淳にはそれだけではないと感じられた。水道水に、時折、何かが混じっているように見えた。糸のような髪、白濁した脂、指のような形の小さな影。


 夜、夢の中で誰かが耳元で囁く。


 ――かえして。

 ――ここはわたしの場所。


 あつしは理科室の補習をきっかけに、何かを連れてきてしまったのではないかと疑いはじめた。

 学校に行くのが怖くなった。だが、その怖さは学校ではなく、自宅の洗面所や風呂場、キッチンの水道にまで広がっていった。水が、すべておかしい。ぬるぬるとした手応え、水面に浮かぶ黒い影。夜中に誰も使っていないのに、台所の蛇口から水が流れ出す音。何度も止めても止まらない。栓を締めても、床に水たまりが広がっていく。


 やがて、あつしの友人である幹人が彼の家を訪れた。話を聞いた幹人は「お祓いとか行ってみれば?」と軽口を叩いたが、その日の夜、幹人は自分の家の風呂場で溺れて亡くなった。水深わずか二十センチの浴槽で。


 葬儀の日、あつしはふらふらと理科室へ足を運んだ。だれもいないはずの教室に、誰かがいた。

 補習の時に開いていたあの蛇口の前に、白い服の女が立っていた。髪は長く、顔は見えない。


 女が、ぽたりと指を差す。そこには、濁った水の中に浮かぶ“何か”があった。

 眼球だった。

 吉田のものか、幹人のものか、それとも……もっと前から、そこに沈んでいたものか。


 女の口が、ゆっくりと開いた。


 ――わたしのかわりに、のんで。


 瞬間、蛇口から噴き出した黒い水が、あつしの喉元まで一気にせり上がってきた。


「ぐはぁ!」


 飲み込まされる。胃の奥が焼けるように熱い。目の裏が震える。記憶が塗りつぶされていく。





 ……数日後、理科室で新たな補習が始まった。

 蛇口からは、ぽたり、ぽたりと――いつものように、濁った水がこぼれていた。

 教卓の前には、見覚えのある制服の男子生徒が立っていた。

 どこか虚ろなその目は何処か遠くを見つめたような目をした。


 だが、その生徒の名前を知る者は、もう誰もいなかった。




#ホラー #短編

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