第4話:仮面舞踏会の夜、正体は秘密で
王宮の“春季舞踏会”の締めくくりとして行われるのは――仮面舞踏会。
身分や顔を伏せたまま、音楽と幻想の中で一夜を過ごす特別な夜。
貴族社会の中でも最も“恋の始まり”が生まれやすいとされる、危うくも魅惑的な伝統行事だ。
「お似合いです、アリシア様」
侍女が言ったのは、深い葡萄色の仮面をつけた私の姿を見てのことだった。
「ありがとうございます。……でも、少し緊張しますね」
「正体は伏せていらっしゃるのですから、堂々と楽しまれてくださいませ」
「そうですね」
仮面舞踏会。
まるで別人になったような気持ちで、私は大理石の舞踏会場に足を踏み入れた。
煌びやかなドレスと仮面、さざめく音楽。
誰が誰なのか分からないその空間は、まるで夢の中のようだった。
(仮面の下なら、少しくらい、自由になってもいいのかもしれない)
そう思った矢先――視界の端に、ひときわ背の高い男性の姿が映った。
黒と銀の仮面。背筋の通った立ち姿。
どこか見覚えがある気がして、私は思わず視線をそちらへ向けた。
その瞬間、彼が一歩、こちらに歩み寄ってきた。
「……踊っていただけますか?」
低く、落ち着いた声。
けれど、その声を私は忘れない。
(……公爵様……?)
思わず名を呼びかけそうになるのをこらえ、私は静かにうなずいた。
「よろしければ、喜んで」
彼が手を差し出し、私はその手を取る。
そして音楽が変わり――二人は、舞踏会場の中央へと進んだ。
「……君は、踊り慣れているな」
「そう見えますか?」
「足捌きも、リズムも……“訓練された貴族の夫人”だ」
「……ふふ、それは光栄ですわ」
公爵様……いえ、彼はあくまで“仮面の男”として、私の手を引いて踊る。
けれどその仕草、声の抑揚、細やかな配慮。
どこを取っても、私のよく知るあの人としか思えない。
(……本当に、公爵様ですよね?)
でも、今夜はあえて聞かないことにした。
仮面をつけているからこそ、本音を引き出せる夜がある。
私は、わざといたずらっぽく問いかけた。
「貴方は、どなたの“ご夫人”に憧れているのですか?」
「そうだな……気が強くて、誇り高くて、でもふと見せる弱さが愛おしい。そんな女だ」
「……随分と、具体的なんですね」
「目の前にいるからな」
私の手に力がこもる。
思わず仮面の奥で顔が熱くなるのを感じた。
(やっぱり……この人、ずるい)
「では、その“彼女”が他の男と踊っていたら?」
「……許さない」
即答だった。
「理由は?」
「独占欲だ。手放したくない。……それだけだ」
──仮面をつけているのに、私の心はすっかり見透かされていた。
“形式上”のはずだった結婚。
けれど今、私はこの人の言葉一つで、心を震わせている。
ダンスが終わり、私は一礼して離れようとした。
だがそのとき、彼がそっと囁いた。
「仮面の下が誰であれ――俺の“妻”は、君だけだ」
「…………!」
仮面の下、私は思わず目を見開いた。
でも、振り返らず、そっとその場を離れる。
胸の鼓動だけが、夜の静けさに溶けていた――
部屋に戻ると、机の上には一枚の小さなカードが置かれていた。
『踊ってくれて、ありがとう。次は仮面なしで――クレイグ』
私は思わず笑ってしまった。
やっぱり、あの人は最初から最後まで、気づいていたのだ。
──仮面越しの一夜。
でもその言葉は、誰よりも真実に近かった。
私はもう、とっくに――この人に、恋をしてしまっているのかもしれない。