第3話 形式上の妻、始めます
三日間――。
私はその間、何度も何度も悩んだ。
貴族令嬢として生きてきた私は、今や家にも社会にも居場所がない。
そんな中で、唯一手を差し伸べてくれたのが、あの“冷酷公爵”だった。
……そして、私は決めたのだ。
「――承諾いたします。公爵様との契約結婚を」
再び訪れた公爵邸。前回と同じ応接室でそう告げると、クレイグ公爵はわずかに頷いた。
「よろしい。では、今すぐ手続きを進めよう。婚姻届は既に用意してある」
「……早いですね」
「無駄が嫌いな性分でな」
公爵は躊躇なく羽ペンを取り、自らの名前をさらさらと記す。
そして、ペンを私へと差し出してきた。
「“形式上の妻”であることを忘れるな。私に愛情を求めないこと。表向きの妻としての役割だけ果たしてくれれば、それでいい」
「わかっています」
その言葉を胸に刻みながら、私は震える手で自分の名を記した。
アリシア・ローゼンタール。
そしてこれからは――アリシア・シュトラウス。
書き終えた瞬間、公爵は立ち上がり、私に視線を向けた。
「今日からお前はこの屋敷で暮らす。部屋も用意してある。執事に案内させよう」
「……はい」
私は立ち上がり、一礼する。
契約結婚とはいえ、公爵の妻。中途半端な気持ちでは務まらない。
けれど――
「一つだけ、条件があります」
「……言ってみろ」
彼の視線は冷ややかだったが、耳を傾ける余地はあるようだった。
「私の行動を、過剰に縛らないでください。外出の許可、交流の制限……そういったものは、最小限にしていただきたい」
数秒の沈黙の後、公爵は頷いた。
「構わん。そもそも私は妻を“管理”したいわけではない。君が騒がねば、私も煩わされずに済む」
「ありがとうございます」
その冷静なやりとりの中で、私はふと思う。
本当に、彼は“愛”を持たないのだろうか、と。
執事に案内された部屋は、想像していたよりもはるかに広く、そして静かだった。
床には赤い絨毯が敷かれ、家具はすべて高級な木材製。
窓辺には分厚いカーテンがかかり、外の景色もよく見える。
「こちらが奥様のお部屋となります」
「……奥様、ですか」
その響きに、少しだけ胸がくすぐったくなった。
形式上の妻とはいえ、公爵の“正式な”妻であることに違いはない。
私の名前は、今や国中に知られるであろう。
でも――
(私は、ただの飾りにはなりたくない)
心の奥で、そう強く思った。
婚約破棄され、無力だったあの日の自分にだけは戻りたくない。
この屋敷で、私はもう一度自分を取り戻してみせる。
その夜。
私は用意された寝室のベッドで、灯りを落としながら考えていた。
クレイグ公爵は何を考えているのか、本当に読めない人だった。
合理的で、情を持たず、ただ淡々と契約を結び、処理する。
……でも。
(なぜ、私を選んだのだろう)
世間にはもっと美しい令嬢も、優秀な令嬢もいるはずだ。
けれど、彼は私に「興味がある」と言った。
あれは本心だったのだろうか。
それとも、ただの方便――?
「……わからない」
枕元の蝋燭の灯が、静かに揺れた。
形式上の妻。それでも、私はこの家で生きていく。
そして、いつか――彼の“本当の顔”を知る日が来るかもしれない。